神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

宮山石倉遺跡

2024-05-18 23:34:23 | 磐座
宮山石倉遺跡(みややまいしくらいせき)。
場所:茨城県筑西市宮山496。「宮山ふるさとふれあい公園」内にあり、宮山観音古墳(前項)の括れ部分を切断して通る参道を北西約160m進むと「鹿島神社」があり、その背後(北側)にある。
「宮山石倉遺跡」は、南北70m×東西30mの範囲内に巨大な岩が積み上げられたような状態となっているもので、標高48mは旧・明野町で最も高いところという。ただし、「いばらきデジタルまっぷ」に「遺跡」として掲載されているものの、遺物の散布はなく、性格・時代とも不明とされている。したがって、これを「磐座」(岩を祭祀対象または祭祀の場所とするもの)というのにはやや躊躇するところがあるのだが、「鹿島神社」の背後(北側)にある、ということは、社殿を通してこの岩山を拝礼していたと考えられるのではないか、と思う。また、頂上にある平らな石は「弘法の硯石」と称して、弘法大師(空海)が墨を擦ったという謂れがあり、いかなる渇水期でも水が涸れず、この水で墨を擦って習字をすれば字がうまくなるという伝説がある。何より、この遺跡の威容をみれば、「磐座」認定しても良いという気持ちになる。因みに、「石倉」というのは当地の地名(小字)である。
なお、「鹿島神社」の創立は、社伝では不明としているが、伝承によれば、第33代・推古天皇20年、中臣御食子(中臣(藤原)鎌足の父)が東国下向の折、常陸国一宮「鹿島神宮」に参拝し、夢告により当地に勧請したという。そして、弘法大師(空海)が当地で7日7晩の護摩行を行ったところ、1人の翁が現れたが、それが鹿島明神であった。また、現・筑西市猫島が平安時代の陰陽師・安倍晴明の生誕地であるとの伝承を踏まえ(「宮山観音堂」(前々項)参照)、阿倍仲麻呂が当地に居住していた頃、当神社を尊崇し、晴明が後年出世したのも当神社の神徳による、とされる。晴明は移動に舟を利用しており、当神社の近くに「晴明船繋ぎの柳」というものがあったともいう。等々、他にも色々と面白い話があるのだが、これらはどうやら「鹿島神社」及び「宮山観音堂」の別当だった「宝宮山 無量寺」の権威付けのために作られた話のようである。


写真1:「鹿島神社」拝殿


写真2:同上、本殿(覆屋)。祭神:武甕槌命


写真3:境内社「駒形神社」


写真4:「宮山石倉遺跡」。「鹿島神社」の背後(北側)にある。


写真5:同上


写真6:同上


写真7:同上、頂上にある平らな「弘法の硯石」。写真左手に尖った立石が見えるが、これが人工的に立てたものなら、全体が「磐座」らしい感じに近づく。


写真8:同上。東側は崖になっている。かなり高低差があり、見学時には注意が必要。


写真9:同上
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮山観音古墳(茨城県筑西市)

2024-05-11 23:33:10 | 古墳
宮山観音古墳(みややまかんのんこふん)。
場所:「宮山ふるさとふれあい公園」内、「宮山観音堂」(前項)の背後(北側)に後円部がある。
旧・茨城県明野町の「宮山古墳群」は1基の前方後円墳と5基の円墳からなるが、そのうち前方後円墳は「宮山観音古墳」と称され、桜川支流・観音川の左岸(東岸)の台地上にある復元墳丘長約92m、後円部径約45m・高さ約6m、前方部長約47m・幅約40m・高さ約3.7mという大型古墳で、旧・明野町で発見された前方後円墳3基のうち最大のものとみられる。前方部は南西向きだが、中央の括れ部は北側にある「鹿島神社」の参道によって切り通され、前方部と後円部が分かれてしまっている。また、後円部の南側の一部が「宮山観音堂」のために一部削平されているが、それ以外は比較的良好に保存されている。発掘調査等が行われていないため詳細は不明だが、古墳の形状等から、5世紀後半頃の築造と推定されている。葺石・埴輪等は発見されておらず、かつて古墳付近で武人の土偶が出土したと伝わるが、現物は残っていないようである。ただし、古墳が存在する台地の北・西・南側は水田(古くは湖沼や低湿地?)で、古墳の周囲からは縄文時代から平安時代までの土器・土師器・須恵器などが多く見つかっているとのことで、台地上に縄文時代から集落が営まれていたようである。


写真1:「宮山観音古墳」の中央、括れ部分は「鹿島神社」参道のため切り通され、参道入口に鳥居が建てられている。


写真2:鳥居の向かって右側、後円部の南側の一部が「宮山観音堂」のため削られている。


写真3;鳥居の向かって左側が前方部南側。


写真4:後円部から前方部を見る。


写真5:前方部から後円部を見る。


写真6:前方部北側


写真7:後円部北側


写真8:後円部墳頂に祠堂がある(「駒形神社」?)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮山観音堂(茨城県筑西市)

2024-05-04 23:32:16 | 寺院
宮山観音堂(みややまかんのんどう)。
場所:茨城県筑西市宮山504(「宮山ふれあいふるさと公園」の住所)。茨城県道45号線(つくば真岡線)と同131号線(下妻真壁線)の「明野中学校東」交差点から131号線を北東へ約2.4km。駐車場有り。「宮山観音堂」は、駐車場の直ぐ西側。
創建年代は不明だが、江戸時代、宮山村の鎮守「鹿島神社」の別当寺院として「宝宮山 無量院」があり、「宮山観音堂」は「鹿島神社」の本地仏である十一面観世音菩薩を祀る観音堂だった。「無量院」は現・茨城県桜川市塙世の「八柱神社」(前項)の別当「金剛院」を本寺とする真言宗の門徒寺院で、その本尊の観音像は、行基菩薩の作を弘法大師が修復したものと伝えられ、往来する牛馬を守護する仏として崇敬されたという。享保8年(1723年)上棟の棟札が残っており、大工棟梁は笠間箱田村(現・茨城県笠間市)の藤田孫平次で、同人の名は「小山寺」(通称「富谷観音」、現・茨城県桜川市))楼門の享保17年(1732年)の棟札に大工棟梁、「成田山 新勝寺」(2014年1月25日記事)三重塔の宝永8年(1711年)の心柱墨書に棟梁の次に記されている。屋根は萱葺だったが、大正9年に屋根葺替が行われ、昭和48年に鉄板が被せられたとのこと。明治時代に入って神仏分離により「無量院」が廃寺となると、観音堂のみが「鹿島神社」の末社「駒形神社」社殿とされたため残ったという(現在、「駒形神社」は「鹿島神社」の近くに建立されている。)。
なお、近世には「常陸西国三十三観音」という観音霊場巡礼があった(その後、途絶えていたが、平成11年に再興されたとのこと。)。これは「西国三十三観音」を写したもので、遠い西国まで行かずに同様の御利益が得られるようにしたものである。「宮山観音堂」は、その第一番札所になっていて、御詠歌案内等の版行も行っていたとされるので、詳細は不明だが、中心的な役割を担っていたらしい。「常陸西国三十三観音」は現・茨城県の中・西部にわたり、つくば市・下妻市・かすみがうら市・稲敷市など、かなり広い範囲の寺院が含まれている。因みに、第二番札所は旧・明野町倉持の「倉持観音堂」(十一面観世音菩薩)で、これは常陸国式外社(論社)「雲井宮郷造神社」(2018年8月18日記事)の本地仏だったと思われるが、観音堂は現存しないようである。
蛇足:「宮山ふれあいふるさと公園」内に「展望台」という建物があり、そこに平安時代の陰陽師・安倍晴明に関する展示スペースがある。伝承によれば、晴明は現・筑西市猫島の生まれとされ、旧・明野町は晴明の陰陽師ブームに乗って町起こしを図ったが、伝承は「高松家」という旧家(個人宅)に伝わるもののため、公園に展示室を設けたようである。ところで、「常陸西国三十三観音」では、「宮山観音堂」の山号を「熊野山」としている。これは、本家の「西国三十三観音」の第1番札所が熊野三山の1つ「那智山 青岸渡寺」(現・和歌山県那智勝浦町)に関係があると思われ、当地に晴明の伝承が残るのも熊野修験の影響によることが考えられる(例えば、現・東京都葛飾区の「(五方山)熊野神社」(2013年5月18日記事)は晴明が創建したとされるなど、晴明と熊野三山は関連が深い。)。


筑西市観光協会のHPから(宮山ふれあいふるさと公園)


写真1:「宮山観音堂」


写真2:同上、彫刻。馬が中心に据えられているのは珍しい。


写真3:境内の石碑など。


写真4:「宮山ふれあいふるさと公園」の展望台。安倍晴明に関する当地の伝承の資料が展示されている。


写真5:展望台前にある歌碑「恋しくば 尋ねきて見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」。晴明の母は信太明神の化身で、正体が知られて晴明と別れるときに遺したものとされる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八柱神社(茨城県桜川市)

2024-04-27 23:33:22 | 神社
八柱神社(やはしらじんじゃ)。
場所:茨城県桜川市真壁町塙世968。茨城県道7号線(石岡筑西線)と同131号線(下妻真壁線)の「下塙世」交差点から南東へ約200mで右折(南西へ)、約240m。駐車場なし。
社伝によれば、元は、寛平2年(890年)創建とされる「牛頭天王社」(祭神:素盞鳴命)とその別当寺院の真言宗「聖天山 恵日光寺 金剛院」(本尊:不動明王)があったが、寺院の方は明治時代に入って廃寺となり、聖天堂のみが残った。明治4年、聖天堂を「牛頭天王社」の社殿とし、村内にあった「雷神社」(同:別雷命)、「愛宕神社」(同:軻遇突知命)、「富士浅間神社」(同:木花咲耶姫命)、「新宮八幡神社」(同:誉田別命)、「稲荷神社」(同:倉稲魂命)、「日枝神社」(同:大山咋命)、「厳島神社」(同:厳島姫命)の7社を合併して「八柱神社」となった。元の「金剛院」は山城国「大覚寺」(現・京都市右京区、真言宗大覚寺派大本山「旧嵯峨御所大覚寺門跡」)の直末寺として、往時は相当な有力寺院であったようで、現在の当神社本殿は、外周に彩色された華麗な装飾彫刻が施されており、茨城県の指定文化財となっている。彫刻のすばらしさから、左甚五郎作との伝承もあったが、天明5年(1785年)銘があり、下野国富田(現・栃木県足利市)住の彫物師・磯部義兵衛英信の作とされている。
聖天は大聖歓喜自在天の略称で、元はヒンズー教の障碍の神だったが、仏教に帰依してからは現世利益を叶える神として信仰された。特に、2体の象頭人身が抱き合う形の像形が多く、夫婦和合・子授けの御利益があるとされる。修法として香油を注ぎかける浴油供がよく行われ、当地「金剛院」でも聖天の祭日(旧暦3月21日)には多くの参詣客があったという。この聖天については、「食べた聖天」という民話(昔ばなし)がある。それは、「ここの住職は大の酒好きで、飲むときには「聖天様、どうぞお召し上がりください。」と唱えてから飲んでいた。いつも小僧に町の酒屋に酒を買いにやらせていたが、ある日、どうしたわけか、いつもより酒の量が多かった。そこで、小僧は桜川の堤に腰を下ろし、住職の真似をして「聖天様、どうぞお召し上がりください。」と唱えて盗み飲みした。小僧が寺に帰ると、和尚はいつもの通り聖天様に祈りをあげて酒を飲もうとしたところ、「食べた聖天、小僧さんに貰ったから、もうたくさん。」という声がした。盗み飲みがバレた小僧は、それからいっそう修行に励んだ。」という話である。


桜川市のHPから(八柱神社)


写真1:「八柱神社」入口石段。社号標「輪煥之地 八柱神社」。「輪煥(りんかん)」というのは、寺社などの建物が広大で壮麗である様子をいうとのこと。


写真2:鳥居


写真3:拝殿。昭和62年再建。


写真4:本殿


写真5:同上


写真6:同上


写真7:同上


写真8:同上


写真9:御神木。目通り幹囲8.8mというケヤキの巨木で、旧真壁町では最も大きな木であるという。桜川市指定天然記念物。


写真10:同上
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌姫明神

2024-04-20 23:33:50 | 神社
歌姫明神(うたづめみょうじん)。古い資料では「歌女明神」としているものが多い。
場所:茨城県桜川市真壁町羽鳥1073。茨城県道41号線(つくば益子線)沿いのコンビニエンスストア「セイコーマート真壁羽鳥店」のある交差点から東に約230mで右折、約90mで突き当り左折(南東へ)、約30mで参道入口。駐車場なし。
詳細不明だが、古代に「嬥歌(かがい)」・「歌垣(うたがき)」が行われていた場所に祀られている神社で、祭神は住吉明神(仲田安夫著「真壁町の昔ばなし」)とされるが、ネット等では稚日女尊(ワカヒルメ)としていることが多く、あるいはその両神を祀るという説もある。「嬥歌」・「歌垣」は、フリーセックスの場のようなイメージもあるが、本来は、未婚男女が集まって求愛歌の掛け合いで相手を探す祭事の要素が強かったらしい。「万葉集」のほか、「常陸国風土記」の筑波郡と香島郡の条に「嬥歌」についての記述があり、特に筑波山の「夫女ヶ石」(2020年10月3日記事)付近が「嬥歌」の場所として有名である。当地は筑波山にも近く、平将門もここの「嬥歌」で正室・君の御前と結ばれたという伝承があるらしい。
蛇足1:稚日女尊は、機織りをしているときに、素戔男尊(スサノオ)に逆剥ぎにした馬の皮を投げ込まれ、驚いて機から落ちて亡くなったという話が「日本書紀」にある。天照大神の別名を大日孁貴神(オオヒルメノムチ)、あるいは大日女尊(オオヒルメ)ということから、その幼名あるいは妹神ともいわれる。ただし、所謂「古史古伝」の1つ「ホツマツタヱ」では、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冊尊(イザナミ)(「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)の祭神)の子、すなわち、天照大神など三貴子の兄弟である蛭子神(ヒルコ)、別名・和歌姫であるとする。そして、不具で生まれたために海に流されたのを住吉大神によって拾い上げられ、養育されたという。「ホツマツタヱ」は、「記紀」より古いとする説もあるが、近世の用語や習俗なども含まれ、一般的には江戸時代頃に作られた偽書と考えられている。ただ、書かれた内容は面白く、もっと真面目に研究されてもよいと思われる。なお、「歌姫明神」については、古来より住吉明神(摂津国一宮「住吉大社」、現・大阪府大阪市)・玉津島明神(「玉津島神社」、現・和歌山県和歌山市。稚日女尊を祀る。)・柿本人麻呂を「和歌三神」と称するので、「嬥歌」に因んだ祭神と言えるだろう。
蛇足2:住吉大神(通常は底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神の総称)は海上交通の守護神だが、茨城県内に「住吉神社」は少ない。茨城県神社庁傘下の神社では、水戸市に1社、桜川市に1社、石岡市に1社、結城市に2社、鹿嶋市に1社、東海村に2社となっている(ただし、石岡市の「住吉神社」の祭神は大山祇命で、通称・山王様ということから、「日吉神社」だったのが誤ったといわれている。)。
蛇足3:本文では、平将門の正室・君の御前、と書いたが、古代の通例により女性の名は伝えられていない。現・桜川市大国玉に「后神社」(「御門御墓」(2021年1月30日記事)参照)があり、将門の正室で、在地の豪族・平真樹の娘・君の御前を祀っているという伝承がある。一方、軍記物語「将門記」などをみると、将門の妻は、将門の伯父だが敵方の平良兼の娘であると読めるような書きぶりになっている(名前は不明)。良兼は当地周辺を本拠地としており、「将門記」にも「服織ノ宿(はとりのやどり)」と出てくる。当神社の北、約700mのところに「竜ヶ井城」という中世城館跡があり、これが元は良兼の居館跡だったとの伝承がある。現在も土塁・堀跡が残るというが、平地が少なく、現在の遺構は戦国時代頃のものとみられ、南方約2kmにある「真壁城」の出城として築かれたともいわれているので、真偽は不明。ただ、「竜ヶ井城」が居館ではないとしても、当地が良兼の支配地であったことは確実で、もし将門が当地の「嬥歌」に参加して知り合うとすれば、良兼の娘である方が確率は高いように思われる。
蛇足4:「羽鳥」という地名は、本来「服織」で、絹織物の里であったと思われる(「筑波山」の周辺で養蚕や機織りが行われていたことについては、「蚕影神社」(2020年11月28日記事)参照)。「羽鳥」は、「嬥歌」の「嬥」の旁を羽(は)と隹(とり)に分けたのが由来とする説もあるが、これはこじつけっぽい。
蛇足5:「筑波山」登山は、古来、羽鳥口が表参道だったが、江戸時代に「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事)が幕府の祈願所となってから、そちら側が表参道になったという。今でも「羽鳥古道」といって、山歩き愛好家が羽鳥側から登ることがあるようだ。


写真1:「歌姫神社」参道入口の目印になっている「二十三夜供養碑」。この左手に入ると、鳥居が見える。


写真2:立派な石鳥居


写真3:社殿のある広場入口付近にある岩。筑波山の「夫女ヶ石」に相当するものだろうか。


写真4:概ね円形のような広場の奥に社殿がある。


写真5:社殿


写真6:社殿扉の彫刻
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする