神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

蠶靈神社(茨城県神栖市)

2022-08-27 23:35:06 | 神社
蠶靈神社(さんれいじんじゃ)。常用漢字により、蚕霊神社と書かれることが多い。
場所:茨城県神栖市日川720。茨城県道260号線(谷原息栖東庄線)「日川一番」交差点から北西へ約1.8km、設備工事会社「有限会社新河工業 茨木営業所」の角で右折(北へ)、約220m進んで美容室「髪芝居」の角を左折(西へ)、直ぐ。駐車場なし。
茨城県には、日本で最初に養蚕を始めたと称する神社が3社あり、その1つとして現・つくば市の「蚕影神社」(2020年11月28日記事)について以前に書いた。今回は、その2つ目になる。その起源については、「蚕影神社」と共通するところが多いが、凡そ次の通りである。孝霊天皇5年(紀元前286年?)、現・神栖市日川の「豊浦浜」の漁夫・青塚権太夫が沖に漂う丸木舟を引き上げて見ると、世にも稀な美少女が倒れていた。少女は天竺(インド)の霖夷国・霖光(りんいこく・りんこう)の娘・金色姫だった。継母に妬まれ、獅子山、鷹の巣山、絶海の孤島に押し込められるが、無事に戻って来た。そこで、城の片隅に穴を掘って金色姫を埋めたが、そこから金色の光が射して来たのに驚き、ついに、桑の木で作った丸木舟に乗せて、海に流された。常陸国豊浦に流れ着いた姫は権太夫に救われたのだが、看護の甲斐なく、病死してしまった。死後、姫は小虫と変わり、桑の葉を食べて育つと、美しい糸を吐いて繭を作った。その繭から繰りとった絹糸で織り上げられたものが常陸絹織として、各地に広がっていった。こうして、絹織物により巨富を得た権太夫は、一宇を建立して蚕霊尊を祀ったのを創祀とする...。というのだが、「蚕影神社」でもそうだったが、この伝説は別当寺によって広められたものらしく、本来は、当神社の東、約200mに現存する「蚕霊山 千手院 星福寺」の奥之院本尊とされた「衣襲明神(きぬがさみょうじん)」(=馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)。古い記事だが当ブログの「建穂神社」2011年1月18日記事)参照。)の縁起だったようである。なお、現在の祭神は大気津比売命(オオゲツヒメ)。
さて、当地(旧・神栖町)では、農家の副業として明治中頃より養蚕が急速に広まり、気候が温暖なため蚕の卵を取る蚕種製造に適していたこともあり、明治時代末には繭の生産額が水産物を追い越すほどになった。ところが、太平洋戦争が始まると、食糧増産のため桑園は芋畑に代わり、戦後も澱粉製造のためのさつま芋生産が盛んとなって、養蚕業は衰退していった。昭和30年代後半、再び養蚕が見直された時期もあったが、鹿島地区の工業開発に加え、繭の価格下落などのため昭和58年に当地の養蚕事業は終了した、という。


写真1:「蠶靈神社」鳥居と社号標


写真2:拝殿


写真3:本殿。彩色が鮮やか。


写真4:境内の石碑
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権現塚古墳(茨城県神栖市)

2022-08-20 23:34:38 | 古墳
権現塚古墳(ごんげんづかこふん)。
場所:茨城県神栖市日川4241-1。茨城県道260号線(谷原息栖東庄線)「日川一番」交差点から北西へ約300m。駐車場なし。
「権現塚古墳」は、全長約20m、標高約5.6mの前方後円墳(現地説明板による。)で、前方部は西向き。前方部より後円部が高いことから、古墳時代前期に築造されたものと考えられている。神栖市では殆どの古墳が湮滅してしまい、市内唯一の前方後円墳であるという。発掘調査等も行われていないようで、これ以上のことはわからない(茨城県内だけでも、もっと大きいとか、古いとかの古墳は幾らでもあるから、やむを得ないだろう。)。重要なことは、この古墳が自然地形を利用して築造されたものらしいこと、そして、その位置が現・常陸利根川に面していること。つまり、古代の巨大な内海「香取海」と太平洋とが繋がっていた場所だということである。また、この古墳の直ぐ近くに「息栖神社旧地」がある。「息栖神社」(2017年12月2日記事)は、常陸国一宮「鹿島神宮」と下総国一宮「香取神宮」と合わせて「東国三社」と称され、「日本三代実録」仁和元年(885年)の記事に見える「於岐都説神」、即ち式外社(国史見在社)とするのが通説。応神天皇の時代に当地(神栖市日川)で創建したが、大同2年(807年)に現在地(神栖市息栖)に遷座したとされる。遷座の理由だが、大津波の被害に遭ったから、という伝承がある。大同2年という年号は、古社寺の創建年代等としてよく出てくるものなので、どの程度信じてよいか分からないが、これを信じるとすれば、「日本後紀」延暦18年(799年)条に「鹿島・那珂・久慈・多珂の4郡に、これまで見たこともないような津波が押し寄せた」(現代語訳)という記事があり、このときの津波によるものかもしれない。いずれにせよ、当地周辺の集落に住む人々がこの古墳を造り、「息栖神社」や「鹿島神宮」の神を奉じたということなのだろうと思われる。


写真1:「権現塚古墳」。東側から見る。後円部の正面と思われる。


写真2:同上、北側から見る。後円部。


写真3:同上、北西側から見る。左手の赤い自動車が突っ込んでいるところが括れ部分、右手が前方部。


写真4:同上、南東部から見る。前方部の端だが、かなり低くなっている。


写真5:同上、前方部(西向き)。


写真6:同上、後円部を見る。後円部墳頂に祠がある。


写真7:同上、祠に上る石段(後円部の南側)。


写真8:墳頂の祠(南向き)。「権現様」と呼ばれているようだが、正式名称・祭神不明。


写真9:同上、南側に鳥居がある。古墳の南側は田圃になっていて、参道は畦道。鳥居の先、約200mに常陸利根川が流れている。神社が南向きというのは極めて一般的だが、この場合は、川(かつては海?)側に向けて水上交通の守り神としたという感じがある。なお、鳥居に扁額があるが、神社名はない。


写真10:「息栖神社跡地」(場所:茨城県神栖市日川4232−1。「権現塚古墳」から北西に約60m進んで右折(北東へ)、約130m進ん右折(南東へ)、直ぐ。「石塚運動公園」の西の角。駐車場なし。)。説明板があるだけ。隣接して立派な石碑があるが、これは「石塚開発の碑」で、「息栖神社」とは無関係。
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波崎の大タブ

2022-08-13 23:36:09 | 巨樹
波崎の大タブ(はさきのおおたぶ)。別名:火伏せの樹。
場所:茨城県神栖市波崎3355(「神善寺」境内)。国道124号線「波崎総合支所入口」交差点から北東へ約600m進んで左折(北西へ)、国道117号線(深芝浜波崎線)を約1.3km。左側(西側)少し奥に「神善寺」山門が見える。駐車場スペースあり。
「波崎の大タブ」は、樹高15m、周囲8m10cm、樹齢約千年余(平成2年の神栖市教育委員会の現地説明板による。)というタブノキ(椨)の巨樹。樹木の大きさのランキングにはいろいろな考え方があり、基本的には幹周によるのだろうが、それでみても「波崎の大タブ」はタブノキで全国第10位以内には入り、茨城県内では最大クラスとされる。実際に見ると、広がった根張りの上に大きなコブがあり、横に伸びた枝が太く、長い。そのために、データよりも大きく感じる。昭和35年に茨城県指定天然記念物に指定され、「新日本名木百選」(平成2年)に、茨城県では取手市の「地蔵ケヤキ」(2021年10月9日記事)とともに選ばれている。
なお、「火伏せの樹」という別名は、天明年間(1781~1789年)に大火が発生した際、この木が延焼を食い止めたという霊験による。また、太平洋戦争末期の空襲でも、焼夷弾もこの木を避けるように落ち、火災に遭わなかった。このため、現在でも、「神善寺」には家内安全・火魔退散を祈願して護摩を焚く儀式が伝わっているという。

益田山 相応院 神善寺(ますださん そうおういん しんぜんじ)。
寺伝によれば、天喜4年(1056年)、高野山(「金剛峯寺」)から貞祐上人が十二善神を持ち来たり、現在地に開山したという。現在は真言宗智山派に属し、本尊は大日如来坐像(檜材の寄木造りで、室町時代の作と推定。茨城県指定文化財)。また、境内に朱塗りの釈迦堂があり、釈迦涅槃像(檜材の寄木造りで、鎌倉時代作と推定。茨城県指定文化財)。

蛇足:現・神栖市南部(旧・波崎町)は太平洋鹿島灘に東南に伸びた砂洲で、標高5m程度の平坦地が続いているが、古代には、標高がやや高いところが小島のように点在していたようである。当地の地名(字)は「舎利」といって、仏教にいう「仏舎利」(釈迦の遺骨)に因むのかと思うところだが、そうではなく、元は「砂里」だったという。タブノキは暖地の海岸近くに自生することが多く、成長が速くて巨樹になりやすい。古くから船の位置を知る目印になり、木材は船の用材とされた。民俗学者・折口信夫によれば、タブノキは、海を渡ってきた日本人の祖先の漂着地の印、漂着神の依り代だったという。因みに、千葉県香取市の「府馬の大クス」(2014年5月3日記事)も樹種としてはタブノキで、丘の東側の低くなっているところは、古代には海が入り込んでいたと思われ、やはり海上交通の目印になっていたかもしれない(「波崎の大タブ」と「府馬の大クス」とは、直線距離で約18km)。


茨城県教育委員会のHPから(波崎の大タブ)
同(木造 大日如来坐像)
同(木造 釈迦涅槃像)


写真1:「神善寺」山門


写真2:山門を潜ると、すぐ左手に「波崎の大タブ」がある。


写真3:同上、横に伸びた枝が凄い。


写真4:同上


写真5:同上、根元には約60体の大師像が、巨樹に向かって並べられている。


写真6:本堂


写真7:釈迦堂。神栖市指定文化財。
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手子后神社(茨城県神栖市)

2022-08-06 23:32:33 | 神社
手子后神社(てごさきじんじゃ)。通称:波崎明神。
場所:茨城県神栖市波崎8819。千葉県銚子市方面から利根川に架かる「銚子大橋」を渡り、国道124号線「銚子大橋入口」交差点(五差路)の歩道橋の直ぐ右側(東側)の道路に入る(鳥居が見える)。そのまま約170m進むと、駐車場がある。
社伝によれば、創建は神護景雲年間(767~770年)。古来、「息栖神社」(2017年12年2日記事)及び「大洗磯前神社」(2018年5月19日記事)とともに、常陸国一宮「鹿島神宮」の三摂社とされてきたという。現在の祭神は手子比売命(テゴヒメ)で、鹿島神(武甕槌命)の娘神とされる。近世には、「神遊社」、「天宮社」、「手子崎神社」等とも称されていた。明治6年、村社に列格。常陸国の南東端、現・利根川の河口近くに位置し、今も漁業関係者の崇敬が篤い。
さて、祭神の手子比売命であるが、中臣氏(藤原氏)の祖神・天児屋根命(アメノコヤネ)の別名という天足別命(アメノタルワケ)が鹿島神の子神ともされるが、娘神は一般には知られていない。古代、「萬葉集」などで「手児(てこ)」というのは「可愛い女の子」の意味があり、このブログ記事でも「手児の呼坂」(2011年5月10日記事)、「手児奈霊神堂」(2013年3月16日記事)などの例がある。そこで、「常陸国風土記」香島郡条に記述のある、所謂「童子女の松原」伝説の「海上の安是之嬢子(うなかみのあぜのいらつめ)」を祀ったものではないかとの説がある。「常陸国風土記」香島郡条では、例によって、まず建郡の事情が語られる。即ち、大化5年(649年)、香島郡は下総国海上国造の領内から「軽野」(現・神栖市知手付近。同町内に「軽野小学校」がある。)から南の1里と、常陸国那賀国造の領内から「寒田」(現・神栖市奥野谷付近)から北5里を合わせ、「鹿島神宮」のための神領として新設されたという。このことは、前提として重要な意味を持つと思われる。そして、「童子女の松原」伝説については、次のようになっている。昔、「那賀の寒田之郎子(なかのさむたのいらつこ)」という男と、「海上の安是之嬢子」(「安是」は、常陸国と下総国の国境付近)という女があって、いずれも容姿端麗で有名だった。その噂を聞いて、互いに慕う気持ちを持っていたところ、嬥歌(かがい。歌垣ともいう。)のときに偶々出会い、皆から離れ、松の木の下で語らいあった。時を忘れ、気が付くと夜が明けていた。人に見られることを恥じて、2人とも松の樹になってしまった。男の方を「奈美松」、女の方を「古津松」という...。と、このような話で、原文では四六駢儷体風の美文調で語られるのだが、なぜ、2人が恥じて松の樹になってしまったのか、現代人にはわかりにくいところがある。風土記の注に、この2人を「俗に、加味乃乎止古・加味乃乎止売(かみのおとこ・かみのおとめ)という。」とあって、「童子女」というのは、神に仕える男女だったということを意味しているらしい。そして、男は元・那賀国造領内、女は元・海上国造領内に分かれていて、仕える神や所属するコミュニティが異なっていたことから、自由な恋愛は許されず、タブーに触れて、死に追いやられたのだろうと解釈されているようである。
因みに、当神社の北東、約600m(直線距離)のところに「常陸国風土記 童子女(おとめ)の松原公園」がある。当神社は、現在では南東に伸びた砂洲の先端に位置するが、古代には現・神栖市南部(旧・波崎町)の殆どは海だった可能性があると思われる。そして、①古墳や古代の集落跡は現・神栖市日川付近が南限であること、②「常陸国風土記」によれば、「童子女の松原」は「軽野」の南にあると解されること、③同じく、「童子女の松原」は、近くに山や岩清水があり、遠くに海があるという記述になっていること、④当神社が「鹿島神宮」の摂社だとすると、(古代から存在したとしても)元はもっと「鹿島神宮」に近い場所にあったのではないかとみられることなどから、「童子女の松原」が現在の「常陸国風土記 童子女の松原公園」の近くにあったとは考えにくいようである。


写真1:「手子后神社」一の鳥居。「銚子大橋」北詰、利根川左岸(北岸)畔にある。


写真2:同上、二の鳥居


写真3:同上、三の鳥居。潜った左手に駐車場、社務所がある。


写真4:同上、拝殿


写真5:同上、本殿


写真6:同上、境内社「厳島神社」(祭神:市杵島姫命)


写真7:「常陸国風土記 童子女の松原公園」入口(場所:茨城県神栖市波崎9591。「手子后神社」境内入口前から東に約200mで左折して、茨城県道117号線(深芝を北へ約200m、五差路の交差点を正面右側の道路に入り、約350m。「神栖市はさき生涯学習センター」の裏手にある。同センター駐車場を利用。)


写真8:同上、「童子女の松原」石碑、銅像


写真9:同上、若い男女の銅像

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