神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

田子の浦

2011-09-30 23:36:48 | 史跡・文化財
田子の浦(たごのうら)。
「田子の浦」は万葉集の歌枕としても登場する海浜で、現在では静岡県富士市一帯の浜辺をいうが、古代には廬原郡蒲原郷(現・静岡市清水区蒲原)の海岸を「田子の浦」と称したのではないかとも言われている。
「田子の浦」を何より有名にしているのは、山部赤人の万葉集に収められた歌「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」であろう。意味は「田子の浦を通って見晴らしが良いところまで出てみると、富士山の高いところに真っ白い雪が積もっていた」となるが、現代訳にすると、万葉歌らしい、おおらかな感じが失われる気がする。百人一首にも選ばれていることで広く知られているのだろうと思うが、百人一首のほうは「田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」と改作されている。
山部赤人(生年不詳~736年?)は奈良時代の下級官人だったとされ、叙景歌を多く作ったので、実際に各地を旅して歌作したのではないかとみられている。では、山部赤人は、どこで、この歌を詠んだのか。「田子の浦ゆ」の「ゆ」は「経由」の由(ゆ)で、だから、「田子の浦で」富士山を見たのではなくて、「田子の浦を過ぎて」視界が開けたところに出て、気が付くと目の前に雪が積もった富士山が見えた、ということらしい(このため、百人一首所収の歌では意味が変わってしまい、藤原定家の改悪であるという人も多い。)。山部赤人が古代東海道を通ったかどうかわからないが、元々は蒲原の海岸が「田子の浦」だったとすれば、富士川の右岸(西岸)はかつては平野が少なく(現在の蒲原は、安政大地震のときに隆起して平野が広がったという。)、北側に山が迫っていたので、富士山がきれいに見えなかった可能性がある。富士川の渡河地点は不明だが、「蒲原」という地名は、その名の通り蒲(ガマ)の原っぱだったことに由来すると思われ、富士川の河口に近い三角州から見た富士山を歌ったのではないだろうか。
さて、流石に有名な歌だけに、この歌の万葉歌碑が3ヵ所も設置されている。ただし、いずれも現在の田子の浦港の近くである。


写真1:田子の浦港の万葉歌碑(場所:富士市前田字茨島。田子の浦港の駐車場付近)。こちらは、「田子の浦ゆ~」の短歌(反歌)だけでなく、その前の長歌も刻してある。


写真2:写真1の歌碑付近から見える富士山


写真3:港公園の万葉歌碑(場所:富士市前田字新田。田子の浦港の西岸、港公園の東端)


写真4:山神社境内の万葉歌碑(場所:富士市田子361。田子浦南郵便局の南向かい)
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呼子坂

2011-09-27 23:19:42 | 史跡・文化財
呼子坂(よびこさか)。
場所:「冨榮山 専修院 清岩寺」(静岡県富士市宇東川西町8-18、2011年9月23日記事参照)前。
「呼子坂」は、治承4年(1180年)、いわゆる「富士川の合戦」の際に源頼朝が率いる源氏の軍勢がこの付近の高台に布陣し、この坂で呼子笛を吹いて軍勢を集めたという伝承から、その名が付いたとされる。
ところが、一説によれば、この坂こそ万葉集にも歌われた「手児の呼坂」で、それが「呼子坂」に変わったものという。「手児の呼坂」は、坂を隔てて「手児」(可愛い女の子、恋人)を呼ぶロマンチックなイメージがあるので、静岡市駿河区など想定地がいくつかある(2011年5月10日記事参照)。富士市にも「手児の呼坂」の石碑が建てられているが、場所は「原田公園」(場所:静岡県富士市原田字飯森東704。石碑は公園の南端にあり、「今泉四丁目」交差点の東、約300m)にある(写真2)。「手児の呼坂」という文字を刻した大きな石碑の脇に「あづま路の 手児の呼坂 越えがねて 山にかねむも やどりは無しに」という万葉歌碑が添えられている。因みに、「原田公園」の西隣にある「飯森浅間神社」は、「富士川の合戦」の際に源頼朝軍が境内に兵糧を置き、兵に守らせたといわれ、元は「飯守明神」と呼ばれていたという。
ところで、富士市の「手児の呼坂」は「たごのよぶさか」と称し、「田子の浦」の「たご」も、本来は「手児」から名づけられたともいう。


富士市のHPから(ふるさとの昔話2:原田の手児の呼坂)


写真1:「呼子坂」の石碑


写真2:「手児の呼坂」の石碑
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米すり石

2011-09-23 22:19:01 | 名石・奇岩・怪岩
米すり石(こめすりいし)。
場所:静岡県富士市宇東川西町8-18にある「冨榮山 専修院 清岩寺(ふえいさん せんしゅういん せいがんじ)」の山門前。「今泉四丁目」交差点(コンビニ「ミニストップ富士原田店」付近)を南に入る。山門は、突き当たりを左折(東へ)、直ぐ。
「米すり石」は、江戸時代中期の天明年間(1781~1788年)、全国的に天災地変が続き、当地でも大飢饉により餓死者が多数出た。このため、中村家が米を放出し、この石で米を擂って粥にして近在の者に施した。元禄(1688~1703年)の頃から、飯森西の街道沿いに首のない地蔵像があったが、この地蔵像を地中に埋め、「米すり石」に「地蔵大士」(大士は菩薩の尊称)と刻して石碑とし、供養した。昭和40年に、地中に埋めた地蔵像を掘り出し、「米すり石」とともに「清岩寺」に移したという。
なお、「清岩寺」は浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来(立像)。寺伝によれば、天文4年(1535年)、聞誉厳悦上人の開基とする。別の伝承によれば、鎌倉時代初期に北条時政が富士川河畔に建立したが、後に洪水で流失、天正8年(1580年)に現在地に再建されたとされる。


静岡教区浄土宗青年会さんのHPから(清岩寺)


写真1:「清岩寺」山門


写真2:山門前の「米すり石」。表側に「地蔵大士」と刻されている。


写真3:石の裏側に窪みがある。





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滝不動(静岡県富士市)

2011-09-20 22:23:19 | 寺院
滝不動(たきふどう)。通称「いぼとり不動尊」。
場所:静岡県富士市原田1167にある「大富山 永明禅寺(だいふさん ようみょうぜんじ)」(吉原第三中学校の西、約400m)の正面右手の道路に入って直ぐ。
「滝不動」は、「永明寺」の元鎮守堂で、堂の左手にある池に流れ落ちる小川の水をイボ(疣)に付けてお参りすると、イボが取れるという。傍らの説明板によれば、「昔、イボがたくさんできている娘がいた。何とかしてイボを取りたいと、この不動尊に毎日お参りすると、満願の21日目の夢枕に不動尊が現れ、「池の水をかけろ」とのお告げがあった。娘が翌朝、池の水をかけると、見るまにイボが取れて、美しい娘になった。」という伝説があるという。以来、「いぼとり不動尊」と呼ばれ、イボで悩んでいる人がお参りに来るとのこと。イボ取りに霊験あらたかな神仏は全国各地にあり、中には霊石の窪みに溜まった水をつけるというものが結構多くあるが、ここの水は富士山の伏流水だろうから透明で、水量もかなり豊かなので、確かに利きそうではある。
ところで、「永明寺」は、寺伝によれば天平勝宝8年(756年)、今より北の高台に「大富山 金輪院」として開創し、長く真言宗の寺院であった。その後、文明4年(1472年)に行之正順禅師が曹洞宗に改宗・改号したとされる。本尊は聖観世音菩薩。因みに、当寺にも不思議な話があり、葬式の列が山門を通ろうとすると、遺体が消えるという伝説がある(下記HP)。また、当寺の西隣は「鎧ヶ渕親水公園」となっているが、源頼朝が富士川の合戦の折に鎧を脱いで身体を洗ったという伝承から「鎧ヶ渕」という名がついたという。行基菩薩開創というのはともかく、古くから水が豊かで、住みやすいところだったのだろう。近くに「鑑石」、「滝川観音(妙善寺)」、「滝川神社」、「竹採公園(比奈公園)」などがあって見所も多く、散策するのに好適である。


平松皮膚科医院さんのHP「いぼとり神様・仏様」から(いぼとり不動尊(滝不動))

富士市のHPから(ふるさとの昔話2:死骸が消える永明寺の山門)


写真1:「大富山 永明禅寺」入口。奥に山門がある。


写真2:本堂


写真3:「滝不動」の不動堂。鳥居がある。


写真4:堂の左脇にある池に石の不動明王像が置かれ、流れ落ちる小川の水を浴びている。
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鑑石

2011-09-16 23:56:23 | 名石・奇岩・怪岩
鑑石(かがみいし)。
場所:静岡県富士市原田1350-16付近。吉原第三中学校の西、約200mの「かがみ石公園」内。駐車場有り。
「鑑石」は、湧水の中にある表面が平らな石で、照手姫が毎日この石に顔を映し、化粧をしたという伝説がある。小栗判官と照手姫の物語は浄瑠璃や歌舞伎などにも脚色されているが、様々な伝説があり、多くのヴァリエーションがある。その中に、「鑑石」の北東、約200mのところにある「妙善寺」(通称:「滝川観音」)に照手姫が隠れ住んでいたというものがある。
「妙善寺」に伝わる伝説は、次のようなものである。「室町時代の中頃、常陸国真壁郡小栗庄に小栗判官満重という城主がいた。時の鎌倉管領足利持氏に攻められて敗れ、東海道を西に逃れた。相模国で美女「照手姫」と人を喰うという馬「鬼鹿毛」を得た後、駿河国に至り「妙善寺」に照手姫を預けた。小栗判官は更に西に向かい、丹波国の母方の在所に鬼鹿毛を預け、紀伊国熊野に向かった。しかし、鬼鹿毛は主人を慕い、丹波国から「妙善寺」まで戻ったが、そこで力尽き息絶えた。寺では、鬼鹿毛哀れみ、観音堂の下に葬った。」
さて、「滝川観音」こと「藤澤山 妙善禅寺(とうたくさん みょうぜんぜんじ)」は、寺伝によれば、創建は天平勝宝元年(749年)。天平年間、行基により全国各地に観音堂が建立されたが、当寺もその1つといい、観音堂の尊主は十一面千手観音菩薩(坐像)。なお、多聞天・広目天(立像)もあり、いずれも室町時代の作と推定され、3体とも富士市指定文化財となっている。現在は、臨済宗妙心寺派、清見寺(静岡市清水区)末で、本尊は釈迦牟尼仏。行基菩薩開基というのは伝説だとしても、少なくとも室町時代以前から存在したと思われるのだが、正保2年(1645年)に峰得禅師によって再建され(この時から「妙善寺」と称したと伝えられる。)、再建以前の歴史はよくわかっていないらしい。行基菩薩開基を伝える寺院には真言宗・天台宗の寺院が多く、おそらく再建前は密教系の寺院だったものとみられ、中世に臨済宗など禅宗系寺院の伸張により再建されたものと思われる。ただし、「小栗判官」・「照手姫」の伝説は、時宗総本山「藤澤山 無量光院 清浄光寺」(通称「遊行寺」、神奈川県藤沢市)の僧侶が説経節として広めた、ということが指摘されており、山号が共通することから、当寺と何らかの関係があったのかもしれない。


富士市のHPから(ふるさとの昔話:照天姫のかがみ石)PDFファイル

「滝川観音 妙善寺」さんのHP


写真1:「かがみ石公園」の「六田川水源域」


写真2:「鑑石」


写真3:「妙善寺」境内入口(場所:静岡県富士市原田1344)


写真4:「妙善寺」観音堂。秘仏の千手観音像が安置されている。
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