神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

蚕影神社

2020-11-28 23:37:10 | 神社
蚕影神社(こかげじんじゃ)。通称:蚕影山神社(こかげさんじんじゃ)。
場所:茨城県つくば市神郡1998。茨城県道138号線(石岡つくば線)と同139号線(筑波山公園線)の交差点から、139号線を北へ約1.9km、「蚕影山神社→」という案内板が出ているところを右折(東へ)、道なりに約1.2km。駐車場なし。道路は行き止まりになるので、自動車は少し手前に置いてきた方が良い。
創建年代について諸説あるが、社伝によれば、第13代・成務天皇の御代(131~190年?)に筑波国造に任命された阿閉色命(アヘシコ)が「筑波山神社」(2020年9月12日及び19日記事)を奉斎するとともに、当地(字「豊浦」)に稚産霊命(ワクムスビ)を祀ったとされる。稚産霊命は、「古事記」では豊受比売神(トヨウケヒメ)の親神で、「日本書紀」では頭の上に蚕と桑が、臍の中に五穀が生じたとしている。よって、食品と養蚕の神なのだが、特に養蚕関係者の守り神として、別当寺「蚕影山 桑林寺」により「蚕影山大権現」と称され、江戸時代から昭和時代中期にかけて参拝客が多かったとされる。関東各地に「蚕影(山)神社」の分社や神社境内に「蚕影山大権現」石碑などが建てられた。しかし、養蚕が衰退した現在では、かなり寂れた状態となっている。現在の祭神は、稚産霊命・埴山姫命・木花開耶姫命。
さて、茨城県には日本で最初に養蚕を始めたと称する神社が3社あり、当神社(「日本一社」と称する。)、現・日立市川尻町鎮座の「蚕養(こがい)神社」(「日本最初」と称する。)、現・神栖市日川鎮座の「蚕霊(さんれい)神社」(「日本養蚕事始」と称する。)がそれである。そして、養蚕の起源については、共通して「金色姫伝説」というものがあって、細部は微妙に違うが、当神社の伝承を中心に記せば、凡そ次の通りである。「昔、天竺(インド)に「霖夷(りんい)大王」という王がいて、「金色姫」という名の娘がいたが、后が亡くなり、後添えの后を娶った。後添えの后(継母)は、金色姫を憎み疎んじて四度も秘かに殺そうとした。后の悪意を知った大王は、桑の木で造った舟に姫を乗せて、海に流した。その舟が日本・常陸国の「豊浦」という浜に流れ着き、漁師の「権大夫」夫婦に助けられた。しかし、看病の甲斐なく、姫は亡くなり、亡骸は唐櫃に納められた。ある夜、権太夫夫婦の夢枕に姫の姿が立ったので、唐櫃を開けてみると亡骸は無数の虫に変わっていた。この虫が蚕で、やがて繭になった。権太夫夫婦は、筑波山に住む「影道(ほんどう)仙人」から、繭から絹糸に紡ぐ方法を教えられ、また、欽明天皇の皇女「各谷姫(角谷姫)」に神衣を織る技術を教わった。これが日本における養蚕と機織の始まりである。」。この話から、当神社の創祀を6世紀(欽明天皇の在位:539~571年)とする説もある。また、「権太夫」というのを、筑波国造・権太夫良平として、延長4年(926年)の創祀とするものもある。因みに、「金色姫」が流れ着いたのが「豊浦」で、現・日立市川尻や神栖市日川は太平洋の近くだが、古代には「香取海」という内海が筑波山の近くまで入り込んでおり、それで当地にも「豊浦」という地名があるのだという(もう少し南部になるが、つくば市内の桜川沿いに縄文時代の貝塚がいくつか発見されているので、強ち否定もできないと思われる。)。この伝説は、養蚕が海外起源であることを示唆するが、「日本書紀」の神話に反する。よって、多分、別当寺であった「桑林寺」によって広められた話だったものと思われる。ただし、「万葉集」の中に「筑波嶺の 新桑(にいぐわ)繭(まよ)の 衣はあれど 君が御衣(みけし)し あやに着欲しも」(筑波山の新桑で作った絹衣は素敵だけど、あなたの衣を着てみたい)(万葉集巻14・3350)などの歌があり、近くに鬼怒川(衣川・絹川)、小貝川(蚕飼川)、糸繰川などといった絹糸に関係する地名があるために、筑波が養蚕の本場となっていて、(他の地区よりも)当神社の養蚕起源信仰が広く信じられようになったものと思われる。


写真1:「蚕影神社」境内入口


写真2:参道途中の鳥居。石段が続く(全部で205段あるそうな。)。


写真3:同上


写真4:社殿前の石段


写真5:拝殿


写真6:同上


写真7:本殿
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八幡塚古墳(茨城県つくば市)

2020-11-21 23:36:10 | 古墳
八幡塚古墳(はちまんづかこふん)。通称:沼田八幡塚古墳、筑波八幡塚古墳。
場所:茨城県つくば市沼田374ほか。茨城県道14号線(筑西つくば線)と同42号線(笠間つくば線)の交差点の南東、約140mのところ(農産物直売所の北端)から北東に向かう道路に入り、約150m進んで「従是筑波山道」という道標石があるところを右に(東へ)、約160mで「沼田保育所」などの看板のあるところを右折(南へ)、「沼田保育所」や「つくば市働く婦人の家」などの施設の裏側(北側)に回り込むと見えてくる。駐車場なし。
「(沼田)八幡塚古墳」は、筑波山南西麓、桜川左岸(東岸)にある前方後円墳で、桜川流域では最大クラス。前方部を南南東に向けているので、桜川から見れば、「筑波山」の手前に横たわるような形になっている。後円部墳頂に「八幡神社」(小祠であり、由緒不明)が祀られており、古墳名はこれに因む。前方部は遺存状態が悪かったため昭和53年度に推定復元されているが、これに先立って行われた発掘調査では、全長約90m、後円部径約58m、前方部長約32m、同先端幅約35mという大きさとなっている(つくば市教育委員会の現地説明板による。資料によって大きさに多少の違いがある。)。後円部は三段、前方部は二段以上の段丘構造で、裾部に葺石・埴輪の存在が認められた。周濠の存在は明確ではないが、東側にある「八幡池」は周濠の名残とみられており、人物埴輪の頭部が池の中から発見されたという。築造時期は、主体部の調査が行われていないため正確ではないが、出土埴輪や墳丘形状などから6世紀前半(古墳時代後期)頃と推定されている。筑波国造の領域では最大規模の古墳であり、初代筑波国造・阿閉色命(アヘシコ)の墳墓とする伝承がある。因みに、阿閉色命を初代国造とするのは 「先代旧事本紀 」の第10巻「国造本紀」筑波国造の条で、「志賀高穴穂朝(第13代・成務天皇)、阿閉色命を(筑波)国造に定め賜う」としている。なお、「常陸国風土記」では、元は「紀の国」といったが、第10代・崇神天皇代に物部氏の一族である筑箪命(ツクバ)が筑波国造に任ぜられ、その名を採って「筑波の国」というようになったとする説話を載せている。


茨城県のHPから(沼田八幡塚古墳)

茨城県教育員会のHPから(八幡塚)


写真1:「八幡塚古墳」(「八幡塚」の名で茨城県指定文化財に指定)。北東から見る。手前が後円部、後ろが前方部。


写真2:南西からみる。後円部。


写真3:南西から見る。前方部の角の部分。


写真4:南西から括れ部分、後円部を見る。右側(東側)に「八幡池」がある。


写真5:北東から見る。道路の突き当りが括れ部分。


写真6:前方部墳頂から後円部を見る。


写真7:後円部から前方部を見る。


写真8:「八幡神社」参道(後円部南東側)


写真9:後円部墳頂の「八幡神社」。覆い屋の下に小祠がある。


写真10:「八幡塚古墳」の西にある陪塚(「沼田幼稚園」の南)。約30mの円墳で、古墳上に小さな石祠があり、南側に横穴式石室が開口しているとされているが、訪問時には木が茂っていて確認できず。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金掘塚(茨城県つくば市)

2020-11-14 23:09:48 | 古墳
金掘塚(かねほりづか)。
場所:茨城県つくば市臼井。茨城県道139号線(筑波山公園線)沿い「つくば田井郵便局前」から、北へ県道を約1.2kmのところ(集落に入る手前のところ)を右折(東へ)、約400m。駐車場なし。
「金掘塚」は、筑波山南麓にある直径約12mの円墳で、横穴式石室が開口している。円墳というが、かなり削平されていて、航空写真で見ると西向きの前方後円墳のような形になっている。 直刀、勾玉、金環が出土しているという。
円墳として特に大きくというわけではなく、何か特徴があるというわけではないが、そのネーミングの面白さ(由来不明)とロケーションの良さから採り上げてみた。因みに、位置的には「六所皇大神宮霊跡地」(2020年10月10日記事)と「飯名神社」(2020年10月17日記事)の中間ぐらいにある。


写真1:「金掘塚」。南西側からみる。


写真2:南側から見る。北に筑波山の双耳峰がきれいに見える。


写真3:南東側から見る。


写真4:石室開口部


写真5:古墳上、東側から見る。


写真6:同上、西側から見る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月水石神社

2020-11-07 23:14:21 | 神社
月水石神社(がっすいせきじんじゃ)。
場所:茨城県つくば市筑波。住所がはっきりせず、筑波と沼田との境界辺り。「飯名神社」(2020年10月17日記事)から北東へ約400mで神社入口。または、「筑波神社」一の鳥居から西へ約220m進んで、突き当りを北へ約150mで神社入口。舗装されているが、非常に狭い道路で、自動車で行くのはお勧めしない。参道入口から少し離れたところに駐車場あり(2台)。
創建年代は不明。祭神は石長比売命(イワナガヒメ)で、山の神である大山津見神(オオヤマツミ)の子神、木花之佐久夜毘売命(コノハナサクヤビメ)の姉神に当たる。「古事記」によれば、大山津見神は伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那岐命(イザナミ)の間に生まれたとされるので、「筑波山神社」の男女神からすれば、孫神ということになろう(なお、神名の表記はいずれも「古事記」による)。国津神である大山津見は、天孫である邇邇芸命(ニニギ)に対して石長比売と木花之佐久夜毘売の姉妹を嫁がせたが、石長比売は醜かったため、戻された。石長比売は長寿の、木花之佐久夜毘売は繁栄の象徴であったことから、天孫は栄えるが、短命となった、という話で、これは東南アジアやニューギニアを中心に世界各地に分布する「バナナ型神話」という起源神話の1つであるとされる。石長比売のその後は不明だが、当地の伝説によれば、石長比売は当地で亡くなり、当神社が祀る巨石は石長比売が化したものであるとされる。巨石に小さな丸い穴が開いているが、ここから月に一度、赤い水が流れるという。石長比売が元々、岩石の永遠性を象徴したものであるところから、御利益は不老長寿ということになるが、巨石の伝説から、婦人病や不妊に悩む女性の信仰が篤かったという。蛇足ながら、「筑波山」は他の霊山に比べて江戸に近く、登りやすい山でもあったことから、庶民の参詣が盛んになり、門前町には遊女屋もあった(蛇足の蛇足ながら、明治の文人・大町桂月は、紀行文に「筑波山神社の前には旅館は3軒しかないのに、妓楼は6軒ある。」というようなことを書いている。)。ここで働く遊女からの信仰が特に篤かったようである。


写真1:「月水石神社」入口。民家の裏手のようなところで、標柱がなければわからない。


写真2:参道の途中、「男女川(みなのがわ)」に架かる橋。


写真3:覆屋の下の社殿が見えてくる。社殿は南向き。


写真4:同上


写真5:同上


写真6:社殿に注意書きが...。寺院ではないので、菊などを供えるな、とか、樹木が枯れるから撒き塩をするな、とか。まあ、その通りですね。静かにお参りしましょう。


写真7:社殿の後ろの巨石。これを御神体として祀っていることは明らか。


写真8:巨石に小さな丸い穴が開いている。月に一度、ここから赤い水が流れるという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする