神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

八幡神社(秋田県大仙市神宮寺)

2015-06-27 23:48:08 | 神社
八幡神社(はちまんじんじゃ)。通称:神宮寺八幡神社(じんぐうじはちまんじんじゃ)。
場所:秋田県大仙市神宮寺字神宮寺33。国道13号線「神宮寺小学校」交差点から南東に約300m。ただし、現在の国道13号線側は当神社の裏手になる。駐車スペース有り。
社伝によれば、大同2年(806年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が現・秋田県の男鹿半島「寒風山」に住む賊・大猛丸を退治するのに向う際、当地で兵を募り、「八幡大神」に戦勝を祈願した。首尾よく目的を果たした帰路、社殿を建立したと言う。その後、一時衰微したが、寛治3年(1089年)に源義家(八幡太郎)が再建(建久3年(1192年)に源頼朝が再建、と言う説もある。)し、「八幡大菩薩」大旗1流などを奉納した(現存、大仙市指定有形文化財。ただし、製作年代不明)という。佐竹氏入封後は篤く崇敬され(佐竹氏は清和源氏の家系)、藩主が江戸との往復時の途中に必ず参拝したという。なお、現在の社殿は宝永3年(1706年)の再建であるが、安永年間(1772~1780年)の大洪水により川欠けが生じたため現在地に遷座したとされる。なお、当地の地名である「神宮寺」は、当神社の別当・真言宗「去河山 神宮寺 華蔵院」に由来している。
当神社は、「神宮寺岳」山頂に鎮座する「嶽六所神社」(次項)の里宮とされており、同神社の社伝では、まず同神社の前身である式内社「副川神社」が創建された後、山麓に当神社が里宮として創建されたことになっているが、元々「神宮寺岳」自体を神体山とする神社であり、寧ろ麓から山を拝するのが本来の姿と考えられるので、当神社こそが式内社「副川神社」の後身ではないかと思われる。


秋田県神社庁のHPから(八幡神社)

玄松子さんのHPから(八幡神社(大仙市))


写真1:「八幡神社」境内(参道)入口


写真2:社殿正面


写真3:拝殿


写真4:同上


写真5:本殿
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副川神社(出羽国式内社・その9)

2015-06-20 23:16:02 | 神社
副川神社(そえがわじんじゃ)。
場所:秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町字小坂45。国道7号線「真坂」交差点から秋田県道220号線(真坂五城目線)「五城目」方面へ入る(東へ)。途中、介護老人保健施設「栄寿苑」付近で県道は右にカーヴしているが、分岐する狭い道路に直進。分岐から約700mでT字路に突き当たるので、右折(北へ)、道なりに約300m進むと「高岳山」登山口に到着。駐車場有り(古義真言宗智山派「盛医山 東国寺 常福院」の裏手)。神社は「高丘山」(標高221m)山頂に鎮座しており、登山口から徒歩で約30分登る。
出羽国式内社「副川神社」は、「延喜式神名帳」に登載されている以外、古代・中世の史料に見えない。一説に、「日本三代実録」貞観13年(871年)条に「出羽国利神に従五位下を授ける」という記事があり、この「利神」が「副川神社」であるとするが、根拠に乏しい。「延喜式神名帳」では鎮座地を「山本郡」としているが、これは近世の「山本郡」(旧・檜山郡)と異なり、古代では近世の「仙北郡」に当たる地域である。「副川神社」は中世には祭祀が廃絶していたと考えられ、秋田に入封した久保田(秋田)藩・佐竹氏により、現在地に再興された。再興に当たり、「副川神社」の本来の鎮座地が現・秋田県大仙市神宮寺にあったことを認識していながら、久保田城の北方の鎮護社とするべく、敢えて当地に移転させたとされる。元の桧山郡を山本郡に改名した理由も、「延喜式神名帳」の記載に合わせることにあったとする説もある。なお、この遷座により、現在、当神社が日本最北の式内社となっている。
因みに、古代、律令政府の支配地域は、現・秋田県八郎潟町の「三倉鼻」、「高岳山」、五城目町の「森山」を結んだ線が北限だったという説が有力。当神社が現在地に再興されたのは偶然だろうか。「高岳山」は、中世には修験道の聖地となっており、「広峰神社」として牛頭天王が祀られていたという。現在の祭神は、天照大御神・豊受大神・素盞嗚大神となっている。


秋田県神社庁のHPから(副川神社)

玄松子さんのHPから(副川神社)


写真1:「延喜式内 副川神社参道」の石碑


写真2:登山道から直ぐの石鳥居


写真3:「副川神社」里宮


写真4:里宮の前を通り過ぎて更に登っていく。


写真5:「高岳山」中腹の石鳥居と常夜灯。この鳥居は「中の鳥居」と称され、この付近から八郎潟方面の眺めが良い。この常夜灯は沖を通る船の良い目印になっていたようだ。


写真6:社殿。その前の鳥居は塩化ビニール製だそうで、かなり珍しい。


写真7:山頂にある標高、位置を示す石碑
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波宇志別神社(秋田県由利本荘市)

2015-06-13 23:03:14 | 神社
波宇志別神社(はうしわけじんじゃ)。通称:保呂羽山本宮波宇志別神社(ほろはさんほんぐうはうしわけじんじゃ)。
場所:秋田県由利本荘市東由利法内字法内1。国道107号線(本荘街道)から秋田県道30号線(神岡南外東由利線)に入り、北東へ約2.6km。駐車場なし。
社伝によれば、天宝勝宝元年(749年)、現・宮司家の先祖である遠藤大宮四郎茂遠が筑前国(現・福岡県)から下向し、二代目の遠藤藤治太郎茂高が天宝宝字元年(757年)に保呂羽山山頂に「波宇志別神社」(「天国寺」)を創建した。以来、遠藤家は別当として奉仕し、嘉祥3年(850年)に当神社の社殿を造営し、「極楽寺」と称した。近世には、矢島藩の崇敬五社の1社となり、保呂羽山参拝者(修験)の宿坊となっていた、という。現在の祭神は大己貴命と少彦名命(ただし、拝殿に掲げられた額は「波宇志別神社 保喰神社」となっている。)。
「伽藍開基記」(元禄5年:1692年刊)によれば、式内社「保呂羽山波宇志別神社」の創始は凡そ次の通り。「昔、大友藤原吉親が保呂羽山麓で由利郡に住む遠藤太郎と名乗る猟師と出会った。2人で山に登ると、霊樹があり、金色の光を放っていた。そこへ1人の沙門(僧侶)が現れ、『この樹には蔵王権現がおられ、その本体は釈迦如来である。人々を救い、国家を安定させるために現れたのであるから、汝らは社殿を建て、蔵王権現を祀るように...』と言って消えた。そこで、両人は社殿を建てた」。
保呂羽山は久保田(秋田)藩、亀田藩、矢島藩の3つの藩領の境にあり、それぞれに参拝口があった。表口が現・横手市大森町八沢木、裏口が現・由利本荘市羽広、脇口が現・由利本荘市東由利法内であるが、それぞれの別当(社家)は、表口:大友家(+守屋家)、裏口:遠藤(後、佐々木)家、脇口:遠藤家であったという(他に、「保呂羽山波宇志別神社」の境内社「下居堂」の社家も遠藤家)。このうち、脇口の法内の社殿が当神社で、近世には「極楽寺」と称していたようだ。「寺」と言っても、当時は神仏混淆が当たり前で、藩からの文書などでは宛先が「極楽寺 宮司」の遠藤氏になっていたりする。因みに、裏口の羽広の社殿(「文殊堂」とも言われていたらしい。)は現存していない。


秋田県神社庁のHPから(波宇志別神社) :(注)「羽宇志別神社」となっているが、誤りと思われる。なお、秋田県にかほ市金浦には「羽宇志別神社」があり、紛らわしい。


写真1:「波宇志別神社」鳥居。赤いトタン屋根が印象的。


写真2:同上、石段を上る


写真3:同上、社殿


写真4:神社正面右手にある「別当家(極楽寺)の跡」の木碑。遠藤家の子孫は今も由利本荘市にお住まいだそうで、当地から離れる際に、記念に庭園として残した、とのこと。


写真5:同上、「別当家の跡」の石碑


写真6:近くにある「法内の八本杉」(場所:由利本荘市法内字臼ヶ沢国有林36林班ろ小班、当神社から秋田県道30号線を北へ約740m進むと、案内の標柱があり、そこから狭い道路を道なりに約2km。駐車場有り)。幹周約11.5m、樹高約40m、 樹齢(推定)700年という。
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保呂羽山波宇志別神社 里宮

2015-06-06 23:59:13 | 神社
保呂羽山波宇志別神社 里宮(ほろわさんはうしわけじんじゃ さとみや)。
場所:秋田県横手市大森町八沢木字木ノ根坂200。秋田県道29号線(横手大森大内線)と同265号線(湯の又前田線)の交差点(合流点)の北、約1kmのところを東に入る(「霜月神楽」の案内板がある。)。そこから道なりに南東に約1.3km。駐車場なし。なお、「神楽殿」及び「ほろわの里資料館」には、上記交差点から北へ約4km。駐車場あり。
式内社「保呂羽山波宇志別神社」は、第27代天皇である安閑天皇の家来だった大友右衛太郎吉親が創建したとされ、現在、秋田県内に鎮座する式内社3社のうち唯一、中世にも祭祀が途絶えなかった神社である。現在も大友家が宮司を務めるが、大友家は古代の有力氏族・大伴氏の末裔とされる。「保呂羽山波宇志別神社」は、近世には神仏混淆して「保呂羽山 天国寺 極楽院」という寺号を有していたが、これは別当寺ではなく、あくまでも社家が支配していた。そういう意味でも、稀有な存在だった。佐竹氏が秋田に入封すると、中絶していた式内社「副川神社」と「塩湯彦神社」の再興を任せられ、秋田藩内の神社の大頭職となった。大友家当主が幼少であった折、元は神楽役だったという守屋家も宮司を務めたが、嘉永6年(1853年)に守屋家で行われていた神事の最中に出火した火事で参拝者100人以上が焼死するという大事件を起こしたため、守屋家は追放された。なお、守屋家の伝承によれば、守屋家は飛鳥時代の大連である物部守屋の末裔で、当神社の神霊も守屋家が大和国から分霊したと伝えているとのこと。
さて、県道265号線沿いにある「神楽殿」は室町時代後半の建物と推定され、母屋の前後に庇を延ばす「両流造」は東北唯一、全国でも6棟しかないものだという(国の有形重要文化財)。神事「霜月神楽」は、天正18年(1590年)に大友右衛門太郎吉継が書き遺したという「保呂羽山開山以来之祭祀之次第」によって行われる神楽(国の重要無形民俗文化財に指定されている。)で、元はこの「神楽殿」で行われていたが、現在では大友家宅を兼ねた「里宮」で行われるようになっている。


横手市のHPから(霜月神楽)

公立大学法人国際教養大学地域環境研究センターのHPから(保呂羽山の霜月神楽)


写真1:「保呂羽山波宇志別神社 里宮」入口。ちょっと場所がわかりにくい。県道から少し入るのだが、何となく「隠れ里」の雰囲気がある。


写真2:同上、鳥居


写真3:同上、社殿。扁額は「敬神」


写真4:「神楽殿」前の鳥居


写真5:同上、扇池


写真6:「神楽殿」。かつては「弥勒殿」と称していた。


写真7:「仁王門」(神門)。元和5年(1619年)建立。神仏混淆の名残りだろう。(場所:横手市大森町八沢木。八沢木郵便局の東、約260m)
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