神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

筑波山大御堂

2020-09-26 23:19:12 | 寺院
筑波山 大御堂(つくばさん おおみどう)。
場所:茨城県つくば市筑波748-2。「筑波山神社」拝殿(前々項参照)の西隣。駐車場有り。
筑波山は往古から神が坐す山であるとされてきたが、仏教的な開山を行ったのが法相宗の僧・徳一(天平勝宝元年(749年)?~天長元年(824年)?)で、延暦年間(782~806年)、筑波山中腹に「筑波山寺」を創建し、山頂の二神の祠を再建したという。その後、空海(弘法大師)が入山して「筑波山 知足院 中禅寺」と改められ、神仏混淆・山岳修行の霊地となったとされる。徳一は、20歳頃に京(平城京?)を出て東国に向かい、弘仁年間(810~824年)には陸奥国(現・福島県以北)に住んでいたことが史料的に裏付けられているものの、筑波山の開山については伝承のみとなっている。ただし、その間に「筑波山寺」を創建したということは否定もできない。一方、空海については、(各地に伝説は残るが)常陸国には足を踏み入れてはいないだろう。したがって、神仏混淆の進行がどのようになされたのか不明だが、筑波山の神は「筑波両大権現」と称され、筑波男神(伊弉諾尊)を千手観音、筑波女神(伊弉冊尊)を聖観音、更に摂社に祀る四王子について、「安座常神社」(素盞嗚命)を如意輪観音、「小原木神社」(月読命)を馬頭観音、「渡神社」(蛭子命)を准胝観音、「稲村神社」(天照大御神)を十一面観音に本地仏とし、密教で重視される「六観音」に当てた(「筑波山流記」( 天正18年(1590年))による。他の資料では伊弉冊尊を十一面観音に当てているものが多い。なお、准胝観音が入っているのは真言宗系であることを示す。)。
鎌倉時代初期には、常陸国守護となった八田知家(小田氏祖)の八男・八郎為氏が筑波国造の名跡を継いで祭祀を行った。為氏は僧籍に入って明玄と名乗り、以後、その子孫(筑波氏)が「筑波山神社」及び「中禅寺」の別当を担った。江戸時代に入ると、徳川家康によって筑波氏は追放され、「中禅寺」は江戸幕府の鬼門除けの祈願所となり、本堂(大御堂)、三重塔、鐘楼、楼門などが造営されて、寺勢が隆盛した。しかし、その反動か、明治維新後は廃仏毀釈により大打撃を受け、多くの堂塔が破却され、本堂の跡に「筑波山神社」拝殿が建立された。昭和5年に、真言宗豊山派大本山「神齢山 悉地院 大聖護国寺」(東京都文京区)の別院「筑波山 大御堂」として再興、「坂東三十三箇所観音霊場」の第25番札所(本尊:十一面千手観世音菩薩)となっている。本堂は、昭和36年に民家を移築・改修したものを使用していたが、老朽化のため解体、令和2年2月、新本堂が完成した。
蛇足:平田篤胤による、天狗にさらわれたという寅吉少年からの聞き書き「仙境異聞」では「岩間山に十三天狗、筑波山に三十六天狗、加波山に四十八天狗、日光山には数万の天狗といふなり。」とあり、修験道が盛んだったことが窺われる。そして、江戸時代中期に書かれた「天狗経」には全国の大天狗として「四十八天狗」の名が示されているが、その中に「常陸筑波法印」が入っており、その正体は徳一であると信じられている。


坂東三十三観音のHPから(第25番 筑波山大御堂)


写真1:「筑波山 大御堂」。できたばかりのまぶしく白い石段と寺号標。


写真2:広い石段を上る。


写真3:鐘楼


写真4:本堂。本堂全体を撮影できるようなスペースがない。熱心に読経されている方がおられたが、なかなか終わりそうにないので、失礼して撮影させていただいた。


写真5:(参考)建て替え前の本堂
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筑波山神社(常陸国式内社・その27の2)

2020-09-19 23:16:20 | 神社
「筑波山神社」の続き。
筑波山の登山ルートはいくつかあるが、最も楽なのは前項で紹介した筑波山ケーブルカーを利用する方法だろう。ただ、それで上下すると、筑波山の奇岩怪石の多くを見逃すことになる。そこで、茨城県道42号線(笠間つくば線)を、大鳥居の前を通り過ぎて東に向かい、「風返し峠」交差点から茨城県道236号線(筑波公園永井線、通称:筑波スカイライン)に入り北へ、行き止まりが駐車場(有料)。そこから「おたつ石コース」~「白雲橋コース」に合流のルートで女体山山頂まで登山道を上り約40分(下り約35分)。こちらも並行して筑波ロープウェイがあり、これを利用すると、駐車場のある「つつじヶ丘」駅から「女体山」駅まで約6分。
「常陸国風土記」には次のような話もある。「昔、祖神(おやがみ)が諸国の神々を巡っているとき、駿河国の福慈岳(富士山)に着いたところで日が暮れた。そこで、福慈の神に宿泊を頼んだが、ちょうど新嘗祭で物忌みをしているので泊められない、と言って断られた。祖神は怒って、お前の住む山は冬も夏も雪が降って、人も登らないから、飲食物を供えることもないだろう、と罵った。それから、筑波岳(筑波山)に登って筑波の神に宿泊を頼んだところ、今夜は新嘗祭だが、お受けしないわけにはいかない、として、もてなしてくれた。祖神は喜び、筑波山には人々が集い、飲食物を供えるだろう、と歌った。そういうわけで、富士山には雪が降って人が登らないのに、筑波山には人々が集まって楽しむことが長く絶えることがないのだ。」というものである。素朴なお国自慢の1つだろうが、富士山と比べられるほど、人々の意識にあったということだろう。また、この話では、祖神、福慈の神、筑波の神のいずれもが女神だと考えられており、一説には、元々は(伊弉諾尊・伊弉冊尊の2柱とされる前は)筑波の神も女神のみだったという説もある。


筑波山ケーブルカー&ロープウェイのHP


写真1:「おたつ石コース」登り口付近にあるB級スポット「ガマランド」。個人的には、かなり好き。


写真2:「弁慶七戻り」入口。聖と俗を分ける門とも言うらしい。


写真3:同上。落ちてきそうな巨岩を見れば、弁慶も通るのを七回逡巡するだろうというもの。


写真4:「高天原」。巨岩の上に天照大神を祀る「稲村神社」が鎮座。一説に、筑波山は天照大神が降臨した神山で、後に伊勢に遷ったという。


写真5:「胎内くぐり」


写真6:「陰陽石」


写真7:「国割石」。巨岩の表面に縦横の線が溝彫られている。神々がそれぞれの治める地方を割り振ったものとされる。


写真8:「出船入船」。船玉神を祀る。


写真9:「裏面大黒」。大黒天が大きな袋を背負った後ろ姿という。


写真10:「裏面大黒」に祀られた「渡神社」(祭神:蛭子命)


写真11:「北斗岩」と「小原木神社」(祭神:月読尊)


写真12:「屏風岩」と「安座常神社」(祭神:素戔嗚尊)


写真13:「大仏岩」。高さ15m。


写真14:ここには説明板がなかったが、明らかに「陰石」。水が滴っており、ここまで「陰石」らしいものも珍しいと思う。


写真15:「女体山」山頂の「女体山本殿」。
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筑波山神社(常陸国式内社・その27の1)

2020-09-12 23:40:28 | 神社
筑波山神社(つくばさんじんじゃ)。
場所:茨城県つくば市筑波1。茨城県道14号線(筑西つくば線)から同42号線(笠間つくば線)に入り、東へ約3.5km、「神社入口」交差点から朱色の大鳥居を潜り、約350mで駐車場(有料)入口。更に約80m進と参道入口だが、車道は行き止まりになる。その先に境内鳥居、神橋、随神門などがあり、拝殿に至る。本殿は、筑波山の東西の峰にある。
「筑波山神社」は「延喜式神名帳」登載の式内社であるが、1社2座で、1座が名神大(社)、もう1座が小(社)という珍しい形になっている。論社はないが、写真も多くなったので、2回に分けることにした。
創建時期は不明。筑波山は標高877mと低いにもかかわらず「日本百名山」にも選ばれるなど姿が美しく、人が定住し始めた頃から信仰の山であったとされる。「常陸国風土記」(奈良時代初期)にも「筑波岳」山上に「筑波神」がいることのほか、「西の峰は険しく、雄の神といって登ることができない。東の峰も岩山だが、春と秋には男女が集まって登り、歌垣を行う」(意訳・一部省略)というような記述がある。このように2つの峰があることが古くから意識され、「六国史」でも「筑波男神」・「筑波女神」との記載があり、これを伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冊尊(イザナミ)に当てるようになり、現在の祭神もそのようになっている。筑波山中腹にあるのは拝殿で、西峰(男体山)山頂に筑波男神、東峰(女体山)山頂に筑波女神を祀った本殿が鎮座している。なお、「六国史」等の記事を追えば、「日本紀略」弘仁14年(823年)条に「霊験頻著のため常陸国従五位下筑波神を官社とする。」、「続日本後紀」承和9年(842年)条に「常陸国無位筑波女大神に従五位下を授ける。」、「文徳天皇実録」天安2年(858年)条に「常陸国筑波山神二柱に四位を授ける。」、「日本三代実録」貞観12年(870年)条に「常陸国従四位上筑波男神に正四位下、従四位下筑波女神に従四位上を授ける。」、同貞観13年(871年)条に「常陸国正四位下筑波男神に従三位を授ける。」、同貞観16年(874年)条に「常陸国従四位下筑波女神に従四位上を授ける。」とみえる。
祭祀については、元々は「常陸国風土記」筑波郡の条にみえる采女臣(ウネメノオミ、物部氏系)の一族である筑箪命(ツクバノミコト)が初代筑波国造に任じられて以来、筑波国造が祭政一致で奉仕したとされる。平安時代に入ると、法相宗の僧・徳一が「筑波山 知足院 中禅寺」を開き、それ以降は神仏混淆が進み、江戸時代には寧ろ仏教中心の霊地となっていたらしい。これには、江戸の鬼門(北東)封じの意味合いから、「中禅寺」あるいは「筑波両大権現」が徳川幕府から篤く庇護されたこともあるようだ。それが、明治維新の廃仏毀釈により「中禅寺」は廃寺となり、その伽藍の跡地に現在の当神社の拝殿が建立されたという。当神社の御利益としては、現在の祭神である筑波男神(伊弉諾尊)・筑波女神(伊弉冊尊)が国産みの神であることから、縁結び、夫婦和合、子授け・子育てなどとなっている。


筑波山神社のHP


写真1:「筑波山神社」一の鳥居。通称:「六丁目鳥居」(場所:茨城県道139号線(筑波山公園線)沿い、境内入口前から約800m下る。)。宝暦9年(1759年)建立で、今は無いが、嵯峨大覚寺門跡・寛深法親王筆による「天地開闢 筑波神社」の額が掲げられていたという。


写真2:一の鳥居の脇の石柱(「是よ里山上」)。ここから上が神域となっている。


写真3:境内入口の鳥居


写真4:随神門


写真5:拝殿前の石段、社号標


写真6:拝殿。登山ウエアの参拝客が多い(注:新型コロナ流行前の写真です。)。


写真7:境内の万葉歌碑の1つ。「萬葉集」には筑波山に関する歌が25首あるとのことで、このほかにも歌碑多数。


写真8:登山道「御幸ヶ原コース」の登り口。徒歩で登ると「御幸ヶ原」(東西峰の間)まで約90分。距離は短いが、かなり急で、結構しんどい。少し奥にケーブルカー「宮脇」駅があり、これに乗ると、わずか8分。


写真9:西峰(標高871m)の山頂にある「男体山本殿」。「筑波男大神」を祀る。「御幸ヶ原」から登山道を約15分。これもきつい登り。


写真10:同上、正面


写真11:「セキレイ石」。この石の上に鶺鴒(セキレイ)が留まり、男女の道を教えたという。「御幸ヶ原」から東の峰に向かう途中にある。


写真12:「ガマ石」。古来「雄龍石」と呼ばれていたが、蝦蟇(ガマ)に似ていて、この石の前で永井兵助が有名な「ガマの油売り口上」を作ったということで、「ガマ石」と呼ばれるようになったという。小石を投げてガマの口の中に入ると出世する、らしい。
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水守城跡

2020-09-05 23:59:26 | 史跡・文化財
水守城跡(みもりじょうあと)。水守営所跡。
場所:茨城県つくば市水守621外。国道125号線と同408号線の交差点から、125号線を西へ約350mのところで左折(南へ)、約950m進んだところ(二岐になっているところ)で左側へ(側道へ)、約100m進んだ台地上。旧・田水山小学校(平成30年閉校)のある台地上。駐車場なし。
「水守城跡」は、筑波山の南西、約7km(直線距離)の台地上にある中世城館跡で、現在残る土塁、空堀、土橋などの遺構からすると、戦国時代のものとされる。しかし、軍記物語「将門記」(11世紀頃?)の中に出てくる「水守営所」(「営所」は兵営・軍営のことで、武将の本拠地として居館、軍事拠点、農業経営の事務所を兼ねていたという。)の跡とする説が強い。「将門記」の文脈からすると、「水守営所」は、平将門の叔父で義父に当たる平良正の居館だったとみられている。「平将門の乱」は元々、坂東平氏一族間の領地争いから始まっており、将門と良正の争いがその中心になる。「将門記」には、承平6年(936年)6月、平良兼が良正の味方をするため軍勢を集めて上総国武射郡(現・千葉県山武市)から「水守営所」に着いた、という記述がある。良兼は良正の兄(将門の伯父に当たる。)で、当時、坂東平氏の当主の立場にあって、上総介の地位にあった(下総介という資料もある。)。このようにして「平将門の乱」は次第に拡大していくのだが、良正・良兼に勝利することによって関東地方における将門の名声・権威が高まることになった。
ということで、「水守営所」は反・将門の本拠地のようになっていたのだが、「平将門の乱」後の動向は不明。坂東平氏の始祖・平高望(高望王)の長男・国香には貞盛と繁盛という2人の子がいたが、「平将門の乱」後、貞盛は繁盛の子・維幹を養子に迎え、常陸国を譲った。 維幹は常陸大掾職(常陸国司の第三等官。ただし、常陸国は親王任国であるため太守は赴任しないので、事実上の次官に当たる。)となり、「水守城」に住んだが、その後「多気城」(現・つくば市北条)を築いて移り、多気氏を名乗って、多気太夫、多気大掾と称した。これにより、「水守城」は廃城となったという伝承がある。あるいは、多気氏が建久4年(1193年)に没落した後、常陸守護職となった小田氏の支城の1つとなり、水守民部という人物が城主であったともいう。上記の通り、現存する「水守城跡」は戦国時代の遺構とされるが、現地はいかにも中世城館を建設する適地の感じで、「水守営所」の後、戦国時代に拡大・整備されたものだろうと思われる。
因みに、現・つくば市の北部には日本武尊に関わる伝説が多い(例、前項「鹿島神社」(つくば市大形)の磐座など)。当地の地名「水守」についても、当地の台地の下に清水が湧くところがあり、そこに日本武尊が泉の番人(水守り)を置いたことに由来するという。


写真1:「水守城跡」のある台地の北端の古墳とみられる土塁。物見台として使われていたらしい。


写真2:「水守城址」石碑。写真1の古墳のところにある。


写真3:水守城の由来の石碑かと思ったが、その説明はなく、常陸平氏の系図と田水山小学校の歴史が刻されている。


写真4:西端の土塁。これも古墳のようである。「水守古墳群」は元々6基あったらしい。


写真5:北端から見える筑波山。なお、台地下の水田は濠だったという。


写真6:旧・田水山小学校の南東の畑の中にある「鞍掛石」。


写真7:同上。近づいてみると、結構大きな石だが...


写真8:同上、裏側(東側)から見る。奥に見える建物は「筑波勤労者体育センター」。


写真9:同上。横(北側)からみると、思ったより薄い。確かに、鞍を懸けるのにちょうど良い感じ。板状なのは、古墳の石室か石棺の石材だったのかもしれない。それにしても、何故、畑の中にこんな形で置かれているのだろうか。
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