神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

不知八幡森

2013-03-30 23:10:43 | 史跡・文化財
不知八幡森(しらずやわたのもり)。
場所:千葉県市川市八幡2-8。JR総武本線「本八幡」駅の北東、約200m。国道14号線沿いで、市川市役所の斜め向かい(南西側)。「葛飾八幡宮」(前項)の大鳥居の向かい側でもある。駐車場なし。
「不知八幡森」は、「八幡不知森(やわたしらずのもり)」、「八幡の藪知らず」ともいう。18m四方ほどの雑木林で(江戸時代には既に同程度の広さになっていたという。)、かつては様々な樹木で覆われていたらしいが、現在では殆ど竹林になり、奥まで見通せないというほどではない。ちょっと見ただけでは判らないが、中央に窪みがあり、国道側から見て向って左端(東端)が少し盛り上がっているという。一画に小祠が祀られ、立派な石鳥居の扁額に「不知森神社」とあって、その脇に「不知八幡森」の石碑が建立されている。しかし、それ以外の部分は玉垣とフェンスに囲まれて出入口はなく、禁足地となっている。入ると出られなくなるといわれ、これを迷信だとして水戸黄門こと徳川光圀が入ったところ、白髪の老人が現れて「戒めを破って入るとは何事か。汝は貴人であるから罪は許すが、以後戒めを破ってはならぬ」と叱られたという話は有名。
ここが禁足地となった理由については諸説あって、
①日本武尊の陣地であったため、
②平将門または平良将(将門の父)(あるいは、その他の貴人等)の墓所であるため、
③平将門と戦った平貞盛が「八門遁甲の陣」を敷いた場所で、その「死門」に当たり、入ると災いがあるため、
④「葛飾八幡宮」の旧地であったため、
⑤中央の窪地が放生池(魚等を放って、供養を行う池)だったため、
⑥行徳村の飛地の入会地で、八幡村民は立入禁止であったため、
など様々あって、一定しない。
このうち、①は、あるいは国道14号線が古代東海道のルートであったらしいことと関係があるかもしれないが、日本武尊自身がこの地に来たかどうかすら怪しい。②平将門または平良将の墓所とされる場所は他にもあり、この地だけを禁足地とするほどの必要があったか疑問。③は根拠不明で、論評の外だろう。④については、「葛飾八幡宮」の旧地は現・市川市宮久保付近(現在地の北東、約2km)といわれており、少なくとも中世まで国道14号線より南側はすぐ海(東京湾)だったことから、これも根拠が薄い。⑤も同様だろう。⑥は、他説のように「聖地」、「心霊スポット」的な要素がなく、ありそうなことのようにも思われる。しかし、そうであれば近世の資料もあるはずだが、どうやら証拠はないらしい。ところで、②には、平将門が討たれた後、家来がここまで将門の首を運んだとき、家来は動けなくなり、土偶人になってしまったという説もある。それが真実なら超常現象だが、合理的に考えるなら、将門の墓よりもっと古い古墳があり、埴輪の破片が出土していたのではないかとも思える。さて、真実はどこに?


「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(不知八幡森)


写真1:「不知森神社」。祭神不明。


写真2:「不知八幡森」の石碑。安政4年(1857年)に伊勢屋宇兵衛という人物が建てたらしい。


写真3:全景。さして広くないのがわかる。前面の道路が国道14号線(千葉街道)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葛飾八幡宮

2013-03-23 23:27:02 | 神社
葛飾八幡宮(かつしかはちまんぐう)。
場所:千葉県市川市八幡4-2-1。JR「本八幡」駅の北東、約500m。あるいは、京成本線「京成八幡」又は都営地下鉄新宿線「本八幡」駅の東、約300m。駐車場有り。
社伝によれば、寛平年間(889~898年)に宇多天皇の勅願により京都の「石清水八幡宮」を勧請して建立されたといい、いわゆる「国府八幡宮」として下総国府(国衙)の鎮守社、ひいては下総国全体の総鎮守社であるとされる。ただし、下総国府(想定地)から約3kmも離れており、国府内に「六所神社」という総社もあったことを考えると、当神社の創建は国府または国分寺とは無関係だった可能性もあると思われる。祭神はいわゆる八幡三神で、誉田別命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・玉依比売命。
八幡宮の例に漏れず、武家の信仰が篤く、特に源頼朝との関係が深かったようだ。また、平安時代後期から中世、律令国家の崩壊に従い、国府や国分寺の領地を侵食する形で勢力を伸ばしたらしい。下総国で千葉氏が勢力を大きく伸長させたのにも当神社との関係が深かったことがあるとも考えられている。
寛政5年(1793年)、当神社境内の枯れた古木を伐採して根を掘り出したところ、元亨元年(1321年)銘の梵鐘が埋められていたのを発見した。その銘文として、「(当神社は)下総国の第一の鎮守であり、寛平年間に宇多天皇の勅願で建てられて以来久しく、源頼朝将軍の崇敬が殊に篤かった」というようなことが記されている。また、当神社の立地の様子として、「前に巨海が横たわり、後ろに遠村が連なっている」とも記されており、当神社の目前まで海が迫っていたことがうかがわれる。
社殿の向って右には神木の公孫樹(イチョウ)の巨樹があるが、樹齢1200年以上と言われ、高さ22m、目通り10.8mもあって、国指定天然記念物となっている。「千本公孫樹」という名は、これが1本の木でなく、多くの木が寄り集まって1本の木のように見えているからだという(実際には、主幹の周りに支幹が取り巻くように生えているものらしい。珍しいことは間違いない。)。当神社の祭礼(現在は9月15日)のときにはボロ市(農具市)が開かれるが、江戸時代には、祭礼の音楽が奏されると、幹の洞から数万の小蛇が現れたという。
また、境内には「源頼朝公 駒どめ石」というものがある。頼朝が戦勝祈願のため当神社を参拝した際、この石に馬が前脚を掛け、蹄の跡が残ったという。


千葉県神社庁のHPから(葛飾八幡宮)


写真1:「葛飾八幡宮」の国道14号線(千葉街道)に面した一の鳥居と社号標


写真2:随神門。元は、別当寺であった「八幡山 法漸寺」(天台宗・上野「東叡山 寛永寺」末寺)の仁王門だった。明治の神仏分離により「法漸寺」は廃寺となり、随神門に変えられたもの。


写真3:神門


写真4:社殿


写真5:神木の「千本公孫樹」


写真6:「駒どめの石」


写真7:同上、馬の蹄の跡?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手児奈霊神堂

2013-03-16 23:38:47 | 寺院
手児奈霊神堂(てこなれいじんどう)。略して「手児奈霊堂」、「手児奈堂」ともいう。
場所:千葉県市川市真間4-5-21。JR「市川」駅の北、約1km。駐車場有り。
「真間山 弘法寺」(前項)の寺伝によれば、同寺は天平9年(737年)に行基が真間の手児奈の霊を祀る堂宇を建てたのを創始とする。もちろん、これは伝説に過ぎないが、真間の手児奈は万葉集(8世紀後半頃成立?)にも詠われている有名な美女であった。
「我も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城ところ」(山部赤人)
「葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児奈し思ほゆ」(同)
「葛飾の 真間の井見れば 立ち平(なら)し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ」(高橋虫麻呂)
ただし、万葉集の歌人が詠った当時から、手児奈は「古(いにしへ)にありけむ人」(昔、居たという人)という、既に伝説の人物になっていた。
現在の「手児奈霊神堂」は「真間山 弘法寺」に属し、略縁起によれば、文亀元年(1501年)に同寺第7世日与上人の夢枕に手児奈の霊が現れたことから、良縁成就や安産などの守護神として祀ったものとされる。そこでいう「手児奈伝説」は凡そ次の通りである。即ち、舒明天皇の頃(在位:629~641年)、当地の国造の娘で手児奈という美しい姫がいた。その噂を聞いて、隣国の国造が息子の嫁に迎えた。しかし、この国造同士が不仲となり、手児奈は疎まれ、騙されて舟に乗せられ海に流された。手児奈は身籠っており、舟の中で子を産んだ。舟は真間の入江に流れ着き、その浜辺で母子静かに暮らそうとしたが、手児奈の美しさに言い寄る男が数知れず、ついに思い余り、海に身を投げて亡くなった、というものである。
しかし、「手児奈伝説」にはヴァリエーションがあって、手児奈自身について、清純な乙女、巫女から妖艶な人妻、遊女まで、身分も高貴な姫から貧しい村娘まで様々である。「手児奈霊神堂」の伝説については、同堂自体が、実際には江戸時代に寺の経済基盤を固めるため観光収入を増やそうとしたものともいい(江戸時代には、寺領はわずか50石だったらしい。)、そうしたことを念頭に置いて脚色されたものと思われる。手児奈が海上で出産するというエピソードを織り込みながら、手児奈の死後、その子がどうなったかには触れられていないのも、単に手児奈を安産の守護神にしたかったからとしか思えない。巫女説というのは、手児奈が当地の神に仕える神聖処女であった、とする考え方で、だからこそ、言い寄ってくる男を拒絶したのだとする訳である。一方、遊女説は、入水自殺までに何人かとの相手をしただろうという想像によるようだ。まあ、巫女説も遊女説も極端で、多分、古代には恋愛におおらかだったので、美女には言い寄る男が多く、また、複数の男と付き合うことをやましく感じないという時代性が背景があり、にも関わらず、それを苦に入水自殺するということに驚きがあったのだろう。ところで、「てこ」というのは若い女性を指し、「な」は美しいという意味があるというので、手児奈という名も固有名詞ではないのかもしれないらしい。
さて、上記の高橋虫麻呂の歌にあるように、手児奈は国府台台地の上に住んでいて、毎朝、台地下にある「真間の井」に水を汲みにきていたという伝説もある。台地上は暮らしやすいが、水に困ることが多い。また、真間の低地は入江の湿地で、井戸も塩分を含んでいることが多かったという。その中で、「真間の井」と呼ばれる井戸は良質の飲料水が湧いていたとされ、それが現在も「手児奈霊神堂」近くの「亀井院」にある。「亀井院」は寛永15年(1638年)頃、「弘法寺」第11世の日立上人が貫主の隠居寺として建てられ、「真間の井」に因んで「瓶井院」または「瓶井坊」と称したという。その後、「弘法寺」の大檀那であった鈴木長常を葬った際、「鈴木院(れいぼくいん)」と改称した。鈴木長常の息子である鈴木長頼が、「日光東照宮」のための石材を「弘法寺」の石段に流用したことを幕府に咎められて切腹した(前項、「弘法寺」の写真5「涙石」を参照)後、現在の「亀井院」と改称したとされる。井戸から、霊亀が出現したからという。かつて「弘法寺」には支院が10余宇あったが、今では「亀井院」のみが現存しているとのことである。


市川市のHPから(市川の昔話「真間の手児奈」)

手児奈霊神堂のHP


写真1:「手児奈霊神堂」境内入口。真間三碑(真間万葉顕彰碑)の1つが右下に見える。


写真2:「手児奈霊神堂」


写真3:同上、境内の池。「真間の入江」の名残りと言われ、どんな日照りでも水が枯れることがないという。


写真4:「亀井院」境内入口。真間三碑(真間万葉顕彰碑)の1つが左下に見える。


写真5:同上、本堂。


写真6:同上、境内にある「真間の井」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真間山 弘法寺

2013-03-09 23:35:20 | 寺院
真間山 弘法寺(ままさん ぐほうじ)。
場所:千葉県市川市真間4-9-1。JR「市川」駅の北、約1.2km。駐車場あり。
寺伝によれば、天平9年(737年)に行基が真間の手児奈の霊(次項記事で書く予定)を供養するために一堂を建立し、「求法寺(ぐほうじ)」と名づけたのを創始とする。弘仁13年(822年)に空海(弘法大師)が七堂伽藍を整備し「弘法寺」と改称したが、元慶5年(881年)には天台宗に改宗したという。建治元年(1275年)には、時の住持・了性法印が「法華経寺」(現・市川市中山)の富木常忍との法論に敗れ、日頂上人を開基として日蓮宗に改宗した。本尊は一尊四士像(釈迦如来と四菩薩)と伝える。
国府台台地の南端にあり、石段を上ったところに立派な仁王門がある。明治21年に諸堂が火災に遭ったが、仁王門は焼失を免れた。「真間山」の扁額は空海筆という。江戸時代には、紅葉の名所であり、樹齢400年以上という「伏姫桜」も有名である。考古学ファンには、境内にある「弘法寺古墳」などでも知られる。国府台台地には下総国府があり、須和田台地と繋がる辺りに葛飾郡家もあったとされている(2013年1月12日記事)ことから、行基・空海は伝説に過ぎないとしても、前身の古代寺院があったかもしれない。
なお、弘法寺古墳は、全長43m、後円部径20m、前方部幅15mの前方後円墳で、築造時期は6世紀後半~7世紀前半とされる。崖ギリギリにあり、南側は半ば崩壊している。後円部径20mというのは推定で、現存しているのは8mのみという。


真間山弘法寺のHP


写真1:「弘法寺」仁王門


写真2:真新しい本殿


写真3:境内にある「弘法寺古墳」。東側から見る。左手前が後円部


写真4:同上、西側から見る。前方部


写真5:石段の下から27段目にある「涙石」。この石だけ、いつも濡れている。江戸時代、作事奉行の鈴木修理長頼が日光東照宮の造営のために使う石材を運ぶ途中、無断で「弘法寺」の石段に寄進してしまった。長頼は切腹を命じられ、この石段に血と涙が染み込んで濡れているのだという。実際には、台地から滲み出す水脈に触れているらしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真間の継橋

2013-03-02 23:31:27 | 史跡・文化財
真間の継橋(ままのつぎはし)。
場所:千葉県市川市真間4-6-10付近。JR総武本線「市川」駅の北西約200mのところにある国道14号線沿いの「真間山 弘法寺」参道(「大門通り」)入口から、北へ約800m。駐車場なし。
現在も残る「真間」という地名は、古代からある言葉で、崖や傾斜地等を示すものという。古代には下総国府があった現・市川市国府台の台地の南側は、まさに崖下の低地となっている。古代、この低地には海が入り組んでいて「真間の入江」と呼ばれ、現・真間川はその名残りであるとされる。「真間の入江」の南側には長大な砂洲が東西に延びており、その砂洲上を古代東海道が走っていた。古代東海道側と下総国府の間の入江を渡るのに「継橋」を利用したらしい。
万葉集の下総国の歌に「真間の継橋」を詠ったものがある。即ち、「足(あ)の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ」。意味は「足音をさせずに進む馬がいればいいのに。そうすれば葛飾の真間の継橋を通って、愛しい人のところにいつも通えるのに。」というところだろうか。「継橋」というのは、木の板を渡した簡易な橋のことなので、馬に乗って通ると音がしたのだろう。だから、現在の頑丈で立派な橋では「復元」とは言えない。また、継橋のあった場所も、おそらく入江の出入口付近だっただろうと思われるので、現在の真間川の江戸川への河口付近(現「根本橋」付近?)にあったのではないだろうか。因みに、上記の歌の作者の名は伝えられていないが、いつも馬に乗って継橋を通る人物であることから、国府の官吏であったのだろうと推定されている。
なお、「真間の継橋」の南、約100mのところに真間川が流れているが、そこに架かる「入江橋」の脇に、文字が消えかかっていて読み辛いが、「真間の入江」を詠った万葉歌についての説明板がある。それは、「葛飾の 真間の浦廻(うらみ)を 漕ぐ舟の 舟人騒ぐ 波立つらしも」に関するもので、歌の意味は説明するまでもないだろう。ただ、「浦廻」という言葉については諸説あって、ここでは煩瑣なので、あえて触れないが、入江をぐるりと廻ること、あるいはそのような地形をいうようだ。舟(船)の大きさはわからないが、「真間の入江」が湿地帯ではなく、波が立って舟の移動に支障があるような広さと深さがある海の入江だったのではないかと思われる。


市川市のHPから(真間万葉顕彰碑)


写真1:「つぎはし」の石碑と擬宝珠の付いた赤い欄干が印象的だが・・・(東側)


写真2:「真間の継橋」の万葉歌碑


写真3:「真間の継橋」の説明板と顕彰石碑(西側)


写真4:現・真間川に架かる「入江橋」の脇に、「真間の入江」の万葉歌の説明板がある。


写真5:「入江橋」から西側、国府台台地の端を見る。


写真6:真間川の江戸川への河口付近にある「根本橋」。「真間の継橋」はこの付近にあった?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする