神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

瑞甕山 根本寺

2017-11-25 23:09:25 | 寺院
瑞甕山 根本寺(ずいおうさん こんぽんじ)。
場所:茨城県鹿嶋市宮中2682。「鎌足神社」(前項)の北東、約20mのところを右折(南東へ)、約30m。駐車場有り。かなり狭い道路なので注意。
寺伝によれば、推古天皇21年(613年)、聖徳太子が勅を奉じて創建された勅願寺であるという。これが真実ならば、日本でも最も古い寺の1つだろう。開祖は高麗の恵潅大僧正で、本尊は薬師如来。元は三論宗で、その後は法相宗、天台宗と転じ、建久2年(1191年)、鎌倉幕府により再興され、2度目の蒙古襲来(「弘安の役」、1281年)に際しては、後宇多天皇の勅命により戦勝を祈願した。 康永年間(1342~44年)、北朝の光明天皇の勅を奉じて教外得蔵和尚が入山して堂宇を修営し、臨済宗に改めた。江戸時代には、徳川幕府から寺領100石を給されるなど栄えたが、水戸藩の尊王攘夷派らが筑波山で挙兵した「天狗党の乱」(元治元年:1864年)の際に兵火に遭い、堂宇は全て焼失した。現在の本堂は昭和56年の再建。現在は臨済宗妙心寺派に属する。
なお、上記の通り、徳川幕府から寺領100石を給されていたが、元々「鹿島神宮」から分けられたもので、次第に当寺に渡らなくなっていた。このため、21世住職の仏頂和尚が江戸に出て、「鹿島神宮」との間に訴訟を起こした。そのとき、仏頂和尚が江戸で居住していたのが深川の「臨川寺」(現・東京都江東区清住)で、松尾芭蕉が住んでいた「芭蕉庵」の直ぐそばだった。その縁で、芭蕉は仏頂和尚から禅の指導を受け、仏頂和尚が鹿島に戻った後、月見の誘いを受けて貞享4年(1687年)に当寺を訪ねた。この時に書かれた紀行文が「鹿島紀行(鹿島詣)」で、あいにく雨で月見はできなかったのだが、当寺で2句を詠んでおり、その句碑が境内に建てられている。


鹿嶋市のHPから(根本寺)


写真1:「根本寺」山門


写真2:本堂


写真3:松尾芭蕉の句碑 「月はやし 梢は 雨を持ちながら」


写真4:手前左に松尾芭蕉の句碑 「寺に寝て まこと顔なる 月見かな」、奥に本堂
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鎌足神社(茨城県鹿嶋市)

2017-11-18 23:22:27 | 神社
鎌足神社(かまたりじんじゃ)。
場所:茨城県鹿嶋市宮中3354。茨城県道238号線(須賀北埠頭線)と同242号線(鹿嶋鉾田線)の「大船津」交差点から、県道242号線を東に約260m進んだところで左折(北西へ)、約140m。駐車場なし。
中臣鎌足は、中大兄皇子(天智天皇)の腹心として「大化の改新」を推し進め、その功により臨終に際して「大織冠」の位とともに「藤原」の姓を賜り、日本の最大氏族「藤原氏」の祖となった人物である。よって、生前は中臣鎌足といったわけだが、その生誕地については説が分かれている。鎌足の曾孫である恵美押勝(藤原仲麻呂)によるとされる藤原氏の家伝書「藤氏家傳」(天平宝字4年(760年)成立)では、大和国高市郡藤原(現・奈良県橿原市)で、「藤原」の姓はこの地名によるとされる。また、鎌足を祭神とする「談山神社」(奈良県桜井市)の「多武峯縁起絵巻」(成立:江戸時代)などでは大和国高市郡大原(現・奈良県高市郡明日香村)とし、同地の「大原神社」に「大織冠誕生舊跡」の石碑が建てられている(高市郡の藤原=大原としている資料も多い。)。一方、常陸国鹿島郡下生(しものう)(現・茨城県鹿嶋市)とする説があって、これは歴史物語「大鏡」(成立:平安時代後期?)によっている。
「大鏡」は史書ではなく、歴史物語とされているので、そもそも信憑性に乏しいとされることも多いが、常陸国鹿島出生説の論拠は概ね次の通りである。まず、中臣氏というのは、神武天皇の皇子・神八井耳命の後裔と称する多氏に連なり、神事・祭祀を司った。「常陸国風土記」香島郡の条によれば、中臣氏の進言によって香島郡が神郡として建郡されたこと、現・「鹿島神宮」の周りに卜占を業とする人々が多く住んでいたこと等からして、中臣氏が香島郡の祭祀と郡司を掌握していたと考えられる。ところで、もともと多氏は九州を本拠とし(渡来人説も強い)、後に本流一族が畿内に移ったとされるが、常陸国の中臣氏は現・「鹿島神宮」の祭祀を行うため、中央から派遣された一族と考えられる。そして、(ここからは大胆な仮説のようだが)6世紀中頃からの所謂「崇仏争論」において、廃仏派の物部氏に従属していた中央の中臣氏は、崇仏派の勝利により衰退してしまう。このとき、常陸国鹿島にいた才能豊かな鎌足(幼名・鎌子)が中央の中臣氏の養子となった、とされる。なお、このストーリーで注意しなければならないのは、鎌足が必ずしも中臣氏出身でなくても成立しそうな点で、要するに、鎌足が名族である中央の中臣氏を乗っ取り、中央で勢力を伸ばした(来歴は都合よく書き換えた)かもしれない、ということである。
さて、出生地に関する論争は未だ決着がついていないようだが、現・鹿嶋市にも鎌足の生誕地とする場所があり、そこに鎌足を主祭神とする神社が鎮座している。それが「鎌足神社」で、境内はさほど広くないが、「大織冠藤原公古宅址碑」という石碑も建てられている(明治25年建立)。「鎌足神社境内地」として鹿嶋市指定文化財に指定。


鹿嶋デジタル博物館のHPから:鎌足神社境内地


写真1:「鎌足神社」鳥居


写真2:境内の「大織冠藤原公古宅址碑」


写真3:社殿(祠)
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夫婦塚古墳(茨城県鹿嶋市)

2017-11-11 23:24:51 | 古墳
夫婦塚古墳(めおとづかこふん)。宮中野古墳群第73号墳。
場所:茨城県鹿嶋市宮中3756-3。「茨城県企業局鹿行水道事務所」(鹿嶋浄水場)の北側。駐車場あり。
「夫婦塚古墳」は、北浦東岸の台地上にあって100基以上の古墳で構成される茨城県最大級の「宮中野古墳群」のうち最大規模となる前方後円墳。現在の大きさは、全長107.5m、後円部径47.5m、前方部幅34m、高さ7.5m(後円部)となっているが、幅20~30mの盾形の周濠があり、これを含めると全長は150mを越えると考えられている。発掘調査等は行われておらず、埋葬施設・被葬者は不明、葺石・埴輪等も発見されていない。 墳形等から、6世紀中葉~後葉に築造されたものと考えられている(現地説明版による。)。後円部東側に2基の陪塚も発見されており、当地を支配した首長の墳墓と推定されている。当然ながら、当古墳の南東約2kmにある「鹿島神宮」との関連も考えられる。なお、陪塚2基とともに、平成12年に鹿嶋市指定史跡に指定された。


「埼群古墳館」さんのHPから:鹿嶋市宮中野古墳群夫婦塚古墳

写真1:「夫婦塚古墳」を南西側から見る。古墳は前方部が北西向き。樹木が生い茂っているため、古墳の形が分かりにくい。


写真2:前方部。


写真3:前方部側から後円部方向を見る。周濠がよくわかる。


写真4:前方部と後円部の間の括れ部分


写真5:後円部。平面部がないのが特徴らしい。


写真6:後円部から前方部を見る。


写真7:後円部。後円部に比べて幅が狭いのが特徴らしい。こちらも平面がない感じ。
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跡宮

2017-11-04 23:12:36 | 神社
跡宮(あとのみや)。
場所:茨城県鹿嶋市神野4丁目1-12。茨城県道18号線(茨城鹿島線)「鹿島小前」交差点の少し南から「鹿島小学校」の横(東側)を通る道路を南に約800m進んだ右側(西側)。駐車スペース有り。
「鹿島神宮」の境外摂社の1つだが、由緒は不明。ただし、伝承によれば、鹿島大神が初めて天降られた場所であるといい、「鹿島神宮」本宮の祭礼の前日に当社を祀るとしている。また、「春日大社」(奈良県)に分霊されるに当たり、ここから「鹿島立ち」(出発)したとの言い伝えもあるらしい。
また、かつては、当神社の傍らに、亀卜によって選ばれた「物忌」と呼ばれる女性祭主が住んでいたという。「物忌」の地位は極めて高く、明治時代までは男子が立ち入ることが許されなかった「鹿島神宮」本殿の内陣で奉仕する役目を担っていた。穢れを知らぬ童女の頃から出仕して普段は「物忌館」に籠り、移動の際も男性の眼に触れぬように輿に乗っていたとのこと。


写真1:「跡宮」の道路に面した鳥居と社号標


写真2:社殿正面の鳥居


写真3:社殿


写真4:境内の意味ありげな囲い(礎石のようなものがあるが詳細不明)





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