神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

木内廃寺跡

2014-04-26 23:15:17 | 史跡・文化財
木内廃寺跡(きのうちはいじあと)。
場所:千葉県香取市木内字権現台。県道44号線(成田小見川鹿島港線)「木内」交差点の南西約75mのところから台地に上る側道を進む(右へ)。道なりに西へ約460m進んだ三叉路の右側。駐車場なし。
「木内廃寺跡」は、黒部川が流れる平野の西側の台地上(標高約42m)にある古代寺院跡。この付近では、昔から布目瓦の破片が散らばる場所として知られており、昭和初期の道路工事で大量の瓦が出土したとされる。昭和56年に発掘調査が行われたが、既にかなり削平されており、基壇建物跡と数軒分の竪穴式住居跡が発見されるにとどまった。基壇建物跡は掘込み地業で、南北約11.3m以上、東西6.3m以上という規模だったが、東側部分は大きく削られていたので、あるいは正方形だったかもしれない。寺域は約100m四方、堂1つのみの寺院だったのだろうと推定されている。創建時期は、当初8世紀中頃とされていたが、いわゆる「山田寺式」の瓦の文様などから、7世紀第4四半期まで遡る可能性があるとされる。なお、当遺跡の西、約1kmのところに「清水入瓦窯跡」が発見されており、こちらで焼かれた瓦が使われたことが判明している。また、当遺跡で出土した瓦の文様は、匝瑳市の「大寺廃寺跡」(「天竺山 尊蓮院 龍尾寺」の項:2012年7月14日記事参照)や成田市の「龍正院瓦窯跡」(「滑河山 龍正院」の項:2014年2月1日記事参照)と同じもの、あるいは類似のものがあり、それぞれ関連があったらしい。
さて、当遺跡の北東約1.5kmのところには下海上国造一族の墳墓と考えられる城山古墳群(前項「城山古墳群」:2014年3月28日記事参照)があり、最後の古墳の築造時期は7世紀前半~中頃とされる。そうすると、中央政権の意向に従って、有力豪族である国造家が地方行政官として国家権力機構に組み込まれていくなかで、有力豪族の庇護の下、信仰の中心も古墳から寺院に移っていく過程がみられるものと考えられる。
ところで、当遺跡の「木内廃寺跡」、印西市にある「木下別所廃寺跡」(2013年8月31日記事)には「木」がついている。これは、廃寺の名前が伝わっていないため、所在地の地名を採ったものだが、ちょっと変なことを考えた。「木」は植物の木ではなくて、元は「城」あるいは「柵」の意味の「き」ではなかったのだろうか。そういえば、「結城廃寺跡」(2012年8月25日記事)の「城」の字は「き」と読ませる。つまり、地方の行政・軍事の中心である有力豪族の館のある場所を示す地名ではなかったか。そう考えると、古代寺院と地方有力豪族との結びつきが一層強く感じられるのだが、どうだろうか(これは思いつきレベルで、その地名発祥時期の研究が必要。台地上は中世山城となったところが多く、「き」が「城」としても、中世以来かもしれない。)。


写真1:正面の一段高くなったところが「木内廃寺跡」


写真2:「木内廃寺跡」の前にある道標。「東 鹿島大神 道」などと刻されている。この道路を東に向うと、小見川高校・小見川城山公園のところに出る。更に先にすすめば利根川に出、対岸の「息栖神社」を経て、「鹿島神宮」方面。


写真3:説明板も立てられている。


写真4:現状は畑で、廃寺跡らしいものは何も無い。
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城山古墳群(千葉県香取市)

2014-04-19 23:00:38 | 古墳
城山古墳群(じょうやまこふんぐん)。
場所:千葉県香取市小見川4779-3(小見川城山公園の住所)ほか。国道356号線「小見川大橋入口」から県道44号線(成田小見川鹿島港線)に入り(西へ)、JR成田線の跨線橋を越えてから側道に下り、十字路を右折(北へ)、道なりに坂道を上っていくと台地上に小見川高校と小見川城山公園がある。公園の駐車場が利用できる。
「城山古墳群」は、小見川高校及び小見川城山公園を中心に分布する古墳群で、前方後円墳8基、方墳2基、円墳11基などからなり、そのうち観察しやすいのは1号墳と2号墳である。1号墳は、元は小見川高校敷地内に存在した全長68m、前方幅43m、後円径41mの前方後円墳で、高校建設時に削平され消滅したが、後円部の横穴式石室が公園入口脇に復元されている。石室は右片袖式で、全長6.5m、玄室長4.5m、幅1.7m。発掘時には、組立式木棺、各種埴輪、三角縁神獣鏡、鉄剣、ガラス製棗玉など多くの副葬品が出土した。築造時期は6世紀後半と考えられている。
2号墳は、小見川高校正門の向って右側の土塁のようにみえるところにある、全長45mの前方後円墳。雑木に覆われており、全体像がわかり難い。後円部に横穴式石室の天井石らしきものが露出しているというのだが、どこが「括れ」部分なのか、よくわからない。傍らに「興世王墳墓の碑」という石碑が建てられている。「興世王」というのは、承平8年(938年)に武蔵権守として武蔵国に赴任した王族であるが、出自は不明。いろいろ問題のある人物だったようで、赴任早々、足立郡司とトラブルを起こし、それを機会に平将門と仲良くなり、承平天慶の乱では将門から上総介に任じられている。将門が乱を起こしたのは興世王が唆したから、という説もあり、少なくとも乱の首謀者の1人であったようで、天慶3年(940年)に上総で討死したとされる。したがって、ここに興世王の墓がある理由はなく、石碑は昭和32年に高橋という人が建立したが、地元では全く根拠のないものとされているようだ。「城山古墳群」、特にその1号墳は、古代「香取海」を見下ろす台地上の大きな古墳であり、おそらく下海上国造の一族の墳墓であったものと思われる。


写真1:「城山古墳群1号墳」。復元された石室には扉が設置され、中には入れないが、隙間から中が見える。


写真2:「城山古墳群2号墳」。桜の木のところから入る。


写真3:同上。雑木林の中に、「興世王墳墓の碑」がある。


写真4:同上。コンクリート製の階段(「超芸術トマソン」みたい。)の先に、横穴式石室の天井石らしきものが露出している。


写真5:同上。北側(校内)から見る。


写真6:「城山古墳群3号墳」。小見川高校(校内)の体育館脇(2号墳の北側)にある、1辺約19mの方墳とされる。7世紀前半の築造と推定。なぜか墳丘上に竪穴式住居が復元されている。


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三之分目大塚山古墳

2014-04-12 23:35:27 | 古墳
三之分目大塚山古墳(さんのわけめおおつかやまこふん)。
場所:千葉県香取市三之分目字大塚。国道356号線のJR「水郷」駅出入口付近から東南へ約1.3km、ガソリンスタンド「コスモ石油 片野商事 水郷SS」付近の押しボタン式信号のところで市道に入り(右折。南へ)、すぐ。駐車場有り。
「三之分目大塚山古墳」は、国道356号線(利根水郷ライン)からも見える大きな前方後円墳。古代「香取海」岸の平地に造られ、海からはもちろん、四方から見え、その権力の大きさを誇示することになっただろう。全長123m、後円部の径68m、前方部の幅62m、高さ9.5m(後円部)という規模で、利根川下流域で最大、県内でも十指に入る。盾形の周溝を備え、3段に築かれた墳丘の各段には大型の円筒埴輪列が確認されたという。現在、後円部の墳頂は墓地となっているが、そこに立てられた石板は長持形石棺に使われた石材で、筑波山系の結晶片岩だという。残念ながら副葬品は見つかっていないが、古墳の特徴等から5世紀中頃の築造と推定されている。所謂「古墳時代」中期で、全国各地に巨大古墳が盛んに作られた時期に当たり、当地でも、古代「香取海」の水上交通を支配して強大な権力を握った首長の墳墓だろうとみられている。なお、周辺には中小規模の前方後円墳等がいくつかみられ、全体として「豊浦古墳群」と呼ばれている。


写真1:「三之分目大塚山古墳」全景。北東側(国道側)から見る。見事な瓢箪型


写真2:北側から見る。後円部(墳頂は現在、墓地になっている。)


写真3:西側。説明板、後円部の墓地に上る階段、駐車場がある。


写真4:後円部から前方部を見る。


写真5:前方部から後円部を見る。


写真6:後円部に立って北側を見る。真下に国道、その先に利根川が流れている。写真の左下に写っている石板も石棺材だろうか。
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白井の玉井戸

2014-04-05 23:09:10 | 伝説の地
白井の玉井戸(しらいのたまいど)。
場所:千葉県香取市白井。県道55号線(佐原山田線)から、「そば茶屋 和久」(住所:香取市山川259)のところで南~南西に道なりに直進約600m、「淡島神社」付近でカーヴして(南へ)坂道を下る。下りきると、正面が田圃のT字路で、そこを左折(東へ)して、すぐ。駐車場なし。
「白井の玉井戸」は、伝承によれば、平将門が掘らせた井戸で、将門の子のために築かれた「白井城(白井砦)」の用水であったことから「王井」とも呼ばれた。「白井」という地名も、風雨の前日には、この井戸から白い煙が立ち上ったことに由来するとされる。常陸国の「神の池」と繋がっているとされ、水が涸れたことがないという(「神の池」が現・茨城県神栖市溝口にある「神之池(ごうのいけ)」であれば、直線距離で約11km離れている。)。「白井城(白井砦)」自体は中世の城とされるが、所在地すら諸説あって、詳細不明。一説によれば、「白井の玉井戸」の北西約600mのところにある、丘の上の「星宮神社」(香取市白井)の鎮座地がそれであるという。
なお、この辺りには貝塚や古墳が多く、例えば「白井大塚古墳」では石室の天井石などが露出しているし、「大宮台古墳」は平将門の墳墓であるとの伝承も残る。


写真1:「白いの玉井戸」。中央に石造の倶利伽羅不動明王像が安置されている。


写真2:同上、由来が記されている石碑。平将門との関係にも触れている。


写真3:「星宮神社」(場所:香取市白井字城之内。T字路の少し手前(北側)に上り口がある。)


写真4:「白井大塚古墳」(場所:香取市白井字大塚。「白井の玉井戸」から東へ約500m)。円墳で、直刀・人骨などが出土しているという。


写真5:「大宮台古墳(大宮台1号墳)」(場所:香取市白井字大宮台。「白井の玉井戸」の背後の雑木林の裏側。井戸のところから農道を辿れば行けるが・・・)。全長約30mの前方後円墳だが、括れ部分がはっきりせず、楕円形のように見える。


写真6:同上。古墳上には石祠が祀られている。平将門の墓という伝承の故だろうか? ちなみに、石祠の周りの白いものは貝殻で、この辺りには大量に散布されている。縄文時代の貝塚の跡らしい。古墳上から茨城県鹿嶋市方面が良く見える。
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