神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

泊崎大師堂

2021-11-27 23:29:44 | 寺院
泊崎大師堂(はっさきだいしどう)。
場所: 茨城県つくば市泊崎43-3。茨城県道210号線(谷田部藤代線)「細見橋北」交差点から東へ、道なりに直進約850m(途中で「千勝神社」前を通る。)、突き当りを右折(南東へ)、約1.6km。駐車場・トイレあり。
伝承によれば、大同年間(806~810年)、空海(弘法大師)が牛久沼に細長く突き出した先端にある当地を訪れ、千座護摩を修めた場所に建てられたという。弘法大師像が安置され、縁結びと長寿に御利益があるが、近年は特に「ポックリ大師」と呼ばれて、長患いせずに逝けるということで信仰を集めている。もちろん、史実としては、空海は常陸国を訪れてはいないだろうが、現・茨城県各地に弘法大師の伝説が残っている。その中でも、当地には「七不思議」の伝説があるのが珍しい。それは、①「駒の足跡」(大師が馬に乗って小川を渡ったときに、石橋についた馬の蹄の跡。)、②「木瓜(ボケ)」(参道の木瓜は実をつけなくなった。)、③「逆松」(大師の杖が根付いて、地を這うように成長した。)、④「硯水」(大師が墨を磨るのに使った湧水で、これで字の練習をすると上達する。)、⑤「独鈷藤」(枝の節々が法具の独鈷に似ている。)、⑥「五葉の杉」(5枚葉の杉。)、⑦「法越(のっこし)」(大師が当地を去るときに渡った川の付近を「法越」と呼ぶようになり、藻が生えなくなった。)の7つだが、そのうち「駒の足跡」・「逆松」・「硯水」の3つしか残っていない。しかも、「逆松」は小樹だし、「硯水」は「ふるさと創生事業」で再現したものらしい。「駒の足跡」も、ちょっと見るとわからないが、平らな石板にうっすらと丸い模様がついているものである。 
なお、大師が千座護摩で出来た護摩の灰を固めて作ったという弁財天像が「岩崎山 守徳寺」本堂に安置されている。昔、村人がこの弁財天像を祀って雨乞いをすると、雨が降ったという。実際には、粘土を素焼きしたものらしく、関東では、空海が「江島明神」(現・神奈川県藤沢市の「江島神社」(通称:江島弁財天))の岩屋で修行したという伝説から同様のものが多く作られ、「守徳寺」以外にも残っているものがあるらしい(古くても江戸時代頃のものだろう。)。
蛇足:牛久沼の東側に茨城県牛久市があるが、沼の全域が茨城県龍ヶ崎市に属する。龍ヶ崎市の曹洞宗「太田山 金龍寺」の昔話によれば、同寺院に怠け者の小坊主がいて、勤行をサボっているうちに牛になってしまった。小坊主は、恥じて沼に入っていった。憐れんだ住職が尻尾を掴んで引き戻そうとしたが、尻尾が切れて、とうとう沼に沈んでしまった。それ以来、元は太田沼といっていた沼を、牛喰う沼~牛久沼と呼ぶようになった、という。

岩崎山 守徳寺(がんきさん しゅとくじ)。
場所:茨城県つくば市下岩崎1468。茨城県道46号線(野田牛久線)沿いの「茎崎運動公園」のところから同野球場、「つくば市ふれあいプラザ」方面(東~南へ)に入り、約900m進んで「守徳寺」の案内看板が出ているところで左折(東へ)、約160mで右折(南へ)、約140m進んだ右手が駐車場で、本堂の裏になる。
寺伝によれば、天文3年(1534年)、領主・岩崎勘解由左衛門が亡き母(守徳院喜春明慶信女)の菩提のために創建。当初は「慶喜山 守徳寺」と称したが、天正18年(1590年)、岩崎氏没落後の新たな領主・由良氏の菩提寺になり、元和3年(1617年)に「太田山 金龍寺」から宋的和尚を招いて中興開山とした。享保年間(1716~1736年)、火災に遭って焼失、その後再建されたとき「岩崎山」と山号を改めた。現在は曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦牟尼仏。


守徳寺のHP


写真1:「泊崎大師堂」参道入口


写真2:同上、参道脇の「茨城百景 牛久沼」石碑と弘法大師像(千座護摩を終えて当地を出発する姿という。)


写真3:同上、「駒の足跡」(向かって左の三角形の石板)と「逆松」


写真4:同上、「駒の足跡」表面。うっすらと丸い跡(凹み)がある。


写真5:「泊崎大師堂」


写真6:同上、堂裏からみた牛久沼。牛久沼も青空を映して美しい。


写真7:台地下、岬の先端にある「七浦弁財天」祠。牛久沼の方を向いている。元はこの場所に「七浦大明神」社殿があったが、平成24年に火災で焼失、その跡に建てられたという。


写真8:「弘法の硯水」。大師堂から北東へ進み、台地下に下りて右折(南東へ)、道なりに西へ約550m。駐車スペースあり。


写真9:「守徳寺」山門


写真10:同上、本堂
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清安山 不動院 願成寺

2021-11-20 23:33:40 | 寺院
清安山 不動院 願成寺(せいあんざん ふどういん がんじょうじ)。通称:板橋不動尊。
場所:茨城県つくばみらい市板橋2370。茨城県道19号線(取手つくば線)と同46号線(野田牛久線)の「東板橋」交差点から、46号線を西へ約550mで駐車場、楼門前はそこから更に西へ約150m。
寺伝によれば、大同年間(806~809年)、空海(弘法大師)が諸国行脚の折、一刀三礼の古式に則って自ら刻した不動明王及び二童子像を本尊として二間四面の草堂に安置したのを創建とする。天授年間(1375~1380年)には七堂伽藍が整備されたが、兵火で焼失。このため、文禄年間(1592~1595年)に霊雲阿闍梨により現在地に中興開山したとされる。本尊の不動明王立像(旧国宝、現・国指定重要文化財。檜(ヒノキ)材で造られ、平安時代後期のものとされる。)は求子安産・子供の成長祈願に霊験あらたかとされ、初詣・七五三参りのほか、毎月28日の縁日には境内に露店が立ち並び、多くの参詣客で賑わうという。なお、楼門の仁王像の裏に白犬の像が置かれているが、これは次のような伝承による。即ち、江戸時代、当地では難産の女性が多かった。あるとき、村長の夢に「板橋不動尊」の使いという雌雄の白犬が現れ、不動尊に参って護摩祈願すれば難産から救うと告げられ、その通りにしたところ難産に苦しむ女性はいなくなった、という。「北関東三十六不動尊霊場」36番札所(結願寺)。また、「成田山 新勝寺」(成田不動尊、千葉県成田市)、「高幡山 金剛寺」(高幡不動尊、東京都日野市)とともに「関東三大不動」の1つと称するが、「三大〇〇」の例によって3つのうち2つはほぼ異論がない(この場合は「成田不動尊」と「高幡不動尊」)が、残る1つには諸説あるという状況である。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は不動明王。
蛇足:現在のJR常磐線は千葉県柏市から我孫子市を経て、茨城県取手市、牛久市、土浦市を通っているが、計画時には別ルートも検討されていた(明治27年頃)。それは、現・柏駅から真っ直ぐ北東に進み、柏市布施から取手市戸頭、つくばみらい市板橋、つくば市谷田部を経て、土浦市に向かうというものだった。このルートのメリットは、距離が短縮できること、工事も多少は楽であること、「板橋不動尊」の近くを通るため参拝客の需要が見込めることがあった。最終的には、取手宿として栄えた取手市東部を通ることのほうが営業収入が多いとの判断もあって、現在のルートになったということである。かつて「七里ヶ渡し」と呼ばれた利根川渡河ルートが昔から重要であったこと(現在も「新大利根橋」がある。)、当寺院の参拝客が多かったことを示すエピソードだろう。


「不動院」のHP


写真1:「不動院」境内入口(西側)、寺号標(「国宝本尊 清安山 不動院」)。


写真2:同上、楼門。元禄13年(1700年)の建立で、茨城県指定文化財。仁王像はつくばみらい市指定文化財。


写真3:同上、白犬像(吽形)。


写真4:同上、三重塔。安永4年(1775年)の建立で、茨城県指定文化財。


写真5:同上、大本堂。扁額は「剣索閣」(剣と索は不動尊の持物)。元文2年(1737年)建立で、茨城県指定文化財。参詣したときには生憎、修繕工事か何かで足場が組まれていた。


写真6:同上、大師堂。


写真7:同上、「茨城百景」石碑。


写真8:隣接する「(板橋)八坂神社」の鳥居。かつては寺院と一体であったと思われる。


写真9:鳥居の後ろにある立派な石塔。天之思兼命・手置帆負命・彦狭知命とあるので、建築関係者が建てたものだろうか。


写真10:同上、社殿。創建は正治3年(1201年)とされる。祭神:素戔嗚尊。
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中妻貝塚

2021-11-13 23:07:14 | 史跡・文化財
中妻貝塚(なかづまかいづか)。
場所:茨城県取手市小文間4264(「福永寺」の住所)。茨城県道11号線(取手東線)「東6丁目」交差点から東へ約2.7km、押ボタン式信号機のある交差点(「福永寺」の案内看板がある。「取手幼稚園」の向かい側)を左折(北東へ)、約250mで「福永寺」境内入口。ここの駐車場を利用させていただく(貝塚は「福永寺」境内にある。まずは本堂にお参りしましょう。)。
「中妻貝塚」は、現・取手市の東端の「小文間台地」上にある直径150m、2万5千平方mに及ぶ、厚さ1~2mの貝層を有する利根川流域最大の貝塚である。広大な環状になっていて、その中心付近に「福永寺」堂宇が建立され、墓地の一角に貝塚跡として保存されている。「小文間台地」は現・利根川の左岸(北岸)にあり、北~北東側は西浦川、北浦川、小貝川が合流する広い低地になっている。貝塚は縄文時代後期~晩期(約3千年前)に形成されたものとみられ、汽水域(淡水と海水が入り混じった水域)産の大量のヤマトシジミを主とした貝類のほか、クロダイやスズキなどの海水魚の骨も見つかっているため、漁撈も行われていたようである。縄文海進期(約5千年前)には現在よりも海面が約10m高かったといわれており、その後次第に海退したが、古代にも「香取海」と呼ばれる内海が残り、現・利根川は、(現・茨城県側でいうと)坂東市~守谷市~取手市の南側は「藺沼(いぬま)」という細長くて広大な湖沼となっていて、利根町辺りで「香取海」に繋がっていたとみられている。よって、当貝塚が形成された当時、当地は小貝川と藺沼に挟まれた岬のようになっていて、海退により河口付近に砂浜が形成され、沖積低地には低湿地もあったようだ。ガン・カモなどの鳥類、シカ・イノシシなどの動物の骨も出土しているから、狩猟も行っていたようだし、製塩用の土器も見つかっているので、それなりの規模の集落が形成されていたのだろう。なお、当貝塚は、明治時代から知られていたが、平成4年に「福永寺」南側の市道拡張工事が行われたとき、直径約2m・深さ約1mの穴(土坑)から101体の人骨が出土するという驚くべき発見があった。この規模の穴に101体もの死体を納めるのは無理なので、骨になってから再埋葬したものとみられている(単に穴に投げ込んだのではなく、整然と並べられていたという。)。「古事記」・「日本書紀」に「殯(もがり)」という葬式儀礼についての記事があり、死後、埋葬まで遺体を仮安置しておくことが行われたが、これは遺体の腐敗・白骨化などを確認することによって最終的な「死」を確定することを意味したとされる。現在も沖縄の一部に残るという風葬・洗骨は、殯の名残りと考えられているが、こうした風習が3千年前からあったということになる。また、発見された人骨の歯やDNA等の分析により、一家系に属する母系集団の可能性が高く、遺伝子的にはアジア大陸にルーツがあるらしい、ということが判明したという。こうした貴重な発見があったことから、平成8年及び11年に取手市指定文化財となっている。

海中山 明星院 福永寺(かいちゅうさん みょうじょういん ふくえいじ)。
寺伝によれば、天長元年(824年)、夜明け頃に海中の波間から金色に輝く毘沙門天像が発見され、それを拾い上げて堂に安置したことが創建とされる(山号、院号はこれに因む。)。「取手市史 社寺編」では、現・茨城県土浦市「聖天山 無量寿院 法泉寺」の末寺で、祐成を開祖として大永7年(1527年)に創建されたとしている。文久2年(1862年)と明治29年に火災に遭って焼失、その後長らく仮屋の状態にあったが、昭和61年に再建された。現在は真言宗豊山派の寺院で、本尊は不動明王。 境内に毘沙門堂があり、桐の一木造りの毘沙門天像が祀られている。その毘沙門天像の胎内には、上記の創建の由来となった毘沙門天像が秘仏として納められているとのこと。また、境内の弘法大師堂は「新四国相馬霊場八十八ヶ所」第63番札所となっている。


取手市のHPから(中妻貝塚)


写真1:「中妻貝塚」。「福永寺」毘沙門堂の右脇を通って墓地の北東側へ行ったところにある。


写真2:「福永寺」山門。


写真3:同上、本堂。


写真4:同上、弘法大師堂(左)と聖徳太子堂(右)。本堂の左手にある。


写真5:同上、毘沙門堂。


写真6:同上、定傳和尚の生き入定塚。毘沙門堂の前にある。貞享4年(1687年)、当時の住職であった定傳が度重なる災害や飢饉による村人の人心荒廃を鎮めるため、生きながら入定した(いわゆる即身仏)という塚。昭和48年に改葬。


写真7:「小文間稲荷大明神」。「福永寺」の南東側に隣接。鳥居の手前に「新四国相馬霊場八十八ヶ所」第63番札所塔があり、元は、この小道の先に弘法大師堂があったようだ。


写真8:左手が「福永寺」境内で、「小文間稲荷大明神」社祠の背後にある「中妻集会所」のところに「中妻貝塚」の説明板がある。
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大鹿山 長禅寺

2021-11-06 23:34:40 | 寺院
大鹿山 長禅寺(おおしかざん ちょうぜんじ)。
場所:茨城県取手市取手2-9-1。茨城県道11号線(取手東線)と茨城県道269号線(取手停車場線)の交差点の南東、約140mのところ(奈良漬で有名な「新六本店」がある。)で左折(北東へ)、約70mで参道入口。ただし、ここには駐車できないので、台地をぐるっと回って行って(約400m)、Uターンするような感じで進むと、境内に入れる道がある。なお、JR常磐線「取手」駅から、南へ徒歩約300m。
寺伝によれば、承平元年(931年)、平将門が祈願寺として創建したという。将門の死後に荒廃するが、御厨三郎吉秀という人物が将門の守り本尊とされる十一面観音像(伝・安阿弥(快慶)作)を密かに守り伝えた。承久元年(1219年)、吉秀の子孫で大鹿城主・織部時平の命により義門和尚を開祖として再興され、文暦元年(1234年)には四間四面堂を建立し、十一面観音像が安置された。江戸時代には、5石3斗の朱印地を受けていた。元は旧・大鹿村(現・取手市白山地区)にあったが、元禄9年(1696年)頃に現在地に移転した。水戸街道の付け替えで新たに「取手宿」ができたことにより、大鹿村の住民の多くが取手村に移ったためという。なお、「大鹿城」は現・「取手競輪場」のあるところで、城郭の遺構は全く残っていないらしい。現在は臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊は延命地蔵菩薩。また、取手市、千葉県我孫子市・柏市に跨る「新四国相馬霊場八十八ヶ所」は、当寺院の観覚光音禅師が宝暦10年(1760年)頃に開創したとされ、当寺院が第1番札所(発願所)、第5番札所、第88番札所(結願所)となっている。
なお、境内の「三世堂」(観音堂)は、外観は2層に見えるが、内部は3層で、上りと下りの階段分かれているため、堂内で参拝者が交差せずに回れるようになっている(普段は内部公開していない。)。これを「三匝堂(さんそうどう)」又は「栄螺堂(さざえどう)」形式といい、当寺院を含めて全国に5棟しかないとされる。将門の守り本尊とされる十一面観音を堂本尊とし、1層に坂東三十三所観音札所、2層に秩父三十四所観音札所、3層に西国三十三所観音札所の各本尊の写しを安置していて、合計100体の観音像があることから、百観音堂とも呼ばれているとのこと。茨城県指定文化財。


茨城県教育委員会のHPから(長禅寺三世堂)


写真1:「長禅寺」境内入口付近にある「茨城百景 長禅寺」石碑


写真2:急な石段上にある山門(鐘楼)


写真3:山門を入って直ぐ右手にある「新四国相馬霊場八十八ヶ所 総拝堂」。(空海の)母堂尊像を祀る。以下、反時計回りに境内を回る。


写真4:「新四国相馬霊場八十八ヶ所 第5番札所」(弘法大師堂)。当寺院が第1番と第88番札所になることは最初から決まっていたが、第5番札所を予定していた寺院が辞退したため、第5番札所も引き受けることになったという。


写真5:「新四国相馬霊場八十八ヶ所 第88番札所」(弘法大師堂)


写真6:「鎮守 文殊堂」


写真7:「三世堂」。三世とは、過去世・現在世・未来世を指す。


写真8:小林一茶の句碑「下総の 四国廻りや 閑古鳥」。「霊山堂」前にあるが、見落とし易い。


写真9:「霊山堂」(弘法大師堂)。「新四国相馬霊場八十八ヶ所 第1番札所」となっている。


写真10:本堂
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