神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

小物忌神社(山形県酒田市山楯)(出羽国式内社・その2)

2014-11-29 23:47:56 | 神社
小物忌神社(おものいみじんじゃ)。
場所:山形県酒田市山楯字三之宮48。JR羽越本線「砂越」駅方面から山形県道40号線(酒田松山線)から国道345号線へ左折(北東へ)、約1kmで北に緩やかにカーヴする辺りで右手(東)に当神社の赤い鳥居(写真1)が見える。この鳥居の奥に駐車場あり。
社伝によれば、景行天皇の時代、武内宿禰の北陸巡視の際に初めて官籍に録せられたという。この表現は当神社の公式HPによるものだが、これでは創建の由来がよくわからない。武内宿禰来訪の前から存在した地主神ということなのだろうか。その名から、「鳥海山大物忌神社」と対の神であることには間違いないのだが・・・。祭神は級長津比古命・級長津比賣命・豊受比賣命で、前2者は風の神、後者は「鳥海山大物忌神社」の祭神である大物忌大神と同一神(=倉稲魂命=豊受比賣命)とされる。「鳥海山」のかつての最高峰「七高山」の近くに「虫穴岩」あるいは「風岩」という巨岩がある。溶岩から蒸気が抜けた穴がたくさん開いている岩だが、それ以外にも「風穴」もある。昔は、こうした穴から風が出て、それに乗って害虫が里に下りてくると信じられた(このため、虫害を防ぐため、岩の穴に紙を詰める風習があったという。)。このようなこともあり、「大物忌大神」(鳥海山)自身が風の神とされることもあるが、「大物忌大神」が月山神との対比で太陽神、あるいは「鳥海山」が龍の蟠る形とされるように水の神とされたことで、風の神を「小物忌神社」に当てたのではないだろうか(私見)。
さて、当神社は「延喜式神名帳」出羽国飽海郡三座のうちの1社に挙げられているが、「日本三代実録」の中に、元慶2年(878年)に従五位下、元慶4年(880年)に従五位上に叙せられた記事がある(ただし、「袁物忌神」という名になっている。)。当神社は、古来「三之宮大座明神」と呼ばれてきたといい、出羽国三宮であるというのだが、「大物忌大神(鳥海山大物忌神社)」の第3王子であるという伝承による。とすれば、所謂「一宮」制度の三宮とは異なる気がする。当神社が出羽国式内社「小物忌神社」に比定されるのも、旧・三之宮村(現在地の西側)に鎮座していたということが大きいように思う。しかし、所謂「一宮」制度自体が平安時代末期(12世紀?)頃に自然発生的に成立したと思われることなどからすれば、出羽国三宮即ち式内社「小物忌神社」という証拠にはならないだろう(因みに、出羽国二宮とされる「城輪神社」は式外社である。)。ところで、「大座明神」という名のほうにも面白い伝承がある。天正年中(1573~1593年)、兵火のために社殿が焼失し、残った神体の台座のみを祀っていたから、というのだが、流石にこれは真実とは思えない。ただ、その頃には社領も没収されて社殿も荒廃し、江戸時代に別当の長久寺が再興するも、堂社には観音像が祀られて社号は忘れられたとされる。明治9年に現在の「小物忌神社」と再び称するようになり、「鳥海山大物忌神社」の摂社に指定された、という。


小物忌神社のHP

玄松子さんのHPから(小物忌神社)


写真1:「小物忌神社」参道入口の鳥居。社号標は「縣社 小物忌神社」となっているが、よく見ると、脇に小さな字で「式内」とも刻されている(この写真では見えないくらい)。


写真2:参道途中の鳥居


写真3:同


写真4:社殿。森の中だが、社殿・境内とも美しく保たれている。


写真5:境内にある「夢草堂」
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七高山奥院(秋田県羽後町)

2014-11-15 23:17:54 | 磐座
七高山奥院(しちこうさんおくのいん)。
場所:秋田県雄勝郡羽後町払体字白藤11-3。国道398号線沿い「羽後新町郵便局」前から西へ約2.7km、案内表示が何も無いのでわかりにくいが、「羽後町消防団 第五分団ポンプ置場」付近で右折(北へ)、狭い道路を登っていく。こちらは「七高山神社」の裏参道で、道路は狭いが、きれいに舗装されていて(何と、Googleのストリートビューがある。)、舗装道路が終わったところに駐車場がある。「七高山奥院」までは駐車場から未舗装道路を徒歩数分、「七高山神社」(「七高山」山頂)までは登山道を徒歩約15分。
「七高山神社」は、秋田県雄勝郡羽後町新町にある「七高山」(標高304m)山頂に鎮座し、社伝によれば天平勝宝年中(749~757年)の創建という。「七高山」というのは、前項で記したように享和元年(1801年)の噴火により「新山」ができるまでの「鳥海山」最高峰と同名である。そもそも「七高山」とは、近畿地方にある7つの霊山のことで、比叡山・ 比良山・伊吹山・愛宕山・神峰山・金峰山・葛城山(高野山が入ることもある。)をいう。要するに、ここも中世の山岳修験の影響下にあったことが窺われる。
「七高山奥院」は、「七高山神社」の裏参道途中にある巨石の連なりで、修験道の祖・役行者の石像が祀られた小堂などもある。江戸時代の経世家(経済学者)は現・羽後町の出身で、幼少の頃に山麓の曹洞宗「瀧澤山 龍泉寺」に預けられたが、密かに抜け出して「七高山奥院」で読書をしていたとされる。探しに来た母親と一晩過ごしたとき、母親の夢枕に神が現れて、信淵を早く都に出して修業させるよう告げたという伝説が残っている。ただし、現在では、この「七高山奥院」以外には修験道の痕跡は残っていない。「七高山」東麓の「瀧澤山 龍泉寺」は、廃寺となった真言宗「清岩寺」の後身といわれることもあるが、「龍泉寺」は戦国時代に当地・高寺城主となった小野寺氏が信奉した曹洞宗の寺院として創建されたものであり、神仏混淆していた「七高山神社」と「清岩寺」は山上にあって、明治期の神仏分離で神社だけが残ったのではないか、とも言われている(「七高山神社」の周辺には不動明王堂跡などの伽藍跡があるという。)。


羽後町のHPから(七高山奥院)

秋田県神社庁のHPから(七高山神社)


写真1:「七高山奥院」入口にある小堂。石造の役行者像などが祀られている。「奥院」は、ここから少し下に下りる。見てのとおり、非常によく整備されており、「七高山神社」までの登山道も歩きやすい。「七高山」の標高は304mだが、駐車場で210mほど。


写真2:洞窟というほど深くはないが・・・人が隠れるには十分。羽後町の伝説では「石の祠」と書いているが、ここで江戸時代の学者・佐藤信淵が幼少のとき読書をしたという伝説がある。


写真3:巨石に「ヴァン(種字) 行者大菩薩 奥院」という文字が刻されている。


写真4:山頂の「七高山」の石碑


写真5:同上、「七高山神社」社殿。祭神は稲倉魂神ほか。


写真6:表参道側の「七高山神社入口」石碑。この先に石鳥居があり、そこから神社までは登山道を約30分登る。写真右手奥に見える赤い屋根が「龍泉寺」(本尊:聖観音菩薩)。
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七高神社(秋田県にかほ市)

2014-11-08 23:11:23 | 神社
七高神社(しちこうじんじゃ)。
場所:秋田県にかほ市院内字城前64。国道7号線「(仁賀保)郵便局前」交差点から秋田県道32号線(仁賀保矢島館合線)に入って南下、途中で秋田県道289号線(上郷仁賀保線)に入り、最初の交差点を左折(東へ。「国保院内診療所」方面)、約500m。駐車場有り。
社伝によれば、創立年代は不詳であるが、天平17年(745年)に「鳥海山」が噴火した際、「鳥海山」に祀られた神霊を合祀したといい、現在の祭神は大己貴命、大物忌命など5柱。「鳥海山」は活火山で、これまでも度々噴火して古代からの記録も多いが、現在の最高峰(標高2,236m)は享和元年(1801年)の噴火によってできた「新山」(別名:享和岳)で、それ以前は「七高山」(2,229m)が最も高かった。よって、「七高山」=「鳥海山」であり、「七高山」そのものを神体として崇敬してきたものと思われる。当初、現・鎮座地の北西の「〆掛(しめかけ)」の地に勧請され「国一殿」(=出羽国第一の神社)とも呼ばれたが、中世末に仁賀保氏の祖・大井伯耆守友挙が「山根館(城)」(現・にかほ市院内字古舘)を居館としたことにより、「山根館」に近い堂庭という地に移され(現・にかほ市院内字赤坂沢に跡地があり、現在も礎石等が残されているとのこと。)、仁賀保郷53ヵ村の総鎮守として信仰された。また、「鳥海山」登拝口として「院内口」が開かれ、真言宗「七高山 極楽寺」(本尊:十一面観音)が当神社の別当かつ院内修験の学頭寺として近世中期には18坊を支配した。現・鎮座地に移されたのは延宝8年(1680年)という。
現在も正月七日中に行われる「御門松神事」などの年占神事は秋田県指定無形文化財に指定されており、その満願日(七日)には獅子頭(「権現様」という。江戸時代初期のものが保存されており、これは秋田県指定有形文化財。)が村内を巡行する。この神事は、かつては周辺地域で広く行われていたようで、次のような話が伝わっている。あるとき、院内の獅子が吹浦の獅子とが出会って喧嘩をした。吹浦の獅子の耳は噛み落とされ、院内の獅子の歯は欠け落ちた。それで、この耳と歯を供養して埋めて祀ったのだが、それ以来、吹浦の獅子が当村を通るときには幕を被せて覆い隠して通り過ぎた、という。
また、当神社の境内のタブノキに草鞋が吊り下げられているが、当神社から先が「鳥海山」の聖地であるため、村から履いて来た草鞋を脱いで新しいものに取り替えて登拝し、下山したときにその草鞋を木に架けたのが本来であると伝える。このように、古式を良く伝えている、貴重な神社といえるだろう。


秋田県神社庁のHPから(七高神社)

にかほ市のHPから(堂庭七高神社跡)


写真1:「七高神社」参道入口に社号標


写真2:石段の途中の鳥居


写真3:社殿


写真4:社殿脇の樹木に掛けられた草鞋


写真5:「三社殿」。覆屋の中に「相馬太田神社」、「古峯神社」、「菅原神社」を祀る。現在地に遷座した際に、旧社殿の古材が多く使用されているといわれ、中世建築の面影がみられるという。


写真6:「一の鳥居跡」。旧社地の鳥居があったところといい、年占神事の中心行事である「御門松神事」が行われる神聖な場所という。なお、この写真を撮ったのは朝7時頃で、ちょうど正面に陽が昇ってきた。

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金峯神社(秋田県にかほ市)

2014-11-01 23:57:27 | 神社
金峯神社(きんぽうじんじゃ)。通称:蔵王権現。
場所:秋田県にかほ市象潟町小滝字奈曽沢1。国道7号線から秋田県道58号線(象潟矢島線)に入って「鳥海山」方面に進み、途中で秋田県道131号線(鳥海公園小滝線)に入り(県道58号線は左折(北東へ)だが、県道131号線は直進(南東~南へ))、約1km。駐車場あり。
当神社は、元は蔵王権現・鳥海山権現・熊野権現を祀る修験の本拠地で、「鳥海山」登拝口の1つ「小滝口」として、学頭寺「龍山寺」が宗坊11坊(小滝の4坊、仁賀保郷内の7坊)を支配したという。今は神社であるが、かつては「蔵王堂」と「熊野堂」であった。
社伝によれば、白鳳9年(680年?)、全国に疫病が流行ったとき、役行者が諸国を廻り当地に至ると滝があり、これぞ霊地と感じた。そこで大和国から蔵王権現を勧請し、薬師密法の行を行うと疫病の流行が治まったので、当地に蔵王堂を建てたのが創始とされる。その後、「手長・足長」という悪鬼が「鳥海山」に棲んで村人を苦しめたので、斉衡3年(856年)に慈覚大師(円仁)が悪鬼を退治し、蔵王堂に一丈六尺の立木観音を安置したという(「小滝口」では「鳥海山大権現」の本地を薬師如来と観音菩薩としていた。)。また、伝承としては、長元年間(1028~1038年)に龍頭八郎という樵が「鳥海山」の峰で瑠璃玉を見つけ、山上で神楽祭礼を行ったところ「鳥海山大権現」が現れて衆生済度を約束したので、龍頭八郎を別当職とする「龍頭寺」が開山されたともいう。これらはあくまで伝説ではあるが、平安時代中期頃と推定される木造聖観音像(慈覚大師自刻と伝える。)が現存していることから、古くからの信仰の地であったことは確からしい。
さて、「小滝口」は現在の「象潟口」に当たり、現在でも最もポピュラーな登山ルートとなっているが、近世最有力であった「蕨岡口」が「表口」・「順峯」、「蕨岡口」と主導権を争った「矢島口」が「逆峯」であったのに対し、「小滝口」は「中ノ口」・「中道」などと称して相当の勢力があり、この3大修験が「鳥海山」の開発を担ったともいわれる。神仏分離に際し、明治2年には「龍山寺」が復飾願いを出して神道式に改めて「蔵王堂」を「鳥海神社」とし、大正2年に境内社の熊野神明社を合祀して現在の「金峰神社」と改称したという。祭神は安閑天皇(神仏習合により蔵王権現と同一視されていた。)のほか、伊弉册命・事解男命など熊野系の神、稲倉魂命(鳥海山大権現と同一神?)など。なお、例祭(6月第2土曜日)において境内で奉納される舞楽が「延年チョウクライロ舞」と呼ばれるもので、国の重要無形民俗文化財に指定されている。これは「長久生容(長く久しく生きる容)」を示すとされ、、一説に「鳥海山」の名の由来ともいわれる。


秋田県神社庁のHPから(金峯神社)

「鳥海山小滝舞楽保存会」さんのHP(金峯神社と舞楽)


写真1:「金峰神社」境内入口の鳥居


写真2:「チョウクライロ山」とも呼ばれる「土舞台」。この上で「チョウクライロ舞」が奉納される。


写真3:向って左側に古い石段があるが、慈覚大師が築いたものとされ、傍らに「慈覚大師御築之石坂」という石碑が建てられている。


写真4:「奈曽の白滝」。国名勝に指定されている。


写真5:「金峰神社」社殿


写真6:社殿前から見える「奈曽の白滝」
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