神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

駿河国分寺(その2・片山廃寺跡)

2011-05-31 23:20:13 | 史跡・文化財
片山廃寺跡(かたやまはいじあと)。
場所:静岡県静岡市駿河区大谷。県道74号線(山脇大谷線、通称:大谷街道)が東名高速道路の高架と交差する付近。駐車場なし。
昭和5年、県立静岡中学(現・静岡高校)の大沢和夫教諭により発見された奈良時代後期(8世紀後半)の廃寺跡である。生徒と訪れた遠足で、生徒が偶然に拾った古瓦の破片が発見のきっかけといわれている。実は、元々ここに古寺の跡があったことは知られていたが、「久能寺」(2011年2月4日記事)の末寺の1つと伝承されてきた。昭和23年以降の数次にわたる発掘調査により、方2町(約218m四方)の寺域に、南大門、金堂、講堂、僧坊、回廊などを有する大規模な古代寺院の跡であることがわかった。現在では、この「片山廃寺跡」が、「駿河国分寺」であっただろうと考えられている。
しかし、塔跡が発見されなかったために、有力豪族の氏寺であるという説(「静岡県史」など)も根強くある。なぜ、そんなに塔にこだわるかというと、天平13年(741年)に国分寺建立の詔が出される前の年、全国に七重塔を建てるべきことの詔が出されており、各国の国分寺には七重塔があった、と考えられているからである。そもそも仏塔(ストゥーパ)というのは、釈迦の骨(舎利)を納めた塚(墓)であり、本来は金堂や講堂よりも重要な施設であった。加えて、「片山廃寺跡」は旧・有度郡にあり、「駿河国府」の想定所在地(旧・安倍郡)と別の郡にあることなども、豪族の氏寺であるという説の根拠になっている。
これに対して、「片山廃寺跡」を「駿河国分寺」とする説からは、①伽藍配置が「出雲国分寺」のものと似ていること、②方2町という寺域の広さなど、群を抜いて規模が大きく、駿河国では他に発見されていないこと、③約1km南に「宮川窯跡」があり、当寺の瓦を焼く専用窯であったと思われること、④隣接する「白山神社」の手水鉢が、塔心礎であった可能性があること、⑤国府と国分寺が別の郡に分かれているのは他国にも例があること、などの根拠が示された。が、塔跡が発見されない限りは、決め手に欠けた。昭和40年9月に「国指定史跡」に指定されたが、「駿河国分寺址」ではなく、地名を採って「片山廃寺跡」となった。
ところが、最近の発掘調査で注目される発見があった。ネット検索しても、この発見については殆ど触れられていないので、要旨をここに紹介しておく。「静岡市駿河区大谷895-1(白山神社境内に接した南側)でアパート建設が計画され、平成20年11月に発掘調査が行われた。この調査により、建物の掘り込み地業が発見され、片山廃寺跡の生活面(表土下77cm前後)から掘り込まれており、方向も今まで確認された金堂跡、講堂跡、僧房跡と一致している。これらのことから、この掘り込み地業は片山廃寺跡に伴う建物跡の地下構造であると考えられる。この建物跡が、伽藍の一部とするなら、伽藍中軸線の東南に位置することから、塔跡である可能性はきわめて高い。南北の長さは16.5mとなり(西側は調査区域外)、三河国分寺塔跡の16.8mに類似する。」(「静岡市内遺跡群発掘調査報告書 平成20年度」(平成21年3月)。この発見によって、「片山廃寺跡」が駿河国分寺であった可能性が相当高まったのではないだろうか。
さて、従前の発掘調査で、「片山廃寺跡」は平安時代前期(10世紀前半)には火災によって焼失し、その後(当地では)再建されなかったことが判明していた。「駿河国国分寺」(2011年5月27日記事)が「駿河国分寺」の後身なら、何らかの事情があって、国府や総社の近くに移転したのだろうということになると思われる。

なお、南隣の「白山神社」は、創建時期不明。祭神は伊弉冊命(イザナミ)。場所:静岡市駿河区大谷896。駐車場なし。元は「白山権現」といい、往古は「浄光院」という寺院の鎮守であったという。

また、「片山廃寺跡」の南東、約400mのところに「諏訪神社」(祭神:建御名方神、場所:静岡市駿河区大谷4475、駐車場なし)があるが、この神社は古墳の上に鎮座している。円墳または帆立貝式古墳(直径約30m、高さ5m)で、5世紀~6世紀前半頃のもの。発掘調査が行われていないため、詳細は不明だが、早くから開けた地区だったと思われる。


静岡市のHPから(国指定史跡 片山廃寺跡)


写真1:「片山廃寺跡」。遺跡の上を東名高速道路が横切っている。


写真2:「片山廃寺跡」南側の「白山神社」鳥居


写真3:「白山神社」境内の変わった形の石(塔心礎? どうも違うような・・・)


写真4:「片山廃寺跡」近くにある「諏訪神社」・「諏訪神社古墳(宮川古墳群第4号墳)」
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駿河国分寺(その1・竜池山 泉動院 国分寺)

2011-05-27 23:07:28 | 寺院
駿河国国分寺(するがのくにこくぶんじ)。
場所:静岡市葵区長谷町10。「静岡浅間神社」石鳥居から、通称「長谷通り」を東に約400m、狭い道に少し入る。駐車場なし。
現在は真言宗の寺院で、本尊は地蔵菩薩。
江戸時代末頃(一説には明治5年(1872年))まで、当地に「竜池山 泉動院 国分寺(りゅうちさん せんどういん こくぶんじ)」という寺院があった。「泉動院」とは変わった寺号だが、中世の文書には「千燈院」または「仙幢院」とも記され、国分寺の別名、または本坊の名ではないかとされている。「静岡県史」などでは、天平13年(741年)に聖武天皇が諸国に建立を命じた国分寺の1つである「駿河国分寺」の後身であり、当初から当地にあったとみている。
永禄年間(1558~70年)、武田軍が駿河国に乱入し、「竜池山 泉動院 国分寺」も兵火にあった。本尊の薬師如来像(金銅仏)は鉄砲の弾の材料として鋳潰されたが、なぜか首だけは溶けなかったので、池に投げ捨てられた。その後、仏頭だけが安置されてきたが、江戸時代末(または明治初め)寺が廃寺になると、仏頭は本寺である「音羽山 清水寺」(静岡市葵区音羽町)に納められた、という。ちょっと不思議な話であるが、いったん廃寺になったということから、現在の「駿河国国分寺」は、その由緒により、消滅を惜しんで再興されたものと思われる。
ただし、元々の「駿河国分寺」が当地にあったかは、定かではない。駿河国府もそうだが、「長谷通り」付近からは、発掘調査で古代の遺物・遺構を示す出土物がない。徳川家康が駿府城築城の際、付近の石を全て集めた(「石狩り」)ため、なくなってしまったのだという説もあるが、どうだろうか。昭和5年に「片山廃寺跡」が発見されると、次第にそちらが元々の「駿河国分寺」だったのではないか、とみられるようになった。しかし、中世には「国分寺」という名の寺院が当地にあったらしいことはほぼ確実なので、あるいは、中世までに「駿河国分寺」が当地に移転してきたのではないか、とも考えられている。
さて、「駿河国分寺」に関する不思議な話をもう1つ。貞観14年(872年)、国分寺の別堂(塔頭の1つ?)に大蛇が出て般若心経31巻を呑みこ込んだ。すると、掛軸の観音が抜け出て、縄を蛇の尾に結び付けて木に逆さに吊るした。大蛇は呑んだ経を吐いて、地に落ちた。しばらく死んだようになっていたが、生き返って逃げたという。


写真1:「駿河国国分寺」


写真2:狭い境内の隅にある石塔。「日本六拾六國於國分寺立之」とあり、当寺が「国分寺」であるとして安永6年(1777年)に寄進されたもの。
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駿河国府

2011-05-24 21:55:07 | 史跡・文化財
駿河国府の所在地は、まだ確定されていない。元々は旧・駿河郡にあったとされる(所在地は未確定だが、現在の静岡県沼津市大岡付近とされている。)が、天武天皇9年(680年)に伊豆国を分離した際、旧・安倍郡に移したという。「和名抄」には「国府在安倍郡上十八日下九日」とある。旧・安倍郡といっても広いが、現在の駿府城址(駿府公園)を中心とした地域内にあることでは、ほぼ異論がない。
有力なのは、従来から、「静岡浅間神社」(式内社「神部神社」と「浅間神社(富士新宮)」の合殿)正面参道となっている所謂「長谷通り」を南辺とする地域で、現在の静岡高校、あるいはその東側付近が想定されていた。想定の根拠としては、①総社(式内社「神部神社」)及び国分寺が近くにあること、②現在は「長谷」を「ハセ」と訓んでいるが、元は「チョウヤ」(=庁屋)だったのではないか(因みに、伊豆国一宮「三嶋大社」の近くにかつて「長谷町」という地名があって、こちらは「チョウヤ」と訓んでおり、国府所在地の有力候補となっている。)、③長谷通りの北側は、静岡平野の条里地割とは異なって、正方位の地割が存在する、等があげられる。しかし、静岡高校敷地等の発掘調査では、全くそれらしい出土物がない。また、国分寺の所在地も、「片山廃寺」発掘により、元から長谷通りにあったわけではないと思われるようになった。「長谷」という地名も、かつて存在した(新)長谷寺に由来し、元から「ハセ」と訓じたのではないか、ともいわれる。
静岡市街地は度重なる戦火で破壊されたうえ、現在は住宅も建て込んでいて、発掘調査はなかなか困難であるが、断片的なその成果から、最近では駿府城址の東南部を中心とする地域が有力になってきた。旧・青葉小学校付近からは古代には希少な青磁・白磁の破片が多数出土したとされる。
徳川家康が薩摩土手(2010年12月28日記事)を築くまでは、安倍川は静岡平野を多くの枝川となって、賤機山の南端の先から東に流れていたとされる。駿府城の南北の濠は、この川の水を利用したものではなかったか。一般に、国府は、海か川の近くに設置されることが多かったとされる。それは、水上交通を利用するためだという。古代の安倍川に、どの程度の水量があったか不明だが、川に挟まれた微高地上に駿河国府が築かれたのではなかろうか(因みに、静岡市街地では、「静岡浅間神社」から駿府城址西辺にかけての地域が最も標高が高い(7m)という。)。
駿府城が築かれる前には、駿河守護職を世襲した駿河今川家第4代の今川範政が「府中城」を築いた。しかし、これは「城」というより行政のための「館」で、一般に「今川館」と称されている。要塞としての「城」は、「賤機山城」が想定されている。合戦になれば、「今川館」から「賤機山城」に移ったわけである。「今川館」の所在地も未確定だが、すぐに賤機山に移れる場所が候補地で、静岡市駿河区屋形町が「今川館」に由来する町名ともいわれている。あるいは、駿府城址の西側ともされる(静岡地方裁判所付近から中世の高級什器が出土している。)。
ところで、国府の敷地の広さは、一般に、方8町(=約873m四方)といわれていた。しかし、各地の調査が進むにつれて、地形的な制約を受けており、必ずしも方8町とは限らないことがわかってきた。駿河国府の所在地を「長谷通り」付近とする説では、方5町(=約545m四方)が想定されていたが、現在の駿府城址は約700m四方くらいである。徳川家康が隠居所として駿府城を普請したとき、北・東・南方向にかなり拡張した、とされている。
以上のようなことを考えると、安倍川の流路の制約等もあって、駿河国府は現・駿府城址の東側を中心として方5~6町程度、その後、国府が衰退すると、その西側に、国府敷地の一部を侵奪する形で「今川館」が築かれたのではなかろうか。それとも、駿河国府も方8町くらいあったと考えるなら、現・駿府城址がすっぽり入るくらいの敷地が国府域としてあり、それが、権力移動によってそっくり「今川館」となり、更に「駿府城」になったと考えるしかないのだろうか。


写真1:向かって右・国府址、左国分僧寺址の石碑。場所:静岡市葵区長谷町。「しずてつストア長谷通り店」の西、約50m。「駿河国分寺」を称する寺は現存するが、国府址らしき痕跡は何もない。


写真2:駿府城址の東南に復元された東御門と巽櫓。背後に見えるのは静岡県庁。


写真3:2009年8月11日に発生した静岡沖地震で崩落した駿府城址(大手御門付近)の石垣の復旧工事。外濠の水は農業用水として利用されているため、「農業予算」で復旧工事が行われていた。
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八幡神社(静岡市駿河区八幡山)

2011-05-20 22:55:40 | 神社
八幡神社(はちまんじんじゃ)。別名:駿府八幡宮。
場所:静岡市駿河区八幡山1-1。県道384号線(高松日出線、通称:久能街道)と県道407号線(静岡草薙清水線、通称:南幹線)の「八幡2丁目」交差点から東南へ約400m。駐車場有り。「八幡2丁目」交差点から先(東南)は急に道路が狭くなり、曲がりくねっているが、これも「久能街道」で、「静岡浅間神社」(富士新宮)~「駿府八幡宮」~「久能山東照宮」(旧・「久能寺」)を結ぶ参詣の道となっている。
社伝によれば、創建は推古天皇5年(597年)で、豊前国一宮「宇佐神宮」の御分霊を勧請した、という。しかし、「宇佐神宮」自体の創建が欽明天皇32年(571年)とされているので、いささか早すぎるのではないだろうか。一説によれば、駿河国の国府八幡宮として祀られたともいう。因みに、遠江国では、国府想定地(「御殿・二之宮遺跡」、磐田市中泉)の北、約1.2kmのところに「府八幡宮」が現存し、古代東海道を挟んで「遠江国分寺」と向かい合っている。
祭神は八幡三所神(応神天皇、比売大神、神功皇后)。八幡神は、源氏の氏神とされたために、平安時代末期頃から各地に勧請されたようで、当神社もそうした神社の1つだっただろうと思われる。ただし、八幡山は静岡平野に浮かぶ島のような小山で、古代東海道を北に見下ろす位置にあって、古代から聖地であっただろうと思われる。例えば、八幡山中腹、当神社本殿の西側に「渡神社」という小社があるが、祭神は「渡大神」という正体不明の神で、元々は当地の地主神だったかもしれない。また、八幡山には古墳もあり(「八幡山古墳群」)、特にその「2号墳」は当神社本殿の向かって左側にあり、一説には「有度郡牛麻呂(うとべのうしまろ)」(奈良時代の防人で、万葉集に歌が収載されている。)の墓ともいわれているが、勾玉等も出土していることから、当地の有力者の墳墓であった可能性が高い。なお、この古墳は入口が露出していて、「静岡浅間神社」または「駿府城」~「久能山東照宮」とトンネルでつながっているというトンデモ説があり、当神社の説明板にも記載されているが、当然ながら「構造上そのようなことはありません」とあっさり否定されている。
ところで、当神社本殿の向かって左手に「庁の宮」と呼ばれる小祠がある。祭神は高皇産霊神(タカミムスビ)とされるが、「庁の宮」は、なぜか「静岡浅間神社」の庁守太夫という神職が神事を行うことになっている(なお、「静岡浅間神社」には「庁の宮」という社はない。)。「静岡浅間神社」のうち式内社「神部神社」は駿河国総社であったとされていることや、「庁の宮」という名からも、国府と何らかの関係があったことが窺われる。


「00shizuoka静岡観光おでかけガイド」さんのHPから(八幡山古墳群)


写真1:「八幡神社」正面鳥居。社号標もシンプルに「八幡神社」


写真2:拝殿は山麓にあり、本殿は拝殿背後の急な石段の上、八幡山中腹にある。


写真3:本殿


写真4:「庁の宮」


写真5:八幡山には中世に「八幡山城」が築かれた。


写真6:八幡山上から見える富士山。手前は、再開発が進むJR「東静岡」駅周辺。
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三之御前社

2011-05-17 22:07:01 | 神社
三之御前社(さんのごぜんしゃ)。
場所:静岡市葵区日出町6-1。国道1号線の1本北側の道路の角で、「トヨタカローラ静岡」本社の裏(北側)辺り。駐車場なし。
創建時期不明。珍しい社号だが、「三之御前」、即ち祭神は、浅間大神の第三御子神という説もあった。浅間大神=木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤビメ)の三男といえば、山幸彦こと火遠理命(ホオリ)で、神武天皇の祖父に当たる。因みに、「静岡浅間神社」境内の「八千戈神社」相殿に祀られた浅間神社末社9社のなかに「三之御前社」がある(ただし、祭神は瓊瓊杵尊(ニニギ)=コノハナノサクヤビメの夫神である。)。しかし、天保年間(1830~44年)の神主中村靱負により、いわゆる宗像三女神のことであるとされ、現在まで受け継がれている。当神社の南に八幡神社(駿河八幡宮)があり、同神社が豊前国一宮「宇佐神宮」から勧請されたときに、同じ九州から式内社「宗像大社」からいっしょに勧請されたものだろうともいう。
実は、当神社の元の鎮座地は現・静岡ガス本社付近(静岡市駿河区八幡)、即ち、古代東海道「横田」駅家があったと想定される場所付近にあった。思えば、国道1号線と久能街道が交差するここは、かつてJR東海道線がまだ高架化されていなかったとき、「八幡の踏切」があり、いわゆる「開かずの踏切」として有名だった。昔から交通の要衝であった場所だったのだろう。とすると、ここに交通安全の神である宗像三女神が勧請されたのは当然だったかもしれない。


写真1:「三之御前社」鳥居


写真2:社殿
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