神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

日枝神社(千葉県船橋市夏見)

2012-12-29 23:24:44 | 神社
日枝神社(ひえじんじゃ)。通称:(西)夏見日枝神社((にし)なつみひえじんじゃ)。
場所:千葉県船橋市夏見2-29-22。八栄小学校の西側。駐車場有り。
当神社の創建時期は不明だが、一説に日本武尊の東征の頃という。祭神は大山咋命。「日枝神社」というからには、本来は比叡山の地主神で、天台宗寺院と所縁がありそうだが、よくわからない。船橋市夏見の台地上にあり、一説に、式内社「意富比神社」(船橋大神宮)創建伝承において日本武尊が天照皇大神に祈ったのは、この台地上(「高天原」とも称したらしい。)だったという。このことから、式内社「意富比神社」(船橋大神宮)の元宮であるということもあるが、同神社が当地から現在地(船橋市宮本)に遷座した後に「日枝神社」が建立されたものだろう。当地に天照皇大神が祀られたのは、平安時代末期の保延4年(1138年)、「夏見御厨」という「伊勢神宮」の神領(荘園)が設定されたから、というのが通説のようである。
かつては当神社の南にある真言宗豊山派「夏應山 東照院 薬王寺」(本尊:薬師如来)との間の路傍に「神明社」の小祠があり、明治時代になって当神社に合祀されたということになっているが、本社殿の向って左にある境内社が「神明社」であるらしい。


「神社探訪」さんのHPから(日枝神社)


写真1:「日枝神社」正面。夏見の台地を上ると、当神社への参道が真っ直ぐに続いている。東隣(向って右)に八栄小学校がある。


写真2:二の鳥居には五穀豊穣を祈り、藁蛇(龍)が飾られている。頭が西を向いているのは、伊勢神宮に失礼のないように、尾を東にしているためという。


写真3:社殿


写真4:社殿の左手にある小祠。これが「神明社」らしい。


写真5:境内の富士塚。古墳であるともいう。


写真6:「薬王寺」入口(場所:千葉県船橋市夏見5-24-6)。境内は台地上にある。訪問時、堂宇は建替中だった。

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龍神社(千葉県船橋市)

2012-12-22 23:23:50 | 神社
龍神社(りゅうじんじゃ)。
場所:千葉県船橋市海神6-21-18。京成本線「海神」駅の南西、約600m。「海神」駅から南に下り、国道14号線(角にコンビニ「セブンイレブン船橋京成海神」店がある。)を横切り、狭い道に入る。突き当りを右折(西へ)、正面。この道路はとても狭いので注意。駐車スペースあり。
当神社の創建は不明だが、前項の「入日神社」と同様、元々は海辺に面し、日本武尊が下総国に最初に上陸した場所とされ、「入日神社」か当神社、あるいは両社が鎮座地の「海神」という地名の由来になったといわれる。即ち、日本武尊が征夷のため下総国に上陸したが、鎮圧に手こずり、天照大神に祈ると、海から光る船が近づいてきた。よく見ると、柱に鏡が掛けられており、これを霊代として祀ったところ、間もなく平定することができたということである。
さて、当神社の祭神は大綿津見命(千葉県神社庁HPでは「大海津見命」)だが、明治以前までは神仏混淆しており、仏名を娑羯羅龍王(しゃからりゅうおう)というところから、「龍神社」と称するという。因みに、かつての別当寺は真言宗豊山派「龍王山 海蔵寺 大覚院」であったとされており、海神三叉路北側に現存する。
なお、当神社は「阿須波の宮」とも言われていたらしい。阿須波神は、大年神の御子神とされ、基礎・土台を守る神といわれる。万葉集の防人の歌に「庭中の 阿須波の神に 小柴さし 吾は斎はむ 帰り来るまで」(庭の中の阿須波の神に小枝を挿して祈り、私は身を清めて待ちましょう。貴方が帰って来るまで。)という歌があり、阿須波神は本来は屋敷神だが、既に旅の安全を祈る神と認識されていたことがわかる。当神社も、海上交通の守り神として信仰されたようだ。
ところで、当神社には、弘法大師(空海)に纏わる石芋伝説がある。弘法大師が全国巡錫の折、当神社を訪れた。空腹を感じた大師が、境内で芋を焼いていた農夫に分けてほしいと頼んだが、農夫は芋を惜しんで「これは石芋で、食べられない。」と断った。大師が去った後、芋は石になり、食べられなくなってしまったという。不思議なのは、この食べられない石の芋から芽が出たということである。また、大師が去る際、葦の茂みを持っていた杖で払うと、以来、そこに生える葦は全て片葉になったとという。


「神社探訪」さんのHPから(龍神社)

あかもんWeb(大覚院のHP)


写真1:「龍神社」前。社号標は「海神六丁目自治会館」前にある。鳥居は東向き。


写真2:社殿は東向き(海のほうを向いている)。


写真3:大きな社号標


写真4:神池? 作り物の龍がユニーク。


写真5:「大覚院」入口(場所:千葉県船橋市海神6-1-9)


写真6:同上、通称「あかもん寺」の由来となっている朱塗りの山門。


写真7:同上、本堂(本尊:大日如来)。
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入日神社

2012-12-15 23:22:38 | 神社
入日神社(いりひじんじゃ)。
場所:千葉県船橋市海神3-7-8。JR総武本線「船橋」駅・京成本線「京成船橋」駅の西、約1km。国道14号線(千葉街道)とその旧道の分岐点(海神三叉路)の東側辺り。駐車場なし。
創建時期は不明だが、社伝によれば、日本武尊が東征の際、上総国から海路で下総国に入り、上陸した場所が当地であるとする。その後、それを記念して、村人が天照皇大神と日本武尊を祀ったのが当神社であるという。したがって、この伝承によれば、式内社「意富比神社」(船橋大神宮)の創建は当地であり、その後、船橋市夏見にいったん移った後、更に現在地に遷座したことになる。こうしたことから、当神社は「式内元宮」と称しているものと思われる。なお、「入日神社」というのは、「伊勢神宮」の内宮を「朝日の宮」というのに対するものであるという。あるいは、東にある式内社「意富比神社」(船橋大神宮)から見て西にあるからという説もある。いずれにせよ、海への入日(夕日、落日)が美しく見えたのだろう。


「神社探訪」さんのHPから(入日神社)


写真1:国道14号線旧道のJR総武本線跨線橋西詰付近にある「式内元宮入日神社 入口」の石碑。


写真2:写真1の石碑の奥にある脇参道。


写真3:国道14号線に面した正面参道入口。こちらには「式内元宮入日神社 入口」の木碑がある。参拝するには石段を下がっていく。


写真4:「入日神社」正面。社号標も「式内元宮入日神社」。


写真5:鳥居を潜って振り返ると、高いところにある国道の土手が壁のようになっている。当神社の正面は南西、つまり海に向いている。
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船橋地名発祥の地

2012-12-08 23:48:11 | 史跡・文化財
船橋地名発祥の地(ふなばしちめいはっしょうのち)。
場所:千葉県船橋市本町1丁目と宮本4丁目の間にある海老川に架かる「海老川橋」。「船橋大神宮」(式内社「意富比神社」)西参道入口にある「大神宮下」交差点の西、約200m。駐車場なし。
かつて、この付近を出入口として奥に膨らんだ「夏見入江」あるいは「夏見潟」という入江があった。古代にはかなり広大で、概ね、現在のJR総武本線の線路の北側から夏見台地まで広がっており、現在は公園となっている「天沼弁天池公園」は、その名の通り元は池で、夏見入江の最後の名残りであったらしい。「大神宮下」交差点から北に延びている道路は、入江の東の岸辺を通る古道の跡であるともいう。現在の本町付近は東西に延びた砂洲の上にあり、古代には下総国府(現・市川市)と上総国府(現・市原市)を結ぶ官道(古代東海道の支路)が通っていた。
そして、その官道の現・本町側と現・宮本側の間にあった入江の出入口に「舟橋」が架けられていたことから、「船橋」という地名が起こったとされているのである。「舟橋」というのは、並べた舟の上に板を架け渡して川などを渡れるようにした橋のことである。もちろん、この地名の由来は伝説に属するが、ここに官道が通っていたことは確かなようであり、舟橋が架けられていなかったとはいえないだろう。
ところで、本町側の入江西岸に徳川家康の「船橋御殿」があった。家康は鷹狩りを好み、そのための休憩所や宿泊所を各地に建てたが、その1つが「船橋御殿」である。「船橋御殿」の敷地は1万坪もあったというが、現在その中心地であったといわれるところに日本一小さいという「東照宮」が鎮座している。家康は慶長19年(1614年)または元和元年(1615年)に現・千葉県東金市での鷹狩りに行く途中で「船橋御殿」に泊まったが、それが最初で最後であったらしい。その後、2代将軍秀忠が何度か利用したが、寛文11年(1671年)には廃され、貞享年間(1684~1688年)には式内社「意富比神社」(船橋大神宮)の社家である富氏に与えられた。しかし、「船橋御殿」の地には元々、富氏の屋敷があり、毎日海老川を渡って「船橋大神宮」に通っていたといわれる。最初は、富氏の屋敷が家康の宿泊所となり、富氏が接待したということらしい。したがって、富氏と家康の間にどういう遣り取りがあったか不明だが、富氏が「船橋御殿」を献上し、その廃止後、返還されたということになる。「船橋東照宮」は、「船橋御殿」返還後に富氏が建てたものという。なお、「船橋御殿」の北側に、中世には「安養寺」という天台宗の寺院があったというが、一説に元は律宗だったというので、あるいは中世以前からあった古寺の可能性はないだろうか。因みに、現「船橋大神宮」の北側に真言宗豊山派「船橋山 清浄心院 西福寺」があるが、この寺院は鎌倉時代の創建といい、境内にある大きな石造の五輪塔と宝篋印塔は鎌倉時代後期のものという。この五輪塔等は、元は「船橋御殿」の北側にあったものというから、宗派は変わっているが、「西福寺」は「安養寺」の後身かもしれない。
さて、「常陸国風土記」(養老5年:721年成立)に、行方郡大生の里(現・茨城県潮来市大生)について、「倭武(ヤマトタケル)の天皇が相鹿の丘前宮(おかさきのみや)に留まられたとき、膳炊屋舎(おほひどの)を浦辺に建て、小舟を繋いで橋として行宮に通った。大炊(おほひ)に因んで大生(おほふ)と名付けた。」という趣旨の記述がある。大生は、神武天皇の子の神八井耳命(カムヤイミミ)を祖とする古い氏族である「多氏」が居住したところといわれている(なお、同地にある「大生神社」は、地元では「鹿島神宮」の元宮であるとしている。)。「船橋大神宮」の宮司である富氏(現在は千葉氏に改姓)は、多氏の一族であるとされる。「常陸国風土記」の上記の記述は、「船橋」地名発祥の伝承とあまりに似ている。当地にも、古代に「多氏」が居て、式内社「意富比神社」を奉祭したという可能性も無いとはいえないが、中世頃に「船橋大神宮」の権威を更に高めるため、「常陸国風土記」の「おほひ」と「船橋」というキーワードから、わが国最古の皇別氏族である「多氏」と結びつけたのではないかとも思われる。


写真1:海老川に架かる「海老川橋(長寿の橋)」に「船橋地名発祥の地」と記されている。


写真2:同上。船の舳先のモニュメントも設置されている。


写真3:船橋御殿跡(船橋東照宮)(場所:千葉県船橋市本町4-29-12付近)。祭神:東照大権現 


写真4:「西福寺」にある石造の五輪塔と宝篋印塔(場所:千葉県船橋市宮本6-16-1)。県指定有形文化財


写真5:船橋市中央卸売市場内にある「将門の松」の碑(場所:千葉県船橋市市場1-8-1。正門(東側)入って直ぐ)。かつて、ここに大きな松の木があり、その根元に平将門が休んだという伝説がある。当地は「城の腰」という地名で、これは一般名詞では出城や出丸をいうが、夏見入江の東岸から張り出した岬のような場所だったらしい。「城」が訛って「将」になり、将門が腰掛けた場所と付会して、「将門の松」の伝説ができたのだろうという。


写真6:天沼弁財天公園の北東端にある「乳沼弁財天」(場所:千葉県船橋市本町7-16)。道路(北側)に面して石鳥居があるが、石祠は南向きなので、参拝のためには石鳥居を潜って廻り込むことになる。
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意富比神社(船橋大神宮)(下総国式内社・その10)

2012-12-01 23:29:50 | 神社
意富比神社(おおひじんじゃ)。通称:船橋大神宮(ふなばしだいじんぐう)。
場所:千葉県船橋市宮本5-2-1。京成電鉄本線「大神宮下」駅の東、約200m。駐車場あり。
社伝によれば、景行天皇41年(111年)、日本武尊が東征の途中で当地に到り、そのとき旱魃によって地元民が苦しんでいるのを見て天照皇大神を奉祀したところ、忽ち大雨が降った。これにより天照皇大神の霊代として神鏡を祀ったのを創建とする。その後、景行天皇が東国巡幸の折、日本武尊の事蹟を御覧になり、「意富比神社」の称号を賜ったという。「意富比」という名については諸説あって定まらないが、「大日」または「大炊」と解して、太陽あるいは稲作(農業)の神が有力とされる。
ところで、当神社が式内社「意富比神社」であることについては異論がなく、千葉県への宗教法人に係る届出でも「意富比神社」となっている。しかし、通称である「船橋大神宮」のほうが一般的で、最寄駅の京成本線「大神宮下」という名も、これに因む。「大神宮」というのは、祭神が天照皇大神であるからなのだが、ここには複雑な事情があるらしい。即ち、伝承によれば、当神社の創建は当地・湊郷であるが、後に北方約2kmの地にある船橋市夏見の台地上に移り、その後更に現在地に遷座したという。しかし、この伝承は、中世に現・船橋市南部に「夏見御厨」あるいは「船橋御厨」という「伊勢神宮」の荘園が設定され、その守護神として夏見の高台に「神明社」が勧請されたが、その後の荘園衰退によって「神明社」が式内社「意富比神社」に合祀され、両社が一体化したものと考えられている。したがって、「意富比」という神は本来、天照皇大神とは別神であったが、上記の通り「大日」にも通じることから、同一視されるようになったものといわれている。
なお、当神社の境内の小高い場所に「灯明台」がある(写真5)。江戸時代には常夜灯があり、夜間の漁船通行の目印になっていたが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争の戦火により社殿とともに焼失してしまった。地元有志の寄付金により、明治13年に現在の「灯明台」が建設され、明治28年まで政府公認の私設灯台として機能した。この場所にはもともと浅間社があり、一説には「覆宮塚(おおいつか)」という円墳であるという(当神社付近に「覆宮塚」という古墳があったという記録があるが、その場所については諸説ある。)。


iタウンページ(船橋大神宮)

船橋市のHPから(灯明台)


写真1:「意富比神社(船橋大神宮)」正面鳥居(南西向き)


写真2:正面参道脇にある社号標は「延喜式内 意冨比神社」


写真3:更に進むと、「船橋大神宮」の社号標がある。


写真4:社殿前


写真5:境内にある木造3階建の灯明台(千葉県指定有形民俗文化財)


写真6:「大神宮下」交差点の西側参道の鳥居。樹木で見えないが、石段脇に「延喜式内 意冨比神宮」の社号標がある。
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