神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

荒原神社(茨城県行方市)(常陸国式外社・その16の2)

2023-02-25 23:36:57 | 神社
荒原神社(あらはらじんじゃ)。
場所:茨城県行方市手賀2907。国道355号線「手賀」交差点から東へ約260m、突き当り(茨城県道183号線(山田玉造線))を右折(南へ)、約110mで左折(東へ)、約1km。特養老人ホーム「玉寿荘」の斜め向かい。駐車場なし。
社伝によれば、大同2年(807年)、常陸国一宮「鹿島神宮」の分霊を鎮祭して創建。近世には明神様、大宮神社と称されていたが、明治時代に入り現社号に改称。明治6年、村社に列格した。現在の祭神は、武甕槌命。
「常陸国風土記」行方郡の条に記載のある「提賀里」北部の「香嶋の神子の社」(「鹿島神宮の分社」)については、現・行方市玉造乙の「(玉造)大宮神社」(前項)に比定するのが通説だが、当神社のこととする説も有力になってきている。即ち、「常陸国風土記」では「提賀里」と「曾尼村」を分けて記述していることから、「提賀里」を現・行方市手賀(遺称地)に比定するが、玉造(「曾尼村」に比定)は含まれないとすれば、当神社の方が「常陸国風土記」の記述に適合する。祭神も武甕槌命で、「鹿島神宮」の祭神と同じである。創建時期は風土記編纂の時期(和銅6年(713年))に合わないが、大同2年というのは、古代に創建されたという古社寺の創建年としてよくある年号で、信頼性が低い。もう1つ傍証として、周辺に「荒原神社馬場前遺跡」、「手賀廃寺跡」など古代の遺跡が多いことも挙げられている。「荒原神社馬場前遺跡」は平成17年に当神社境内と南~南西側の「玉寿荘」敷地を主体に発掘調査され、古墳時代後半~奈良時代末・平安時代初期までの住居跡9軒などが発見された。同時に、土師器、須恵器などの土器片も大量に発見され、主体は平安時代のものと推定されている。当地は、標高約30mと、手賀の中でも高いところにあり、「常陸国風土記」の「提賀里」の記述のように肥沃な土地として集落が形成されていたとみられる。祭祀に関連する遺物等は発見されていないが、当地が「提賀里」の中心部であり、祭祀施設もあったのではないか、それが当神社の前身ではないか、という説になっている。


写真1:「荒原神社」鳥居


写真2:拝殿


写真3:本殿


写真4:神社の杜の西側の農道脇に玉造町教育委員会による「提賀里」説明板と宮路久子氏作の銅像がある。


写真5:銅像(「提賀里」の家族?)
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大宮神社(茨城県行方市玉造乙)(常陸国式外社・その16の1)

2023-02-18 23:31:57 | 神社
大宮神社(おおみやじんじゃ)。通称:玉造大宮神社、馬場の大宮神社。。
場所:茨城県行方市玉造乙750。茨城県道50号線(水戸神栖線)「緑ヶ丘」交差点から西へ約1.8kmで右折(北西へ。目印がないが、すぐ先に神社の杜が見える。)、約150mで鳥居前。少し手前に、横から境内に入る道があり、その入り口付近に若干の駐車スペースあり。なお、玉造の市街地(常陽銀行玉造支店などがある周辺)から、北東へ約1.4km(参道のように、殆ど直線的に鳥居正面に着くのだが、途中道路が狭かったり、分岐があったりするので、迷うかも。)。
創建年代は不明であるが、社伝によれば、和銅6年(713年)以前の鎮座という。室町時代後期(戦国時代)、第13代玉造城主・玉造左京太夫憲幹が社殿を建立。明治6年、村社に列した。現在の祭神は、武甕槌命・天津彦穂瓊々杵命。毎年5月4~5日の例大祭は、玉造市街地を神輿・大鉾・猿田彦が練り歩き、霞ヶ浦浜地先でお浜降りを行うという、にぎやかなものとなっている。
さて、「常陸国風土記」行方郡の条に「提賀里」の記事があり、「郡家の西北に提賀(てが)の里がある。昔、手鹿という佐伯(先住民)が住んでいた。それで、後に里の名前にした。その里の北に香嶋の神子の社がある。神社の周囲の山野は肥沃で、草木は椎・栗・竹・茅の類がたくさん生えている。」(現代語訳)というような記述がある。多くの解説書で、この「香嶋の神子の社」(常陸国一宮「鹿島神宮」の分社)が当神社のことだろうとしている。根拠としては、①「常陸国風土記」の「提賀里」が現・行方市手賀と玉造に当たると考えられること、②当神社の創建が古代に遡る古社であること、③主祭神が武甕槌命で、「鹿島神宮」と同じであることが挙げられる。しかし、①上記「常陸国風土記」の文章の次に「ここから北方に曾尼(そね)村がある。」という記述があって、「提賀里」と「曾尼村」は別(=「曾尼村」を現・玉造に比定する。)という説も有力で、その場合は、所在地の方向が合わなくなる。また、②当神社の「和銅6年以前の鎮座」というのは、各国「風土記」編纂の官命が出されたのがこの年(「続日本紀」和銅6年の記事)だから、ということからの後付けと考えられる。こうしたことなどから、当神社が「香嶋の神子の社」であることを否定する説も有力となっている。


写真1:「大宮神社」一の鳥居と社号標。


写真2:雰囲気の良い参道


写真3:二の鳥居


写真4:拝殿


写真5:本殿


写真6:御神木は杉(スギ)で、幹囲約4.7m・樹高約35mとされ、行方市指定有形文化財(天然記念物)。
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手賀長者館跡

2023-02-11 23:32:23 | 史跡・文化財
手賀長者館跡(てがちょうじゃやかたあと)。唐ヶ崎長者館跡ともいう。
場所:茨城県行方市手賀4248外。茨城県道50号線(水戸神栖線)と同183号線(山田玉造線)の「井上藤井」交差点から県道50号線を北へ、約2km。交差点の角に「りさき牛乳店」があるが、その北側辺り。駐車場なし。
平安時代後期の武将・源義家が奥州征伐の折、富裕な長者から厚いもてなしを受けたのに、それほどの財力のある長者は後の災いになるかもしれないとして長者を滅亡させた、という伝説が茨城県内各地に残っている(現・茨城県水戸市の「一盛長者」など。「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)参照)。長者というのが、駅長又は郡司の後身ではないか、という考えもあって、こうした伝説の残る場所が古代官道の駅家や郡家を探す手掛かりになったりしている。当地では「手賀長者」、別名「唐ヶ崎長者」がそれに当たるが、手賀長者が他と違う点が2つある。1つは、長者の一族が皆殺しになったのではなく、長者の娘が生き残り、地元の「西蓮寺」(前項)の常行三昧会を始めた、という伝承である。これは、仏教による救済という話になっている。もう1つは、長者が富裕になった経緯が語られていること。手賀長者は、元は貧しい若者だったが、大変な親孝行で、あるとき草刈りに行って湧き水を探して飲んだところ、酒の味がした。喜んで家に持ち帰り、父親に飲ませたところ、美味しい酒だと言って喜ばれた。これを知った他の村人も飲んでみたが、ただの水だった。ある夜、若者の枕頭に白髪の老翁が立ち、「わしは原の稲荷だ。お前の孝行に免じて水を酒に変えたのだ。」と言って消えた。そこで、夜明けに若者が湧き水のところに行って探すと、稲荷の祠があった。厚くお礼を申し上げ、その酒を売って財を築いたという民話である。こちらは所謂「養老の滝」伝説で、全国に同様の民話がある。ただし、当地でなぜこのような話になったのかはわからない。因みに、「原の稲荷」というのは、「手賀ふれあいの森」公園内にある「小座山稲荷神社」のことらしい。
さて、「手賀長者館跡」とされるところは、今は同じ行方市だが、概ね県道50号線の西側と東側、旧・玉造町手賀と旧・北浦村行戸に跨っていて、字はどちらも「唐ヶ崎」という。両地から布目瓦や須恵器・土師器の破片が出土している。行戸は、元は手賀の一部だったが、五十戸(さと)単位で村としたとき、足りなかったので余戸の里となり、これが訛って行戸という名になったとのこと。伝説では、長者の館は300間(約545m)四方の土手を廻らせ、建物30棟、門の扉は白檀(ビャクダン)製で、井戸7つ、召使50人、馬十数頭あったというが、今では何の痕跡もないようである。上記の通り、当地は現・行方市手賀の最も東に当たるが、手賀は「常陸国風土記」行方郡条にある「提賀の里」、「和名類聚抄」所載の「行方郡提賀郷」の遺称地とされ、常陸国分寺系瓦が出土した「手賀廃寺跡」のほか、貝塚・古墳・集落跡などが発見されている。つまり、往古から人の住みやすい場所であったのだろう。ただし、手賀長者(唐ヶ崎長者)が何時の頃の人物かはよくわかっていない。長者は、唐ヶ崎四郎左衛門(あるいは四郎兵衛)という名であったというが、「井上神社」(2023年1月21日記事)の棟札にその名があるほか、室町時代の明応8年(1499年)に常陸大掾氏の一族・井上維義が小田氏勝と戦ったとき、維義の本陣を固める旗本頭であったとされることなどから、少なくとも、源義家に滅ぼされたというのは伝説に過ぎないのかもしれない。要するに、古代~中世~近世のいずれかに手賀長者あるいは唐ヶ崎長者という豪族・分限者がいたことは確かでも、それが何時の時代か、どのような人物だったのかは確かめることができないようである。

小座山稲荷神社(こざやまいなりじんじゃ)。
場所:茨城県行方市手賀4099付近。「手賀長者館跡」付近の交差点から県道を北へ約500mで左折(西へ)、約400m。更に約50m進むと、駐車場・トイレがある。
社伝によれば、1千年前から「原の稲荷様」があり、「子稷(ししょく)の神」(子供の夜泣きを治す神)として人々の信仰を集め、茨城郡・新治郡・鹿島郡などからも参拝者があった。しかし、時が経って荒廃したのを憂いた手賀村の名主・茂木彦平が、文化14年(1817年)に社殿を再建し、氏神として祀った。弘化・嘉永年間(1845~1855年)、新田・井上・西蓮寺から当地(小座山)に移住してきた人々7戸が、当時の手賀村名主・茂木三平の計らいによって荒れ地や山野を開拓するようになった際に、茂木家が祀ってきた稲荷社を奉斎した。平成7年、当地が公園として整備されるに当たり、社殿を改築・整備した。祭神:倉稲魂命。


写真1:「手賀長者(唐ヶ崎長者)館跡」付近。中央の道路は県道50号線。遺跡の痕跡は殆どなく、どの辺りかよくわからない。あるいはもう少し先(北)かもしれない。


写真2:「小座山稲荷神社」参道石段


写真3:同上、鳥居


写真4:同上、社殿
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尸羅度山 曼珠院 西蓮寺

2023-02-04 23:32:38 | 寺院
尸羅度山 曼珠院 西蓮寺(しらとさん まんしゅいん さいれんじ)。
場所:茨城県行方市西蓮寺504。茨城県道183号線(山田玉造線)「井上」交差点から北西へ約1.1kmのところ(案内板表示がある。なお、曲がり角の北側に「茨城百景 西連寺」石碑がある。)で右折(東へ)、約600m進んで右折(南へ。「西連寺参道 仁王門駐車場」という看板がある。)、約160mで左折(北東へ)、約120mで駐車場。なお、自動車でなければ、上記「駐車場」の看板の少し先に、狭い道路の参道がある。
寺伝によれば、創建は延暦元年(782年)、第50代・桓武天皇の勅命により最澄(伝教大師)の高弟である最仙上人が開山したという。最仙上人は常陸国関城(現・茨城県筑西市)出身で、常陸国の「講師(こうじ)」(国分寺の僧尼を管理し、経典を講義する役職の僧)に任じられ、常陸国での天台宗の布教に努めた。当寺院のほかにも、現・茨城県桜川市の「薬王院」(2020年12月26日記事)、現・同県土浦市の「東城寺」(2020年8月15日)、現・同「常福寺」(2022年4月9日記事)なども創建(または中興)したとされている。当寺院は常陸国東部における天台宗の中心的な存在として寺運が隆盛し、最盛期には末寺30余寺を擁する大寺院となった。平安時代後期、忠尋大僧正(第46代天台座主、曼殊院門跡)が京都の戦乱を逃れて当寺を訪れた際、山門に「曼殊院」の扁額を掲げた。鎌倉時代には、「比叡山 延暦寺」の塔頭「無動寺」(現・滋賀県大津市)から慶弁阿闍梨が来て、七堂伽藍を整備するなど中興した。境内の相輪橖(そうりんとう)は、二度目の元寇「弘安の役」(弘安4年(1281年))の戦勝記念と戦死者の供養のため、慶弁が弘安10年(1287年)に建立したもので、日本三相輪橖の1つ(他の2つは「比叡山 延暦寺」と「日光山 輪王寺」のもの。)に数えられている。明応8年(1499年)、兵火により堂宇・古文書など多くを焼失するも、文亀2年(1502年)に再建され、江戸時代には幕府からの庇護もあった。明治16年にも、火災により仁王門・相輪橖以外の堂宇が焼けるなど大きな被害を受けたが、その後順次再建された。現在は天台宗の寺院で、本尊は薬師如来。この本尊の木造薬師如来坐像は最仙上人の作と伝わり、一木背刳造で像高約150cm。茨城県教育委員会のHPでは製作時期を室町時代末期としているが、行方市のHPでは平安時代・貞観年間(859~877年)の作としている。平安時代初期の衣の襞の表現方式である翻波式(ほんぱしき)の名残をとどめているということから、平安時代の仏像の可能性がある(その場合、茨城県内最古とされる。)とのこと。昭和33年に茨城県指定重要文化財に指定された。関東九十一薬師霊場第78番札所となっている。
なお、当寺院の伝統行事として「常行三昧会」がある(行方市指定無形民俗文化財)。これは、当寺院の末寺・門徒寺の僧侶が常行堂に集まり、9月24日~30日までの七日七夜に亘って堂内を廻りながら「西連寺節」と称される独特の節回しで立行誦経する大法要である。寛治年間(1087~1094年)に地元の長者(「唐ヶ崎長者」)が「比叡山 延暦寺」から移したものとされる。伝説によれば、永承年間(1046~1053年)頃、「唐ヶ崎長者」に1人の娘があったが、病弱だったので当寺院の薬師如来に祈願したところ、健康を取り戻した。ところが、八幡太郎・源義家が「後三年の役(後三年合戦)」(1083~1087年)のため奥州征討の途上で長者の館に逗留した。このとき、長者から豪勢な饗応を受けたことから、逆に義家の警戒心をあおり、長者の館を焼き討ちした。ここまでは、常陸国内各地に残る「長者伝説」と同様だが(例えば「台渡里官衙遺跡群(2019年3月16日記事)」の「一盛長者」など。)、当地では、長者の娘(通称「西蓮寺婆さん」)だけが生き残り、一家の供養のために、この法要を始めたとされる。地元では「仏立て」とも称し、宗旨の別なく周辺地域からも新仏供養のために多くの参詣客が集まり、戦前までは門前に「西蓮寺市」という市も立って大変賑わったという。
蛇足:当寺院にも、平将門に関する伝説がある。将門が討たれた後、その侍女だった玉虫の前、あるいは桔梗の前は唐ヶ崎長者所縁の者で、世の無常を悟り、当地に戻って長者を説いて当寺院の再興に尽くした。その作業のために働いて倒れた牛の墓標として植えたのが、現在の2本の大イチョウである。この玉虫の前、あるいは桔梗の前は出家して如月尼と称したが、村人らからは西蓮寺婆さんと呼ばれたという話である。西蓮寺婆さんの実在性を示す証拠はないようだが、それだけよく知られた人物だったということだろう。


観光いばらきのHPから(西蓮寺)


写真1:仁王門。天文12年(1543年)に建てられた楼門を寛政年間(1789~1801年)に改修して単層にしたもので、安政7年(1860年)に山門として移築された。大正6年、国指定重要文化財に指定。


写真2:薬師堂。本尊の薬師如来を祀るが、茨城県指定有形文化財となっているため、奥の収蔵室に安置されているとのこと。常行三昧会の時のみ開帳。


写真3:常行堂。堂本尊は阿弥陀如来。


写真4:常行堂横の万霊塔。台座上の延命地蔵石像について、「玉造町史」では「西蓮寺婆さん」としている。一方、常行堂内の賓頭盧(びんずる)像を「西蓮寺婆さん」としている資料もある。因みに、当寺院は茨城百八地蔵尊霊場第97番札所にもなっている。


写真5:相輪橖。全体的に錫杖形をしており、高さは9.16mある。大正6年、国指定重要文化財に指定。


写真6:大イチョウ。2株あり、いずれも最仙上人の手植え(あるいは、杖が根付いたもの)と伝わり、推定樹齢約1000年。1号株は高さ約25m、幹周り約6m(明治16年の火災で墨化し、細くなったという。)。2株とも昭和39年に茨城県指定天然記念物に指定。根元に子安観世音菩薩(石仏)が祀られている。


写真7:大イチョウ2号株。高さ約27m、幹周り約8m。根元に「尸羅度稲荷神社」が祀られている。
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