神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

神子御前乃宮

2023-03-25 23:33:52 | 神社
神子御前乃宮(みこごぜんのみや)。神子御前社。(小貫)香取神社の飛地境内社。
場所:茨城県行方市小貫294(「香取神社」の住所)。国道354号線と茨城県道50号線(水戸神栖線)の「泉北」から国道を東に約2.4km、たばこ店「新滝屋」の角を右折(南西へ)、約140mで右側道に入り、約60mで右折(北西へ)、約180m(突き当り)で、「香取神社」の鳥居前。駐車スペースあり。なお、「神子御前乃宮」は北東2丁(約218m)の場所に鎮座するとし、「香取神社」から直接に行く道はない。上記「新滝屋」南西、約100mにあるゴミ・ステーションのところから未舗装の狭い道を北西に向かい、廃屋を通りすぎた奥にある。
「茨城縣神社誌」(昭和48年)では、「香取神社」について、通称:下の明神、祭神は経津主命で、江戸時代の創建、ということくらいしかわからない。境内神社について、八幡宮(石宮)・子安様(方四尺の祠)・道祖神の記載があるが、「神子御前乃宮」については触れられていない。一方、鳥居横の昭和63年建立の「香取神社誌」石碑では、創建を第12代・景行天皇御代(4世紀頃?)とし、飛地の境内神社に芸津毘売を祭神とする「神子御前乃宮」があるとしていて、「常陸国風土記」の芸津里(きつのさと)に関する記述を要約・引用している。それは、「常陸国風土記」行方郡の条の「当麻郷の南に芸都里がある。昔、寸津毘古(キツヒコ)・寸津毘売(キツヒメ)という国栖(くず。土着の民)がいた。寸津毘古は、倭武天皇(ヤマトタケル)の命に逆って無礼な振る舞いをしたので、剣の一太刀で討たれてしまった。寸津毘売は、白旗を掲げて道端にひれ伏し、天皇を迎えた。天皇は憐れんで許し、小抜野の仮宮に向かった。そこに、寸津毘売が姉妹を引き連れて、真心を尽くして朝夕に仕えた。天皇は、その懇ろな姿をお喜びになったことから、この野を「宇流波斯(うるわし)の小野」というようになった。」(現代語訳・一部省略)という話である。芸津毘売(寸津毘売)を祭神とする「神子御前乃宮」が古くからの当地区の守り神だったというのだが、以前は、それが秘匿されていたらしい。言い方は悪いが、芸津毘売(寸津毘売)は征服者に性的奉仕をして歓心を得たということになるのだから、秘して祀るしかなかったのではないか、とする人もある。それが、広く知られるようになったのは、どうやら柴田弘武著「常陸国風土記をゆく」(平成12年)で紹介されてからだと思われる。「小貫」が「小抜野」の遺称地であり、「香取神社」が鎮座する丘辺りは古代から土着の民が住んでいそうなところであることに異論はないが、「神子御前乃宮」が祀られるようになった経緯等については、まだ謎が残っているような気がする。因みに、小沼忠夫著「北浦の昔ばなし」(昭和60年)では、「神子御前社」の祭神「ミコージン」は日本武尊に従って来た機織の女神で、昔は娘達が機の道具を供えて機織りの上達を祈願したという、と書かれている。


写真1:「香取神社」鳥居、社号標


写真2:同上、鳥居横の「香取神社誌」石碑


写真3:同上、拝殿


写真4:同上、本殿


写真5:「御子御前乃宮」


写真6:同上


写真7:同上


写真8:「香取神社」が鎮座する丘(国道沿いの「八坂神社・愛宕神社」から見る。間に武田川が流れている。)。ちょうど、「御子御前社」と「八坂神社・愛宕神社」が向かい合うように建てられている。
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鶴ヶ居不動堂

2023-03-18 23:31:16 | 寺院
鶴ヶ居不動堂(つるがいふどうどう)。日本武尊霊蹟鶴ヶ居不動。
場所:茨城県行方市山田。茨城県道2号線(水戸鉾田佐原線)「小船津十字路」の北西角。駐車場なし。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「当麻(たぎま)の郷の南に、芸都(きつ)の里がある。昔、国栖(くず。土着の先住民)の寸津毘古・寸津毘売(キツヒコ・キツヒメ)という者がいた。・・・」(現代語訳)という記述がある。例によって、その土地の先住民の長らしき人物が地名の発祥となっている話だが、この後、寸津毘古は倭武天皇(日本武尊)に逆らって無礼な態度を示したため、忽ち切り殺される。寸津毘売は、小抜野(おぬきの)の仮宮に姉妹を引き連れて行き、真心を込めて奉仕した、というような内容が続く。「芸都」は、「和名類聚抄」(平安時代中期頃成立)の常陸国行方郡に「芸都郷」が見え、現・行方市内宿周辺の地域に比定されている。その比定については異論はないのだが、内宿の化蘇沼(けそぬま)地区(文明10年(1478年)創建という「化蘇沼稲荷神社」がある。)が遺称地とされるのは、どういう転訛なのだろうか。
さて、その行方市の内宿と山田の境付近に「鶴ヶ居不動」という小さな仏堂がある。伝承によれば、この付近に寸津毘古の住処があったとされる。寸津毘古は日本武尊に斬り殺されたが、その屍を葬ったところに、剣を納めて幽魂を鎮めた。その後、不動明王像が祀られ、「奉納 日本武尊」と墨書した木製の剣を奉納して、悪事災難除けを願うようになった。これを「換剣の行事」といって、正月28日に奉納された木剣を借り受けて神棚や仏壇に飾り、翌年、新しく作った剣を添えてお返しするという。なお、堂の横の石碑は、昭和15年に建立された「日本武尊霊蹟碑」である。昭和15年は神武天皇即位紀元2600年に当たり、日本武尊の事蹟を顕彰することによって、皇室に対する奉祝と国威発揚を企図したものと思われる。
なお、当地が寸津毘古らの住んでいた場所という確定はできないが、当地の南、約800mのところに「鶴ヶ居貝塚」という遺跡があって、縄文時代~古墳時代の集落跡も発見されているところから、古代にも集落があった可能性は高いと思われる。


写真1:「鶴ヶ居不動堂」


写真2:「日本武尊霊蹟」碑
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大枡神社

2023-03-11 23:32:02 | 神社
大枡神社(おおますじんじゃ)。
場所:茨城県行方市山田3023。茨城県道2号線(水戸鉾田佐原線)と同183号線(山田玉造線)の「山田」交差点から2号線を北へ、約1.1km。駐車スペース有り。
社伝によれば、神代、武甕槌命が東征の折、北浦の「公郷の洲」(現・「行方市北浦公民館」の東の浜)から上陸し、「武田峰」(現・「北浦運動場」の丘)において天神地祇に祈願した。その後、藤製の大枡・鏡・剣・矢の根を神宝として祭祀したのが創祀であるという。後に、「武田峰」から夜に放光があり、北浦を往来する帆船が立ち往生するなどの変事があり、これは当神社が荒廃したのが原因であるとして、大同2年(807年)、現在地(「岡山」)に奉還した。慶長2年(1597年)、妙義山花館城主・山田太郎左衛門尉治広が再建し、守護神とした(なお、現・県道2号線と183号線の「山田」交差点の北東の丘(現・「八坂神社」の北側)に「山田城」という中世城館があったとされている。)。その後、火災に遭い、神宝を焼損した。鏡・剣・矢の根は焼け跡から探し出したが、藤の木で作られた大枡(方一尺四寸六分五厘)は複製品であるという。安政4年(1857年)に再建され、明治4年、山田・繁昌・北高岡・小幡・行戸の村社となる。神宝の大枡に因んで、近世までは、草履や下駄の緒をすげるのに藤の皮を使用することは禁忌だった。また、社殿の後ろに火災時の灰などを埋めたところがあり、そこに入ると災いがあるという。現在の祭神は、武甕槌命。
なお、一説に、日本武尊が武甕槌神を祀ったのを当神社の創祀とする。つまり、日本武尊が常陸国を北上して東国平定を進めていった道筋として、北浦沿岸を進んだという伝承がいくつかあり、当神社もその1つということになる。


写真1:「大枡神社」鳥居と社号標


写真2:元の社号標


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:石像


写真6:鳥居のすぐ前を県道が通っているが、その向かい側に長い参道が続いている。その起点辺りにある塚。猿田彦大神が祀られ、村内安全・五穀豊穣等が祈願されている。
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如意輪山 普門院 観音寺

2023-03-04 23:33:04 | 寺院
如意輪山 普門院 観音寺(にょいりんさん ふもんいん かんのんじ)。通称:小幡観音寺。
場所:茨城県行方市小幡1038。茨城県道50号線(水戸神栖線)と同184号線(島並鉾田線)「小高」交差点から184号線を北東~北へ約4.2km、「←観音寺」の案内板が出ているところで左折(北西~北へ)、約500mで参道入口。そこから更に約240m北へ進んだところで左折(西へ)すると、駐車場がある。
寺伝によると、大同元年(806年)に桓武天皇の皇孫・高棟皇子が常陸国へ宮郭を移された折、大同3年(808年)、筑紫国大宰府「観世音寺」(現・福岡県太宰府市)から如意輪観音を満海上人に托して「堂山」に奉祀させたのが創始とされる。鎌倉時代の文応元年(1260年)、領主の地頭・小幡大炊助平相正が大檀那となって堂宇を建立し、真言律宗の僧・忍性(死後、「菩薩」号を勅許。)を招いて再興した。正平6年(1351年)、比叡山の東範権僧正が来て天台宗に改宗したことから、東範を中興開山とする。天正19年(1591年)、小幡城が落城し小幡氏が滅ぶと、その城址に移転したという。現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
ただし、この寺伝には疑問点がいくつかある。例えば、高棟皇子は、第50代桓武天皇の第三皇子・葛原親王の長男で、臣籍降下して平朝臣姓を与えられ、平高棟と名乗った。しかし、生年は延暦23年(804年)とされているので、大同3年ではまだ4歳である。臣籍降下が認められたのも天長2年(825年)なので、時代が合わない。また、ずっと京都にいて、常陸国に住んだことはないと思われる。同様に、時代は合わないが、高棟の弟に当たる高見王(葛原親王の三男?)の子・高望王は寛平元年(889年)に臣籍降下して平高望を名乗り、上総介に任官して任地である上総国に下った。任期が過ぎても帰京せず、上総国・下総国・常陸国に勢力を伸ばし、坂東平氏の祖となった(平将門は高望の孫に当たる。)。こうしたこととの混同があったのではないだろうか。次に、開山の満海上人であるが、当寺院の観音像収蔵庫前の石碑には「満海上人の足跡は鹿島より行方、筑波北条より東北に巡錫し最後は現在の仙台市準胝観音堂、瑞宝殿に墓地がある。満海上人と正宗公は同じ墓所にあり、満海上人の生まれ変わりが伊達正宗公とも言われている。」とあるが、この満海上人は湯殿山の修験者で、現・宮城県仙台市の「瑞宝殿」(伊達政宗公墓所)建立工事中に石室が発見されたが、これが満海上人が入定した墓跡とされた。そして、同じく隻眼であったということから、伊達政宗に生まれ変わったという伝説が生まれたらしい。満海上人の入定は天正年間(1573~1592年)とされるので、当寺院創建時期とは合わない。当寺院開山を「萬海上人」あるいは「満開上人」とする資料もあり、別人ではないだろうか。なお、当寺院に所蔵されている銅製如意輪観音坐像は鎌倉時代の作とされており、忍性は建長4年(1252年)に常陸国筑波「三村寺」(「三村山 清涼院 極楽寺」。現在は廃寺)を拠点として布教活動を行ったとされるので、小幡氏に招かれて当地に来た際、この観音像をもたらした可能性はあると思われる。


茨城県教育委員会のHPから(金銅 如意輪観音坐像)


写真1:「観音寺」参道入口にある「茨城百景 観音馬場」石碑。かつては門前に直線約250mの馬場があり、昭和20年頃までは草競馬が行われていたという。今も参道に桜の木が多く、名所になっている。


写真2:「観音馬場」碑の立つ土塁の下に「巨木三本松」という小さな石碑がある。ここに、高さ約42m、幹周り約12m、樹齢約800年という松(マツ)の巨木があったが、昭和39年に枯れてしまい、伐採された。遠くは鹿島からも見えたという。


写真3:山門(仁王門)。永正10年(1513年)建立とされ、室町時代末~桃山時代にかけての建築様式を伝えるものとして、昭和52年に行方市指定有形文化財に指定。


写真4:参道正面にある観音堂


写真5:観音堂の左手にある収蔵庫。如意輪観音坐像は像高36.3cm・総高63.9cmで、宋風彫刻の影響がみられるという。仏像・光背・台座がほとんど当時のまま一具として残る銅造如意輪観音像としては唯一の貴重な作例とされ、昭和49年に茨城県指定重要文化財に指定。現地説明板では、製作時期を14世紀末としている。


写真6:更に奥に進むと、巨大な寺号標がある。この背後に駐車場がある。


写真7:本堂


写真8:鐘楼


写真9:スダジイの巨木。樹高約15m・枝張り約18m・幹周り約6m、推定樹齢約500年。旧北浦村で最大の巨木とされ、昭和48年に行方市指定天然記念物に指定。


写真10:本堂横にある「小幡城跡」石碑。説明文は意味が取りにくいところが多いが、当寺院及び北側にあった「要小学校」(廃校)敷地が、玉造氏から分かれた小幡氏の中世城館跡だったらしい。現在も土塁等が多く残っており、当寺院の鐘楼の土壇は物見櫓跡という(古墳という説もある。)。
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