神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

(伝)平国香の墓(茨城県筑西市)

2024-03-30 23:33:37 | 史跡・文化財
(伝)平国香の墓(でん たいらのくにかのはか)。
場所:茨城県筑西市東石田1048(「石田山 長光寺」の住所)付近。茨城県道45号線(つくば真岡線)と同132号線(赤浜上大島線)の「東石田」交差点から東へ約230m。駐車場あり。「鹿島神社」(住所:筑西市東石田919)は「長光寺」の西側の道路を北へ約600m、右折して(東へ)約150m。駐車場あり。「(伝)平国香の墓」は、「長光寺」境内入口から東へ約230m(押ボタン式信号機の先)の交差点を右折(南東へ)、約260mで突き当り、①左折して(東ヘ)約100m(畑の中)、②右折して(西へ)約50m(民家の庭の奥)。どちらも、私有地内なので注意。また、道路が狭くなるので、「長光寺」から徒歩を推奨。
平国香は、平姓を賜与されて臣籍降下した父・平高望(高望王)に従って昌泰元年(898年)に坂東に下り、常陸国筑波山西麓の真壁郡石田(現・茨城県筑西市)を本拠地とした。常陸大掾職(常陸国の国司の第三等官)にあった源護の娘を娶り、常陸大掾の地位を受け継いだ。承平5年(935年)、甥の平将門と戦って亡くなるが、子の貞盛が藤原秀郷とともに将門を討ちとって坂東平氏の勢力を拡大したことから、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の祖ともされる人物である。国香の最期の状況は「将門記」に書かれているが、これは軍記物語であり、史実かどうかは不明。また、その書きぶりからしてもはっきりしないところが多いが、要約すれば、源護の子である扶・隆・繁の兄弟が将門を待ち伏せして攻撃した「野本合戦」で、将門が扶らを撃退し、その勢いに乗じて国香の居館である「石田館」をも襲撃して、このとき国香は敗れて自殺したか、「石田館」に火をかけられて焼死したらしい。
ということで、現・筑西市東石田に曹洞宗「石田山 長光寺」があって、その境内が「石田館」跡との伝承があり、筑西市教育委員会による説明板も建てられている。ただし、遺構等はなく、「石田館」跡は、「長光寺」から北に約400m(直線距離)離れた「鹿島神社」付近とする説も有力。また、国香の墓とされる塚や石塔などが「長光寺」の南側に数ヵ所ある。ただし、こちらは、出土品などからすると、古墳時代の古墳跡のようである。


写真1:「長光寺」境内入口、寺号標。右側に平国香に関する説明板がある。


写真2:同上、山門と本堂(本尊:釈迦牟尼仏)。山門を入ったところに桜(ソメイヨシノ)の古木がある。


写真3:「鹿島神社」参道入口。左側の道路は下り坂になっていて、ここが台地の突端に当たることがわかる。


写真4:同上、鳥居と拝殿。


写真5:同上、本殿。社伝によれば、慶長16年(1611年)、常陸小太郎の長男・殿塚右京喜氏が創建。祭神:武甕槌命。


写真6:「鹿島神社」の東側(台地下)の道路から見た「筑波山」


写真7:「(伝)平国香の墓」①説明版。石塔は、この先。奥には「筑波山」が見える。


写真8:同上、木の根元に小さな石塔がある。


写真9:同上


写真10:「(伝)平国香の墓」②説明版。こちらは完全に民家敷地の奥に入っていくので、遠慮した。
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大増権現神社

2024-03-23 23:31:07 | 神社
大増権現神社(おおますごんげんじんじゃ)。
場所:茨城県石岡市大増。茨城県道64号線(土浦笠間線)「大増」交差点から南へ約190mで右折(西へ)、道なりに約300m。駐車場なし。
「八郷町の地名」(関肇編集、2003年)によれば、元は「加波山神社」(2021年1月2日記事)の里宮であったというが、信仰が薄れたのか、その後は寂れた。現在は、個人の所有地に有志により社殿が再建され、俗称「大摩羅権現神社」として復活した、とされる。
「加波山神社」は、式外社(国史見在社)「三枝祇神社」の論社で、加波山の山岳信仰に基づく修験の霊場だった。当神社から西へ約1.2km進んだところ(「林間学校 ことりの森」(旧「星の宮幼稚園」がある。)が登り口で、加波山山頂までの登山道があるとのこと(ただし、現在はかなり荒れている模様。)。なお、当神社の南、約1km(直線距離)のところに「加波山神社 八郷拝殿」がある(2021年1月2日記事の写真1~3)。
これ以上の情報はないが、「加波山神社」と関連がありそうなことと、神社の様子がユニークなので参拝してみた。


写真1:「大増権現神社」鳥居


写真2:社殿


写真3:狛犬代わり? のリンガ(社殿向かって左)。石造。


写真4:同上、向かって右。こちらの方がやや大きいが、コンクリート製? で、縦にヒビが入って、痛々しい。


写真5:社殿内部。神体もリンガ(陽石)のようで、インドではシバ神の象徴として信仰され、豊穣多産のシンボルとされる。


写真6:十九夜塔。女人講の供養塔で、如意輪観音が刻され、安産等の御利益があるという。さほど古いものではないようで、今も信仰が続いているのだろう。
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薬王山 長楽寺(茨城県石岡市)

2024-03-16 23:32:53 | 寺院
薬王山 長楽寺(やくおうさん ちょうらくじ)。別名:狢内薬師寺。
場所:茨城県石岡市龍明640。石岡市の通称・フルーツラインと茨城県道64号線(土浦笠間線)の「宇治会」交差点の南西直ぐの道路(コンビニ「セイコーマート 石岡宇治会店」の向かい側)に入り、西へ約1.3kmで「龍明公民館」があり、その駐車スペースに自動車は駐車させていただく。そこから更に西へ約220m進む(結構な上り坂)と、右に曲がっていく角にカーヴミラーがあるところの狭い道を直進する。約50mで境内への石段がある。
寺伝によれば、天長元年(824年)の創建で、当初は「滝本坊」と称したが、慶長10年(1605年)に「薬王山 長楽寺」に改めた。元は100m程下にあったのを、現在地に移したという。江戸時代の寺領は15石。本尊は薬師如来で、十二神将もあり、それらは室町時代~江戸時代初期のものとされる。真言宗豊山派に属するが、現在の堂宇は、本堂(薬師堂)と仁王門しかなく、境内に近代の人工物が何もないため時代劇の撮影場所として、よく利用されているとのこと。
現在の地名(大字)は「龍明(りゅうめい)」だが、平成17年、(旧)石岡市と八郷町が合併したときに「狢内(むじなうち)」から改称した。ムジナというのは、関東ではタヌキやアナグマの総称とされるので、イメージが悪いとされたのかもしれない。ただし、「八郷町の地名」(関肇編集)によれば、獣のムジナではなく、「毟り取る(むしりとる)」の転訛で、沢が流れを変える(そこで土を削り取る)場所という意味だろうというようなことが書かれている。あるいは、「滝本坊」という当寺院の旧名が示すように、流れが速い川でもあったのかもしれない。当集落は足尾山の東麓に当たるが、龍明は元々、足尾山から伸びた北側の稜線上に位置する地名(小字)で、それを大字にしたらしい。集落としては、14世紀中頃、宇治会二条山館の領主・路川氏が佐竹氏に追われて足尾山麓に隠退させられたことによってできたとされるが、薬師如来像や本堂(薬師堂)の様式感は、その頃のものを伝えているように思われる。
なお、江戸時代後期の国学者・平田篤胤が神仙界で修行したという少年・寅吉からの聞き書きをまとめた「仙境異聞」には、寅吉の話として、「常陸国の岩間山」(現・茨城県笠間市の愛宕山。「飯綱神社」(2018年12月15日記事)参照)には十三天狗がいるが、元は、十二天狗だった。狢打村の長楽寺に真言僧がいて、仏道修行している折、釈迦如来の迎えがあってついていったところ、実は岩間山天狗が化けたもので、その僧を仲間に加えて十三天狗になった。寅吉の師である杉山僧正(すぎやまそうしょう)は、この岩間山十三天狗の一柱である。」というような記述がある。篤胤は、あちこち尋ねて、細川長門守の家臣・岸小平治の親族から、同様の話が存在することを確認している。この岸小平治という人物は、天狗になった「長楽寺」の僧と懇意な交流があったらしい。因みに、伝説(民話)では、この「長楽寺」の僧は修験者で、老母と住んでいた。ある日、母から、日本一の祇園祭という津島の「祇園」(現・愛知県津島市の「津島神社」)を見たいと言われ、母に目隠しをさせて背負って飛び、津島の「祇園」に連れて行った。帰ってくると、流石に疲れたらしく、絶対に開けて見るなと言って奥の座敷に籠ってしまった。夕刻になっても出てこない息子を心配して、母が座敷のふすまを開けて見ると、息子は座敷一杯に大きな羽を広げて寝ていた。その姿を見られた息子は、もうここには居られないといって、姿を消してしまった。これが「長楽寺」の天狗だという、というようなことになっている(かなり要約。民話なので、他のヴァリエーションあり。)。


写真1:「長楽寺」参道、石段。苔むした手洗石が良い感じ。


写真2:仁王門


写真3:金剛力士像(吽形)


写真4:本堂(薬師堂)


写真5:同上


写真6:石仏など


写真7:同上


写真8:廻国塔


写真9:宝篋印塔


写真10:イズナ祠(天狗社)? 本堂左手を少し上ったところにある。かつては天狗像があり、村に疫病が流行ったとき、その像を背負い村中を廻って祈願したところ、忽ち病人が回復したという伝説もある。
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佐久の大杉

2024-03-09 23:32:38 | 巨樹
佐久の大杉(さくのおおすぎ)。
場所:茨城県石岡市佐久622。「瓦会小学校」校門前から西へ約150mのところ(佐久集落への案内看板が出ている。)で左折(南~南西へ)、約1.1km。「佐久農村集落センター」の奥に「鹿島神社」が鎮座。駐車スペース有り。
「佐久の大杉」は、石岡市佐久集落の中央部にある杉(スギ)の巨木で、樹高約20m、目通り幹囲約8.8m)、推定樹齢約1300年とされる。伝承によれば、「大化の改新」(645年)の頃、大和朝廷からこの地に派遣された国司の後裔が手植えした杉であるという。応永34年(1427年)に神社が創建されたとき「すでに千年に近い杉」といわれていて、元禄16年(1704年)に武甕槌尊を祭神に迎えて「鹿島神社」となったときには「千年を越す巨木」といわれたとのこと。よって、「鹿島神社」の御神木ではあるが、神社の創建よりもはるかに古くから存在したことになる。当地の南、約500mのところに4世紀後半~5世紀初頭頃の前方後円墳「佐自塚古墳」、当地の北、約200mのところに「佐久上之内遺跡」・「佐久松山遺跡」(古墳時代の豪族居館跡らしき方形濠跡や奈良~平安時代の集落跡など)があり、「鹿島神社」境内からも皿・坏など供献用の須恵器が発見されていることから、当地は元々、古代社会において祭祀を執行する神聖な場所であったと考えられている。近代でも、太平洋戦争中には、兵士が武運長久を祈願し、樹皮をお守りにして戦地に赴いたという。
昭和16年に茨城県指定天然記念物に指定されたが、昭和41年の台風により、枯損していた上部10m程が倒壊してしまったので、元は約30mの高さがあったことになる。「八郷町誌」(昭和45年)では「余命いくばくもないのが惜しまれている」とまで書かれていたが、その後、地域住民らが立ち上がり、平成9年度から樹勢回復事業を開始し、土壌改良に加え、枝受けの銅管支柱や避雷針、見学用歩路などが設置されるなど、今も大事に保護が続けられている。
蛇足:「佐自塚古墳(さじづかこふん)」(場所:石岡市佐久170外)は墳丘長58m、後円部直径35m・高さ6m、前方部幅27m・高さ4.3m。昭和36年に発掘調査が行われ、不規則な透かしを持つ器台系円筒埴輪が検出されたほか、埋葬施設として後円部墳頂中央に全長約6mの粘土槨が確認された。その中に、勾玉・管玉・竹櫛・土師器の壺などが見つかっている。埋葬者は不明だが、伝承によれば、第10代・崇神天皇の皇子で上毛野君や下毛野君の始祖となった豊城入彦命の後裔・佐自努公が当地を治め、「佐自塚古墳」がその墳墓であるとされる。なお、当古墳の南、約550mのところにある「丸山古墳」(2018年10月27日記事)は豊城入彦命の墳墓との伝承があり、当古墳はそれに続く時期の築造とみられる。また、「佐久」という地名も佐自努公が訛ったものという(ただし、「佐」は「狭」で、細長い台地を示す地名とする説が有力。)。


茨城県教育委員会のHPから(佐久の大杉)

石岡市観光協会のHPから(佐久の大杉)

石岡市観光協会のHPから(佐自塚古墳)


写真1:「鹿島神社」正面。祭神:武甕槌尊、御神体は金幣であるという。


写真2:社殿の背後に「佐久の大杉」


写真3:同上


写真4:大杉の片側は白骨化している。


写真5:同上


写真6:同上


写真7:同上


写真8:参道にある「光明真言供養碑」など
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晴明稲荷大明神(茨城県石岡市)

2024-03-02 23:33:03 | 神社
晴明稲荷大明神(せいめいいなりだいみょうじん)。
場所:茨城県石岡市吉生723−1。石岡市道「フルーツライン」の「吉生」交差点から西へ約500mで左折(南へ)、道なりに約200m。駐車スペース有り。
当ブログで以前、平安時代の陰陽師として有名な安倍晴明(921?~1005年)の現・千葉県銚子市に残る伝説の地について4回にわたって書いた。その最初の項「晴明稲荷」(2014年6月7日記事)で、晴明に関する基礎情報を記したので、そちらを参照していただくとして、その際、現・茨城県桜川市猫島に「誕生の地」とされるところがあることも紹介した(同記事の写真3「安倍晴明誕生の地」(「晴明橋公園」))。晴明が常陸国生まれであることは、陰陽道の秘伝書「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集」(略して「簠簋内伝(ほきないでん)」)の注釈書とされる「簠簋抄」巻頭の由来に、「簠簋内伝」が晴明に伝えられるようになった事情や晴明が上洛して陰陽師となっていく経緯が書かれている。「簠簋内伝」自体が中世の偽書とされるので、「簠簋抄」の内容も事実ではなく、物語に過ぎないが、その後、現在に至るまでの超人としての晴明の伝説の元ネタとなっている。極めて省略して書くと、「霊亀3年(717年)、遣唐使として唐に渡った阿倍仲麻呂が武帝に責め殺されて帰国できず、死して赤鬼となった。同じく入唐して幽閉された吉備真備は仲麻呂の助けにより武帝の難題を退けて、多くの宝物を賜ったが、その中に、元は天竺で文殊菩薩が著したとされる「簠簋内伝」があった。帰国後、真備は、助けてくれた仲麻呂の子孫を探し、常陸国の筑波山麓、吉生または真壁の猫島に子孫が住むということを聞いた。吉生の村に至ると、6~7歳の子供が12~13人いる中に、オーラを放つ童子がいた。これが後の安倍晴明で、「簠簋内伝」を伝えられた。晴明は、「鹿島神宮」に100日参籠し、99日目に小蛇(実は竜宮の姫)を助けたことで、鳥の囀りの内容を理解できるようになり、その能力で天皇の病気を平癒させたことが陰陽師となる切っ掛けとなった。なお、晴明の母は和泉国「信太明神」(現・大阪府和泉市の式内社・和泉国三宮「聖神社」)の本体たる神狐で、猫島に3年暮らしたときに晴明を産んだ。」とされる。つまり、晴明が阿倍仲麻呂(筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫)の子孫という名族の血統に加えて、神狐を母とするという異類の能力も受け継いでいると説く。
さて、「簠簋抄」では、晴明の生誕地を猫島(現・桜川市猫島)とするが、真備が晴明に出会うのは吉生(現・石岡市吉生)としている。その吉生に現在も「本圖(もとづ)家」という旧家があり、その敷地内に稲荷社(神体は龍の髭と伝えられる。)や五角形の井戸(五角形は通称「安倍晴明判」という五芒星の紋に因む。)などがあったらしい。井戸は今は無いというが、推測するに、稲荷社の方は「晴明稲荷大明神」として一般に参拝ができるようにされたようで、訪問時にもアルコール飲料やペットボトルのお茶などが供えられていた。なお、本圖家は、同じ吉生にある天台宗「峰寺山 西光院」(前項)を創建した僧・徳一(一説に藤原仲麻呂=恵美押勝の子という。)の後裔であるとか、「西光院」の別当職を務めたなどと伝えられている。


「晴明稲荷」(2014年6月7日記事)


写真1:「晴明稲荷大明神」鳥居


写真2:拝殿


写真3:本殿


写真4:境内社
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