神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

十王前横穴墓群(かんぶり穴)

2020-02-29 23:43:28 | 古墳
十王前横穴墓群(じゅおうまえおうけつぼぐん)。通称:かんぶり穴。
場所:茨城県日立市十王町伊師56他。国道6号線「小貝浜入口」交差点から約700m、十王川に架かる豊良橋を渡ったところで右折(北へ)、約300m。そこから徒歩で橋を渡って直ぐ(橋のところに案内柱が立てられている。)。川畔に駐車スペース有り。
「十王前横穴墓群」は、十王川に面する丘陵の西斜面の岩壁を横に彫り込んで造った墳墓で、現在29基が確認されている。特筆すべきは、3基(2号墳、11号墳、14墳)に三角形・菱形の紋様や武具などの線刻や、赤・黒・白の彩色がある装飾横穴墓と呼ばれるものであること。三角形・菱形は鎮魂や魔除けの意味があると言われているほか、刀・靫(ゆき。矢を入れて背負う道具)などとみられる線刻は被葬者の地位・性格を示しているのかもしれない。また、装飾古墳は九州北部に多いので、九州との関連性があるとされている。なお、造られたのは7世紀後半頃という。
ところで、「常陸国風土記」の逸文とされるものの1つに、次のような話がある(「塵袋」:鎌倉時代中期)。「昔、兄と妹が同じ日に田植えをした。遅い時間に植えた者は伊福部の神の崇りにあって殺されるぞ、と言われていたのに、妹は遅い時間から田植えを行った。その時、雷が落ちて妹を殺してしまった。兄は妹の仇を討とうと思ったが、雷神の居場所を知らない。その時、一羽の雌の雉(キジ)がやって来て兄の肩に止まった。績麻(をみ。紡いだ麻糸を環状に巻いたもの。俗に「へそ」という、とある。)を雉の尾羽根にかけると、雉は伊福部の岳(丘)に飛んで行った。兄が績麻の糸を辿っていくと、岩屋(洞窟)にたどり着いたので、中を覗くと雷神が寝ていた。兄が刀を抜いて雷神を斬ろうとすると、雷神はあわてて起き上がり、100年後まで、あなたの子孫には雷の被害がないようにしますと言って、命乞いをした。兄は雷神を許し、また雉に対しては、この恩を忘れないと誓ったので、それ以来、この地に住む者は雉を食べない。」(大意)。「塵袋」では「常陸国記」からの引用ということとなっているが、これが「常陸国風土記」であることにはほぼ異論がなく、また郡名もないが、「岩屋」(原文では「石屋」)というのが「かんぶり穴」のことであるという説が多い。それは、「かんぶり」というのが「雷震」を意味する「かんぶる」に由来することによるというものである(「かんぶる」については「賀毘礼之高峯」(2019年10月12日記事)参照)。また、「かんぶり穴」の北、約3.5kmのところに伊吹(イブキ)というヒノキ科の常緑樹の樹叢(国の天然記念物)があり、これを「イブキ山」と呼び、その西側に「いぶき台団地」という住宅団地がある。そして、今は「館山神社」(日立市川尻町)の境内社となっている「白山神社」が「お雉さま」と称され、地元の人は雉を食べない、と伝えられている。ただし、この「白山神社」は、現在は廃寺となっているが、常陸(水戸)三十三観音霊場の第16番札所であった真言宗「法徳山 長楽院 宝幢寺」(文明元年(1469年)開山)境内にあった「白山権現」が移されたものである(「宝幢寺」は今は無いが、同じ場所に日蓮宗「慈好山 蓮光寺」(日立市川尻町604ー2)がある。)。開基帳によれば、「白山権現」は「宝幢寺」開山の松橋坊俊意が文明4年(1472年)に勧請したものらしい。「白山神社」といえば、加賀国一宮「白山比咩神社」が総本社だろうが、キジが神使であるとは聞いたことがない。そこで、なぜ当地の「白山神社」が「お雉さま」と呼ばれるようになったのか不明だが、「宝幢寺」の信徒集めのために上記の「塵袋」の話を利用したのではないか、とも疑ってしまう。
それはさておき、上記の話自体にも、色々ツッコミ処がある。例えば、「伊福部の神」だが、「伊福部(いおきべ、いふくべ、いふきべ)」については、①笛吹きを担当した部民、②製鉄の際の踏鞴を吹く部民、③景行天皇の皇子である五百城入彦皇子(イオキイリヒコ)の名代の部民など諸説ある(ついでながら、「ゴジラ」の映画音楽の作曲家・伊福部昭を思い出す。)。ただし、ここでは、寧ろ日本武尊(ヤマトタケル)の伊吹山(現・滋賀県米原市)の話に関連があるのだろう。日本武尊は伊吹の神と対決に行く途中、大蛇(「日本書紀」による。「古事記」では巨大な白猪。)が現れるが、これを神使として相手にしなかったが、神そのものであって、氷雨を降らされ、病身となって下山する羽目になる。そして、その後、能褒野(のぼの。現・三重県亀山市)で亡くなる、という話である。大蛇といい、氷雨といい、水神・雷神に繋がるキーワードが出てくる。しかし、伊吹の神が日本武尊を弱らせるほどの力を見せたのに対して、「塵袋」の話では、妹を蹴殺した一方で、兄には刀で脅されただけで降参するような存在となっている。洞窟で寝ていた、というのも変と言えば変である。製鉄に関連しているとすれば、雷神とは鉄鉱石の鉱脈を探す山師で、夕刻に里に下りてきて女性を襲い、犯人を捜してやってきた兄に殺されかける、という話かもしれない。さて、本当に「常陸国風土記」にあった話なのだろうか。


写真1:「十王前横穴墓群」への道。十王川に架かる木橋を渡る。十王川では鮎(アユ)の天然遡上もみられるらしい。


写真2:同上、入口。「かんぶり穴を守る会」の皆さんが整備されているようで、竹のチップが敷き詰められて歩きやすい。なお、竹林には侵入厳禁(筍の盗掘があるらしい。以っての外。)。横穴墓群は、この奥の右手の斜面にある。


写真3:同上、1号墳? と説明版。この横穴墓には線刻等がない。少し屈めば、玄室の中に入れる。


写真4:同上、玄室内部。台形になっている。


写真5:同上、他の横穴墓。


写真6:同上。


写真7:「館山神社」(場所:茨城県日立市川尻町2374。国道6号線沿い、「豊浦中学校」入口の直ぐ西側)。鳥居と社号標、聖徳太子碑。なお、国道を隔てて向かい側に「蠶養神社(こがいじんじゃ)」があり、当地がわが国最初の養蚕の地であるとする。


写真8:同上、社殿。祭神:大山祇神。


写真9:「白山神社」(「館山神社」境内社。明治42年に「館山神社」と合併)。加賀国一宮「白山比咩神社」からの勧請と思われるが、祭神は白山比咩大神(菊理媛神)ではなく、伊弉冉命(イザナミ)とのこと。
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長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡

2020-02-22 23:12:48 | 史跡・文化財
長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡(ちょうじゃやまかんがいせき および ひたちのくにかいどうあと)。
場所:茨城県日立市十王町伊師字愛宕脇3586外。目印となる「愛宕神社」(住所:茨城県日立市十王町伊師2951)へは、国道6号線「伊師」交差点から西へ約650m進んだところの交差点を右折(北へ)、約70m。駐車場なし(鳥居の後ろに1台程度駐車できるか?)。
「長者山官衙遺跡」は、日立市北部(旧・十王町)の標高20~25mの台地東端に位置する、奈良時代から平安時代の官衙遺跡で、「常陸国風土記」多珂郡条に見える「藻島駅家(めしまのうまや)」跡と推定されている。平成17年から行われた発掘調査により、溝で区画された東西134~165m、南北110~116m(不整台形状)の範囲から、8世紀代から10世紀代にわたる12棟の掘立柱建物群と8棟の礎石建物群の跡が見つかった。また、溝の西側を南北に走る道路跡も確認され、これが古代官道の跡として「常陸国海道跡」と名付けられた。建物遺構は大きく3期に分けられ、第1期は7世紀後半~8世紀中葉に相当し、東側に7世紀後半代の竪穴建物7棟、西側に8世紀中葉の南北方向の溝(幅3m)と道路跡(幅6~18m)などがある。第2期は8世紀中葉~9世紀中葉に相当する9棟の掘立柱建物、第3期は9世紀中葉~10世紀代に相当する倉庫と考えられる8棟の礎石建物からなる。掘立柱建物柱穴の埋土や礎石建物の堀込地業上面から炭化した穀類が出土しており、状態で貯蔵されていた稲束が火災により炭化したものらしいという。平成30年に国指定史跡に指定。
当遺跡は現在、「愛宕神社」境内などになっているが、付近に「目島」という字名が残っていることから、発掘調査前から「藻島駅家」比定地とされてきた。発掘調査による第2期の掘立柱建物跡が「藻島駅家」相当するものと考えられる。「日本後紀」によれば、弘仁3年(812年)に常陸国の「藻島」など6つの駅家が廃止されたことがわかる。そこで、第3期の礎石建物跡は、駅家の廃止後に、官衙別院の正倉院(正税を保管する倉庫)に転用されたものとみられているという(蛇足ながら、炭化米が出土するのは、国司・郡司による官物横領の隠蔽のため正倉院に放火する事件が多発したことから、逆に正倉院があった証拠とされるケースが多い。)。
因みに、「常陸国風土記」では、「多珂郡家(郡衙)」の南方30里(約16km)に「藻島駅家」がある、と記されている。今のところ「多珂郡家」跡は発見されていないが、「大高台遺跡」(現・茨城県高萩市下手綱294他、「高萩清松高校」敷地から北側の台地)が通説。ただし、当遺跡から直線距離では8kmほどである。


茨城県教育委員会のHPから(長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡)

茨城県のHPから(藻島の駅家)大高台遺跡


写真1:「愛宕神社」一の鳥居と社号標(「村社 愛宕神社」)。


写真2:「国指定史跡 長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡」の立看板。現在は神社の東側を道路が通っているが、古代官道は西側を通っていたらしい。


写真3:二の鳥居


写真4:拝殿


写真5:本殿。祭神:軻遇突智命。山尾城主・小野崎義昌が城内に奉斎していたのを、天正4年(1576年)に当地(「長者山」)に移したものという。「長者山」、「長者屋敷」などいう地名は古代駅家に関連する例が多い。


写真6:裏参道(社殿の北側)


写真7:社殿裏手の境内(北西側)。当遺跡の中心部と思われるが、雑木林にしかみえない。
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小木津浜の岩地蔵

2020-02-15 23:13:36 | 名石・奇岩・怪岩
小木津浜の岩地蔵(おぎつはまのいわじぞう)。
場所:茨城県日立市小木津町。国道6号線(小木津バイパス)「小木津駅入口」交差点から東に(通称「ゆりの木通り」)約300mで、突き当り左折(北へ)、約550m進むと再び突き当り、右折(北東へ)、通称「(陸前)浜街道」(旧・国道6号線)を約350m進んで、東連津川に架かる「東連津橋」を越えたところ、直ぐ。「浜街道」が右(東)方向にカーヴするところの手前で、小さな墓地があるが、その西隣。駐車場なし。
「小木津浜の岩地蔵」は、東連津川の河口に近い凝灰岩の岩壁に彫られた磨崖仏で、元は12体の観世音菩薩像が彫られていたとされるものだが、現在は4体ほどが確認できるものの、かなり風化が進んでいて、表情や装束などがわからなくなっている。「岩地蔵」と呼ばれているが、これが「常陸国風土記」多珂郡条に記事がある「仏浜」の観音像ではないか、ともいわれている。それは、「国守が川原宿禰黒麿であった時に、大海(太平洋)の海辺の岩壁に観世音菩薩の像を彫って造った。(この像は)今も残っている。それで、(この海辺を)仏浜と名付けた。」(現代語訳)という記述であり、「度志観音」がその岩壁の観音像に比定されて茨城県指定史跡「佛ヶ浜」として指定されているが、現在では否定説が殆ど通説化していることは前項で書いた。
「度志観音」に代わって注目されたのが「小木津浜の岩地蔵」(史跡等として何の指定もなく、この名称も通称らしい。)である。ちょうど東連津川の河口にあって、すぐ目の前が太平洋という位置にあることから、「大海の辺」という記述に合致する。もし、この磨崖仏が「仏浜」の観音像であるとすると、彫られたのは第41代・持統天皇(在位:690~697年)の時代とされる。というのは、常陸国守の任命記事が文武朝(697~707年)以降に「続日本紀」などに現れてくるが、そこに川原宿禰黒麿の名はみえないので、任命されたのは文武朝以前となる。宿禰という姓(かばね)は天武天皇13年(684年)に定められ、この年に50氏に宿禰の姓が与えられたが、その中に川原氏は入っていない。よって、それ以後の685~696年の間に、川原宿禰黒麿は常陸国守に任命されたのだろうということになる(「新修日立市史」による。)(因みに、「国守」は、原文では「国宰(くにのみこともち)」で、国司の長官を指す。)。
ところで、現存する「常陸国風土記」の中で仏教に関する記事は、この「仏浜」だけであるとされる。では何故、「仏浜」に観音像が彫られたのか。それは、この場所の位置と時期に関連があるという。「常陸国風土記」の「仏浜」の記事の前のところに、「(第13代・成務天皇の時代に)建御狭日命(タケミサヒ)が多珂国造として派遣されたとき、久慈との境となっている助河(現・宮田川?)をもって「道前(みちのくち)」とし、陸奥国石城郡苦麻村(現・福島県双葉郡大熊村大字熊)をもって「道後(みちのしり)」としたという記述がある。そもそも、「常陸」というのは元は「常道」と書いて、その奥が「道奥、陸奥(みちのおく、みちのく)」と呼ばれた。そして、そこは蝦夷の領域と接して、特に7世紀後半頃には大和政権と激しい抗争が行われた地域の入口に当たる。そこで、「観音経」(妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五)に説かれた「戦争に行っても、観世音菩薩を念じれば、無事に帰ってくることができる。」という功徳を求め、観音像を彫ったのだろうとされている。


写真1:「小木津浜の岩地蔵」


写真2:同上、岩壁を刳りぬいたところに4体ほどの仏像らしきものがみえる。


写真3:下に「最上神社」という石祠があり、まだ新しい社号標が立てられているが、詳細不明。


写真4:東連津川の河口。左側は「(陸前)浜街道」。
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度志観音

2020-02-08 23:07:06 | 史跡・文化財
度志観音(どじかんのん)。茨城県指定史跡「佛ヶ浜」。
場所:茨城県日立市田尻町4-39。国道6号線(小木津バイパス)「田尻町南」交差点から北西へ約300m。コンビニ「ミニストップ 東滑川町4丁目店」の向かい側(北側)。田尻小学校の南側の崖下。駐車場なし。
「度志観音」は凝灰岩の石壁に彫られた観音像(磨崖仏)で、かつては常陸(水戸)三十三観音霊場の第15番札所・真言宗「清滝山 源勝院 観泉寺」の本尊であった。弘仁年中(810~824年)に空海(弘法大師)が建立したとの伝承もあるほか、「坐禅石」(2019年10月19日記事)で知られる曹洞宗「天童山 大雄院」(茨城県日立市宮田町)の開祖・南極寿星禅師が文明2年(1470)年に100日間の参籠修行をした場所としても有名である。その後「観泉寺」は廃寺となったが、大正時代には「大雄院」が境外仏堂として観音堂を再興し、昭和16年頃まで僧侶が住んでいたというが、今は仏堂はない。磨崖仏は明治の頃には既にかなり崩れており、現在では殆どわからない状態となっている。
ところで、ここは昭和30年に「佛ヶ浜」という名で茨城県指定史跡となっている。というのは、「常陸国風土記」多珂郡の条に、「国守が川原宿禰黒麿であった時に、大海(太平洋)の海辺の岩壁に観世音菩薩の像を彫って造った。(この像は)今も残っている。それで、(この海辺を)仏浜と名付けた。」(現代語訳)という記述があり、「度志観音」がその岩壁の仏像に比定されたことによるらしい。ただし、これについては、現在では否定する説が一般的となっている。理由としては、①当地は(太平洋)海岸から約1kmも離れていて、前面の道路でも標高約10mあるうえ、この付近まで海辺だった痕跡がないこと、②「常陸国風土記」多珂郡の記事は南から北に向かって書かれているとみられ、「飽田村」~「仏浜」~「藻島駅家」の順となっているところ、「飽田村」は現・日立市相田町(遺称地)、「藻島駅家」は現・日立市十王町伊師の「長者山遺跡」とされているため、当地が「仏浜」とすると順序が合わない、などということがあげられている。因みに、茨城県教育委員会のHPでは、田尻小学校南側の崖縁の岩壁に「度志観音」像があるが、この史跡を「佛ヶ浜」というとしている一方、「佛ヶ浜」(という地域は)大田尻(海岸)辺りとし、田尻町も含めて「飽田村」に当たるとしている。何だか、分かりにくい説明のような気がするが、どうだろうか。(蛇足だが、茨城県教育委員会のHPの記載に従って「度志」を「どじ」と訓んだが、現地説明板では「どし」としている(近隣にある公園の名も「どし児童公園」などとなっている。)。
では、現在の通説の「仏浜」(「常陸国風土記」ではいずれも旧字で「佛濱」)は、どの辺りだったのだろうか。その候補地については、次項で。


茨城県教育委員会のHPから(佛ヶ浜)


写真1:「度志観音」(「佛ヶ浜史跡」)入口。


写真2:説明板、「史跡 佛ヶ浜」石碑


写真3:「度志観音」。この写真ではわかりにくいが、崖の石壁に格子状の扉がついている。


写真4:同上


写真5:扉の中。観音像自体は崩落してしまっているらしい。


写真6:周りにも、石壁を刳りぬいた中に多くの仏像や石碑が並んでいる。

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諏訪の水穴

2020-02-01 23:33:27 | 伝説の地
諏訪の水穴(すわのみずあな)。別名:神仙洞。
場所:茨城県日立市諏訪町1157。国道6号線「油縄子(ゆなわご)」交差点から日立市道7号線(通称:梅林通り)に入り、北西へ約3.5km。市道は途中で茨城県道37号線(日立常陸太田線)になるが、県道沿いに石碑と説明板があり、そこから鮎川の川原に下りる。駐車場なし(説明板付近に1台程度駐車可?)。
「諏訪の水穴」は現在も清水が湧き出ている鍾乳洞で、説明板によると「普賢ヶ嶽」の麓にあるとなっているが、すぐ隣に「日立セメント(株)大平田鉱山」があって、セメント原料となる石灰石を採掘している。つまり、「普賢ヶ嶽」は石灰岩の山で、そこに浸み込んだ雨水や地下水が溶食してできた洞窟ということになる。そして、「諏訪神社」に因む次のような伝説がある。当地の「諏訪神社」は、信濃国一宮「諏訪大社」(長野県諏訪市など諏訪湖の周りに上社(本宮・前宮)、下社(春宮・秋宮)の4社がある。)の神人(じにん。下級神職)であった藤原高利(万年大夫)が建長2年(1250年)に勧請したもので、本社に倣い、現・日立市西成沢町に上社(上諏訪神社)を、現・日立市諏訪町に下社(下諏訪神社)を創建したという。この万年大夫とその妻・万年守子(「守子」は名ではなく、巫女のことらしい。)は、自らの木像を作って下社の拝殿に納めた後、この水穴を通って故郷である諏訪に戻るとして中に入った。入る際に大量の籾殻を背負い、少しずつ籾殻を水に流した。村人が籾殻の流れ出てくるのを見守っていたが、7日を過ぎると籾殻は絶え、万年大夫夫婦も出てこなかった、という。
後に、水戸藩第2代藩主・徳川光圀がこの夫婦の像をみたところ、年が経って腐朽していたため、新たに夫婦の木像を作り、古い木造を胎内に納めたという。この新たな木像(元禄3年(1690年)銘がある。)は現在も残されており、茨城県指定文化財に指定される際に行われた調査により胎内像も発見された。胎内像は鎌倉時代の神職の装束をしており、中世のものと確認されているという(現在は日立市郷土博物館で常設展示)。徳川光圀も洞窟の中に入ってみたらしいが、狭くなった「三の戸」という場所よりは奥に進んではいけない、と命じたとか。
戦後、下流に防災ダムが造られたことにより、この洞窟は砂利に埋まってしまったが、地元の強い復興運動により昔の姿に戻ったという(説明板は昭和57年設置)。


茨城県教育委員会のHPから(木造 万年大夫夫婦坐像(胎内像含))


日立市郷土博物館のHPから(常設展)


写真1:「諏訪の水穴」石碑と説明板


写真2:「諏訪の水穴」


写真3:同上。現在もかなりの水量がある。


写真4:「厳島神社」。「諏訪の水穴」の直ぐ横にある。


写真5:「諏訪神社」(上社)入口の鳥居。社号標は「上諏訪神社」(場所:茨城県日立市西成沢町3-21。「諏訪の水穴」から県道を南東へ約2km(「上諏訪橋」を渡ったところ)。更に200mほど東に進んだところに駐車場入口がある。)。


写真6:同上、駐車場のところにある二の鳥居


写真7:同上、社殿


写真8:「諏訪神社」(下社)入口の鳥居。社号標は「村社 諏訪神社」(場所:茨城県日立市諏訪町3-11。「諏訪の水穴」から南東へ約2.5km(「梅林通り」沿い。)。駐車場有り)。


写真9:同上、二の鳥居。額に「諏訪第二宮」とあるが、これは本社の「諏訪大社」に次ぐものという意味とのこと。


写真10:同上、御手洗石。水がなく、黒ずんでいるが、これも石灰石だろう。形が面白く、磨けば素晴らしい名石なのだろう。


写真11:同上、社殿


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