神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

東雲山 愛染院 根本寺

2022-11-26 23:32:38 | 寺院
東雲山 愛染院 根本寺(とううんさん あいぜんいん こんぽんじ)。通称:水原観音。
場所:茨城県潮来市水原1121。国道51号線(潮来バイパス)と茨城県道188号線(大賀延方線)の「延方」交差点から、県道を北西へ約2.7km。駐車場有り。
寺伝によれば、天喜5年(1057年)、八幡太郎こと源義家が奥羽征討(「前九年の役」)の折、水原の里から鹿島に渡ろうとしたが、北浦の大風のため渡れなかった。義家は兜の八幡座(頂点)に像高5.9cmの如意輪観世音薩像を奉持していたが、霊夢により、その観音像を祀って七日七夜の水行を行ったところ大風が収まり、鹿島に渡ることができた。この観音像は空海(弘法大師)が弘仁元年(810年)に彫ったもので、天喜2年(1054年)に後冷泉天皇から武運の守護仏として授けられたものだった。この霊験のため、当地を衆生済度の根本の地として観音像を祀り、京から円通閣主を招いて草庵を建てた(よって、当寺院は義家を開基とする。)。その後、本堂を建立して像高59.4cmの如意輪観世音菩薩像を安置し、義家の守護仏を胎内仏とした。江戸時代、水原村には住民が127軒しかないのに、当寺院を含め3ヵ寺2堂1門徒があって、その全ての維持は困難となった。そこで、寛文10年(1670年)に全村が当寺院の檀徒となることとしたが、このときは公許が得られず、元禄7年(1694年)になって漸く許可され、宥範和尚を中興開山として堂宇再建を開始した。宝永元年(1704年)、麻生藩主・新庄越中守直隆から再建記念として愛染明王像・金一封等が下賜され、以後、新庄家の祈願所となったという。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は如意輪観世音菩薩。安産・子育てに御利益があるとされる。
なお、本尊の如意輪観世音菩薩は、胎内仏とともに茨城県指定文化財。本尊は檜材の寄木造で、伝承では長元3年(1030年)の定朝作とされるが、玉眼が入れられており、室町時代頃のものと推定されている。胎内仏は白檀の一木造で、藤原時代の作とされる。ほかに、潮来市指定文化財として、灰造弁財天があるが、高野山(「金剛峯寺」)の護摩の灰から造り、裏面に弘法大師の左手判(手型)が押されているというものである。これは、「泊崎大師堂」(2021年11月27日記事)で書いたように、現・神奈川県藤沢市の「江島神社」(通称:江ノ島弁天)に因んで近世以降に大量に造られたものと思われる。
蛇足:奈良時代の古代東海道「板来」駅の比定地は現・潮来市潮来(臨済宗「長勝寺」付近?)が有力だが、現・潮来市延方とする説もある(2022年9月24日記事参照)。後説の場合、古代東海道は、現・行方市域では概ね茨城県道50号線(水戸神栖線)とほぼ同じルートで、行方市から潮来市に入ると、「大生古墳群」(「鹿見塚古墳」(2017年12月30日記事)参照)中央部を横切って「大生神社」(2017年12月9日記事)の南側を通り、築地と水原の大字境を進んで延方に至ると推定されている(茨城県教育庁文化課編「古代東海道と古代の道」)。その当否は不明だが、ここでは、源義家の伝説に注目したい。常陸国では、厚くもてなした長者に対して、後難を恐れて皆殺しにしてしまうという話が各地にある(例、現・水戸市の「一盛長者」。「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)参照。)。ここでは、それらと違って仏教の霊験譚になっているが、義家が大軍を率いて当地を通った(古代官道のルート?)という伝説があることに興味を惹かれる。


茨城県教育委員会のHPから(木造 如意輪観世音菩薩像(附胎内仏))


写真1:「愛染院」鐘楼門。享保年間(1716~1735年)の建立で、潮来市指定文化財。


写真2:本堂(観音堂)。享保4年(1719年)建立で、潮来市指定文化財。本尊の如意輪観世音菩薩を祀る。


写真3:鐘楼門を入って左手にある三十三観音堂


写真4:大師堂


写真5:金堂。こちらに愛染明王が祀られている。


写真6:七福神と由緒を刻した石碑


写真7:背後の丘に登る急な石段。上るよりも、下りる方が怖い。


写真8:丘の上にある「若宮八幡宮」


写真9:同上、「金毘羅宮」。北浦の方を向いているが、雑木が生い茂っていて眺望はない。
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國神神社(茨城県潮来市古高)と鹿嶋吉田神社(同 新宮)

2022-11-19 23:35:10 | 神社
國神神社(くにがみじんじゃ)。國上神社とも表記される。
場所:茨城県潮来市古高3216。国道51号線と茨城県道50号線(水戸神栖線)の「須賀」交差点から県道を北へ約350mで右折(北東へ)、約1.5kmの三叉路のところで右折(東へ)、直ぐ(約30m)。駐車場なし。「古高農村集落センター」の手前(南)、約100m。

鹿嶋吉田神社(かしまよしだじんじゃ)。
場所:茨城県潮来市新宮1866。国道51号線「延方西」交差点から北へ約80mの交差点の先に一之鳥居、そこから更に北へ約400mで二之鳥居・境内入口。駐車場なし。「潮来第二中学校」の南側。

それぞれの社伝等を総合すると、「國神神社」の創建年代は不明だが、往古、土着の神を祀る神社だった。その後、当地(旧・延方村)が多(おお)氏の支配となると、その氏神である鹿島神(武甕槌命)も祀るようになり、専ら「鹿島神社」と呼ばれるようになったが、国津神・天津神の並立相殿の神社であった。「常陸国風土記」行方郡条に、崇神天皇の御代に建借間命(タケカシマ)が反抗する国栖(くず。土着の先住民)を計略によって征伐する記述があるが、このとき「痛く殺す、と言ったところを今は「伊多久」の郷と謂い、臨(ふつ)に斬ると言ったところを今は「布都奈」の村と謂い、・・・」(現代語訳)という地名起源譚も語られている。「伊多久(いたく)」は現・潮来市潮来(いたこ)が遺称地であることに異論はない。また、「臨に」は刀剣でバッサリ斬るさま、あるいは音を指し、「布都奈(ふつな)」は現・潮来市古高(ふったか)が遺称地とされる。国津神・天津神の並立相殿というのは、この「常陸国風土記」の記述を踏まえて、「元鹿島宮」とも称される「大生神社」(2017年12月9日記事)などの影響が及んだために鹿島神を祀ることになったということを示したものだろう(「大生神社」は、当神社の北西、約3.5km(直線距離)の場所にある。)。応永20年(1413年)に島崎城主・島崎彦四郎が神輿修営した際、大同2年(807年)と記してあったという。江戸時代に入ると、水戸藩第2代藩主・徳川光圀のとき、一郷一社寺の改革により、延方村は古高・須賀・洲崎の3村を合併し、寺院は潮来村の真言宗「普門院」(2022年10月1日記事)を延方村洲崎に移転(旧来の8ヵ寺は廃寺)、神社は古高村の鎮守社「鹿島神社」を延方村の諏訪ヶ原に建立して、地名を新宮とした(これにより、「國神神社」は国津神のみを祀るようになった。)。このとき、水戸藩から材木15石の下付と、奉行1名・棟梁1名が派遣されて建築に当った。また、元の洲崎村鎮守は「諏訪神社」で、旧領主・島崎氏の守り神だったが、「吉田神社」に祭神変更され、相殿として「鹿嶋吉田神社」となった。現在の祭神は、「國神神社」が大己貴命・少彦名命、「鹿嶋吉田神社」が武甕槌命・日本武尊(日本武尊は、現・茨城県水戸市の常陸国式内社「吉田神社」(2018年3月10日記事)の祭神と同じ。)。
蛇足:「國神神社」の方は境内地も狭く、やや寂れた感じなのに対して、「鹿嶋吉田神社」はかなり立派な神社である(因みに、「大生神社」の御朱印は「鹿嶋吉田神社」でいただけるそうである。)。また、潮来市の「國神神社」といえば、(旧・牛堀町)上戸の「國神神社」の方が有名(例祭の「上戸の獅子舞」が茨城県無形民俗文化財となっている。なお、「八代の大椎」(2022年9月17日記事)の北、約200mのところに鎮座。)だろう。古高「國神神社」の社伝では、上戸「國神神社」は古高からの分社であるとしているようであるが、上戸側の社伝では嘉歴元年(1326年)に常陸国式内社「大洗磯前神社」(2018年5月19日記事)から分霊を迎えて鎮斎したとしている。このため、古高「國神神社」も、その頃に創建されたのではないかとする説もある。


潮来市のHPから(延方相撲)


写真1:「國神神社」境内入口、鳥居。


写真2:同上、社殿


写真3:「鹿嶋吉田神社」一之鳥居。道路の片側を占めて、鳥居と灯籠がある。その先は桜並木の長い参道。


写真4:同上、境内入口、鳥居


写真5:同上、由緒碑


写真6:同上、社殿前。当神社祭礼の「延方相撲」(茨城県無形民俗文化財)が有名で、畳まれたテントの下に土俵があるのだろう。


写真7:同上、拝殿


写真8:同上、本殿
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国神神社(茨城県行方市)(常陸国式外社・その13の1)

2022-11-12 23:34:33 | 神社
国神神社(くにがみじんじゃ)。
場所:茨城県行方市行方1820。国道355号線「行方」交差点から南東へ1つ先(約150m)の交差点を左折(北東へ)、約1.1kmのところ(横断歩道の標識がある交差点)で左折(北~北東へ)、約220m。駐車スペース有り。
社伝によれば、白雉4年(653年)、行方郡家の設置と同時に郡社として創建されたという。白雉4年という年号は、「常陸国風土記」行方郡の条に記された、行方郡の創設の年(第36代・孝謙天皇の御世、癸丑の年)から採られたと思われる。そして、「(行方)郡家の東に国社(くにつかみのやしろ)がある。これを県祇(あがたのかみ)という。」(現代語訳)という記述もあって、これが当神社を指すとされる。また、「日本三代実録」貞観16年(874年)条に「正六位上の常陸国の国都神に従五位下を授ける。」(現代語訳・一部省略)という記事があり、この「国都神」が当神社であるとする。つまり、二重の意味で、式外社ということになる。しかし、郡家が衰退し、長い間に周囲の人家も稀になったため、当神社も寂れた。「茨城縣神社誌」によれば、近くにある「八王子神社」の氏子の一部により維持されているとなっているが、平成19年、神田地区氏子一同により本殿・玉垣・鳥居が再建されている。現在の祭神は大己貴命(別名:大国主命)で、天津神・国津神(天神地祇)という区分の中では、大己貴命は国津神(地祇)ということになる。ただし、「常陸国風土記」の「国社」・「県祇」については、当地の土着の神、または国造など地方豪族が信仰した神という意味合いが強いように思われる。
ところで、行方郡家の所在地については、まだ確定されていない。諸説あるが、大別して①行方市(旧・麻生町)行方、②行方市(旧・玉造町)井上の2説が有力。このうち、①行方説は、「行方」という大字名が郡名と同じであることと、当神社を「常陸国風土記」の「国社」とみて、その西に郡家があるとすることの2点が大きな根拠となっている。これについては、当神社の西側には郡家を置けるような広い敷地がないこと、奈良・平安時代の遺跡・出土物が少ないことが難点で、また、古代では「行方」の範囲は現在よりも広かったのではないか、当神社は「国社」ではないのではないかという反論もあって、現在では②井上説の方が優勢のように思われる。しかし、その場合、「国社」はどうなるのだろうか。当神社と「国社」は別の神社とする説(この場合、他に該当しそうな国津神を祀る神社がないので、「国社」は廃絶したということになろう。)、当地には他から移転して来たとする説もあるが、「北浦町史」(2004年)では行方郡家について次のような説を立てている。即ち、「常陸国風土記」が編纂された時代(和銅6年(713年))には、現・行方市行方の内宿地区(当神社の西にあり、古代の平瓦片など出土している。)に旧・行方郡家があった。しかし、地形的な制約から郡庁・正倉・館・御厨などを備えた本格的なものではなかったため、古代官道に沿った、広い台地上の現・行方市井上の通称「井上長者館跡」に移転して本格的な郡家が建設された、というものである。この場合、当神社が「国社」だとすると、郡家の移転の時に取り残されたということになるのだろうか。理屈としては無理はないが、考古学的な見地から、もう少し証拠が欲しいところだろうと思われる。
蛇足:現・行方市行方を「行方郡家」の所在地に比定する説の論拠を補足しておく。当神社の南西、約200mのところに「古屋(こや)」という地名がある。ここは、「常陸国風土記」に茨城国造で行方郡の建郡者とされる壬生連麿の子孫が代々住んだところで、北にまっすぐ伸びた古道があり、これが郡家の南門に通じていたという伝承がある。また、行方から霞ヶ浦に流れる「根堀川」は、元は「子ほり川」と書いた。これは本来、「郡川」だったのではないか。おって、当神社の西側に「蔵屋敷」という地名がある。軍記物語「将門記」では、平将門の側近の1人・藤原玄明が常陸国司に逮捕されそうになったとき、将門の下に逃げ込む途中で河内・行方両郡の不動倉を襲撃・略奪したという記述がある。伝承では、この行方郡の不動倉のあったところが「蔵屋敷」であるという。伝承も軽視はできないが、今後、古代の官衙建物跡などが発見されることがあるだろうか。


写真1:「国神神社」鳥居と社号標


写真2:社殿正面


写真3:社殿(本殿のみ)


写真4:本殿造営記念碑
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鹿島神宮 北の一之鳥居

2022-11-05 23:30:56 | 神社
鹿島神宮 北の一之鳥居(かしまじんぐう きたのいちのとりい)。
場所:茨城県鹿嶋市浜津賀734(「戸隠神社」の住所)。茨城県道186号線(荒井行方線)と同242号線(鉾田鹿嶋線)の「荒井」交差点から東に約120mで左折(北へ)、約130m。駐車スペース有り。
常陸国一宮「鹿島神宮」の東西南北の「一之鳥居」については、現・鹿嶋市明石の「東の一之鳥居」について書いた(2022年10月22日記事)。「北の一之鳥居」は、現・鹿嶋市浜津賀の狭い市道を跨いで建てられているが、この道路は、江戸時代には現・茨城県水戸市方面から「鹿島神宮」を経由して、「息栖神社」・下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)・「飯沼観音」(「飯沼山 圓福寺」(2014年5月31日記事))に参拝するための道として「飯沼街道」と呼ばれ、参拝者の通行は4方向の参道のうち最も多く、鳥居も最大であったという。しかし、周囲に人家が少なくなって補修の寄進が集まらなくなり、明治10年に廃されたままになっていたが、2017年に硬質塩化ビニール製(腐らず、軽くて地震に強い素材)で再建された。
この鳥居の横にある「戸隠神社」は、社伝によれば、長禄元年(1457年)に信濃国(現・長野県)「戸隠神社」の分霊を勧請して創建され、浜津賀郷の鎮守となったという。祭神は手力雄男命で、「鹿島神宮」の北の入口を守るということだろう。この神社の杜は「神戸森(ごうどもり)」といって、古くはクロマツの巨樹が多く、海上からの目印にもなっていたらしい。なお、現地説明板では、「神戸」は神宮への玄関口という意味としているが、古代では神社に奉仕するための民を「神戸(かんべ)」といい、「常陸国風土記」香島郡条によれば、その当時、「「鹿島神宮」の神戸は65戸。元は8戸だったのが、第36代・孝徳天皇のときに50戸増やされ、第40代・天武天皇のときに更に9戸増やされ、合計67戸になった。持統天皇4年(690年)に、公民に2戸編入したため、65戸になった。」(現代語訳)という記述がある。あるいは、こうした神戸が多く住んでいた地区なのかもしれない。


鹿嶋市のHPから(鹿嶋の意外を巡ろう!)


写真1:「鹿島神宮」の「北の一之鳥居」。高さ6m、幅最大7.8m。


写真2:「戸隠神社」鳥居


写真3:同上、社殿。鳥居は西向き、社殿は南向き。


写真4:同上、「戸隠神社」石碑。由緒碑と思われるが、本文は読み難くなっている。


写真5:同上、社殿背後の石祠
コメント (4)
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船玉神社(茨城県筑西市)

2022-11-03 15:00:00 | 神社
船玉神社(ふなだまじんじゃ)。
場所:城県筑西市船玉248。茨城県道15号線(結城下妻線)「関本中」交差点から北へ約1.6km、押ボタン式信号のあるところ(「あらやま歯科医院」がある。)を左折(北西へ)、約750mで境内入口。駐車場有り。
当ブログで「船玉古墳」(2021年2月6日記事)を採り上げたときに、古墳上にあった「船玉神社」が2011年の東日本大震災によって倒壊してしまったが、古墳が県有地であったが故に再建できないのは残念だと書いた。その船玉神社が2022年4月に再建されたと聞き、ようやく最近、参拝することができた。これがまた、神社のイメージを覆す、実にモダンで素晴らしい社殿となっていた。
創建は不明。「関城町史」(1987年)では、船玉地区の鎮守は「八幡神社」となっていて、「船玉神社」の名は出てこない。とはいえ、地名(大字)が「船玉」というのだから、古くから鬼怒川の水上交通の守り神としての「船玉(船魂)大明神」があったことは間違いないだろうと思われる。それが、いつか「八幡神社」(山城国八幡宮(現・京都府「岩清水八幡宮」)から勧請)と「船玉神社」が合祀され、祭神は誉田別命と住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)となっている。
当神社社殿の再建については、地元自治会員が10年かけて再建費用を積み立てられたということで、途中、2015年には関東・東北豪雨により船玉地区も床上・床下浸水の被害を受けたこともあり、避難場所やコミュニティとしての機能も備えた場所として構想されたものらしい。既に、地方の社寺の境内に地区の公民館・集会所などが建てられているケースが多々あるが(当所にも「船玉田園都市センター」がある。)、社寺そのものの維持・再建について当神社のようなあり方が他でも参考になり得るものと思われる。それも、地元住民の方々の熱意なくしてはできないことで、大変感心させられた。


写真1:「船玉神社」鳥居。以前には参道に杉の並木などがあったが、取り払われ、広く明るくなった。


写真2:社殿。「船玉古墳」の南側に建てられた。


写真3:普通、神額があるところにガマ? の絵。


写真4:社殿内部


写真5:社殿全景


写真6:トイレ。三猿の絵と石像。


写真7:手水舎。手洗石には宝永6年(1709年)銘があるとのこと。


写真8:境内社の「七鬼神社」


写真9:同上、社殿。公式にも祭神は不詳だそうだが、艮(北東)側に建てられているので、鬼門封じと思われる。


写真10:社殿背後の「船玉古墳」
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