神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

大物忌神社(秋田県由利本荘市森子)

2014-10-25 23:31:15 | 神社
大物忌神社(おおものいみじんじゃ)。通称:森子大物忌神社(もりこおおものいみじんじゃ)、または八乙女山大物忌神社(やおとめさんおおものいみじんじゃ)。地元では「お薬師様」とも呼ばれているとのこと。
場所:秋田県由利本荘市森子字八乙女下99。国道108号線「滝沢橋」交差点から南に約1km進み、「下川原」バス停のところ(案内板あり)から西へ約500m。駐車場あり。
社伝によれば、養老年中(717~724年)、八乙女山に「鳥海山大物忌神社」の分霊を勧請し、遥拝所として崇敬された。貞観3年(861年)には社殿を造営し、修験者の「鳥海山」登拝路の1つ「滝沢口」の中心地となったという。早くから神仏習合し、八乙女山にあった天台宗「龍洞寺」を学頭寺として最盛期には宗坊33坊を数えたという。戦国時代末期、当地を支配していた滝沢氏が現・由利本荘市前郷に新たに城(館)を築いたため、「龍洞寺」も城下に移され、「文殊院」が別当となった。当神社は通称「お薬師様」と呼ばれるように、神仏分離以前は「薬師堂」であり、「大物忌神」の本地仏である薬師如来、脇侍の日光菩薩・月光菩薩、守護善神である十二神将が祀られていた(明治期の神仏分離の際には天井裏に隠されて残されたらしい。)。同じく「鳥海山」北麓にあって「逆の峰入り」を行う「矢島口」の修験とは対立関係にあったとされ、江戸時代中期頃には敗北し、立場を失ったとされる。
現在では、「(森子)大物忌神社」となり、安政3年(1856年)再建の拝殿・幣殿、大正時代建立の本殿が国登録有形文化財に登録されているほか、境内一帯が史跡「鳥海山」の一部として国指定史跡に指定されている。


秋田県神社庁のHPから(大物忌神社)


写真1:「(森子)大物忌神社」境内入口の鳥居と社号標。鳥居の扁額は「大物忌神社」、社号標は「八乙女山大物忌神社」。ここから約300段の石段を上る。例大祭(4月第3日曜日)には、古式に則り米俵10俵分と言われる御輿を背負い、この石段を一気に駆け上がる。


写真2:二の鳥居


写真3:「神楽座跡」の石碑。ここから上は女人禁制。


写真4:社殿


写真5:社殿の奥に「鳥海山」山頂に向う「道者道」入口がある。


写真6:八乙女山の山頂にある「鳥海山様」という三角形の石。「鳥海山」の山容を表すものという。
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大物忌神社(秋田県由利本荘市矢島町)

2014-10-18 23:42:21 | 神社
大物忌神社(おおものいみじんじゃ)。通称:木境大物忌神社(きざかいおおものいみじんじゃ)。
場所:秋田県由利本荘市矢島町城内字木境4。「木境」という小字は普通の地図には載っていない。秋田県道32号線(仁賀保矢島館合線)で「鳥海高原花立牧場まで行き、そこから秋田県道58号線(象潟矢島線)に入り、鳥海山方面に(西へ)約1.2km。県道に面しているが、木立に隠れていて、見逃しやすい。駐車場有り。
「木境大物忌神社」は、いくつかある「鳥海山」登山口の1つ、「矢島口」の本拠地となった神社。伝承によれば、嘉祥3年(850年)に美濃国土田から来た比良衛・多良衛という兄弟が鳥海山を開山し、貞観12年(870年)には修験道当山派を開創した醍醐寺の聖宝(後の理源大師。弘法大師空海の孫弟子)が鳥海修験を興したとされる。比良衛・多良衛は善童鬼・妙童鬼、あるいは赤鬼・青鬼と呼ばれるようになり(いずれも役行者の従者とされる前鬼・後鬼の別名である。)、当神社の向かい側付近にある「開山神社」に祀られている。なお、開山後、比良衛・多良衛は麓に下りて土田氏を名乗って土着し、現在も善童鬼の家系という土田家が「開山神社」を氏神として奉斎しているとのこと。
「木境大物忌神社」は、鳥海山の北麓、二合目に位置している。建長6年(1254年)に改めて出羽国一宮「鳥海山大物忌神社」の分霊を勧請して、遥拝所として整備されたという。とはいえ、江戸時代には、本山堂には役行者像、新山堂には薬師如来像(鳥海山大権現の本地仏)が祀られ、女性の参拝も許していたため、別名「女人堂」とも言われていたらしい。矢島領一般の鎮守として矢島藩(生駒氏)の庇護が篤く、18坊があったという。元禄14年(1701年)、「鳥海山」山頂御堂(現・「鳥海山大物忌神社山頂御本社」)の建替えを期に、これを「矢島」で行うことで山上の支配権を掌握しようとしたが、従来から建替えを行ってきた「蕨岡」に敗北した。次いで、元禄16年(1703年)には「鳥海山」の峰境についても「蕨岡」との間で争いを起こしたが、これは単に宗派争いに留まらず、行政上の問題にもなったことから、最終的には宝永元年(1704年)に江戸幕府の裁定により、やはり敗北している。これには「日本三代実録」貞観13年(871年)条にある「従三位勲五等大物忌神社在飽海郡山上巌石壁立人跡稀到」という文を「飽海郡山上に在り」と読むか、「飽海郡に在り、山上・・・」と読むかという問題もあったが、実際問題として、8千石の小藩である矢島藩(「矢島」側)と庄内平野を領して豊かな庄内藩(14万石)(「蕨岡」側)との争いともなり、その経済力の差で敗れたとも評されている。なお、この採決により由利郡側の山腹七合目から以南は飽海郡に属するとされ、これが現在に至るまで秋田・山形県境が「鳥海山」では北側に突き出した形になった原因にもなっている。
平成21年には、「鳥海山大物忌神社(山頂御本社・吹浦口之宮・蕨岡口之宮)」だけでなく、「木境大物忌神社」・「森子大物忌神社」(秋田県由利本荘市)・「金峰神社」(秋田県にかほ市)などを含めて、「鳥海山」として国指定史跡に指定された。


秋田県神社庁のHPから(大物忌神社)


写真1:「木境大物忌神社」境内入口? 鳥居はなく、石灯篭が2基立っている。


写真2:同上、県道脇の説明板


写真3:同上、社殿。萱葺のどっしりした建物。神社というよりは仏堂の趣。


写真4:今も残る「道者道」


写真5:「開山神社」


写真6:花立牧場公園付近から見える「鳥海山」
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鳥海山大物忌神社 蕨岡口之宮

2014-10-04 23:19:04 | 神社
鳥海山大物忌神社 蕨岡口之宮(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ わらびおかくちのみや)。
場所:山形県飽海郡遊佐町大字上蕨岡字松ヶ岡51。国道345号線から山形県道373号線(杉沢南鳥海停車場線)に入り、道なりに約3km進み、右折。駐車場有り。
出羽国一宮・式内社(名神大)「鳥海山大物忌神社」は、現在は東方地方第2の高峰「鳥海山」(2,236m)山頂の「御本社」と「吹浦」・「蕨岡」の口之宮の3社一体となっているが、中世以降神仏混淆し、近世まで修験道の聖地だった。いくつかある登山口毎に勢力争いがあり、それに宗派対立等も絡んで複雑な関係であったらしい。そのなかで「蕨岡口之宮」は「鳥海山」南西麓に鎮座し、江戸時代には山頂の「薬師堂」(または「権現堂」、現在の「御本社」)の鍵を支配して、宗坊33坊という大勢力だったという(「吹浦」25坊、「矢島」18坊)。「蕨岡」宮の縁起での特色は役行者(役小角)の開基を説く点で、「鳥海山」には「手長・足長」という悪鬼が棲みついて村人を悩ましたため、白鳳年中(672~685年?)、「大物忌神」の意を受けた役行者が悪鬼を退治し、登山道を開いたとされる。
宗坊33坊の学頭寺であったのが「鳥海山 龍頭寺」で、現在は真言宗智山派に属し、本尊は薬師如来(「鳥海山大権現」の本地仏)。寺伝によれば、大同2年(807年)に慈照上人が開基したという。また、貞観2年(860年)に慈覚大師(円仁)が仙翁・龍翁という青鬼・赤鬼を退治し、「龍頭寺」を建立したとも伝える。慈覚大師は第3代天台座主なので、この辺り宗派の問題は複雑だが、近世に羽黒修験が江戸幕府に重んじられた天台宗に改宗した際も真言宗に留まった。明治時代に入って神仏分離令が出された後、他の宗坊は還俗したが「龍頭寺」のみは寺院として残った。
「蕨岡」宮は神道化に後れ、当初は「吹浦」宮のみが国幣中社に指定されるなどしたが、何とか巻き返し、「吹浦」宮とともに「口之宮」(里宮)となり、山頂の「御本社」と3社一体で「鳥海山大物忌神社」と称することとなった。


「やまがた庄内観光サイト」のHPから(鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮)

同上(鳥海山 龍頭寺)

玄松子さんのHPから(鳥海山大物忌神社(蕨岡口之宮))


写真1:「鳥海山大物忌神社 蕨岡口之宮」境内入口。二の鳥居と随神門(元は仁王門)。社号標には「国幣中社 大物忌神社」、随神門の扁額には「出羽一之宮」とある。


写真2:高さ5m余の石造宝篋印塔(寛政12年(1800年)建立)


写真3:三の鳥居。随神門から入ると左に曲がって社殿に進む。


写真4:社殿


写真5:「峯中碑伝(ぶちゅうひで)」。山伏の峯入り修行の記念碑で、この碑には中央に大きく不動明王の種字(「カンマン」)が刻されている。文化2年(1805年)銘。境内入口から正面の石段を上ったところにあり、更にその上に旧拝殿があったという。


写真6:「龍頭寺」(住所:山形県飽海郡遊佐町蕨岡字松岡45。当神社に隣接)。龍頭寺の前身は「松岳山 観音寺」と称していたといい、その当時の本尊であったみられる十一面観音像があって、「庄内三十三観音霊場」の第19番札所にもなっている。


写真7:「蕨岡」から「吹浦」に向う途中に見えた「鳥海山」(詳しい場所は不明)
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