神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鴨大神御子神主玉神社(常陸国式内社・その9)

2018-08-25 23:37:12 | 神社
鴨大神御子神主玉神社(かもおおかみみこかみぬしたまじんじゃ)。
場所:茨城県桜川市加茂部694。国道50号線「羽黒」交差点から国道を東に約750m進み、右折(南へ)。約650m進んだところ(「JA北つくば 子育て支援センター はだしっ子」の角)で左折(東~南東へ)、道なりに約750mで参道入口。左折(東へ)して正面すぐ。駐車場なし。
社伝によれば、神武天皇8年(前652年?)の創立になり、和銅4年(711年)に初めて賀茂祭を執行したという。「日本三代実録」貞観3年(861年)の記事に「常陸国の主玉神に従五位上を授ける」という記事があり、これを当神社のこととする(異説あり)。延長5年(927年)成立の「延喜式神名帳」に新治郡の小社として登載された式内社である。平安末期から戦国時代に常陸国に勢力を伸ばした源氏の名門一族・佐竹氏との関係が深く、応永年中(1394~1427年)に佐竹義盛が社殿を造営、永禄12年(1569年)、佐竹義重が社殿造替したという。現在の本殿はこの時のもので、昭和55年に桜川市(当時は岩瀬町)指定有形文化財建造物となっている。
さて、現在の主祭神は主玉神で、大田田根子命と別雷神を配祀するとされる。社号の通り、「鴨大神」の「御子神」である「主玉神」を祀る、ということらしい。ところが、この主玉神というのは「古事記」・「日本書紀」には登場しない神で、その正体がはっきりしない。そもそも、賀茂氏(鴨氏・加茂氏)というのは大別すると2系統あり、天神系(始祖:賀茂建角身命)は山城国一宮「賀茂神社」(現・京都市)を祀る一族で、「賀茂神社」は「賀茂別雷神社」(通称「上賀茂神社」)と「賀茂御祖神社」(通称:下賀茂神社」)の2社の総称とされる。地祇系(始祖:大物主神)は大和国式内社(名神大)「高鴨神社」(現・奈良県御所市)を祀る一族で、始祖からして三輪氏(大和国一宮「大神神社」を祀る。)と同族である。このように、賀茂氏といっても天神系と地祇系は別氏族とされるが、「高鴨神社」は「上賀茂神社」・「下鴨神社」を含め全国の「カモ(賀茂・鴨・賀茂)神社」の総本社なのだという。そして、「上賀茂神社」の主祭神は賀茂別雷大神で、「下鴨神社」の主祭神は賀茂別雷大神の母神である玉依姫命とその父神である賀茂建角身命となっている。天神系からすれば、「鴨大神」といえば賀茂別雷大神ということになるが、その御子神というのが・・・よくわからない。次に、「高鴨神社」の主祭神は阿遅志貴高日子根命(アヂスキタカヒコネ)であるが、この神は「古事記」にも登場する。大国主神の子神で、別名「迦毛大御神」といい、「古事記」で「大御神」という称は天照大御神との2神にしか使われていないという(それにしては、阿遅志貴高日子根命の事蹟はあまりぱっとしないが・・・、深入りはしない。)。ここでも大物主神と大国主神の関係が微妙だが、いずれにせよ、阿遅志貴高日子根命の「御子神」というのもよくわからない。ところで、当神社に配祀された大田田根子命と別雷神だが、大田田根子命は大物主神の子で、上記「大神神社」の創祀者とされる。別雷神は賀茂別雷大神のことだろう。とすると、天神系と地祇系の両方が統合されていることになる。また、「別雷(ワケイカヅチ)」というのは、雷(神)を分ける(押しのける)という意味で、一種の綽名、尊称のようなものらしい。賀茂別雷大神と阿遅志貴高日子根命を同一視する説もあり、あるいは、天神系・地祇系という区別が必要ない時代の勧請かもしれない。
ところで、当神社には鳥居がない。これには次のような話が伝わっている。「昔、当神社の山の奥に山姥が住んでいて、村人を苦しめていた。康平年間(1058~1064年)、源頼義が山姥を成敗し、その首を切って竹の枝に刺し、鳥居に掛けて見せしめにした。村人たちは鳥居の穢れと山姥の怨念を恐れ、鳥居を取り壊した。代わりに、杉の木を植えて注連縄を掛け、「生鳥居」とした。氏子の家では、竹を植えると家が潰れるという言い伝えがあり、現在でも竹を植えないという。」


写真1:「鴨大神御子神主玉神社」の「生鳥居(いきとりい)」。杉の木に注連縄を掛けて鳥居代わりとしている(場所:当神社の北西、約100m)。


写真2:「生鳥居」付近から見た神社の杜


写真3:境内入口の石段。ここにも鳥居はなく、注連縄。


写真4:石段左手にある小さな池(泉?)


写真5:石段を上った所。ここも鳥居代わりの注連縄。


写真6:拝殿


写真7:本殿
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雲井宮郷造神社(常陸国式外社・その4の1)

2018-08-18 23:27:45 | 神社
雲井宮郷造神社(くもいのみやくにのみやっこじんじゃ)。
場所:茨城県筑西市倉持928。茨城(・栃木)県道45号線(つくば真岡線)「明野中学校東」交差点から南西に約1.2km。途中、バイパスができており、道なりに進むと外れてしまうので、約750mのところで左折(南東へ)する。駐車場スペースあり。
社伝によれば、景行天皇41年(111年)、新治国造・比奈良珠命(ヒナラス)が武甕槌命・大国主命・事代主命の三神を祀ったのが創始で、後に子孫の車持命が家祖・比奈良珠命を合わせ祀った(鎮座地の「倉持」という地名は車持命に因むという。)。大同年間(806~810年)に藤原宗城が社殿を造営、中世以降は当地の領主に庇護され、江戸時代には真壁・筑波・新治の3郡、20ヵ村に及ぶ氏子がいたとされ、今も「新治国一之宮」を名乗る。なお、「雲井宮」という号は、藤原宗成が「伊予親王の変」(大同2年:807年)により常陸国に流刑になったとき、現・つくば市水守(「水守城(跡)」に接して「殿坪」という場所に「藤原宗成館」があったという。)におり、毎日当神社に詣でて恩赦を祈ったところ、赦されて都に帰る時に報恩の為に贈ったとされる。
「日本三代実録」仁和2年(886年)の記事に「常陸国正六位上の郷造神に從五位下を授ける。」というものがあり、これが当神社のこととする説があり、いわゆる「式外社」の論社となっている。「日本三代実録」には郡名の記載がなく、同時に神階授与された神社もないことから、決め手に欠け、現・行方市に「橘郷造神社」があって、こちらも有力。
因みに、当神社は「和名類聚抄」(平安時代中期編纂)に載る「真壁郡伊讃郷」内に鎮座している。古代「新治郡」は律令制以前の「新治国」を引き継いだものと思われるが、南部が7世紀後半に「白壁郡」として独立、8世紀末に「真壁郡」に改称されたという。当神社が「新治国一之宮」を称するのは、こうした事情(「新治国造」の祖による「真壁郡」独立前の創建)を踏まえたものと思われる。ただし、そうであれば、比奈良珠命の一族は出雲系とされているので、主祭神が武甕槌命というのはどうだろうか。


写真1:「雲井宮郷造神社」境内入口。看板に「新治国一之宮」とある。


写真2:鳥居と社号標。まっすぐな参道が約200m。


写真3:神門


写真4:拝殿。社殿は南西向き。


写真5:拝殿の扁額。「鹿嶋 蝦夷 雲井宮郷造神社」とある。主祭神が武甕槌命(常陸国一宮「鹿島神宮」と同じ)だから「鹿嶋」はわかるが、蝦夷は何だろう。「えびす」と読んで事代主命のことだろうか? また、「式外一宮郡中鎮守」とも記されている。


写真6:本殿。覆屋がある。
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新治廃寺跡 附 上野原瓦窯跡

2018-08-11 23:04:38 | 史跡・文化財
新治廃寺跡 附 上野原瓦窯跡(にいはりはいじあと つけたり うえのはらかわらがまあと)。
場所:茨城県筑西市久地楽563他。国道50号線「門井」交差点から国道を北西へ約1.4km。国道沿いだが、一段高くなったところ(道路の左側(北側)に石碑が立っている。駐車場なし。なお、上野原瓦窯跡は、茨城県桜川市上野原地新田312-3。新治廃寺跡から国道を更に北東に約800m、ガソリンスタンド「東日本宇佐美50号桜川筑西インターSS」の角を右折(南東へ)、約270m。駐車場なし。
「新治廃寺跡」は、奈良時代に常陸国新治郡に建立された寺院跡。小貝川左岸(東岸)の台地西縁にあり、現・国道50号線が寺域南端となっており、国道の南側には「新治郡衙跡」(前項)がある。昭和14年から数次にわたって発掘調査が行われ、現在、東塔跡・西塔跡・金堂跡・講堂跡などの基壇が残されており、東塔跡の基壇上には塔心礎、金堂跡には礎石も見ることができる。伽藍は、中央に金堂を置き、その左右同一線上に東西の両塔、北側に講堂が配置され、中門から巡らされた回廊は講堂の後ろで結ばれている。これは「薬師寺式伽藍配置」に近いが異なるもので、「新治廃寺式」と呼ばれているとのこと。「新治廃寺跡」の東、約800mには「上野原瓦窯跡」があり、これと合わせて昭和17年に国史跡に指定された(指定面積約3.8ha)。なお、出土した瓦類は複弁蓮華文軒丸瓦やヘラ描き重弧文軒平瓦などで、下野国薬師寺系と考えられている。まだ、「新治寺」、「大寺」銘の文字瓦も見つかっており、「新治郡衙跡」とも近縁であることから、古代「新治郡」の郡家付属寺院と考えられ、おそらくは「新治国造」家から出た新治郡司の氏寺であったのではないかと考えられる(なお、「茨城廃寺跡」2018年2月3日記事参照)。


茨城県教育委員会のHPから(新治廃寺跡 附 上野原瓦窯跡)

筑西市のHPから(新治廃寺跡)


写真1:「史跡 新治廃寺跡」の石碑。国道沿いだが、段差があり、よじ登るようにしないといけない。


写真2:大きな欅(ケヤキ)の木のところに説明板がある。


写真3:同上、「史蹟 新治廃寺之址」の石碑。ここが金堂跡。


写真4:東塔址。塔心礎の石が残っている。


写真5:西塔址。


写真6:講堂址。


写真7:食堂址。


写真8:中門址。


写真9:「上野原瓦窯跡」。ほとんど消えかかった説明板があるだけ。
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新治郡衙跡

2018-08-04 23:57:45 | 史跡・文化財
新治郡衙跡(にいはりぐんがあと)。
場所:茨城県筑西市古郡180他。国道50号線「門井」交差点から国道を北東に約1.6kmの信号のある交差点を右折(南東へ。「協和ふるさとの森自然公園」の案内看板が出ているところを、公園とは反対側へ)、約130m進んだところで斜め右(南へ)の狭い道路に入り、約250m。駐車場なし。
「新治郡衙跡」は、古代律令制下で設けられた新治郡の「郡家(郡衙)」(郡役所)跡で、昭和16年・同18年に発掘調査が行われ、日本で初めて「郡家」跡であると認められた(昭和43年に国の史跡に指定。指定面積約11.7ha)。建物跡は4群に分かれ、東部群13棟、西部群9棟、北部群25棟、南部群4棟の合計51棟が検出されている。現状は埋め戻されて畑地になっているが、建物跡は方形の地業(ちぎょう)があり、周縁を小石等で突き固めた基礎工事がなされていた。また、一部には礎石も残っていたという。西部の建物群は配置状況により正殿・脇殿からなる政庁部分と推定され、東部・南部・北部・の建物群は倉庫とされているが、特に東部の建物群は「不動倉」(備蓄のため封印された倉庫)であったと推定されている。というのは、東部の建物群の跡からは、炭化した木材や焼籾が発見されており、これが「日本後記」の弘仁8年(817年)記事に「常陸国新治郡(家)の不動倉13宇(棟)が焼失した」との記述に合致する、とのこと。


茨城県教育委員会のHPから(新治郡衙跡)

筑西市のHPから(新治郡衙跡)


写真1:中央が(写真では暗くて読めないが)「史跡 新治郡衙跡」の石碑。


写真2:向かって右側の石碑には側面に「史蹟 新治郡家及不動倉址 茨城縣指定」と刻されている。
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