神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

大井神社(静岡県島田市)(駿河国式外社)

2011-03-30 23:53:03 | 神社
大井神社(おおいじんじゃ)。
場所:静岡県島田市大井町2316番地。JR東海道本線「島田」駅から「駅西通り」を北へ、約500m。正面(東側)鳥居と駐車場入口がある。なお、南側鳥居へは、途中の信号のある交差点(県道34号線(島田吉田線)との交差点)を西へ、約90m。
創建時期は不明。しかし、「日本三代実録」貞観7年(865年)の記事に「駿河国正六位上大井神社に従五位下を授く」という記載がある、いわゆる国史現在社。祭神は、弥都波能売神(水の神)・波迩夜須比売神(土の神)・天照大神(日の神)の3柱の女神であるが、大井川そのものを祀ったものと思われる。同名の神社が大井川流域に多くあり、かつては70社以上、現在でも42社存在するという。当神社自身、元は大井川上流の現・静岡県川根本町に鎮座していた(現在も「大井神社旧社跡」という石碑が建てられているらしい。)が、洪水により社殿が流され、現・島田市で祀られるようになったという。現在の鎮座地は、近世東海道(県道34号線)に面しており、南側の鳥居の近くに「島田宿」の西入口として枡形の「見附」があったとされており、当神社は「島田宿」の鎮守ともされていたようだ。江戸時代には「大井大明神」と称されたが、明治41年には県社に列せられた。
なお、当神社の祭礼のうち、3年に一度の大祭(最近の大祭は平成25年10月)では神事としての神輿渡御のほかに、余興(「神賑」(かみにぎわい))として「帯祭(おびまつり)」が行われる。25人の大奴が両脇に差した木太刀に豪華な丸帯を下げて練り歩くのが有名で、島田に嫁に来た女性たちの安産祈願が始めとされ、日本三大奇祭の1つという。


大井神社のHP


写真1:南側鳥居


写真2:東側の石鳥居と社号標。正面奥が社殿(東向き)


写真3:境内にある奇祭「帯祭」の大奴ブロンズ像


写真4:手前は境内社の「祓戸神社」、奥に「大井神社」社殿
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駿河国の古代東海道(その1・初倉駅&遠江国式内社「敬満神社」)

2011-03-29 22:02:23 | 古道
「大化の改新」(645年)の翌年出された「改新の詔」は、「公地公民制」を定め、天皇による統一的支配を確立したものとされる。「改新の詔」は日本書紀に掲載されているが、その存在自体を疑う説も有力で、少なくとも後世の改変があるとされている。しかし、道路については、詔に駅馬・伝馬の制度も定められ、実際に7世紀中頃以降、官道(国家が整備する道路)の整備が進められた。律令制による古代道路には次のような特徴があるとされる。
①都と地方の情報連絡を目的とした「駅路」は最短距離を重視し、直線的に計画された。
②30里(約16km)毎に「駅家(うまや)」が設けられ、駅馬(はゆま)が置かれた。
③「駅路」の道幅は、地方でも6~12mほどと、かなり広かった。
④条里制の方向や国境・郡境等に一致することが多い(道路を基準としたらしい。)。
⑤広い道路を維持するには多大な費用がかかるため次第に衰退し、10世紀末~11世紀初めには消滅した。
延長5年(927年)成立の「延喜式」には、東海道駿河国に「小川」、「横田」、「息津」、「蒲原」、「長倉」、「横走」の6駅が記載されている。「延喜式」の頃には既に律令制が崩壊しつつあり、駅家も当初のままではなかったようである。しかし、この駅家の所在地を手掛かりに、古代道路の研究が進められている。
さて、駿河国の古代東海道を探すスタートはまず、遠江国の最も東の駅家である「初倉」駅から。遠江国と駿河国の国境は大井川であり、「初倉」駅は大井川を見下ろす牧之原台地東北端の標高80mの台地上にあった。即ち、遠江国式内社「敬満神社」を中心とする「宮上遺跡群」で、古墳時代末~奈良時代の竪穴住居跡多数、平安時代の掘立柱建物跡が発見され、「驛」と記された墨書土器や円面硯が出土した。西には通称「色尾道」という直線的な道路が現存すること、当地はかつての蓁原郡(榛原郡)駅家郷にあたり、現・島田市との合併前は初倉村と称していたこともあり、ここが「初倉」駅跡と考えられている。出土物から、8世紀中葉頃までには駅家が成立していたと推定される。面白いのは、出土物に塑像の螺髪(白鳳~奈良時代?)があったことで、駅家付属の仏教関連施設があったらしい(因みに、南東約3kmのところに「竹林廃寺」があり、駅家と同時期頃かとみられている。)。

敬満神社(けいまんじんじゃ)。祭神:敬満神。
場所:島田市阪本4054-1。大井川の右岸で、県道34号線(島田吉田線)「島田大橋」を渡り切った先の、最初の信号のところ。駐車場なし。
社伝によれば、垂仁天皇26年(237年)の創建。遠江国に2社しかない名神大(社)の1社で、神階は遠江国で最も高かったという。祭神は、一説に「功満王」であるとされる。「功満王」は、中国・秦の始皇帝の14世の孫で、仲哀天皇8年(199年)に渡来帰化し、秦氏の祖となったとされる人物である。なお、「初倉」という地名は元々「秦倉」だったとも言われており、榛原郡という郡名からしても、この辺りに秦氏一族が多く住んでいたのだろうという。
「敬満神社」から東に約500mのところに、式内社「大楠神社」(おおくすじんじゃ)もあるが、現在は「敬満神社」の境外末社となっている。社伝によれば、欽明天皇3年(543年)の創建。現在の祭神は大己貴命であるが、「日本書紀」仁徳天皇62年(374年)の条に「遠江国司から大井川に巨木が流れ着いた旨の報告があり、この巨木で船を造らせて献上させた。」との記述があり、この巨木の神霊を祀ったともいう。

金谷方面から牧之原台地上を東進してきた「色尾道」は、その名の通り、式内社「敬満神社」のところから南下して旧初倉村の中心部である色尾地区に向かう。しかし、古代東海道は、「敬満神社」付近にあった「初倉」駅から真っ直ぐに東に向かったものと思われる。
それにしても、「敬満神社」が遠江国で最も神階が高い神社であったにもかかわらず、遠江国の一宮とならなかったのは、国府(現・磐田市)から離れていたことだけでなく、このルートの古代東海道が次第に廃れていったことも関係していたのではないかと思われる。


玄松子さんのHPから(敬満神社)


写真1:「敬満神社」境内入口


写真2:社殿正面


写真3:神社裏(北側)。今は茶畑になっており、その先が大井川。


写真4:「大楠神社」
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若王子古墳群

2011-03-25 22:41:01 | 古墳
若王子古墳群(にゃくおうじこふんぐん)。
場所:静岡県藤枝市若王子500、蓮華寺池公園内の西側の丘の上。公園に駐車場あり。ただし、かなり駐車場から遠く、「楞厳山 鬼岩寺」の裏山というところなので、同寺裏から上るほうが早い。
標高110mの山上に造られた古墳群で、尾根に一辺10~18mの円墳と方墳、28基が密集して並んでいる。4~6世紀の古墳とされており、この時期のものとしては珍しい「車輪石」(碧玉製の腕飾で、中央部に穴があり、放射状の彫刻が施されているもの)が出土している。木棺直葬が殆どであるが、一部に横穴式石室もある。静岡県指定史跡。
志太平野には大型の古墳は殆ど見当たらず、古墳時代中期まで強大な首長は生まれなかったらしい。しかし、「車輪石」はヤマト政権との親密な関係を窺わせる。また、これまで志太平野で発見された前方後円墳は3基しかないが、そのうちの2基が、「若王子古墳群」の西、瀬戸川右岸にある。「荘館山1・2号墳」がそれで、横穴式石室を持ち、6世紀中葉頃の築造とされる。この頃に、ヤマト政権の影響下に、後の郡司層が形成されていったようだ。
なお、この若王子古墳群の丘は「富士見平」とも呼ばれる。永享4年(1432年)に室町幕府6代将軍・足利義教が富士遊覧のためと称して駿河国に下向してきた。内実は対立していた鎌倉公方・足利持氏を牽制する示威行動だったといわれているが、藤枝「鬼岩寺」に宿泊し、駿河国守護・今川範政が「鬼岩寺」裏山の上に建てた亭で、富士山見物をしたという。


蓮華寺池公園情報サイトさんのHPから(若王子古墳群)


写真1:古墳の上にベンチが置かれ、市民の憩いの場所となっている。


写真2:「車輪石」が出土した12号墳の上から駿河湾(東南)の方向を見る。右手の竹林の下に「鬼岩寺」がある。


写真3:東の方向には高草山(左手の電波塔があるところ)や虚空蔵山(右端)が見える。高草山の左手には富士山も見えるはずだが・・・、この日は見えなかった(残念)。
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楞厳山 鬼岩寺

2011-03-22 21:15:34 | 寺院
楞厳山 鬼岩寺(りょうごんさん きがんじ)。本尊:聖観音。
場所:静岡県藤枝市藤枝市藤枝3-16-14。藤枝市生涯学習センターの北側。駐車場有り。
寺伝によれば、神亀3年(726年)、行基菩薩の開創という。弘仁年間(810~824年)、弘法大師(空海)がこの地に立ち寄ったとき、この付近では魔物(鬼)が出て村人を悩ましていたため、魔物退治を懇願された。そこで、弘法大師は五大尊の画像を描いて真言の行法を行い、魔物を巨岩に閉じ込めた。この巨岩は、今も寺の西の山麓にあるという。また、不動堂の不動明王像は智証大師(円珍)(空海の甥であるが、天台宗寺門派の宗祖)の作で、永禄年間(1558~1570年)に武田信玄が駿河国に侵攻した際、当寺も兵火に遭い、この不動尊像も焼失したと思われた。しかし、ある夜、当寺第23代堅照上人の夢に不動尊が現れ、「今、甲州の大泉寺に居るが、帰る縁があるので、迎えに来てくれ。」と言った。堅照上人が富士川まで来ると、仏像を背負った僧がいた。この僧こそ甲州大泉寺の住職で、当寺の不動尊像を運んできたのだった。これによって、当寺に不動尊が戻った、という伝説もある(夢のお告げはともかく、武田軍によって不動尊像が甲斐国に持ち去られていたらしい。)。
ほかにも、境内には「鬼かき石」(鬼の爪痕が残る石)、「行基菩薩腰掛石」(行基が腰を掛けたという石で、背もたれのある椅子のような形をしている。)などもある。「鬼かき石」は、その溝(鬼の爪痕)を3回なぞると願い事が叶う、特に手芸の上達に御利益があるとされるが、どうやら、古代、この溝で玉(勾玉)を磨いた砥石であるという。
また、「黒犬神社」は、当寺に飼われていた黒犬(クロ)を祀る。昔、田中城主が飼っていた白い土佐犬と無理に戦わされ、これを噛み殺したが、城主の怒りを買い、家来たちに追い立てられて井戸に飛び込んで自殺したという。そのとき、どこからともなく、夥しい犬が現れて、家来たちを襲った。これを恐れた城主が黒犬を祀ったのが「黒犬神社」であるとされる。この黒犬は春埜山から来たとされるが、春埜山の奥、山住山(標高1100m)には式内社「山住神社」があり、山犬(狼)信仰がある。つまり、この黒犬は狼だった、ということを暗示しているとともに、当寺辺りにも春埜山や秋葉山の神仏混淆、あるいは修験道の影響が及んでいたということだろう。
なお、行基の開創というのは伝説に過ぎないだろうが、奈良時代には法相宗?、平安時代後期には天台宗寺門派に転じ、鎌倉時代後期には真言律宗、現在は高野山真言宗の寺院となっている。


写真1:「鬼岩寺」境内に入ると、大量の五輪塔


写真2:正面に護摩堂(不動堂)。裏の山には「古墳の広場」(「若王子古墳群」)がある。


写真3:向かって左が「鬼かき石」、右が「行基菩薩腰掛石」


写真4:「黒犬神社」
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飽波神社(駿河国式内社・その22)

2011-03-18 22:32:38 | 神社
飽波神社(あくなみじんじゃ)。祭神:少彦名命。
場所:静岡県藤枝市藤枝5-15-36。県道215号線(伊久美藤枝線)沿い、藤枝商工会議所の南東の信号のある交差点のところに入口がある。駐車場あり。藤枝市立岡出山図書館の西隣だが、一方通行の関係で自動車では図書館側からは行けないので注意。
社伝によれば、仁徳天皇6年(316年)の創祀で、益頭郡飽波郷に鎮座しているところから「飽波神社」と称したという。「飽波」というのは、「湧く波」の意味で、現在も瀬戸川の伏流水の泉が湧くという。ただし、祭神との関係はよくわからない。この泉が薬泉で、病気治癒に霊験があるとの伝承があるらしく、このことから医薬の神である少彦名命とされたのかもしれない。江戸時代には「川関大明神」と称されてきたが、当神社の西南約500mのところに、別に「川関神社」という神社がある。その関係はわかっていない。
当神社の北西には、奈良時代開創という「鬼岩寺」や「若王子古墳群」がある。また、当神社は、益頭郡と志太郡の郡家があったとされる場所(現・藤枝市郡及び南駿河台)の間にあることから、当神社が式内社とされたのはこれら郡家と何らかの関係があったのではないか、と思われる。


玄松子さんのHPから(飽波神社)


写真1:「飽波神社」入口


写真2:「飽波神社」正面


写真3:「川関神社」鳥居


写真4:「川関神社」社殿
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