神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

宝珠山 阿所川院 立石寺

2016-06-25 23:58:39 | 寺院
宝珠山 阿所川院 立石寺(ほうじゅさん あそかわいん りっしゃくじ)。通称:山寺(やまでら)。
場所:山形県山形市山寺4456-1。JR仙山線「山寺」駅の北東、約300m(直線距離)。徒歩だと約6分(約500m)。「如法堂」(奥の院)まで石段が1015段あるといわれており、1通りお参りしてくると1時間~1時間半くらいはかかる。入山は有料。駐車場は周辺の民間駐車場(一定の買物をすれば無料になるところもある。)を利用。
寺伝によれば、貞観2年(860年)に清和天皇の勅命により慈覚大師(円仁。第3代天台座主)が開山したとされる。東北地方には慈覚大師開山とする寺院が多いが、実際には承和11年(844年)に出羽国講師となって布教に努めた安慧(第4代天台座主)によるものとみられており、当寺の場合も安慧を開祖とする説もあって、その場合、却って貞観2年より前の草創ということもあり得るという。根本中堂に安置された本尊:木造薬師如来坐像は慈覚大師の作と伝え、また、開山堂の背後の崖下に慈覚大師の遺骸を納めたという入定窟がある。
このように、重要な天台宗寺院として鎌倉時代以降も寺勢は栄え、一時は幕府の方針により禅宗に改宗させられるなどしたものの、延文元年(1356年)に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼が天台宗に戻し、再建した。その後は兵火に遭って焼失するなど荒廃した時期もあったが、山形城主となった最上氏に厚く庇護され再興されたという。なお、松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅の途中、元禄2年(1689年)に当寺を訪れ、有名な「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」という句を詠んでおり、境内に銅像と句碑がある。根本中堂、本尊の木造薬師如来坐像などが国の重要文化財に指定されているほか、「山寺」として国の名勝・史跡となっている。


宝珠山 立石寺のHP

山寺観光協会のHP


写真1:「立石寺」登山口


写真2:根本中道(本堂)


写真3:本坊


写真4:弥陀洞(みだほら)


写真5:仁王門


写真6:開山堂


写真7:納経堂


写真8:釈迦堂
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鳥海月山両所宮

2016-06-18 23:00:21 | 神社
鳥海月山両所宮(ちょうかいがっさんりょうしょのみや)。通称:お宮様。
場所:山形県山形市宮町3-8-41。国道112号線「下条五叉路」から東に約1.1km。駐車場有り。なお、JR奥羽本線「北山形」駅東口からは、東に進み、最初の信号を左折(北へ)、約600m(徒歩約7分)。
社伝によれば、陸奥守・鎮守府将軍となった源頼義が、陸奥国の俘囚長・安倍氏を討伐するに当たり出羽国飽海郡吹浦の「鳥海山大物忌神社」で鳥海山・月山の両神に戦勝を祈願し、その勝利の報賽として当地に両神の分霊を勧請して康平6年(1063年)に社殿を造営した。その経緯から、国家泰平・武門吉事の神と称したといい、当地の町名(「宮町」)も当神社鎮座に因むという。祭神は鳥海山の神=稲倉魂命と月山の神=月夜見命を祀る。天正年間(1573~1591年)、当地の領主・最上義光は、従来の祠官を廃して真言宗「成就院」(明治期に神仏分離により廃寺)を別当として社領を寄進した。以来、歴代の領主から「北の総鎮守」として篤く崇敬され、現・山形市北部の大半を氏子地域とし、「お宮様」の通称で信仰を集めたという。
古代には出羽国の中心地は現・山形県庄内地方であったが、律令制が崩壊するに連れ、現・山形市周辺に移ったと考えられる。「出羽国分寺」について正平11年(1356年)に斯波兼頼(最上氏の祖)が庄内地方から当地に移したという説があるが、これは平安時代末期~鎌倉時代初期に国府が現・山形市に移動したと伝承されることに呼応するものと思われ、「出羽国分寺」とともに、出羽国の最高神である鳥海山・月山の神が現・山形市に勧請されたのも、これに関連するのではないだろうか。なお、当神社境内に「出羽国府」の守護神である「城輪神社」も勧請されていることも補強材料だろう。そうしてみると、現存の「出羽国分寺」とされる「国分寺薬師堂」(前項「護国山 柏山寺」参照)と当神社が遠からぬ場所にある(直線距離で約1.4km)ことも当然のことだろうと思われる。


山形市観光協会のHPから(鳥海月山両所宮)


写真1:「鳥海月山両所宮」随神門(山形市指定有形文化財)


写真2:社号標


写真3:拝殿


写真4:拝殿には「鳥海山大神」と「月山大神」の扁額が並べて架けられている。


写真5:本殿も2社ある。本殿も山形市指定有形文化財。


写真6:境内社(摂社)「城輪神社」。桃山時代初期の様式を伝えるものとされ、扉の上に天正7年(1579年)銘があるという(山形市指定有形文化財。)。


写真7:拝殿の脇(向って左)にある「金井水」。金売吉次(源義経が奥州に逃れる際に手助けしたという伝説的な人物)が、この泉で金を洗ったと伝えられ、当地の「金井荘」という荘名の起源になったという。



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護国山 柏山寺(出羽国分寺・その3)

2016-06-11 23:06:36 | 寺院
護国山 柏山寺(ごこくさん はくさんじ)。
場所:山形県山形市薬師町2-12-32。山形市役所の北東、約900m。「国分寺薬師堂」は山形県道19号線(山形山寺線)沿いの「薬師公園」(駐車場あり)北側に、「柏山寺」は「薬師公園」西側の道路の1本西の狭い道路の突き当たりにある(両者間は徒歩2~3分)。なお、「薬師堂」の東隣に「山形県護国神社」がある。
天台宗「護国山 柏山寺」の金堂を「国分寺薬師堂」(本尊:薬師如来)と称し、これを現存「出羽国分寺」とする。寺伝では、聖武天皇の詔(天平13年:741年)により行基が開山し、鎮守府将軍・大野東人が七堂伽藍を造営して、一萬畝歩(約100ha)を寺領として献じた。貞観年間(859~877年)、慈覚大師(円仁。第3代天台座主)が当地を訪れて中興し、以来、天台宗となった、という。この寺伝からすると、当初から当地に「出羽国分寺」が建立されたようになっているが、一般に国分寺は国府の近くに建てられたので、それは考えられない、というのが通説。天平13年当時、既に「出羽国」は建国されていた(和銅5年:712年)が、「出羽国府」は当初の現・山形県庄内地方(具体的な場所は不明)から「秋田城(跡)」(現・秋田県秋田市、2015年8月1日及び同年8月8日記事)に移されていたとみられている(庄内地方から出ていないとする説もある。)。延暦23年(804年)に「秋田城」が停廃されると、「出羽国府」は「城輪柵(跡)」(現・山形県酒田市、2015年12月26日記事)に移り、近くに有る「堂の前遺跡」(2016年1月6日記事)が「出羽国分寺」跡と推定されている。したがって、当寺が「出羽国分寺」の後身とするなら、現・山形県酒田市から山形市に移ってきたことになる。伝承によれば、平安時代末期~鎌倉時代初期に「出羽国府」が山形市北部に移転したとされ、そこは「府中」と呼ばれていたという(「府中」は国衙の中世的な呼び名とされる。)。この伝承が正しければ、「出羽国分寺」も国府に従って移ってきたということだろう。一説によれば、最上家の祖、斯波兼頼が出羽国按察使将軍として山形に入り、延文5年(1360年)に金堂などを造営したという。その後、山形城主・最上義光が「出羽国分寺」の荒廃を歎き、天正2年(1574年)に寺領320石を寄進して堂宇を建築し、山形城の鬼門鎮護の霊場としたとされる。最上家改易の後は、徳川幕府の庇護を受け、「東叡山 寛永寺」(現・東京都台東区)の直末寺院となり、当地方の天台宗の触頭として末寺23ヵ寺を擁した。しかし、明治時代に入ると、神仏分離令によって存続困難となり、隣接していた天台宗「柏山寺」の管理下に入ったとされる(従って、「柏山寺」自体が「出羽国分寺」ではなく、その別当寺であるともいう。)。そして、薬師如来像を本尊とする金堂を「国分寺薬師堂」と称したが、明治44年の「山形市北部大火」により焼失してしまったため、同じく神仏分離令により廃寺となった真言宗の触頭「摩訶迦羅山(大黒山) 宝珠院 宝幢寺」(現・山形市東原町にある「もみじ公園」が同寺の跡地)の本堂を移築したのが、現在のものである。総欅(ケヤキ)造で、間口14間半(約26m)、奥行八間半(約15m)という堂々たる御堂で、明治16年に山形県会議事堂が完成するまで仮議事堂として使われたものという。


山形市観光連盟のHPから(薬師公園)


写真1:「国分寺薬師堂」正面入口


写真2:「聖武帝勅願所 國分寺薬師堂」の寺号標


写真3:薬師堂(金堂)


写真4:「護国山 柏山寺」
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元木の石鳥居

2016-06-04 23:30:54 | 史跡・文化財
元木の石鳥居(もときのいしとりい)。「御立の鳥居(おんたてのとりい)」ともいう。
場所:山形県山形市鳥居ケ丘。国道112号線と国道286号線・国道348号線の交差点から、国道112号線を南に約660m。「山形警察署南二番町交番」の向かい側の狭い道路に入り、約60m。ただし、「石鳥居」前の道路は狭く、駐車場もないので、注意。
「元木の石鳥居」は、伝承によれば、現・山形県山形市の蔵王連峰「瀧山」(標高1362m)に祀られた「瀧山大権現」への奉納のため天延年間(973~976年)に建立されたという石鳥居。正確な建立年代は不詳であるが、様式などから平安時代まで遡り、一説には日本最古の鳥居ともいう。凝灰岩製で、柱が太く、幅に比べて高さが低いのが特徴で、独特の雰囲気を持っている。「元木の石鳥居」、「成沢の石鳥居」(山形市)、「清池の石鳥居」(現・山形県天童市)の3つが「最上三鳥居」とされるが、山形市にある前2者はいずれも「瀧山信仰」によるものとされ、西面する「元木の鳥居」の背後に西蔵王が眺められる。国指定重要文化財。

成沢の石鳥居(なりさわのいしとりい)。
場所:山形県山形市蔵王成沢字館山65。山形県道267号線(十日町山形線)沿い、「JAやまがた成沢」支店の南側の狭い道路に入り(←「成沢公民館」という案内板が出ているところ)東へ、突き当りを右折(南へ)、次の角を左折(東へ)、約150m。道路幅が狭く、駐車場もないため注意。
「(成沢)八幡神社」は、社伝によれば、天喜5年(1057年)、陸奥守・源頼義が安倍貞任追討の折、「瀧山」山麓の丘上に「石清水八幡宮(男山八幡宮)」(現・京都府八幡市)の分霊を勧請して戦勝祈願したのを創祀とする(祭神:誉田別尊)。よって、この丘を「八幡山」(標高200m)といい、中世には「成沢城(鳴沢城)が築かれたため「館山」と称されるようになり、現在は山頂に「(成沢)八幡神社」の奥宮が再建されている。現在の社殿は南西麓にあり、その参道入口に凝灰岩製の石鳥居が建てられているが、当地の羽黒派修験「三蔵院」に伝わる古文書によれば、天仁2年(1109年)に「瀧山」の空清水(うつぼしみず)という場所で採石されたとしている。そして、本来は「瀧山」登山口に建てられていたものを「(成沢)八幡神社」の鳥居として移設した、といわれているとのこと。「元木の石鳥居」とほぼ同時期のものと推定されており、日本最古クラス。こちらも国指定重要文化財。


「山形の宝 検索navi」のHPから(鳥居)

同上(八幡神社鳥居)


写真1:「元木の石鳥居」。「御立鳥居」という石碑が建てられている。


写真2:同上、裏側から。


写真3:同上、隣接して「鳥居稲荷神社」の石祠が祀られている。創建時期・由緒等不明。


写真4:「成沢の石鳥居」と「(成沢)八幡神社」の社号標


写真5:「(成沢)八幡神社」社殿
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瀧山神社

2016-06-01 23:02:32 | 神社
瀧山神社(りゅうざんじんじゃ)。
場所:山形県山形市上桜田5-10-20。「東北芸術工科大学」南西角の交差点から西へ約400m。駐車場なし。
伝承によれば、蔵王連峰の「瀧山」(標高1362m)は和銅元年(708年)に行基が開山し、仁寿元年(851年)に慈覚大師(円仁。第3代天台座主)が山頂に自作の薬師如来を祀って「瀧山大権現」として中興して以来、平安時代には「医王山 瀧山寺」を中心に「三百坊」と呼ばれる一大霊場となった。しかし、正嘉2年(1258年)、鎌倉幕府の執権・北条時頼に閉山を命ぜられ、徹底的に破却されたとされる(前項「三百坊跡」参照)。閉山後、「瀧山大権現」は、現・山形市の中桜田字桜神前に移され、「瀧山神社」として崇敬された。そして、寛政2年(1790年)には、同敷地内に「石行寺」(2016年5月21日記事)の末寺として天台宗「医王山 瀧山寺」が再建されたという。近世には「瀧山大権現」(「瀧山神社」)の祭神は不明であったが、「桜神」とも呼ばれており、明治7年に祭神を木花咲耶姫命として村社に列せられ「桜神社」と称したが、明治12年に「瀧山神社」と改称したという。なお、蔵王連峰主峰である熊野岳山頂に鎮座する「蔵王山神社」は、「瀧山」(本宮)・「酢川温泉神社」(口ノ宮)(2016年5月7日記事)・「熊野神社」(離宮)を三社一宮としており、5月8日の当神社の祭礼は「蔵王山神社」と合同で「瀧山」山頂で行われているという。


写真1:「瀧山神社」社号標


写真2:社殿正面


写真3:社殿。西向き(前面道路と平行)。「瀧山」は南西方向にあり、ずれているが、「瀧山」を遥拝する意だろう。


写真4:同敷地内にある「瀧山寺」。本尊:薬師如来。
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