神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

熊野大社(山形県南陽市)

2016-04-30 23:51:53 | 神社
熊野大社(くまのたいしゃ)。通称:宮内熊野大社。
場所:山形県南陽市宮内3476-1。山形鉄道フラワー長井線「宮内」駅の北、約1km。宮内小学校の北側。駐車場有り。なお、山形県神社庁HPでは、「熊野神社」:南陽市宮内字坂町3707-1 となっている。
社伝によれば、国分寺建立の頃(聖武天皇の詔は天平13年:741年)に創祀し、大同元年(806年)に平城天皇の勅命により紀伊国(現・和歌山県)「熊野権現」を勧請して再興されたとする。貞観6年(864年)には、慈覚大師(円仁。第3代天台座主)が当地を訪れ、本尊として阿弥陀如来・薬師如来・観音菩薩の三尊と大黒天の像を納めた。また、久寿2年(1155年)、後白河天皇即位の際に天下泰平の祈祷を命じられ、それ以来、勅願所になったという。その後は、歴代の領主である長井氏、伊達氏、上杉氏らの崇敬が篤く、社領の寄進や社殿の造営・修復などが行われた。なお、紀伊国「熊野権現」(「熊野三山」)と同様、近世以前には神仏混淆色が強く、「熊野三山」と同じ「證誠寺」の寺号を称することを許され、最盛時には33の宿坊があったという。明治時代に入ると神仏分離により仏教色は廃され、大正6年に県社に列した。現在の祭神は、熊野夫須美大神(伊弉冉尊)・熊野速玉大神(伊弉諾尊)・熊野家津御子大神(素盞鳴尊)。
「大同」という年号は、出羽国の古社寺の創建伝承によく出てくるもので、信憑性は低い。源義家(1039~1106年)が「前九年の役」戦勝に感謝し、康平6年(1063年)に紀伊国「熊野権現」を再勧請して「日本第一大霊験権現」と尊称したともいい、また、平維盛(1158~1184年)により創建されたとする説もあるようなので、実際には平安時代末期頃の創建ではないだろうか。ともあれ、中世以降、東北地方での熊野信仰の中心地となり、紀伊国「熊野三山」、現・長野県軽井沢町の「熊野皇大神社」とともに、「日本三熊野」の1つと称されるようになっている。


「東北の伊勢 熊野大社」のHP

玄松子さんのHPから(熊野大社(山形))

「南陽市文化財検索」のHPから(熊野神社の大イチョウ)


写真1:「熊野大社」参道入口の巨大な石鳥居。「日本三熊野」の1つというだけあって、参道も広くて長い。


写真2:境内入口前の会館「證誠殿」。学頭寺だった「證誠寺跡」の石碑がある。


写真3:境内入口。右手の「熊野神社の大イチョウ」は山形県指定天然記念物で、根回り7.7m。突き当たり左の石段を上って行く。


写真4:社殿。巨大な萱葺屋根。


写真5:同上


写真6:本殿裏手


写真7:本宮裏の彫刻に3羽のウサギが隠れており、それを全て見つけると「願いが叶う」とされる。これは、一番わかりやすいウサギで、2羽までは何とか見つかるが、3羽目が難しい。

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稲荷森古墳(山形県南陽市)

2016-04-23 23:03:58 | 古墳
稲荷森古墳(いなりもりこふん)。
場所:山形県南陽市長岡字稲荷森1175。国道13号線(羽州街道)沿いのコンビニ「セブンイレブン南陽長岡店」付近で「市内赤湯」方面へ分岐する道路に入って約180m北上し、「国指定史跡 稲荷森古墳」の巨大な案内板があるところで左折(西へ)、道なりに約350m。赤湯小学校の南側に当たる。駐車場あり(トイレも)。
「稲荷森古墳」は全長約96mの前方後円墳で、山形県内最大、東北地方でも6番目に大きな古墳とされる。前方部は1段築成・長さ約32m・前端幅約30m・高さ約5m、後方部は3段築成・直径約62m・高さ約10mという大きさ。ただし、長岡丘陵と呼ばれる自然の丘の末端を切り取って成形したものと考えられ、葺石・埴輪・周濠も確認されておらず、その大きさにしては「省エネ」な造り方となっている。主体部の発掘調査は行われておらず、築造時期が確認できる出土物等はないが、墳丘形態や出土した土師器から4世紀後半~5世紀初頭の築造と推定されている。そして、当古墳の築造以前、現・山形県の置賜地方では米沢市域・川西町域・南陽市域の3地域で前方後方墳を主とする古墳(前々項「天神森古墳」(2016年4月16日記事)・前項「寶領塚古墳」(2016年4月20日記事)など)が営まれていたが、当古墳は、これら3地方を統一した首長(置賜地方の王)の墓であろうとみられている。ただし、当古墳の後には大きな古墳は築造されておらず、その後継者はいなかったらしい。
なお、当古墳は昭和55年に国指定史跡に指定され、史跡公園として保存・整備されている。


「山形の宝 検索navi」のHPから(稲荷森古墳)


写真1:「稲荷森古墳」。北側から。手前が前方部、奥が後円部。


写真2:前方部。東側から。


写真3:後円部。東側から。


写真4:後円部から前方部を見る。


写真5:近隣の古墳の位置を示すタイル


写真6:古墳の東側にある「稲荷神社」。「稲荷森」という地名の由来だろうか。
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寳領塚古墳

2016-04-20 23:02:57 | 古墳
寳領塚古墳(ほうりょうづかこふん)。
場所:山形県米沢市窪田町窪田字北宝領863-1。国道13号線「米沢市窪田町」交差点から西へ、道なりに進み「米沢南陽道路」の高架下を潜って左折(南へ)、直ぐ(西側の田圃の中)。駐車場なし。
「寳領塚古墳」は、松川(最上川)と鬼面川のほぼ中間の扇状地性沖積地に築かれた全長約80mの前方後方墳で、前方後方墳としては東北地方最大級とされる。現地説明版によれば、前方部の長さ40m、幅50m、後方部の長さ40m・幅44mとされるので、前方部と後方部が殆ど同じ大きさである。後方部の高さは4.8m、墳頂に「稲荷神社」が鎮座していて、古墳らしさを残しているが、前方部は3分の2が失われているため、方墳のようにも見え、大きさが実感できない。平成元年の調査により、墳丘は3段、葺石や周溝の存在が確認されたという。出土物は土師器などであり、築造時期は4世紀後半頃と推定されている。平成3年に米沢市指定文化財に指定。


写真1:「寳領塚古墳」入口。「米沢南陽道路」下の側道沿いに説明版がある。


写真2:南東側から畦畔のような道を進むと、赤い鳥居がある。


写真3:後方部墳頂にある「稲荷神社」社殿(東向き)。祭神:稲倉魂命


写真4:全景。南側から。水田に囲まれ、高い木に覆われているため古墳の形がわかりにくい。
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天神森古墳(山形県川西町)

2016-04-16 23:15:46 | 古墳
天神森古墳(てんじんもりこふん)。
場所:山形県東置賜郡川西町大字上小松1037-1。JR米坂線「羽前小松」駅東口から北へ約300m。「川西町フレンドリープラザ」に隣接(北側)し、同所に広い駐車場有り。
「天神森古墳」は、東北地方最大級の前方後方墳。全長75m、高さ4.2m、後方部幅51m、前方部幅12mという大きさで、幅6m、深さ0.4mの周溝が廻らされていた(数値は現地説明板による。)。古くから古墳ではないかと言われていたが、かつては「東北地方には古墳は存在しない」とされていたため詳しい調査は行われなかった。その後、近隣の市町村で古墳が発見されたため調査の機運が高まり、ようやく昭和58年に発掘調査が行われた。その結果、墳丘は全て人為的な盛土(約6千立方m)によるものと判明し、葺石や埴輪はなかったが、墳丘や周溝から出土した底部穿孔広口甕型土器などを分析した結果、古墳時代前期後半(4世紀末頃)に築造されたものと推定された。なお、主体部の埋葬部分は未調査となっている。
因みに、古墳名の由来は後方部墳頂に通称「亀森山天満宮」が祀られていたことによるが、同神社は天津神・少彦名命(亀森天神)と菅原道真公(天満天神)の二座を祭神とする。別当寺であった真言宗醍醐派「亀森山 大円寺」所蔵の縁起によれば、天徳4年(960年)、分霊を勧請して創始。戦国時代以降、長井氏、伊達氏、上杉氏など代々領主の崇敬を集めた。かつて小松地区は商業や文芸が盛んな宿場町として栄え、中世には「天満宮」は連歌の神様として盛んに信仰された。しかし、江戸時代以降、連歌の衰退と共に社殿も縮小し、明治の火災で焼失した後は再建されずに石祠のみとなっているという。創祀の際、どこから分霊を勧請したかは明らかでないが、「太宰府天満宮」(福岡県太宰府市)の創建が延喜19年(919年)、「北野天満宮」(京都市)が天暦元年(947年)なので、創祀伝承が正しければ、かなり早い時期の勧請ということになる。また、天津神も祀る、ということで、「天満宮」勧請前に古墳自体に対する信仰があったのかもしれない。
ところで、「天神森古墳」に隣接して複合文化施設「川西町フレンドリープラザ」がある。作家の故・井上ひさし氏は川西町(旧・小松町)出身で、昭和62年に蔵書7万冊を元に「遅筆堂文庫」を開設したが、これを核に町立図書館、劇場を併設して造られたもの。氏が原作したテレビ人形劇「ひょっこりひょうたん島」は、この「天神森古墳」をモデルにしたという説もあるらしい。


写真1:「天神森古墳」。西側(前方部側)に入口


写真2:左側:前方部、右側:後方部。間のくびれがわかる。


写真3:同上


写真4:後方部墳頂に「布留天神社」(「亀森山天満宮」)の石祠がある。


写真5:後方部を東南側から見る。
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諏訪神社(山形県川西町)

2016-04-13 23:32:07 | 神社
諏訪神社(すわじんじや)。
場所:山形県東置賜郡川西町大字上小松字若松沢5161。JR米坂線「羽前小松」駅前から山形県道8号線(川西小国線)を西へ約1.5km進み、川を越えたところで右折(北へ。「諏訪神社」の社号標がある。)、次の交差点を左折(北西へ)、正面に鳥居が見える。駐車場あり。
当神社の創建は不明。出羽国の守護神として信濃国一宮「諏訪大社」の分霊を勧請したものといわれ、和銅年間(708~715年)に社殿が造営されたという。「日本三代実録」貞観12年(871年)記事に「白磐神、須波神に従五位下を授ける」とあるが、そのうちの「須波神」が当神社のことであり、いわゆる「国史現在社」であるとする。武人の神として歴代の領主の崇敬が篤く、特に、伊達政宗は、社殿を造営し社領を寄進して「羽前国総鎮守」と定めたという(ただし、「羽前国」というのは明治初年に「出羽国」を分割してできたので、当時の表現ではないと思われる。)。伊達政宗が天正19年(1591年)に米沢城72万石から岩出山城58万石に減転封になり、新たな領主となった蒲生氏郷から社領を取り上げられたため一時衰微したものの、慶長6年(1602年)に上杉景勝が入部すると社領50石が認められたという。明治5年、郷社に指定。現在の祭神は、健御名方富命・八坂刀責命ほか。
当神社の近くには「下小松古墳群」(古墳総数179基)、「天神森古墳」(東北最大級の前方後方墳)、「道伝遺跡」(置賜郡衙跡?)という重要な遺跡がある。また、当神社参道と並行して走っている山形県道250号線は、かつて「越後米沢街道」と呼ばれ、越後国(現・新潟県)との主要な街道であった。そして、当神社に因んで名づけられた「諏訪峠」は、「越後米沢街道」の「十三峠」の最初の峠であり、当神社は街道の入口にあって交通安全の神でもあったと思われる。そして、信濃国から「諏訪大社」(信濃国一宮)を奉じる人々が日本海を経由して当地に移住してきた、ということは十分考えられる。ただし、当神社が上記の「日本三代実録」貞観12年記事の「須波神」かどうかについては根拠が薄弱で、何とも言えないところである。


写真1:「諏訪神社」鳥居。額は「正一位諏訪大御神?」。参道の杉並木は樹齢300年を超えるといわれ、山形県誕生110年を記念して選定された「グリーンやまがた110景」に選ばれた。


写真2:約220mの参道を進んで石段を上ると、社殿が見えてくる。参道は北西~南東方向に延びているが、社殿は南向き。


写真3:立派な拝殿


写真4:装飾を凝らした本殿
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