神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

宮山観音古墳(茨城県筑西市)

2024-05-11 23:33:10 | 古墳
宮山観音古墳(みややまかんのんこふん)。
場所:「宮山ふるさとふれあい公園」内、「宮山観音堂」(前項)の背後(北側)に後円部がある。
旧・茨城県明野町の「宮山古墳群」は1基の前方後円墳と5基の円墳からなるが、そのうち前方後円墳は「宮山観音古墳」と称され、桜川支流・観音川の左岸(東岸)の台地上にある復元墳丘長約92m、後円部径約45m・高さ約6m、前方部長約47m・幅約40m・高さ約3.7mという大型古墳で、旧・明野町で発見された前方後円墳3基のうち最大のものとみられる。前方部は南西向きだが、中央の括れ部は北側にある「鹿島神社」の参道によって切り通され、前方部と後円部が分かれてしまっている。また、後円部の南側の一部が「宮山観音堂」のために一部削平されているが、それ以外は比較的良好に保存されている。発掘調査等が行われていないため詳細は不明だが、古墳の形状等から、5世紀後半頃の築造と推定されている。葺石・埴輪等は発見されておらず、かつて古墳付近で武人の土偶が出土したと伝わるが、現物は残っていないようである。ただし、古墳が存在する台地の北・西・南側は水田(古くは湖沼や低湿地?)で、古墳の周囲からは縄文時代から平安時代までの土器・土師器・須恵器などが多く見つかっているとのことで、台地上に縄文時代から集落が営まれていたようである。


写真1:「宮山観音古墳」の中央、括れ部分は「鹿島神社」参道のため切り通され、参道入口に鳥居が建てられている。


写真2:鳥居の向かって右側、後円部の南側の一部が「宮山観音堂」のため削られている。


写真3;鳥居の向かって左側が前方部南側。


写真4:後円部から前方部を見る。


写真5:前方部から後円部を見る。


写真6:前方部北側


写真7:後円部北側


写真8:後円部墳頂に祠堂がある(「駒形神社」?)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御前塚古墳・藤塚古墳(茨城県笠間市)

2023-12-30 23:36:23 | 古墳
御前塚古墳(ごぜんつかこふん)・藤塚古墳(ふじつかこふん)。御前塚古墳群1号墳・2号墳。
場所:茨城県笠間市泉1956-1。国道355号線と茨城県道43号線(茨城岩間線)の交差点(角にコンビニ「セブンイレブン岩間泉店」がある。)から国道を北へ約750mで左折(西へ)、約150m進んで、突き当りを左に入る。そこが「笠間市泉運動広場」駐車場で、駐車場の奥、グラウンドの東側に「御前塚古墳」がある。なお、国道から入る道路は、幅がかなり狭いので注意。
「御前塚古墳」は、9基からなる御前塚古墳群の1号墳で、直径約60m・高さ約6mの円墳。約20m幅の周溝があったとされ、これを含めると全長は約100mと推定されている。この大きさは、茨城県内最大の「車塚古墳」(茨城県大洗町、2018年6月30日記事)の直径約88mに次ぎ、円墳としては全国的にも有数のものと言える。3段築成で、円筒埴輪片等から5世紀前半の古墳と推定されている。笠間市指定史跡。
もう1つ特徴的なのは、「御前塚古墳」の南約60mのところに御前塚古墳群2号墳として「藤塚古墳」があり、これも「御前塚古墳」とほぼ同規模とされている(他の7つは中~小規模で陪塚とみられる。)。こちらのサイズは、現在の直径は約40mだが、当初は約56mあったとみられており、こちらも周溝幅約16mを合わせると、全長は約88mと推定されている。この周溝幅を考えると、「御前塚古墳」と「藤塚古墳」の間は約5mしか離れていなかったことになる。「藤塚古墳」の周溝からは、小型箱式石棺が出土した。石棺は5枚の石材で構成され、蓋石は長さ1.19m・最大幅0.61mで、重さ106kg。中から、滑石製の勾玉と269個の臼石(5円硬貨のような形のもの。祭祀用とされる。)が発見された。なぜ、周溝内にあったかは不明。こちらも、古墳の築造時期は5世紀前半と推定されている。この2つの古墳とも、主体部は未発掘で、被葬者の伝承等もないが、当地の有力首長の墳墓とみられている。
因みに、「藤塚古墳」墳頂には、「藤原藤房卿遺蹟」という石碑が建てられている。古くから貴人の墓という伝承があり、当地にあった「光西寺」(廃寺)の「神塚」といわれていた。昭和9年に、鎌倉時代末~南北朝時代の公卿・藤原(万里小路)藤房の法名とされる「無等良雄(むらりょうゆう)」と俗名「藤原藤房」と刻した墓碑らしき石碑が発掘され、昭和10年に「藤原藤房卿遺蹟」として整備されて「藤塚」と称されるようになったという。藤原藤房については、前項「藤原藤房卿遺跡」(現・茨城県土浦市)に書いたが、第96代・後醍醐天皇の側近だったものの、「建武の新政」が始まってから政策に不満を持って突然出家し、その後消息不明になった人物である(このため、全国各地に墓とされるものがある。)。江戸時代、儒学者・安東省菴によって平重盛・楠木正成と共に日本三忠臣の1人に数えられたこともあり、昭和9年というのが建武元年(1334年)からちょうど600年になることから、「忠君愛国」精神発揚と結びついたものと思われる。なお、こちらのほうは、「藤塚古墳」としても「藤原藤房卿遺蹟」としても史跡等には指定されていない。


写真1:「御前塚古墳」。北側に石の標柱と上り口がある。


写真2:同上。一段目が何となくわかる。二段目は判然としていない。


写真3:同上、墳頂。平坦部は直径約20mと結構広いが、元々、このくらいの広さがあったらしい。


写真4:同上、東側から見る。かなり急傾斜。


写真5:同上(全景)、西側からみる。


写真6:国道沿いにある「藤原藤房郷遺蹟」石碑(「郷」は「卿」の誤りだろう。)。「御膳山古墳」への入口の南、約160m。「藤塚古墳」には、ここから西へ約290m進む。この道路も狭いので注意。「藤塚古墳」前に若干の駐車スペースあり。


写真7:「藤塚古墳」(「藤原藤房卿遺蹟」)入口の鳥居(古墳の南側)。ここから約60mの参道? がある。


写真8:同上、墳頂への石段。ここからが古墳になるが、かなり高さがあることがわかる(古墳の高さは約6.5mとされている。)。


写真9:同上、「藤原藤房卿遺蹟」石碑。後ろには藤棚もある。こちらの墳頂から北側に「御前塚古墳」が見えるが、北側には下りる道がないので、南側からぐるりと回っていく必要がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武者塚古墳(茨城県土浦市)

2023-12-16 23:32:35 | 古墳
武者塚古墳(むしゃづかこふん)。
場所:茨城県土浦市上坂田1153。目印が少ないので案内が難しいが、例えば、国道6号線土浦バイパス「常名高架橋」の下付近から茨城県道199号線(小野土浦線)を西へ約2.4km進んだところに案内看板があり、そこを右折(北へ)して約450m進むと、交差点に再び案内看板があって、そこを左折(南西へ)、約60mで右折(北西へ)、すぐ。駐車場有り。
「武者塚古墳」(武者塚古墳群1号墳)は、桜川左岸(北岸)の台地上で発見された円墳で、直径約23m、墳丘の周囲には周溝があったとされている。実は、当古墳は、江戸時代末の安政元年(1855年)、農家の屋敷続きの小丘で山芋掘りの際に武具(甲冑の一部)が発見され、代官に届けたところ、大事に保存するようにとの指示を受け、出土物はその農家の神棚に祀られていたという。本格的な発掘調査が行われたのは昭和58年であるが、このときには墳丘自体は完全に削平されており、畑地になっていた。発掘の結果、地下に箱形石棺と横穴式石室の特徴を併せて持つ特異な石室が発見され、中に6体分の遺体があって、その1体には「美豆良(みずら)」という髪型の毛髪が残っていた。他にも、銀製の飾大刀・飾り金具、青銅製杓など全国的にも類例の少ない貴重な出土品が未盗掘状態で発見された。築造時期は、古墳時代終末期(7世紀後半頃)と推定されている。現在、覆屋の建物内に石室が保存されており、金網越しに外から見学することができる。また、この建物の横に、元は約170m北側にあった(湮滅)「武者塚古墳群2号墳」の石棺が移され、屋外展示されている。なお、出土品は国指定重要文化財に指定され、「上高津貝塚ふるさと歴史の広場 考古資料館」で展示されている。また、古墳は土浦市指定文化財に指定され、同館附属の展示施設として管理されている。
因みに、当古墳から桜川を渡り、「作蔵山 東福寺」(「瀧夜盛姫の墓」(2021年5月8日記事)付近を通り、そのまま南西に進むと「河内郡家」跡に比定される「金田官衙遺跡」(2021年4月17日記事)に至る。越田真太郎氏によれば、このルートに古代伝路があったのだろうとしている。即ち、当古墳付近から北東に進んで現・石岡市下稲岡・新治付近で古代東海道に接続し、「常陸国府」(現・石岡市。2018年1月6日記事)に至る。また、途中は不明だが、「金田官衙遺跡」(河内郡家比定地)から南西に進んで「清安山 不動院」(通称「板橋不動尊」。2021年11月20日記事)付近を通り、現・茨城県取手市戸頭付近から利根川を渡って、さらに進むと古代東海道に接続する。平安時代の古代東海道は、下総国の現・千葉県我孫子市~茨城県利根町から現・茨城県竜ヶ崎市に入り、現・稲敷市を通るルートが想定されている(「常陸国の古代東海道(その1・榛谷駅)」(2022年1月22日記事)。このルートでは「下総国府」(現・千葉県市川市。2013年1月12日記事)からすると、かなり遠回りになるが、これは奈良時代の古代東海道の一部を利用していることによる。そこで、伝路ではあるが、上記ルートを通れば「常陸国府」への近道になるので、あるいは国司の往来にも使われたのではないかとも考えられている。


茨城県教育委員会のHPから(茨城県武者塚古墳出土物)



写真1:「武者塚古墳展示施設」


写真2:武者塚古墳群1号墳の石室。6体もの人骨が発見されたことから、追葬が行われたらしいが、横穴式石室の開口部は存在しないため、前室の天井石を取り外して納めたと考えられている。展示は、全室の天井石を取り外し、玄室の天井石を被せた状態となっている。


写真3:武者塚古墳群2号墳の箱形石棺
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛宕神社古墳(茨城県石岡市)

2023-11-25 23:33:42 | 古墳
愛宕神社古墳(あたごじんじゃこふん)。通称:景清塚。
場所:茨城家石岡市貝地2-6-13。国道6号線「貝地」交差点から茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)を南西へ約190m進んだところで左側道に入り、突き当りY字分岐を左(北東へ)、約50m。駐車場なし。
「愛宕神社古墳」は、直径約10m・高さ約2mの円墳とされるが、一部削平されており、発掘調査等も行われていないようなので、詳細は不明。墳頂に「愛宕神社」が勧請されているため、その名があるが、平安時代末期~鎌倉時代初期の武士で、悪七兵衛の異名で有名な藤原景清を祀るという伝承があって、「景清塚」とも呼ばれている(とすると、古墳時代の「古墳」ではなく、中世以降の「塚」かもしれない。)。景清は所謂「源平合戦(治承・寿永の乱)」(1180~1185年)で平氏方につき、「屋島の戦い」等で奮戦したので平景清と通称されるが、本姓は藤原氏(俵藤太こと藤原秀郷の後裔)で、伊勢の藤原氏ということで伊藤氏とも名乗ったとされる。平氏方の有力武将で上総介・藤原忠清の七男であるため、上総七郎とも呼ばれたということから、坂東(関東地方)に所縁があると思われ、現・石岡市生まれとする伝承もあるが、前半生は全く不明となっている。「壇ノ浦の戦い」で敗れた後に捕らえられ、八田知家(小田氏の祖、現・茨城県つくば市に「小田城」を築城。常陸国守護)に預けられたが、建久7年(1196年)、自ら食を断って果てたとも伝えられている。このようなことから、能や歌舞伎などの主人公として取り上げられ、各地に墓・供養塚などがある。
さて、この古墳の南側に日蓮宗「平等寺」があるが、その境内は「景清屋敷」とも呼ばれ、12世紀前半、在庁官吏の「国掌屋敷」のあったところと伝承されている。かつては西方に竹藪があり、明治末期までは土塁が築かれていたという。「石岡市史」では、「国掌所」は正税などの運送を分担した官衙であるとし、それがあった場所と推定している。因みに、当地の地名の「貝地(かいじ)」であるが、その語源として、①地方豪族の縄張り、即ち「垣内(かいと、かいち)」とする説、②官衙・役所を意味する「廨」がある場所、即ち「廨地(かいち)」とする説があり、「石岡市史」は後者の②説を採用しているようである。その当否は不明だが、仮に、当地に地方官衙あるいは地方豪族屋敷があり、そこに景清という名の人物がいたとすれば、悪七兵衛・藤原景清ではなかったとしても、それが有名な景清ということになって、伝説が作られたということがあったのかもしれない。

一妙山 平等寺(いちみょうざん びょうどうじ)。通称:貝地の法華様。
場所:茨城県石岡市貝地2-7-8。「愛宕神社古墳」の南側。駐車場有り。
大僧正・本雄院日舜上人の開基で、元は石岡市国府2丁目(旧・木之地町)にあって「一妙庵」といった。後に日勝上人が現在地に移転。明治12年に本堂建立。日蓮宗の寺院で、本尊は十界大曼荼羅。なお、日舜上人というのは、現・東京都大田区の日蓮宗大本山「池上本門寺」(「長栄山 大国院 本門寺」)第66世貫主(天保2年(1831年)~明治34年(1901年))のことと思われる。


写真1:「愛宕神社古墳」。墳形に沿って、道路がカーヴしている。


写真2:同上、「愛宕神社」鳥居と社号標


写真3:同上、墳頂の「愛宕神社」社殿。祭神:軻遇突智命。


写真4:同上、「平景清公之霊地」石碑


写真5:西側に隣接する「貝地町公民館」敷地端にある「茨城廃寺五重塔露盤レプリカ」と説明板。五重塔の露盤は塔の相輪の土台となるもので、本物は「きんちゃく石」(石岡市茨城1丁目、「茨城廃寺」(2018年2月3日記事)の写真6参照)とみられている。玉垣?に「茨城国廨地」と刻されている。


写真6:同上


写真7:日蓮宗「平等寺」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三昧塚古墳

2023-07-22 23:32:02 | 古墳
三昧塚古墳(さんまいづかこふん)。
場所:茨城県行方市沖洲467-1外。国道6号線「山王台」交差点から国道355号線を東~東南に約8.6km。駐車場有り。
「三昧塚古墳」は、霞ヶ浦北部、鎌田川流域の沖積低地上に築造された前方後円墳。同じ霞ヶ浦北部にある現・茨城県小美玉市の「権現山古墳」(2019年1月26日記事)など他の古墳が台地上に所在するのと異なり、沖積低地に築かれたのは珍しい。昭和30年に霞ヶ浦の築堤工事のため土砂採取が行われ、半分以上が削平された。このとき、大量の埴輪も出土したが、殆ど破壊された。このような中、緊急発掘工事が行われ、後円部中央の深さ約2.7mのところから、未盗掘の石棺や副葬品が発見された(その後、平成6年、同11年にも追加調査されている。)。墳丘は基段上に構築され、後円部は2段築成(前方部は段築不明)となっている。大きさは、墳丘長82.1m(基段を含めると87.3m)、後円部直径46.5m(同52.1m)・高さ8m、前方部幅(推定)37.2m(同推定40.9m)・高さ6m。形態不明ながら周溝が認められ、これを含めた全長は136.2mとされる。前方部を北西に向け、墳丘表面に円筒埴輪列及び形象埴輪(人物埴輪、鹿形・牛形・犬形埴輪)が置かれ、後円部墳頂下に埋葬施設として組合式の箱式石棺があり、この石棺内から人骨のほか、金銅製の冠を始めとする多数の副葬品が出土している。また、石棺の近くに木製の副葬品埋納施設があった。築造時期は古墳時代中期の5世紀中葉~後半頃と推定されている。被葬者は不明だが、霞ヶ浦の水上交通を支配して治めた有力首長とみられる。古墳域は平成2年に行方市指定史跡に指定され、現在は墳丘が復元され、「三昧塚古墳農村公園」として整備されている。また、副葬品のうち、金銅製の冠は馬形飾と樹木状飾が付く唯一の遺例で、本体には心葉形の歩揺と花文・唐草文・動物文などの透彫が伴う貴重なもの。この冠自体は国産品とみられるが、細工の技術等は中国大陸・朝鮮半島の影響が色濃いものとされる。その他、銅鏡や金銅製の馬具なども学術上重要とされて、出土品一括で平成30年に国の指定重要文化財(考古資料)となっている(茨城県水戸市の「茨城県立歴史館」所蔵)。


行方市のHPから(三枚塚古墳公園)

茨城県教育委員会のHPから(茨城県三昧塚古墳出土品)


写真1:「三昧塚古墳」。駐車場(南側)から見る。手前が後円部、奥が前方部。


写真2:模型もあって、わかりやすい。


写真3:後円部。南東側から見る。


写真4:東側から見る。手前が後円部、奥が前方部。


写真5:北側から見る。手前が前方部、奥が後円部。


写真6:北西側から見る。手前が前方部、奥が後円部。


写真7:前方部から後円部を見る。


写真8:後円部から前方部を見る。この写真では見にくいが、前方やや左手に筑波山が見える。


写真9:公園の隅の石祠。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする