神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

権現山古墳(茨城県東海村)

2020-01-25 23:29:52 | 古墳
権現山古墳(ごんげんやまこふん)。通称:村松権現山古墳。
場所:茨城県那珂郡東海村村松943-1他。茨城県道62号線(常陸那珂港山方線、通称:原研通り)と同284号線(豊岡佐和停車場線、通称:いちょう通り)の「村松」交差点から、284号線を南西に約500m。県道沿いに「素鵞神社」の鳥居と「権現山古墳」の説明板があるところ。駐車場なし。
「(村松)権現山古墳」は全長約87mの前方後円墳で、後円部径約45m・高さ約5.5m(前方部のデータ不明)、東海村では最大、茨城県内でも19番目という大きな古墳である。後円部西側裾部では周壕の痕跡が認められ、出土した円筒埴輪(県下で唯一、格子目タタキがあるもの)などから5世紀中頃の築造と推定されている。主体部は未調査で、当然ながら被葬者は不明であるが、その位置や大きさなどから那賀国造一族の墳墓であろうとされている。東海村指定史跡。なお、後円部墳頂には「素鵞神社」社殿と樹齢約200年という山桜(東海村指定天然記念物)がある。
因みに、当古墳の東側、「東海村 真崎コミュニティセンター」(駐車場有り)の南西側の丘に「真崎古墳群」があり、公園のようになっている。現在8基の古墳が確認されており、前方後方墳や六角墳(?!)とされるものもあるという。


茨城県のHPから(権現山古墳)


写真1:「素鵞神社」鳥居と「権現山古墳」説明板。古墳は南東向きで、こちらは後円部の西端辺り。


写真2:後円部西側。古墳の形に沿って道路が巡っている。


写真3:前方部西側からみる。括れがわかる。


写真4:前方部東側からみる。方形の形(かなり削られているようだが、それでも結構大きい。)と括れがわかる。


写真5:後円部東側から前方部を見る。


写真6:後円部墳頂。「素鵞神社」社殿と山桜の大樹がある。


写真7:後円部墳頂から前方部へ少し下りる。


写真8:前方部の尾根


写真9:前方部墳頂

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村松山 日高寺(村松山虚空蔵堂)

2020-01-18 23:39:33 | 寺院
村松山 日高寺(むらまつさん ひだかでら)。通称:村松山虚空蔵堂(むらまつさんこくうぞうどう)。
場所:茨城県那珂郡東海村村松8。国道245号線「虚空蔵尊入口」から南東へ約250m、突き当りを左折、直ぐ。「村松大神宮」(前項)と隣接。境内入口付近に駐車場が有るが、この駐車場は混んでいることがあるので、国道からの入口付近の広い村営無料駐車場に置いてきた方がよいかも。
寺伝によれば、大同2年(807年)、空海(弘法大師)が各地巡錫の折、当地の海上に光る物があると聞き、引き揚げさせると大きな老木であった。これを一刀三拝の礼をもって等身座像の虚空蔵菩薩を刻んで安置したのが創建とし、平城天皇から「村松山 神宮寺」の勅額を賜ったという。空海が超人的な才能を得たのは、室戸岬(現・高知県)の「御厨人窟」という洞窟で「虚空蔵求聞持法」という荒行を行い(このとき口に明星が飛び込んできたという。)、悟りを開いたことによるとされるから、所縁のある仏といえる。ただし、空海が当地にまで来たかとなると、なかなか信じがたい。一方、別伝では、円仁(慈覚大師、第三代天台座主)の創建とする説もある。円仁は下野国(現・栃木県)の生まれで、関東~東北地方を巡り、「浅草寺」(現・東京都台東区)、「瑞巌寺」(現・宮城県松島町)、「立石寺」(山形県山形市)など現在も残る多くの寺院を開いたとされるので、大同2年というのはともかくとして(平安時代初期に創建したとする寺社に多い年号である。)、古い由緒ある寺院ということなのだろう。それはともかく、中世には、常陸国を支配した佐竹氏の庇護の下、多くの塔中寺院・僧坊を抱えた大寺であったとされるが、文明17年(1485年)、佐竹氏が岩城氏に攻められた際、当寺院も兵火にかかり、本尊は無事だったものの、伽藍は全て焼失した。その後、長亨元年(1487年)には頭白上人により再建され、「村松山 日高寺」と改称した(古文書には「日光寺」とするものもある。)。江戸時代になると、水戸藩第2代藩主・徳川光圀による伽藍修理など庇護を受ける一方、寺社改革として、「五所明神」と「虚空蔵尊」を分離し、別当も真言僧から修験に変更された。明治3年には、廃仏毀釈により、いったん「星の宮」となったが、翌年には再び「虚空蔵」と称することが許され、真言宗の「日高寺」となった。なお、明治33年には、門前の民家火災に類焼し、堂塔伽藍全てを失ったが、このときも本尊は無事で、以来、順次諸堂が再建され、現在に至っている。真言宗豊山派に属し、本尊は虚空蔵菩薩。
今でも茨城県、栃木県近辺では、単に「虚空蔵」と言えば当寺院を指し、「日本三大虚空蔵尊」の1つということもある。「日本三大〇〇」というときには大抵、2つくらいが鉄板で、残り1枠で争いがあることが多い。しかし、虚空蔵菩薩という仏が地味なせいか、どうしても外せないというのは無いようで、当寺院のほか、「智福山 法輪寺」(京都市西京区、真言宗五智教団)、「霊巌山 円蔵寺」(福島県柳津町、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来だが、虚空蔵堂がある。)、「勝峰山 兜率院 金剛證寺」(三重県伊勢市、臨済宗南禅寺派)、「千光山 清澄寺」(千葉県鴨川市、日蓮宗。本尊は十界曼荼羅だが、その前に虚空蔵菩薩像が安置されている。)、「当目山 香集寺」(静岡県焼津市、曹洞宗。2011年2月22日記事)など、地方・宗派もバラバラな寺院が候補に挙がっている。
さて、村松虚空蔵堂といえば「十三参り」が有名。これは、数え年で13歳のときに虚空蔵堂などの寺社に参って知恵や幸運を授かるというもの。なぜ「十三」か、なぜ「虚空蔵尊」なのかは諸説あるが、ちょうど小学校を卒業するタイミングで、どちらかといえば関西で盛んな風習とされる(関東では「七五三」が一般的。)。関西では上記の「智福山 法輪寺」(通称:嵐山の虚空蔵法輪寺)などが有名で、史料に現れるのが江戸時代後期頃からとされ、当寺院の十三参りも「法輪寺」に倣ったものとされているようである。


村松山虚空蔵堂のHP


写真1:「日高寺」境内入口と寺号標(「村松山 虚空蔵尊」)


写真2:仁王門


写真3:本堂(大摩尼殿)。こちらにあるのは前立本尊と脇侍の不動明王、毘沙門天王。


写真4:奥之院(多宝塔)。本尊の「大満虚空蔵菩薩」はこちらに安置されている(御開帳は50年に一度)。


写真5:三重之塔


写真6:鍾馗霊神堂(向かって左側は安産地蔵尊)。延宝3年(1675年)に伝染病が大流行したとき、藤原高信が鐘馗霊神の絵馬を奉納したところ、流行が収まったという。明治33年の火災の際も、本尊とこの絵馬は難を逃れた。


写真7:水戸八景「村松晴嵐」石碑(この石碑は東海村指定文化財)。境内の奥の砂丘上にあり、かつてはこの辺りから太平洋が見えたらしい。
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大神宮(茨城県東海村)

2020-01-11 23:48:18 | 神社
大神宮(だいじんぐう)。通称:村松大神宮。茨城一の宮大神宮。
場所:茨城県那珂郡東海村村松1。国道245号線「虚空蔵尊入口」から南東へ約250m、突き当りを左折、直ぐ。一の鳥居を潜って進み、二の鳥居の横に専用駐車場有り。
社伝によれば、和銅元年(708年)、平磯前浦の巨岩が光を発したため村人が占うと、「伊勢の神」であるということがわかった。よって、その神を奉斎したのが創祀で、「伊勢神宮」(現・三重県伊勢市)から神職が来て奉仕したという。大同年中(806~810年)、平城天皇より「村松五所大明神」の勅号を賜ったともいう(「五所」は、伊勢・加茂・祗園・稲荷・春日の神々を祀ったことによる。)。康平3年(1060年)には、源頼義・義家父子が奥州討伐の際に戦勝を祈願し、社殿の造営・神領の寄進をした。江戸時代に入ると、水戸藩の庇護を受け、元禄7年(1694年)に水戸第2代藩主・徳川光圀が新たに神殿を造営し、同9年(1696年)に改めて「伊勢神宮(内宮)」から分霊を受けて「天照皇大神宮」と称した、という。このため、現在の祭神は、「伊勢神宮」と同じ、天照皇大神、天手力男神、萬幡豊秋津姫神3柱。御利益は家内安全(特に子孫繁栄、安産)、交通安全など。上記の由緒もあり、かつては海上からの目印にもなっていたようで、海上安全の神として船乗り、漁民等からの信仰が篤かったようである。なお、当神社の北、約2km(直線距離)のところに、外宮として「豊受皇大神宮」(茨城県那珂郡東海村白方662)がある。


大神宮のHP


写真1:「大神宮」境内入口(一の鳥居)。「村松虚空蔵堂」と隣り合っているが、仲が良くないようだ(わざわざ「別です。」と書いてある。)。


写真2:二の鳥居。これより先は「車止め」になっており、この向かって右に結構広い駐車場がある。


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:境内社「晴嵐神社」。元は「国立療養所 晴嵐荘病院」敷地内に医薬の神として大己貴神を祀っていたものだが、終戦後の政教分離政策により当神社の境内末社となったもの。


写真6:「義公お腰掛けの石」(「義公」は徳川光圀の諡号)

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涌石山 大日院 佛性寺

2020-01-04 23:09:38 | 寺院
涌石山 大日院 佛性寺(ようせきさん だいにちいん ぶっしょうじ)。
場所:茨城県水戸市栗崎町1984。国道51号線「栗崎」交差点から南西に約550m進み、五差路のところを右折(北西へ)、約200m進んだ正面。駐車場有り。
寺伝によれば、天長年間(824~834年)に円仁(第3代天台座主、慈覚大師)が開山したのが始まり。淳和天皇の勅願所であったとされ、往時はかなりの巨刹であったらしい。江戸時代には、天台宗の水戸十ヶ寺の1つとされていたという。現在も天台宗の寺院だが、本尊は大日如来で、(真言宗なら普通だが)比較的珍しいのではないだろうか。本堂も茨城県内で唯一という八角堂で、禅宗様式を取り込んだ室町時代後期の特色がみられるという(国指定重要文化財)。現存の本堂は、堂内の墨書から天正13年(1585年)に建立され、何回か修復されてきたことがわかるが、平成23年の東日本大震災で大きく被災し、平成26年に解体修理が行われた。このとき、銅板葺の屋根が創建当時の萱葺に復元されたほか、元禄時代の修理の際に扉の位置を南面から東面に変更していたことが判明したため、扉を南面へ復旧したという。山門前の石像の仁王像も味があり、なかなか見どころがある寺院と思った。


水戸市のHPから(佛性寺本堂(附旧露盤1個))


写真1:「佛性寺」山門、寺号標。石造の仁王(金剛力士)像がユニーク(元禄7年(1694年)製)。


写真2:本堂。全国的に珍しい「八角円堂」という形。


写真3:イチョウの古木(水戸市保存樹)奥は回向堂
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