神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

封蛇石

2017-01-28 23:01:15 | 名石・奇岩・怪岩
封蛇石(ふうじゃいし)。
場所:秋田県男鹿市脇本富永。秋田県道54号線(男鹿琴丘線)から同55号線(入道崎寒風山線)に入り(寒風山方面へ)、約1.3kmのところで(「岩清水入口」の標柱がある。)側道に下りる。ただし、側道は狭く、下りると未舗装になるので注意。鳥居があり、その前に駐車スペースあり。
昔、「岩清水」の近くに、黒い斑点がある銀色の蛇が棲んでいた。村人は霊蛇として崇めていたが、寒風山麓にある「宗泉寺」の徳善民道和尚が見ると、この蛇はやがて天に昇るときに天変地異を起こすものと知り、秘法で岩に閉じ込めた。よって、この石を「封蛇石」という。この蛇は、閉じ込められるとき「万病平癒成就・大漁満足・諸縁吉祥を男女に与える」と誓ったため、村人は「岩清水大竜王」として祀るようになった。そじて、「封蛇石」の下から湧き出す清水に浸かると、足腰の病が癒えるといわれた。また、子授けにも御利益があらしい。逆に、この石にいたずらすると、良くないことが起きるという。
現在もきれいな清水が湧き出しており、傍らの「岩清水大竜王神社」もよく手入れされている。また、この水を汲みに来たり、山菜のミズ(ウワバミソウ)を採りに来たりする人も多いようだ(ただし、生水は飲まない方が良い。)。


男鹿市観光協会のHPから(寒風山・脇本エリア)


写真1:「岩清水」入口の鳥居


写真2:「岩清水龍王」の石碑


写真3:「岩清水大竜王神社」


写真4:「封蛇石」。実際にはかなりの巨石らしいが、木や草に覆われて全貌が知れない。


写真5:同上。岩に割れ目があるが、徳善民道和尚が秘法でいったん岩を割り、その中に蛇を閉じ込めたという。


写真6:「岩清水」の北側の道路からも入口があるようで、「菅江真澄の道」の標柱が設置されているが、見た通り荒れている。


写真7:「海蔵山 宗泉寺」(場所:秋田県男鹿市脇本浦田14)。円仁(慈覚大師)の開創で、現在は曹洞宗であるが、元は天台宗であったという。本尊:薬師如来。
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ゴジラ岩(秋田県男鹿市)

2017-01-21 23:52:31 | 名石・奇岩・怪岩
ゴジラ岩(ごじらいわ)。
場所:秋田県男鹿市船川港小浜。JR男鹿線「男鹿駅」前付近から秋田県道59号線(男鹿半島線)を南西~西へ、約12km。「塩瀬埼灯台」のある岬の岩場。県道を下りたところに駐車スペースあり。
男鹿半島南部の海岸には、見所が多い。例えば、「鵜ノ崎海岸」は200m先まで歩いて行けるという遠浅の磯場。また、遊覧船で巡る「白糸の滝」・「大桟橋」(岩が橋のようになっている)・「孔雀の窟」(海の洞窟)など奇景。そして、テレビCMなどでも使われたのが「ゴジラ岩」。怪獣「ゴジラ」のように見える岩は男鹿半島以外にもあるようだが、確かにそれらしく見える。そして、夕日が沈むころに見に行けば、岩が赤く染まって、いまにも放射能火炎を吐きそうにみえるらしい。残念ながら夕日の時間には見に行けなかったが、それでも一見の価値はあるだろう。男鹿半島南部~西部を走る秋田県道59号線(男鹿半島線)は、ほぼ海岸線近くを走り、アップダウンやカーヴも多くて、ドライブ好きなら楽しめる道路で、お勧め(ただし、スピード注意)。


「男鹿ナビ」HPから(ゴジラ岩)


写真1:奇妙な形の岩が多いが...


写真2:「ゴジラ岩」。確かに「ゴジラ」と言われれば、「ゴジラ」。
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徐福塚(秋田県男鹿市)

2017-01-14 23:26:40 | 伝説の地
徐福塚(じょふくづか)。
場所:秋田県男鹿市船川港本山門前字祓川27。JR男鹿線「男鹿駅」前付近から秋田県道59号線(男鹿半島線)を南西~西へ、約14km。「五社堂入口」の案内板が出ているところに「長楽寺」駐車場がある。
「赤神神社」(前項)の前身である「赤神山 日積寺 永禅院」は、貞観2年(860年)、円仁(慈覚大師、第3代天台座主)により創建されたとされる。以来、山岳修験の霊場として栄え、往時には9ヵ寺48坊があったという。南北朝時代には天台宗から真言宗に改宗、明治期の神仏分離により「赤神神社」が独立する一方で、「日積寺 永禅院」は廃寺となった。「男鹿本山(瑠璃山) 長楽寺」は、現在まで残る数少ない末寺の1つで、現在は真言宗智山派に属し、本尊は薬師如来。また、秋田三十三観音霊場の第26番札所ともなっている(霊場本尊は如意輪観音)。「赤神神社 五社堂」の999段の石段の中腹辺りにあり、その近道になる。
さて、「長楽寺」境内に「徐福塚」がある。徐福というのは、中国の秦の時代の方士(方術、即ち卜占・医術・錬金術などを行う者で、仙人修行をする者というのがイメージに近いか?)で、司馬遷の「史記」のうち「淮南衝山列伝」に、始皇帝(在位:前247~210年)の命を受けて不老不死の霊薬を探しに出かけた、という記事がある。より具体的には、中国の東方に「三神山(蓬莱・方丈・瀛州)」というところがあって、そこにある不老不死の霊薬を求め、3千人の若い男女と五穀の種、多くの技術者たちを連れて船出した。しかし、上陸した先で広い土地を得て、王となり、帰らなかった、とされる。このエピソードから、徐福が向かった先は日本であり、徐福や同行した人々が日本人の祖先となった、という伝説が生まれた。こうして、日本各地に徐福の上陸地など、所縁があるとされる場所が存在することとなったらしい。
秋田県男鹿市の「徐福塚」が何を記念したものかは不明。この「徐福塚」のことは、江戸時代の紀行家・菅江真澄の記録にあり、図面も書いている。その後、当時の「徐福塚」は所在不明となっていたが、2005年に「徐福塚復元実行委員会」によって現在の「徐福塚」が復元されたものという。菅江真澄自身は、この「徐福塚」がさほど古いものではなく、徐福が上陸したのは紀州(現・和歌山県)であるという説が流布していたことから、「徐福塚」を建てたのは紀州・熊野の修験者ではないか、と冷静な判断をしているようである。ただ、前項の「赤神神社」の「赤神」=漢の武帝、という伝説もそうであるが、古くからの中国との結びつきを感じさせる。紀元前3世紀はともかくも、「続日本紀」によれば、天平18 年(746年)、渤海及び鉄利の人1千1百人が出羽国に漂着した、という記録もあり、中国大陸と日本海側諸国との往来があったことが背景となっているように思われる。
蛇足ながら、上記「史記」の別のところ(「秦始皇帝本紀」)では、徐福は始皇帝の命を受け、船出の援助を受けたものの、出立しないまま、そのうちに始皇帝が崩御した、と書かれている(要するに、徐福は始皇帝を騙して金品を受け取った人物である。)らしい。こちらだと、何のロマンもない話となるが・・・。


写真1:「長楽寺」本堂


写真2:同、「宝物殿」手前の鳥居。その先、「赤神神社 五社堂」方面


写真3:境内の宝篋印塔


写真4:同、「徐福塚」(復元)





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赤神神社 五社堂

2017-01-07 23:16:36 | 神社
赤神神社 五社堂(あかがみじんじゃ ごしゃどう)。
場所:秋田県男鹿市船川港本山門前28(拝殿)。JR男鹿線「男鹿駅」前付近から秋田県道59号線(男鹿半島線)を南西~西へ、約13km。県道に面して「赤神神社」拝殿があるが、駐車場はその手前約250mのところにある(「なまはげ立像」が目印)。更に県道を西へ約700m進むと、「五社堂入口」の案内板が出ている「長楽寺」駐車場がある。そこから「五社堂」へは、石段を10~15分登る。
社伝によれば、景行天皇2年(72年)に漢の武帝(在位:前141~前87年)が天から降りてきて、「赤神権現」として信仰された。貞観2年(860年)には、円仁(慈覚大師、第3代天台座主)が堂塔を建立して「赤神山 日積寺 永禅院」と称し、修験道場として栄えたという。中世~近世にも、時の領主に手厚い庇護を受けたが、明治の神仏分離により「赤神神社」として独立した(現在の祭神は天津彦火瓊々杵之命)。因みに、「赤神権現」(「赤神明神」)は、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」の守護神である京都「赤山禅院」の本尊・「赤山大明神」と同じで、本来は唐の赤山の「泰山府君」のことであるとされる。「泰山府君」は、道教では「東嶽大帝」とも呼ばれ、仏教では地獄の十王の1人であり、陰陽道の主祭神として知られ、七福神の「福禄寿」ともされる。
さて、当地の伝説によれば、漢の武帝=「赤神権現」には5匹の鬼が蝙蝠(コウモリ)に変身して付き従ってきたという。そして、鬼たちは、普段は「赤神権現」に使役されていたが、正月15日だけは解放されて、村を荒らし回った。困った村人たちは、鬼と賭けをし、一夜のうちに1千段の石段を築くことができたら毎年1人の娘を差し出す、できなければ村から出ていく、という約束をした。鬼たちは、あっという間に石段を築き始めたので、驚いた村人の1人が999段できたところで鶏の鳴き真似をしたところ、夜が明けたと思った鬼たちは悔しがりながら村から出て行った。後の祟りを恐れた村人たちは、仮装した鬼たちに御馳走して山に帰すという祭りを始め、これが現在も続く「なまはげ行事」の基になったともいわれる。
ところで、「五社堂」は、建保4年(1216年)、比叡山の近江国式内社「日吉大社」(現・滋賀県)の所謂「山王七社」(西本宮・東本宮と5つの摂社)を勧請して造営されたが、そのうち2社が廃れたため5社となったとされている(本来は、中央に「赤神大権現堂」があったという。)。ただし、元々5社として建てられたのであり、「越王」・「古四王」(「古四王神社」:2015年8月15日記事参照)と関連があるのではないか(「五社堂」の「こし」が通じる)、という説もある。ともあれ、2013年の秋田デスティネーション・キャンペーンでは、女優の吉永小百合さんが出演するテレビCMでも紹介されたので「五社堂」ばかりが有名になったが、実は、更に奥、「毛無山」(標高617m)山頂に「中宮」、「本山」(同715m)山頂に「奥宮」がある。ただし、それぞれ自衛隊のレーダー基地があり、参拝するのは大変そうなので遠慮した。


赤神神社 五社堂のHP

秋田県神社庁のHPから(赤神神社)

「神社探訪・狛犬見聞録」さんのHP :「赤神社」として、奥宮まで参拝された記録があります。


写真1:「赤神神社」拝殿


写真2:拝殿横から「五社堂」まで999段の石段が続く。


写真3:素朴な感じの石段


写真4:同上


社員5:「五社堂」境内入口の鳥居


写真6:「姿見の井戸」。井戸の水面に自らの姿がはっきり映れば今年の生命が保証される。はっきりしないときは、災難不幸に遭う。全く映らないときは、その年のうちに死ぬこともある、という。


写真7:「五社堂」。向かって右から、「三の宮堂」、「客人権現堂」、「赤神権現堂(中央堂)」、「八王子堂」、「十禅師堂」というとのこと。国指定重要文化財。


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