神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

玉清井(茨城県行方市)

2023-01-14 23:34:53 | 伝説の地
玉清井(たまきよのい)。
場所:茨城県行方市井上893-1。国道355号線「荒宿」交差点から北西へ約600m進んで右折(北東へ)、約170mで右折(南東へ)、約80m。駐車スペース有り。目印が乏しいが、国道355号線から田圃の中に森が見えるので、わかりやすい。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「倭武天皇(日本武尊)が天下巡幸を行い、香取海の北方を平定したとき、当地を通った。槻野の清泉を訪れ、水に近寄って手を洗い、玉(勾玉)を泉に落とした。この泉は今も行方の里の中にあって、玉清の井と称している。」(現代語訳)という記述がある。「槻野」という地名の遺称地はないが、一般に当地の池が「玉清井」であるとされている。現在も水は涸れることがなく、地元では「永井戸」と呼んでいた。江戸時代、「天明の大飢饉」(1782~1788年)の折、村人が泉を溜池にした。このとき、江戸の「妻恋稲荷」(「関東総司 妻恋神社」、現・東京都文京区)から分霊を勧請して、「永井戸稲荷神社」を創建。明治44年、「八幡神社」を合祀して「玉清井神社」と改称したという。
なお、「玉清井神社」から、北西約300m(直線距離)のところにも「玉清井遺蹟」(通称:石根様)というところがある。ここには現在、泉は無く、小さな石祠と倒れた石碑などがあるだけで、詳細不明。行方台地の下には水が湧いていたところが何ヵ所かあったようで、他の場所にも伝承地があったのかもしれない。
蛇足:「常陸国風土記」は写本しか残っておらず、省略が多い(ただし、総記と行方郡の条には「省略しない」との注記がある。)ことはよく知られているが、誤字・脱字も結構多いらしい。このため、校訂・注釈により、読み方や意味が変わったりするところがある。日本武尊が泉に玉を落とすところでは、原文は「臨水洗手 以玉□井」となっていて、□が所謂「くずし字」で読み難いため、「落」のほか、「榮」・「為」・「尊」などとする説がある。「落」なら、「玉をうっかり泉に落とした」というニュアンスがあるが、例えば「榮(栄)」なら「さきわう(幸う)」と読んで、「玉で泉を言祝いだ」という意味になるという。確かに、「玉を落とした」だけだと、何だか尻切れトンボのような感じではある。清い泉は貴重なものだったろうし、日本武尊が剣で岩に切りつけて清水を出したという伝説もある(現・茨城県つくば市大形の「鹿島神社」(2020年8月29日記事)など)。仮に「落とした」としても、そこには何か呪術的な、あるいは儀式的な意味があったのだろうと思われる。


茨城県のHPから(玉清井)


写真1:「玉清井神社」参道入口、社号標。


写真2:同上、鳥居


写真3:同上、社殿。祭神:倉稲魂命


写真4:同上、「玉清井」石碑。撰文は栗田寛(元東京帝大教授。「大日本史」最後の執筆者)による。


写真5:同上、「玉清井」


写真6:同上、池の中にある日本武尊の銅像。宮路久子氏の作。


写真7:「玉清井遺蹟」石碑。昭和10年頃、「玉清井」真贋論争があったらしい。


写真8:同上、「槻野清泉 石根神社 祭神 日本武尊 石凝姥命」石碑


写真9:同上、石祠


写真10:手前「玉清井遺蹟」、奥に見える森が「玉清井神社」
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御霊山(茨城県守谷市)

2021-08-14 23:29:02 | 伝説の地
御霊山(ごりょうやま)。大木山霊山。
場所:茨城県守谷市大木。茨城県道58号線(取手豊岡線)「常総運動公園入口」交差点から東へ約350m、「四季の里公園」の案内板が出ているところを左折(北へ)、約90m進んだ突き当りを左手(狭い方へ)の道路に入り、約300m。駐車場なし。手前の突き当りを右手に道なりに約400m進むと、「四季の里公園」の駐車場があり、そこに駐車して南西に約70m進む(その道路の東側が「御霊山」)方が便宜かもしれない。
「御霊山」は、伝説によれば平将門には7騎の従臣(あるいは7人の影武者)がいたが、ついには討たれ、その7騎の武者を憐れんで村人が墓に葬ったという場所である。「守谷町史」(昭和60年)では、堂宇等がないにもかかわらず「寺院」の項で扱われているほか、3枚の板碑の写真を示して「将門の七人の影武者の供養塔ではないかといわれている」という記述がある。現在では板碑はないようだが、「御霊権現」という石祠などが祀られている。「御霊」というのは、祟る怨霊を祀って平穏を願う信仰とされ、東京都千代田区の「将門の首塚」が1つの典型かもしれないが、当地では「祟る」という話は聞かない。
また、「守谷町史」では、軍記物語「将門記」の書かれた場所との説があることにも触れている。「将門記」は、著者も、書かれた時期も不明とされているが、「守谷町史」では、書かれたのは天慶6年(946年。将門の死からわずか6年後)とし(根拠不明。なお、「将門記」巻末近くに「天慶三年六月中記之」とあるが、通説では否定的で、実際には10世紀末~11世紀末頃とする説が多い。)、山崎謙という人の説として「将門記を記した人は、将門にゆかりのあった大木の僧侶で、この人が守谷の大木山連乗院に入山して、そこで書いたものであろう。本来ならば、将門が開山したといわれる筒戸の禅福寺で書きたかったであろうが、そこでは書けない事情があった。」というのを紹介している。これに対して、「傍証する資料はあまり残されていない」としているのだが、現・茨城県つくばみらい市の「普門山 禅福寺」(前項)が元は「真福寺」と称していて、「将門記」の古写本が「北野山 真福寺 寶生院」(現・愛知県名古屋市中区)で発見され、一般に「真福寺本」と呼ばれているところから、2つの「真福寺」には「何等かの関連性があったものと考えられる」とも書いている。かなり根拠薄弱な気もするが、どうだろうか。


写真1:「御霊山」入口


写真2:石段を上って行くと、左手に大師堂がある。


写真3:正面に石祠を祀る小堂


写真4:堂内の石祠。「御霊権現」と刻されている。


写真5:「御霊権現」の裏手は一段高くなっていて、多少傾斜がある。古墳のような形状にも見えるが、実際には、舌状に伸びた台地の一部のようである。
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瀧夜盛姫の墓

2021-05-08 23:05:09 | 伝説の地
瀧夜盛姫の墓(たきやもりひめのはか)。別名:尼塚。
場所:茨城県つくば市松塚。茨城県道128号線(土浦大曽根線)沿いのコンビニ「ファミリーマート桜金田店」北側の道路を北東へ約700m、突き当りを右折(南東へ)、130m進んだところ(「東福寺 栄幼稚園」の案内板がある。)で左折(北東へ)、約350mで「作蔵山 東福寺」境内入口(駐車場有り)。「瀧夜盛姫の墓」は、駐車場西端から北西へ約70m進んだところから南西約40mの畑の中にある。
「瀧夜盛姫の墓」は、平将門の娘、五月姫(出家して「如蔵尼」)の墓とされるもので、毎年、地元住民によって卒塔婆が立てられているという。伝承によれば、五月姫は、将門の死後、当地に逃げてきて現・「東福寺」、あるいは「東福寺」の西にあった「西福寺」に入って尼になり、如蔵尼と名乗った。その墓とされる場所には、かつて土饅頭(塚)があり、現在、「東福寺」楼門前に置かれている4枚の石板は、その塚の石棺だったものといわれている。ただし、その大きさ、厚さからして、石棺材ではなく、古墳の石室材であろうとみられている。因みに、当地は桜川の右岸(南岸)にあり、当寺院の南東、約200mのところ(「鹿島神社」付近)に「松塚古墳群」(前方後円墳2基,円墳1基)がある。なお、歌舞伎などでは、五月姫は復讐のため妖術を会得して「瀧夜叉姫」と名乗り、朝廷に逆らうということになっているが、これはあくまでも創作である。そして、「夜叉」はインドの悪鬼を意味することから、当地では、「滝夜盛姫」という名に変えているということである。また、「瀧夜叉姫」又は「如蔵尼」の墓とされるものは、現・福島県会津磐梯町「恵日寺」や現・秋田県田沢湖町などにもある(「姫塚」2016年10月15日記事参照)。

作蔵山 延命院 東福寺(さくぞうさん えんめいいん とうふくじ)。
場所:茨城県つくば市松塚665。
奈良時代の創建とする説もあるが、寺伝によれば、建長4年(1252年)、真言律宗の僧・忍性菩薩が創建したとされる。南北朝時代には小田氏の祈祷寺として栄え、江戸時代には、寺格は中本山常法壇林、十万石の格式があって、常陸・下総に多くの末寺があったという。第29世・明光僧正は、「新四国東福寺桜川八十八ヶ所霊場」として、つくば市北条から南の桜川両岸にある当寺院の末寺・門末を中心に弘法大師霊場を開設した。明治時代の廃仏毀釈のとき、「筑波山 中禅寺」(「筑波山 大御堂」2020年9月26日記事参照)の慧海僧正が当寺院の住職を兼ねていた縁で、現・「筑波山神社」随神門に祀られていた金剛力士像(仁王像)を当寺院に移した。 その際、仁王像は、桜川に筏を組んで運ばれたことから、「流れ仁王」と呼ばれている。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は延命地蔵尊。この地蔵菩薩像は、聖徳太子作と伝わる如蔵尼の持念仏で、安産・子育てに御利益があるとして信仰を集めているという。


写真1:「瀧夜盛姫の墓」


写真2:同上。卒塔婆に「如蔵尼」という文字が見える。


写真3:「東福寺」境内入口と寺号標(真言宗豊山派 作蔵山 東福寺」)。入って左に「栄幼稚園」がある。


写真4:同上、楼門(仁王門)。享保17年(1732年)建立。


写真5:同上、楼門前の石板。


写真6:同上、狛犬(吽形)。なかなか味がある姿。


写真7:同上、金剛力士像(阿形)。


写真8:同上、本堂。


写真9:本堂横の弘法大師堂。
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御門御墓

2021-01-30 23:21:49 | 伝説の地
御門御墓(みかどおはか)。別名:将門塚。
場所:茨城県桜川市大国玉3803付近。茨城県道148号線(東山田岩瀬線)「前原十字路」から北東へ約1.2km、「大国郵便局」のある道路へ入る。約240m進んだところで左折(西~北西へ)、約400m進んで左折(西へ)、狭い道路を約200m、突き当りの直ぐ左側。駐車場なし。目印が無いのでわかりにくいが、地図で見ると「光明寺」という寺院の反対側(西へ直線距離で約280m)辺り。
「御門御墓」は、平将門の供養塔とされる4基の五輪塔である。伝承では、かつて当地に将門の居館があり、非業の死を遂げた将門の霊を粗末にすると祟りがあると信じられたために建てられたという。現地の説明板によれば、鎌倉時代初期のものとされる。当地の地名(字名)である「三門(みかど)」は、将門が「新皇」と自称したところから、「帝」→「御門」→「三門」に変わったものという。将門の本拠地がどこであったかということについては諸説あるが、現在の茨城県坂東市岩井周辺というのが通説。そして、当時、当地を含む現・桜川市大国玉には平真樹(たいらのまさき)という豪族の館があり、式内社「大國玉神社」(2018年11月10日記事)と、真壁・新治・筑波の広い範囲を領地として支配していたとされる。真樹は、「平」姓を名乗ってはいるものの、高望王流桓武平氏の一族かは明確ではないとされるが、その娘が将門の妻(「君の御前」)として嫁いだ(つまり、将門の義父に当たる。)といわれている。もともと、その領地をめぐって常陸大掾・源護(みなもとのまもる)と対立していて、将門は真樹側につくことになる。加えて、君の御前が源護の3人の息子から横恋慕されたというような話もあって(こちらは尾鰭のようなものだろうが)、これが「平将門の乱」の原因となったとされる。よって、「御門御墓」は真樹の供養塔でもあるとみたほうがよいようだ。なお、当地には奈良時代創建の「西山寺」(三門廃寺)という寺院があったという説もあるようだが、詳細不明。
そして、当地の南東、約1km(直線距離)のところに「后神社」がある。ここの地名(字名)は「木崎(きさき)」=后で、「三門(みかど)」=帝と対をなしているという。「将門記」によれば、承平7年(937年)、将門は叔父・平良兼に攻められ、君の御前と子を殺害された(「将門記」は平安時代中~後期成立ともいわれるが、軍記物語であって伝記ではなく、記事に重複や矛盾する箇所もあるとされる。)。君の御前は将門の正室であり、死後、将門により「后」として祀られたのが「后神社」であるとされる。御神体は、平安時代の「五衣垂髪」(「五衣(いつごろも)」、いわゆる「十二単」(じゅうにひとえ)の着物に、背に長く垂らした髪型である「垂髪」(すいはつ、すべらかし)の女人木像で、これは現・茨城県坂東市の「國王神社」(2012年10月6日記事)の御神体である将門公の木像と対のものであるという。幕末、水戸藩士・青山延光が「后神社考」で、「后神社」の祭神は、式内社「大國玉神社」の祭神・大国主命の后である須勢理毘売命(スセリビメ)だという説を提唱した。 村人たちはこれを信じ、明治に入ると「大國玉神社」に合祀してしまった。すると、村に疫病が流行したため、「将門様の祟りだ」と恐れて「后神社」を元に戻したところ、疫病は治まったという。というようなことがあってか、現在の祭神は、須勢理毘売命と君の御前。
なお、「后神社」の北側(県道を隔てた向かい側の民家の裏手)に「木崎宝塚古墳」という円墳があって、墳上に稲荷社の小祠が祀られているという(未確認)。これは平将門が財宝を埋めた塚であるとの伝承があり、「将門宝塚」と呼ばれていた。そして、この辺りは桜川の右岸で、台地の東端に当たり、平真樹の城館があったところともいう。
蛇足:地図の「御門御墓」と「后神社」を直線でつなぐと、ちょうど中間に「大國玉神社」が鎮座している。何か意味があるのだろうか。


桜川市観光協会のHPから(御門(三門)御墓)


写真1:「御門御墓」入口。民家の庭のようなところだが、説明板が立てられている。


写真2:「御門御墓」。4基の石塔だが、向かって左端のものは低くて、よく見えないかもしれない。


写真3:「后神社」社殿(場所:桜川市大国玉1840。「大国小学校」東側から茨城県道343号線(木崎雨引停車場撰)を東に約200m。駐車スペースあり。)


写真4:同上、本殿


写真5:同上、拝殿と本殿の覆い屋が一体となっているような建物で、小さな本殿が中にある。
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諏訪の水穴

2020-02-01 23:33:27 | 伝説の地
諏訪の水穴(すわのみずあな)。別名:神仙洞。
場所:茨城県日立市諏訪町1157。国道6号線「油縄子(ゆなわご)」交差点から日立市道7号線(通称:梅林通り)に入り、北西へ約3.5km。市道は途中で茨城県道37号線(日立常陸太田線)になるが、県道沿いに石碑と説明板があり、そこから鮎川の川原に下りる。駐車場なし(説明板付近に1台程度駐車可?)。
「諏訪の水穴」は現在も清水が湧き出ている鍾乳洞で、説明板によると「普賢ヶ嶽」の麓にあるとなっているが、すぐ隣に「日立セメント(株)大平田鉱山」があって、セメント原料となる石灰石を採掘している。つまり、「普賢ヶ嶽」は石灰岩の山で、そこに浸み込んだ雨水や地下水が溶食してできた洞窟ということになる。そして、「諏訪神社」に因む次のような伝説がある。当地の「諏訪神社」は、信濃国一宮「諏訪大社」(長野県諏訪市など諏訪湖の周りに上社(本宮・前宮)、下社(春宮・秋宮)の4社がある。)の神人(じにん。下級神職)であった藤原高利(万年大夫)が建長2年(1250年)に勧請したもので、本社に倣い、現・日立市西成沢町に上社(上諏訪神社)を、現・日立市諏訪町に下社(下諏訪神社)を創建したという。この万年大夫とその妻・万年守子(「守子」は名ではなく、巫女のことらしい。)は、自らの木像を作って下社の拝殿に納めた後、この水穴を通って故郷である諏訪に戻るとして中に入った。入る際に大量の籾殻を背負い、少しずつ籾殻を水に流した。村人が籾殻の流れ出てくるのを見守っていたが、7日を過ぎると籾殻は絶え、万年大夫夫婦も出てこなかった、という。
後に、水戸藩第2代藩主・徳川光圀がこの夫婦の像をみたところ、年が経って腐朽していたため、新たに夫婦の木像を作り、古い木造を胎内に納めたという。この新たな木像(元禄3年(1690年)銘がある。)は現在も残されており、茨城県指定文化財に指定される際に行われた調査により胎内像も発見された。胎内像は鎌倉時代の神職の装束をしており、中世のものと確認されているという(現在は日立市郷土博物館で常設展示)。徳川光圀も洞窟の中に入ってみたらしいが、狭くなった「三の戸」という場所よりは奥に進んではいけない、と命じたとか。
戦後、下流に防災ダムが造られたことにより、この洞窟は砂利に埋まってしまったが、地元の強い復興運動により昔の姿に戻ったという(説明板は昭和57年設置)。


茨城県教育委員会のHPから(木造 万年大夫夫婦坐像(胎内像含))


日立市郷土博物館のHPから(常設展)


写真1:「諏訪の水穴」石碑と説明板


写真2:「諏訪の水穴」


写真3:同上。現在もかなりの水量がある。


写真4:「厳島神社」。「諏訪の水穴」の直ぐ横にある。


写真5:「諏訪神社」(上社)入口の鳥居。社号標は「上諏訪神社」(場所:茨城県日立市西成沢町3-21。「諏訪の水穴」から県道を南東へ約2km(「上諏訪橋」を渡ったところ)。更に200mほど東に進んだところに駐車場入口がある。)。


写真6:同上、駐車場のところにある二の鳥居


写真7:同上、社殿


写真8:「諏訪神社」(下社)入口の鳥居。社号標は「村社 諏訪神社」(場所:茨城県日立市諏訪町3-11。「諏訪の水穴」から南東へ約2.5km(「梅林通り」沿い。)。駐車場有り)。


写真9:同上、二の鳥居。額に「諏訪第二宮」とあるが、これは本社の「諏訪大社」に次ぐものという意味とのこと。


写真10:同上、御手洗石。水がなく、黒ずんでいるが、これも石灰石だろう。形が面白く、磨けば素晴らしい名石なのだろう。


写真11:同上、社殿


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