神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

常陸国の古代東海道(その4・板来駅)

2022-09-24 23:27:57 | 古道
現・茨城県潮来市の「長勝寺」境内(仏殿横)に「潮来の駅家跡」という木碑が建てられている。古代のハイウェイともいうべき「古代東海道」は、元々、上総国(現・千葉県南部)から下総国(現・千葉県北部)を経て常陸国(現・茨城県)に入るルートだったが、後に、上総国を経由しないで通るルートに変更された。また、別路として、下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)及び常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)付近を通るルートがあったとされている。それが「眞敷(ましき)」駅(現・千葉県成田市南敷?)~「板来(いたく)」駅(現・茨城県潮来市潮来?)~「曾尼(そね)」駅(現・茨城県行方市玉造?)~常陸国府(現・茨城家石岡市総社一丁目)というルートで、「板来」駅家と「曾尼」駅家のことは「常陸国風土記」行方郡条にも記載がある。「板来」駅家についての「常陸国風土記」の記事によれば、「板来村がある。海辺に近接して駅家を置いている。これを板来駅という。」(現代語訳)となっており、海辺というのは、現・潮来市は常陸利根川の左岸(北岸)に位置するが、古代、南側には内海の「香取海」が広がっていて、対岸の下総国から船で渡ってきたからだろう。因みに、「板来」という地名は、潮(海水)を方言で「イタ」と呼び、その打ち寄せるところとして「伊多来」、「板来」と当て字していたのを、元禄11年(1698年)に第2代水戸藩主・徳川光圀が「潮来」と改称したともいわれている。ところで、現在の「潮来」が「板来」の遺称地であることはほぼ間違いないとしても、「板来」駅家の遺跡はまだ見つかっていないので、厳密には所在地は確定していない。よって、「長勝寺」境内が「板来」駅家の跡とは断定できないが、「稲荷山」という山の南麓にあって、南側は常陸利根川に近いので、十分あり得ることだろう(なお、「稲荷山」は現在「稲荷山公園」となっていて、全長約28mの前方後円墳など8基が確認されている「稲荷山古墳群」がある。)。「鹿島神宮」が重要視されたのは、ヤマト政権からの蝦夷征討政策の前線基地だったからという説がある。その意味でいえば、蝦夷征討は奈良時代末~平安時代初めには概ね一段落し、その後は融和政策が採られていく。「板来」駅は、「日本後記」によれば、弘仁6年(815年)に廃止となっているが、これはそうした経緯の中でのことかと思われる。
蛇足:現・潮来市から常陸国府があった現・石岡市までは、現・霞ケ浦の東岸を北東に進めば、自然に到着する(国道355号線がある。)が、古代東海道のルートとしては行方台地上を通る、現在で言えば茨城県道50号線(水戸神栖線)が概ね相当したらしい。また、潮来からは、「鹿島神宮」に向かう支道があったと思われる。現在もJR鹿島線があり、「香取神宮」の最寄駅である「香取」駅から「潮来」駅を経由して「鹿島神宮」駅に行く。「鹿島神宮」の地政学的な意味は上記の通りだが、このルートでは2回、「香取海」を越える(現・常陸利根川と北浦)ことになるので、これも駅家の維持が難しくなった理由の1つではなかろうかと思われる。なお、「板来」駅家の所在地としては、潮来市潮来付近ではなく、潮来市延方(新宮地区)とする説も有力。こちらの方が、北浦を隔てて「鹿島神宮」とすぐ向かい合う場所にあり、「常陸国風土記」に「板来の南の海に、周囲3~4里(約1.5~2km)の洲がある。春には香島・行方両郡の男女が集まり、様々な貝を拾う。」という記述によく適合するとされる。

海雲山 長勝寺(かいうんざん ちょうしょうじ)。
場所:茨城県潮来市潮来428。国道51号線「土木事務所入口」交差点から南へ約110m進むと、広い「潮来市営長勝寺東駐車場」(無料)がある。山門へは、そこから南西へ約300mだが、途中の道路も狭い住宅地なので、自動車の場合は市営駐車場に止めれば、すぐ西側が「長勝寺」である。なお、JR鹿島線「潮来」駅からは、山門まで約650m(徒歩約8分)。
創建時期は不明だが、文治元年(1185年)に源頼朝が武運長久を祈願して創建したとの伝承がある。現存する銅鐘(国指定重要文化財)は、その銘によれば、元徳2年(1330年)、源頼朝の追善供養のために相模禅定門崇鑑(鎌倉幕府第14代執権・北条高時)が大檀那となって奉納したものとされる。仏殿(本堂)は室町時代後期のもので、茨城県指定有形文化財となっている。しかし、江戸時代には寺勢が衰え、荒廃していたため、これを憂えた水戸藩第2代藩主・徳川光圀が京都「妙心寺」第253世住職を務めた太嶽祖清禅師を招いて中興開山し、諸堂宇を再建した。楼門・方丈・書院・玄関・隠寮・庫裡(これらも茨城県指定有形文化財)などは、再建された元禄年間(1688~1704年)頃のもので、その後、幕府からも寺領10石の朱印状を賜り、隆盛したという。現在は臨済宗妙心寺派に属し、本尊は阿弥陀如来(伝・運慶作とされ、両脇侍像と共に茨城県指定有形文化財)。


写真1:「長勝寺」山門と寺号標(「長禅禅寺」)


写真2:山門(楼門)。元は真言宗豊山派「普門院」(現・潮来市洲崎)の山門を移築したものという。山門前は桜の名所となっている。


写真3:仏殿(本堂)


写真4:「文治梅(ぶんじばい)」。源頼朝手植えという梅の古木。傍にあるのは、「三吟句碑」で、俳人の松江・芭蕉・曾良の連句を記した石碑。


写真5:鐘楼。銅鐘は「常陸三古鐘」の1つとされる(他の2つは、茨城県土浦市の「等覚寺」と「般若寺」のもの。)。


写真6:勢至堂


写真7:玄関


写真8:「潮来の駅家跡」木碑。目立たない場所にあり、説明板もないので、多くの観光客には顧みられないことだろう。
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八代の大椎

2022-09-17 23:33:30 | 巨樹
八代の大椎(やしろのおおしい)。
場所:茨城県潮来市上戸1558。国道51号線「稲荷山」交差点から北へ約1.4km。駐車場なし。
「八代の大椎」は、樹齢900年超という椎(樹種としてはスダジイ)の巨樹。「(台上戸)神明神社」の御神木で、昭和8年、茨城県内最大のシイの木として県の天然記念物に指定された。現在では樹高約15m・枝張り約10m・幹回り約10mとされるが、元は樹高約30m・幹回り約20mあったという。明治29年に陸軍参謀本部陸地測量部により、測量視線を妨げるとの理由で幹や枝葉が伐採され、樹勢が衰えた。更に、昭和41年の台風により大きな被害を受け、東側に大きく張り出していた幹が分岐点近くから折れて、枝の広がりは半分ほどになった。平成15年、樹木医が処置を行い、南西部を中心に徐々に樹勢が回復しているという。


茨城県教育委員会のHPから(八代の大シイ)


写真1:「八代の大椎」全景。西側から見る。


写真2:南側に「神明神社」境内入口、鳥居がある。


写真3:根元に石祠、記念碑、「大己貴命」石碑などがある。木の東側は痛みが酷く、確かに元はもっと幹回りが太かったのかもしれない。


写真4:南西側の根元。「茨城縣天然記念木」石碑もある。


写真5:北西側に説明板も設置されている。
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浅間塚古墳(茨城県潮来市)

2022-09-10 23:31:46 | 古墳
浅間塚古墳(せんげんづかこふん)。
場所:茨城県潮来市上戸1990ー2外。国道51号線「上戸」交差点から南東へ約500mのところに登り口がある。駐車場なし。交通量が非常に多い国道沿いで、自動車の場合は、どこか少し離れた安全なところに駐車して来る必要がある。
「浅間塚古墳」は全長約84m(茨城県内第11位)、後円部の径約48m・高さ約7.5m、前方部幅約25m・高さ4.5mという大型古墳である。古墳の形態等から築造時期は4世紀末~5世紀初め頃と推定され、霞ヶ浦・北浦周辺部で最古クラスの前方後円墳とみられている。なお、埴輪等は発見されておらず、墳丘の北東側に幅約10mの周溝が認められている。現在、後円部墳頂に「浅間神社」の石祠がある。
当古墳の南側には、現在は常陸利根川が流れているが、古代には「香取海」という広大な内海が広がっていたと思われ、当古墳の古さ・大きさも然ることながら、対岸(南)は千葉県香取市津宮で、その更に先(南)に下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)が鎮座するという位置であることに何か意味があるのではないかとも思われる。
蛇足:明間正著「牛堀町の昔ばなし」には、次のような話が収録されている。「浅間塚」の山に昔、長者が住んでいて、長者と呼ばれるにふさわしい、情の深い人であった。人々の暮らしは一枚の着物に一個のお椀、という風で、寄り合いや冠婚葬祭の集まりに膳椀を揃えるのが難事であったが、長者が貸してくれるのだった。山裾の道祖神様のところに、必要な数を書いて置いてくると、翌朝にはその数の膳椀が棚の上に並べられていたという。こうして、山の上の長者は膳棚長者と呼ばれるようになった。ところが、慣れれば不心得者が出てくるもので、借りた膳椀のいくつかをくすねる者がいたり、しまいにはそっくり借り貰い申してしまうものが出てくるに至り、以降いくら頼んでも膳椀は現れなくなってしまったという。さて、これは、昔話によくある「貸椀伝説」で、古墳の開口した石室のところで頼むと必要なだけ椀を貸してくれるというものが多いが、当古墳にどう当てはまるのかはよくわからない。因みに、明間正氏は、当古墳の近くに段々になった大きな方墳があり、これを「膳棚山」といって、そちらの話だったのではないかとも書いている。なお、当古墳の南東、約200mのところに「大塚野古墳」という古墳があったとされている(現在は湮滅。町営水道給水塔が建っている場所のようである。)。


写真1:「浅間塚古墳」全景。南西から見る。古墳の下の擁壁・ガードレールは国道51号線。


写真2:後円部への登り口にある「浅間さま入口」石碑。


写真3:同上、説明板。


写真4:結構急坂だが、石段等はない。前方に鳥居が見える。


写真5:「浅間神社」の鳥居


写真6:後円部墳頂の「浅間神社」石祠。通称:浅間さま。


写真7:神社前から南西側を見下ろす。「常陸利根川」の向こう側は千葉県香取市になる。古代には「香取海」が広がっていただろう。


写真8:後円部から前方部を見る。


写真9:古墳の南側から見る。
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瑠璃光山 明應院 観音寺

2022-09-03 23:36:06 | 寺院
瑠璃光山 明應院 観音寺(るりこうざん めいおういん かんのんじ)。
場所:茨城県潮来市上戸624。国道51号線「上戸」交差点から北東の狭い道路に入り、道なりに北へ約700m。駐車場有り。
寺伝によれば、大同2年(807年)、筑波山別当であった法相宗の僧・徳一大士により開創された。当初は現在地の西方、尾ノ詰(おのづめ)の台地に建立されたが、数度の火災に遭い、観応2年(1351年)に時の領主・藤原国安により除地5石の寄進を受け、乗印僧都が現在地に移転・再建した。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は聖観世音菩薩。なお、境内に室町時代の弘治3年(1557)に建立された薬師堂があり、秘仏の薬師如来像が安置されている(現存のものは、水戸藩第6代藩主・徳川治保の寄進による。)。平安時代、眼病を患った小野小町が各地を流浪したあげく当寺院に辿り着き、薬師堂に百ヵ日参籠したところ病が平癒したことから、全快の御礼に枝垂桜(シダレザクラ)を寄進したとの伝説がある。移転前の「尾ノ詰」という地名は、小野小町が住んでいたという意味の「小野住」から転化したものであるともいう。


観音寺のHP


写真1:「観音寺」境内入口、寺号標。なお、「茨城県指定文化財 鰐口」石碑は、観応3年(1352年)に藤原国安が奉納したという銘がある鰐口を所蔵していることによるもので、この種のものでは県内最古、年号や寄進者が明示されているところも貴重で、昭和33年に県指定文化財に指定された。


写真2:山門。薬師堂と同時期の建立とみられ、潮来市指定文化財。


写真3:薬師堂。山門の正面にある。茨城県指定文化財。


写真4:本堂。本堂前の枝垂桜が、小野小町が寄進したものの3代目という(通称:小町桜)。
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