神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

御前塚古墳・藤塚古墳(茨城県笠間市)

2023-12-30 23:36:23 | 古墳
御前塚古墳(ごぜんつかこふん)・藤塚古墳(ふじつかこふん)。御前塚古墳群1号墳・2号墳。
場所:茨城県笠間市泉1956-1。国道355号線と茨城県道43号線(茨城岩間線)の交差点(角にコンビニ「セブンイレブン岩間泉店」がある。)から国道を北へ約750mで左折(西へ)、約150m進んで、突き当りを左に入る。そこが「笠間市泉運動広場」駐車場で、駐車場の奥、グラウンドの東側に「御前塚古墳」がある。なお、国道から入る道路は、幅がかなり狭いので注意。
「御前塚古墳」は、9基からなる御前塚古墳群の1号墳で、直径約60m・高さ約6mの円墳。約20m幅の周溝があったとされ、これを含めると全長は約100mと推定されている。この大きさは、茨城県内最大の「車塚古墳」(茨城県大洗町、2018年6月30日記事)の直径約88mに次ぎ、円墳としては全国的にも有数のものと言える。3段築成で、円筒埴輪片等から5世紀前半の古墳と推定されている。笠間市指定史跡。
もう1つ特徴的なのは、「御前塚古墳」の南約60mのところに御前塚古墳群2号墳として「藤塚古墳」があり、これも「御前塚古墳」とほぼ同規模とされている(他の7つは中~小規模で陪塚とみられる。)。こちらのサイズは、現在の直径は約40mだが、当初は約56mあったとみられており、こちらも周溝幅約16mを合わせると、全長は約88mと推定されている。この周溝幅を考えると、「御前塚古墳」と「藤塚古墳」の間は約5mしか離れていなかったことになる。「藤塚古墳」の周溝からは、小型箱式石棺が出土した。石棺は5枚の石材で構成され、蓋石は長さ1.19m・最大幅0.61mで、重さ106kg。中から、滑石製の勾玉と269個の臼石(5円硬貨のような形のもの。祭祀用とされる。)が発見された。なぜ、周溝内にあったかは不明。こちらも、古墳の築造時期は5世紀前半と推定されている。この2つの古墳とも、主体部は未発掘で、被葬者の伝承等もないが、当地の有力首長の墳墓とみられている。
因みに、「藤塚古墳」墳頂には、「藤原藤房卿遺蹟」という石碑が建てられている。古くから貴人の墓という伝承があり、当地にあった「光西寺」(廃寺)の「神塚」といわれていた。昭和9年に、鎌倉時代末~南北朝時代の公卿・藤原(万里小路)藤房の法名とされる「無等良雄(むらりょうゆう)」と俗名「藤原藤房」と刻した墓碑らしき石碑が発掘され、昭和10年に「藤原藤房卿遺蹟」として整備されて「藤塚」と称されるようになったという。藤原藤房については、前項「藤原藤房卿遺跡」(現・茨城県土浦市)に書いたが、第96代・後醍醐天皇の側近だったものの、「建武の新政」が始まってから政策に不満を持って突然出家し、その後消息不明になった人物である(このため、全国各地に墓とされるものがある。)。江戸時代、儒学者・安東省菴によって平重盛・楠木正成と共に日本三忠臣の1人に数えられたこともあり、昭和9年というのが建武元年(1334年)からちょうど600年になることから、「忠君愛国」精神発揚と結びついたものと思われる。なお、こちらのほうは、「藤塚古墳」としても「藤原藤房卿遺蹟」としても史跡等には指定されていない。


写真1:「御前塚古墳」。北側に石の標柱と上り口がある。


写真2:同上。一段目が何となくわかる。二段目は判然としていない。


写真3:同上、墳頂。平坦部は直径約20mと結構広いが、元々、このくらいの広さがあったらしい。


写真4:同上、東側から見る。かなり急傾斜。


写真5:同上(全景)、西側からみる。


写真6:国道沿いにある「藤原藤房郷遺蹟」石碑(「郷」は「卿」の誤りだろう。)。「御膳山古墳」への入口の南、約160m。「藤塚古墳」には、ここから西へ約290m進む。この道路も狭いので注意。「藤塚古墳」前に若干の駐車スペースあり。


写真7:「藤塚古墳」(「藤原藤房卿遺蹟」)入口の鳥居(古墳の南側)。ここから約60mの参道? がある。


写真8:同上、墳頂への石段。ここからが古墳になるが、かなり高さがあることがわかる(古墳の高さは約6.5mとされている。)。


写真9:同上、「藤原藤房卿遺蹟」石碑。後ろには藤棚もある。こちらの墳頂から北側に「御前塚古墳」が見えるが、北側には下りる道がないので、南側からぐるりと回っていく必要がある。
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藤原藤房卿遺跡(茨城県土浦市)

2023-12-23 23:31:50 | 史跡・文化財
藤原藤房卿遺跡(ふじわらふじふさきょういせき)。別名:藤原藤房髪塔塚(ふじわらふじふさはつとうづか)。
場所:茨城県土浦市藤沢1797。国道125号線と茨城県道201号線(藤沢荒川沖線)の交差点(通称「藤沢十字路」)から、県道を南へ約450m進んで分岐を右へ(東へ)、更に約100m進んだところ(「防火水そう」の赤い標識がある。)で右折(北へ)。ただし、ここからは狭い道路になり、目的地には駐車場がないので、右折せずに少し先へ進むと、「つくば霞ヶ浦りんりんロード 藤沢休憩所」(旧・「筑波鉄道 藤沢駅」)の駐車場がある。前記の台地上への入口から約160m進んで、突き当りを左折(南西へ)、約60m。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ。藤原は本姓)は、第96代・後醍醐天皇の側近の公卿(正二位・中納言)で、元弘元年(1331年)に天皇の鎌倉幕府打倒の計画(「元弘の乱」)に従ったが、露見して捕らえられた。翌年には常陸国に配流となり、現・茨城県つくば市の小田城主・小田高知(後に治久に改名)に預けられて支城・藤沢城に籠居した。なお、小田高知(治久)は鎌倉幕府側だったが、藤房に感化されてか、後に上洛して後醍醐天皇の南朝方につくことになる。元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅ぶと、藤房は京都に戻って復官し、恩賞方の頭人などを務めた。しかし、軍記物語「太平記」などによれば、恩賞の不公平等などに不満を抱き「建武の新政」を批判、建武元年(1334年)に出家してしまい、その後の消息が全く不明となった(出家の理由については、「太平記」の記事と事実が異なることが多々あって、実際は不詳。)。そのため、臨済宗大本山「妙心寺」(「正法山 妙心禅寺」、現・京都市右京区)2世・授翁宗弼と同一人物とする説や、全国各地を行脚した、あるいは中国(元)に行った、という説もあり、そのため、藤房の墓というものが各地にあるという。そのような伝説がある人物なのだが、当地の「藤原藤房卿遺跡」は、藤房が当地に流されたとき、剃髪した髪の毛を約10m四方の塚に埋めたとされるもので、墓ではない。昭和14年に茨城県の史跡に指定されている。
因みに、「藤沢城」は比高約20mの台地上となる元・土浦市藤沢全域を域内とする中世城郭とされるが、城跡らしいものはあまり残っていないようだ。上記の通り、小田氏は南朝方についたため、北朝方の佐竹氏に攻撃されて敗れ、第15代・小田氏治(号・天庵)のときに大名としては滅亡し(氏治自身は徳川家康の次男・結城秀康の客分となり、慶長6年(1601年)に死去した。)、「藤沢城」も廃城となったという。


茨城県教育委員会のHPから(藤原藤房卿遺跡)


写真1:「藤原藤房卿遺跡」入口


写真2:塚の前に3基の石碑。中央は「万里小路藤原藤房公遺蹟」。なお、写真には写っていないが、同じ敷地内に巨大な忠魂碑もある。


写真3:向かって右の石碑は、三島毅撰文の「万里小路藤房公遺迹碑」。三島毅は、大審院判事、東京帝大教授等を務め、現・二松学舎大学を創設するなどした人物。当地とは、新治裁判所長として現・土浦市に赴任していた縁があるとのこと。


写真4:向かって左の石碑(詳細不明)


写真5:塚上の小さな石祠
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武者塚古墳(茨城県土浦市)

2023-12-16 23:32:35 | 古墳
武者塚古墳(むしゃづかこふん)。
場所:茨城県土浦市上坂田1153。目印が少ないので案内が難しいが、例えば、国道6号線土浦バイパス「常名高架橋」の下付近から茨城県道199号線(小野土浦線)を西へ約2.4km進んだところに案内看板があり、そこを右折(北へ)して約450m進むと、交差点に再び案内看板があって、そこを左折(南西へ)、約60mで右折(北西へ)、すぐ。駐車場有り。
「武者塚古墳」(武者塚古墳群1号墳)は、桜川左岸(北岸)の台地上で発見された円墳で、直径約23m、墳丘の周囲には周溝があったとされている。実は、当古墳は、江戸時代末の安政元年(1855年)、農家の屋敷続きの小丘で山芋掘りの際に武具(甲冑の一部)が発見され、代官に届けたところ、大事に保存するようにとの指示を受け、出土物はその農家の神棚に祀られていたという。本格的な発掘調査が行われたのは昭和58年であるが、このときには墳丘自体は完全に削平されており、畑地になっていた。発掘の結果、地下に箱形石棺と横穴式石室の特徴を併せて持つ特異な石室が発見され、中に6体分の遺体があって、その1体には「美豆良(みずら)」という髪型の毛髪が残っていた。他にも、銀製の飾大刀・飾り金具、青銅製杓など全国的にも類例の少ない貴重な出土品が未盗掘状態で発見された。築造時期は、古墳時代終末期(7世紀後半頃)と推定されている。現在、覆屋の建物内に石室が保存されており、金網越しに外から見学することができる。また、この建物の横に、元は約170m北側にあった(湮滅)「武者塚古墳群2号墳」の石棺が移され、屋外展示されている。なお、出土品は国指定重要文化財に指定され、「上高津貝塚ふるさと歴史の広場 考古資料館」で展示されている。また、古墳は土浦市指定文化財に指定され、同館附属の展示施設として管理されている。
因みに、当古墳から桜川を渡り、「作蔵山 東福寺」(「瀧夜盛姫の墓」(2021年5月8日記事)付近を通り、そのまま南西に進むと「河内郡家」跡に比定される「金田官衙遺跡」(2021年4月17日記事)に至る。越田真太郎氏によれば、このルートに古代伝路があったのだろうとしている。即ち、当古墳付近から北東に進んで現・石岡市下稲岡・新治付近で古代東海道に接続し、「常陸国府」(現・石岡市。2018年1月6日記事)に至る。また、途中は不明だが、「金田官衙遺跡」(河内郡家比定地)から南西に進んで「清安山 不動院」(通称「板橋不動尊」。2021年11月20日記事)付近を通り、現・茨城県取手市戸頭付近から利根川を渡って、さらに進むと古代東海道に接続する。平安時代の古代東海道は、下総国の現・千葉県我孫子市~茨城県利根町から現・茨城県竜ヶ崎市に入り、現・稲敷市を通るルートが想定されている(「常陸国の古代東海道(その1・榛谷駅)」(2022年1月22日記事)。このルートでは「下総国府」(現・千葉県市川市。2013年1月12日記事)からすると、かなり遠回りになるが、これは奈良時代の古代東海道の一部を利用していることによる。そこで、伝路ではあるが、上記ルートを通れば「常陸国府」への近道になるので、あるいは国司の往来にも使われたのではないかとも考えられている。


茨城県教育委員会のHPから(茨城県武者塚古墳出土物)



写真1:「武者塚古墳展示施設」


写真2:武者塚古墳群1号墳の石室。6体もの人骨が発見されたことから、追葬が行われたらしいが、横穴式石室の開口部は存在しないため、前室の天井石を取り外して納めたと考えられている。展示は、全室の天井石を取り外し、玄室の天井石を被せた状態となっている。


写真3:武者塚古墳群2号墳の箱形石棺
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波付岩

2023-12-09 23:32:03 | 磐座
波付岩(なみつきいわ)。
場所:茨城県石岡市染谷1548外。「常陸風土記の丘」駐車場入口付近から南へ約270mで右折(西へ。「石岡市B&G海洋センター」入口の向かい側に進む。)、約650m。途中、「石岡ストックヤード」(土砂置場)入口の先は道路が狭くなり、駐車スペースもないため、「常陸風土記の丘」駐車場に駐車し、徒歩で行くことをお勧めする。ただし、結構上るので、思ったより遠く感じる。
「波付岩」は、約2億5千万年~1憶5千年前につくられた砂岩・泥岩起源の雲母片岩と呼ばれる変成岩の岩山で、北方約1kmのところにある「龍神山」や式内社(論社)「(染谷)佐志能神社」(2018年9月29日記事)の「屏風岩」と同様の地質とされる。そして、この岩のあるところは標高約66mだが、かつては近くまで海の波が打ち付けていて岩肌に貝殻が付着していたために、その名があるという。ただし、現在はそのような痕跡は見られず、古い資料でも、筆者が実際に貝殻の付着を見たということではなく、そのような伝承があるとしているだけのようである。また、見た目が、波濤が押し寄せるようであることから「波築岩」、「波止岩」とも呼ばれていたとする資料もある。南方約900mのところには「恋瀬川」が流れており、古代にはそこまで「香取海」(現・霞ケ浦)が入り込んでいた可能性は高いが、もし「波付岩」に貝殻が付着していたとすれば、ここが波打ち際ということではなくて、貝殻の化石を付けた「波付岩」の地層が隆起したということが考えられる(因みに、約7千年前の所謂「縄文海進」での関東地方での海面上昇は、現在と比べて2~5m程度とみられている。)。
さて、「波付岩」の東側からは「波付岩遺跡」という縄文時代~古墳時代の住居跡が発見されており、石器や土器片も採集されているので、古くから人々が暮らしていた場所らしい。そして、かつては「波付岩」の上に国常立尊が祀られていたといわれ、また、当地の地名(字名)が「石倉」ということから、時代は不明だが、自然神信仰があったのではないかと思われる(国常立尊は大地・国土そのものを神格化した存在とされる。)。そして、この雲母片岩というのは、平たい板のように割れやすく、古墳の石棺材として使われている。こうしたことも、この岩が祭祀対象とされたことにも関係があるのかもしれない。


写真1:「波付岩」。土に埋もれているが、1つの岩山(岩盤)なのだろうか。大岩の前に石祠があるが、これが国常立尊を祀ったものと思われる。


写真2:同上


写真3:同上。横からみると、板状に剝がれやすそうであるのがわかる。


写真4:同上


写真5:同上


写真6:同上


写真7:同上


写真8:出羽三山神社の石碑。このような形で石材として利用されたようだ。
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外城遺跡(茨城県石岡市)

2023-12-02 23:35:57 | 史跡・文化財
外城遺跡(とじょういせき)。茨城郡衙推定地。
場所:茨城県石岡市貝地1-11外。国道6号線(千代田石岡バイパス)と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「貝地」交差点から国道を南西に約60mで左折(南東へ)、道なりに約550m(途中、約200mのところの分岐は右、その先、約40mの分岐は左へ進む。)。「札掛稲荷神社」の鎮座地が「外城遺蹟」の北東端に当たる。駐車場なし。
石岡市には中世城館跡として「府中城跡」と「石岡城跡」の2つがあるが、「府中」というのはかつて国府があった場所を指すので、「府中城」は全国各地にある。そこで、石岡市の「府中城」を「常陸府中城」とか「石岡府中城」とか称するが、中には「石岡城」としている資料もあって紛らわしい。一般には、「府中城跡」は古代常陸国の国庁(国衙)があった場所に、「石岡城跡」は同じく常陸国茨城郡の郡家(郡衙)のあった場所に、中世、(常陸)大掾氏が城館を築いた遺跡と考えられている(「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)参照。なお、「府中城」の方は江戸時代、常陸府中藩の陣屋となった。)。大掾氏は常陸平氏の嫡流であり、平国香(平将門の叔父)を祖とするが、本来の惣領家であった多気氏は建久4年(1193年)に多気義幹が八田知家の中傷によって失脚し、同族の馬場資幹が惣領家を継いで大掾氏を名乗った。更に、源頼朝(鎌倉幕府)から建保2年(1214年)に常陸国府・常陸府中の地頭に任ぜられ、常陸国衙機構を掌握した。最初、資幹が建保2年に「石岡城」を築いて居館としたが、貞和2年・正平元年(1346年)、「石岡城」第8代城主・大掾詮国によって「府中城」が築かれて、そちらが大掾氏の居館となったが、「石岡城」も出城(外城)として存続した(このため、当地の地名(字名)を「外城」という。)。天正18年(1590年)、「府中城」が佐竹義宣によって攻略され、城主・大掾清幹は自刃し、「石岡城」も廃城となったとされる。
さて、「外城遺跡」は中世城館「石岡城跡」というのは確定しているが、伝承では、元は古代の茨城郡家(郡衙)と最初の常陸国庁(国衙)が置かれた場所といわれている。「茨城廃寺跡」(2018年2月3日記事)は茨城郡家付属の古代寺院跡とされ、「外城遺跡」はその南西約300mのところにあること、奈良・平安時代の土器や瓦片が採取されることから、茨城郡家(郡衙)跡であることはほぼ間違いないとみられているが、本格的な発掘調査等はなされていないため、まだ確定できてはいないようである。因みに、「常陸国風土記」茨城郡の条の、郡家の南西に信筑川(現・恋瀬川)が流れており、東10里(=約5.3km)のところに桑原の丘(現・茨城県小美玉市上玉里、「大宮神社」付近。「玉井」(2019年2月2日記事)参照)がある、という内容の記述に概ね合致している。

札掛稲荷神社(ふだかけいなりじんじゃ)。
場所:茨城県石岡市貝地1-2-64(行き方は上記の通り)。
現在は1つの神社として登録されているが、本来は「札掛神社」と「岡田稲荷神社」である。社伝によれば、「札掛神社」は、常陸大掾・平詮幹(詮国)が「外城」に守護神として鹿島大神の分霊を祀り、家臣の札掛民部介氏俊に命じて奉務させたという。現在の祭神は武甕槌命と札掛民部介氏俊。また、「岡田稲荷神社」は、当地はかつて常陸大掾・平国香の居館跡だったが、近世には寂れて、昼夜、不思議なことが起きて村人に恐れられていた。天保6年(1835年)、岡田彦兵衛の霊夢に「汝の祖先に祀られた館宮稲荷大明神である。天正の変で大掾氏が滅び、汝の祖先も討死にした。再興する者もなく、太平の世を待っていたが、今その時となった。汝の居宅の子(ね。北)の方向に五丈八尺余(=約18m)の大木があり、それが神木で、そこが社地である。速やかに祀れば、汝の家を守り、諸人をも救う。」とのお告げがあった。他にも同様の夢を見た者が多く、早速社殿を建立したところ、噂を聞いた人々の参拝が増え、社頭が賑わったという。現在の祭神は宇賀御魂命。なお、天明4年(1784年)には札掛明神に廻り(幹回り?)3丈(=約9m)という大椎(シイ)があったが、明治4年の「石岡誌」によれば、弘化年中(1844~1848年)に枯死し、文久年中(1861~1864年)に腐朽してしまったという。また、茄子(ナス)を献じて祈願すると成就するといわれるが、これは、大掾浄幹(清幹)の奥方・茄子依御前が深く当神社を崇敬したことによるという。


写真1:「札掛稲荷神社」境内入口の鳥居。説明板は「石岡城(外城)跡」についてのもの。


写真2:同上、鳥居の右側に土塁と堀が残っている。


写真3:同上、土塁上にある「札掛神社岡田稲荷神社」石碑


写真4:同上、境内


写真5:「岡田稲荷神社」社殿


写真6:奥に「札掛神社」社殿。この背後がさらに一段高くなっている。元は城館の櫓台だったともいわれているが、北東端なので鬼門除けに当初から守護神として神社が祀られた可能性も高い。なお、敵方の佐竹氏は常陸国久慈郡佐竹郷(現・常陸太田市)が本拠地だったから、北東側を防御する実際的な意味もあったかもしれない。


写真7:「札掛神社」社殿前から南西を見る。「外城遺跡」は南西側が主要部である(「古館(ふんだて)」などの地名がある。)とされるが、今は畑などがあるだけ。
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