神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

菖蒲沢薬師古道(その1・菖蒲沢薬師堂)

2024-01-27 23:34:10 | 寺院
菖蒲沢薬師堂(しょうぶさわやくしどう)。東光寺奥之院薬師堂。
場所:茨城県石岡市菖蒲沢。茨城県道138号線(石岡つくば線)「辻」交差点付近の駐車場、又は体験型観光施設「朝日里山学校(旧・朝日小学校)」駐車場に自動車は駐車。「辻」交差点から西へ約350mの火の見櫓のところで右折(北へ。「薬師古道→」の案内板がある。)、約250mで「菖蒲沢公民館」がある。ここが「菖蒲沢薬師古道」のスタート地点。そこからは登山道になるが、よく整備されており、不安なところはない。約600mで「菖蒲沢薬師堂」。
見どころが多く、写真も多くなったので、2回に分けることにした。まずは、「菖蒲沢薬師堂」関連(無理やり2回に分けているので、道順通りではない。)。
通称「菖蒲沢薬師堂」は、真言宗「筑波山 不動院 東光寺」の奥之院とされる薬師堂である。寺伝によれば、大同2年(807年)、法相宗の僧・徳一が開山した。徳一が「筑波山寺」(後の「筑波山 中禅寺」、現・「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事))を創建したとき、その守護として筑波山の周囲4ヵ所に薬師如来を配置した(「筑波四面薬師」)うちの1つとされる(他の3つは「朝望山 東城寺」(2020年8月25日記事)、「椎尾山 薬王院」(2020年12月26日記事)及び「十三塚 山寺」(現・石岡市小幡、廃寺)という。)。元の薬師如来像は、1寸8分(=約5.5cm)の瑠璃光薬師如来で、常陸国鹿島郡の汲上浜(現・茨城県鉾田市汲上の海岸)で漁師が海から引き上げたものとされる。それが青龍大王の力により桑柄山(幸柄峠)まで運ばれ堂宇が築かれたことから、「東光寺」と名付けられた。この縁により、当時の本堂の茅葺の屋根は汲上村の寄進によって葺かれたと伝えられる。その後、薬師堂が奥之院として建立されたが、現存の薬師如来像は別のものとなっている。本堂等は正保3年(1646年)の火災で焼失、元禄9年(1696年)に再建されたが、天保10年(1839年)の山火事に遭い、難を逃れた薬師如来坐像・仁王像のみが天保13年(1842年)に再建された薬師堂に安置されることとなった。平成19年から薬師堂等の修復が行われ、薬師如来坐像の胎内から貞享4年(1687年)に「東光寺」第29代別当・寛泉の建立、京都・烏丸の仏師・松崎冶兵衛らの作という銘文が見つかり、修復が終えた平成21年に開眼供養が行われたという。


石岡市のHPより(菖蒲沢薬師如来坐像)


写真1:菖蒲沢公民館。ここが「東光寺」跡とされる。ここにも駐車は可能だが、途中の道路が狭いため、推奨されない。


写真2:徳一法師の小屋跡(もちろん、この建物は単なる作業小屋です。)


写真3:菖蒲沢古道


写真4:覗き灯籠。反対側には九曜星の紋が刻されているが、中央の星だけが貫通していて、その先に薬師如来が見えるというもの。


写真5:「菖蒲沢薬師堂」を望む。薬師堂へは、いったん谷(沢)に下りて、再び石段を上る。


写真6:石段前の弁天池


写真7:「菖蒲沢薬師堂」


写真8:同上


写真9:同上、礎石。元の薬師堂はもう少し大きかったらしく、現在の堂の外側に礎石が並んでいる。
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北向観音堂(茨城県石岡市小野越)

2024-01-20 23:33:40 | 寺院
北向観音堂(きたむきかんのんどう)。
場所:茨城県石岡市小野越。茨城県道138号線(石岡つくば線)「辻」交差点から西へ約1.7km。参道入口に手作りの案内板があり、向かい側に駐車場がある。参道(畦道)を南に徒歩約2分で、観音堂境内入口。
茨城県土浦市(旧・新治村)小野に平安時代前期(9世紀頃)の女流歌人・小野小町の「腰掛石」や「墓」とされるものがあることについて、以前に書いた(「小野小町の腰掛石」(2020年8月8日記事))。小町は有名な歌人で、絶世の美女とされるのに、出自も没年も不明。晩年は不遇で、伝承では各地を放浪して寂しく亡くなったということになっている。土浦市小野には、高齢となり皮膚病を患った小町が「北向観音堂」に病気平癒を祈願するため峠越えをしたとの伝説があるが、その観音堂が茨城県石岡市(旧・八郷町)小野越(おのごえ)にある。社寺は一般に南向きだが、仏堂が北向きであれば拝礼する人は南向き(天竺の方向)となり、現世利益が得られやすいともいうので、北向きの仏堂は案外多いようだ(石岡市には「富田北向観音堂」(2023年11月18日記事)もある。)。
さて、小野越の「北向観音堂」は、現・石岡市仏生寺字観音というところにあった「龍光院」(廃寺)の別院であるという。伝説によれば、天平年間(729~749年)に僧・行基が常陸国府に来た折、夜に怪しい光を見て老翁の指示に従い仏像を刻ませたので、里人が一寺を建立した。瑞気を発したところに建てたのが「龍光院」(本尊:阿弥陀如来)で、怪光を発したところに建てたのが「北向観音堂」とされる。堂本尊の観音像は、行基が奈良から連れてきた稽主勲兄弟作の十一面観世音菩薩だったと伝えられるが、その像は古い時代に失われ、現存のものは江戸時代の聖観世音菩薩であるという。なお、境内やその周辺に、「いぼ神様」という霊石、「小町の化粧清水」、「姿見の池」、「硯石」、「腰掛石」などがある。


石岡市観光協会のHPから(北向観音堂(小野越))


写真1:「北向観音堂」境内入口


写真2:忠魂碑


写真3:その右に「小町の化粧清水」


写真4:石段下左手にある「いぼ神様」


写真5:苔むした石段を上る。


写真6:観音堂


写真7:石仏(地蔵菩薩?)
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七宝山 医王院 北斗寺

2024-01-13 23:32:49 | 寺院
七宝山 医王院 北斗寺(しちほうさん いおういん ほくとじ)。通称:妙見尊北斗寺、妙見様。
場所:茨城県つくば市栗原1129。茨城県道200号線(藤沢豊里線)「栗原小学校前」交差点から県道を北東へ約300mで左折(北へ)、約500m進んだところの交差点を道なりに左に(西へ)約100m進むと、正面参道入口。同交差点から狭い道路に入って更に北へ約130m進んだところに東側の境内入口があって、こちらのほうが駐車スペースに止めやすい。
寺伝によれば、第33代・推古天皇の時代(6世紀末頃)、周防国青柳浦(現・山口県下松市)の松樹に北辰尊星が降臨し、七日七夜輝いて百済の琳聖太子の来朝を守護した。琳聖太子は、妙見菩薩像・霊符等を推古天皇に上進した後、現・つくば市栗原に妙見菩薩を祀った。これが当寺院の創祀である。弘仁12年(821年)、天台宗の高僧・最仙上人が勅命により堂宇を建立した。鎌倉時代には現・つくば市小田に移り、その後も現・土浦市藤沢、同・田土部と転々とし、万治2年(1659年)に現在地に再建されたという。現在は真言宗豊山派(いつ改宗したかは不明)に属し、本尊は薬師如来。有名な妙見菩薩は、「菩薩」と称するものの、中国において北極星・北斗七星を神格化したものであるため、分類上は「天」部に属する。薬師如来が、衆生を救うために垂迹した(仮の姿で現れた)ものとされる。当寺院は東洋の星占いの寺として、旧暦の正月七日には星祭りが行われ、参拝者で賑わう。特に、商売繁盛、勝負事に御利益があるとされる。また、この妙見菩薩像は亀に乗っていて、長寿を表現しているともいう。なお、「仏儀次第」(鎌倉時代)、「釈迦十六善神面像」(室町時代)、「興教大師画像」(同)、「黄不動明王画像」(同)などの茨城県指定文化財を所蔵している。
蛇足:現・山口県下松市における伝承によれば、推古天皇3年(595年)、周防国都濃郡鷲頭庄青柳浦の老松に大きな星が降り、七日七夜の間、光り輝いた。そして、「われは北辰の精である。これから異国の太子が来朝するので、守護のため降ったのである。」 と告げた。村人らが急いで社を建てて「北辰尊星王大菩薩」として祀った。これが現在の「降松神社」(祭神:天御中主神)と真言宗御室派「妙見宮鷲頭寺」(本尊:妙見大菩薩)の創祀である(近世までは神仏混淆により一体)。北辰の精が松樹に降ったというので、地名を「降松」と改め、その後、現在の「下松(くだまつ)」と書くようになったといわれている。この異国の太子とは、百済国の第26代・聖明王の第三子・琳聖太子といい、大内氏はその子孫と伝えられている。 因みに、琳聖太子は、推古天皇19年(611年)に周防国の多々良浜(現・山口県防府市)に上陸し、聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。しかし、琳聖太子という人物名は当時の日本や百済の文献に見ることができず、実在性が疑われている。また、大内氏は在地豪族が勢力を伸ばしたもので、百済等からの渡来人出身ではないと考えられているようである。なお、関東では、現・千葉県千葉市にある「千葉神社」(2012年5月5日記事)が妙見信仰の中心になっている。こちらも、江戸時代には真言宗「北斗山 金剛授寺 尊光院」という寺院だったが、明治期の神仏分離により「千葉神社」に改められ、主祭神を北辰妙見尊星王=天之御中主大神としている。同様に、明治以降に寺院から神社になったところが多い中では、本格的な寺院として妙見菩薩を祀る当寺院は貴重なものと思われる。


写真1:「北斗寺」参道入口。寺号標「霊場 妙見大菩薩 別當 北斗寺」


写真2:参道を入ったところにある観音堂(堂本尊:出生子育観世音菩薩)


写真3:山門


写真4:鐘楼


写真5:本堂


写真6:妙見堂(堂本尊:妙見菩薩)


写真7:同上、彫刻と「妙見大士」額
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一ノ矢八坂神社(茨城県つくば市)

2024-01-06 23:33:24 | 神社
一ノ矢八坂神社(いちのややさかじんじゃ)。通称:一ノ矢の天王様。
場所:茨城県つくば市玉取2617。茨城県道55号線(土浦つくば線、通称:学園東大通り)「一ノ矢」交差点から東へ進み、突き当りを左折(北へ)、約70mで駐車場。
伝説(民話)によれば、大昔、九州からカラスの大群が現れて田畑を荒らしたので、困った村人たちが弓の名人を集め、カラスを退治したのだが、その時、最初の矢でカラスを射落とした場所を「一ノ矢」と呼ぶようになった。また、射落とされたカラスには足が六本もあり、その足でしっかりと玉を掴んでいたことから、当地の地名を「玉取(玉鳥)」というようになった、という。また、別伝では、九州から飛来したのは一羽のカラスで、それを旭友永という弓の名人が退治をすることになったが、第一、第二の矢は躱されて、第三の矢で射落とした。それぞれの矢が落ちた場所を「一ノ矢」、「二ノ矢」、「三ノ矢」と称するようになり、第一の矢が落ちた当神社を「一ノ矢の天王様」と呼ばれることになった。なお、そのカラスは3本足で、死んだカラスを埋葬したところに亡霊が現れ、再び友永が退治したところ、玉を残して消えたので、その玉は「筑波山両部権現宮」(現・「筑波山神社」)に納めたという。
社伝では、貞観年間(859~877年)、山城国愛宕郡(現・京都府東山区の「八坂神社」、当時は「祇園社」か?)から素戔嗚尊の分霊を勧請して創建。天慶年中(938~947年)、俵藤太こと藤原秀郷が深く崇敬して、弓矢を納めた。正治年中(1199~1201年)、八田知家が現・つくば市小田に小田城を築いて初代城主となると、以来、小田氏歴代の崇敬社となった。また、知家は、常陸国に流されていた万里小路(藤原)藤房(「藤原藤房卿遺跡」2023年12月23日記事参照)と仲が良かったので、当神社にも度々来遊した。永禄~天正年間(1558~1592年)の戦乱で社殿炎上、文禄年間(1593~1596年)再建。その後も時の領主により社殿は修営された。現在の本殿は宝永8年(1711年)建立のものとみられるが、延宝4年(1676年)銘の棟札も残っている。明治6年に郷社に列した。現在の祭神は、素戔嗚尊。
なお、素戔嗚尊は牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれ、疫病除けの神で、例大祭を「祇園祭」というが、当神社では通称「ニンニク祭」と言われ、頒布されるニンニク守りを玄関先等に吊るしておくと良いとのことで、ニンニクを売る露店も出て、大いに賑わうという。


一ノ矢八坂神社のHP


写真1:「一ノ矢八坂神社」一の鳥居


写真2:一の鳥居を潜った左手にある「玉取一の矢古墳群」2号墳(円墳、直径約20m)


写真3:二の鳥居の前、駐車場の北東端にある境内社「岩大日社」(祭神:大日孁貴(オオヒルメノムチ)=天照大神)。なお、この塚が「玉取一の矢古墳群」1号墳(円墳、直径約10m)。ここの欅(ケヤキ)も大きいが、かつて境内に樹齢約800年と伝えられた「一ノ矢の大ケヤキ」があった(平成7年の台風で大きく損傷、枯死して平成13年に天然記念物指定解除、平成24年の集中豪雨のため倒壊して撤去されたとのこと。)。


写真4:二の鳥居と社号標


写真5:拝殿。なお、社殿は西向き。拝殿はつくば市指定文化財。


写真6:本殿(覆屋)。これほど立派な覆屋は、他ではあまり見られないだろう。覆い屋はつくば市指定文化財。


写真7:同上。本殿は茨城県指定文化財。


写真8:同上。彫刻も迫力がある。


写真9:境内社。向かって右:稲荷神社(祭神:宇迦之御魂神)、左:天満宮(祭神:菅原道真公)


写真10:南側の鳥居
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