神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

子安神社(茨城県かすみがうら市)(常陸国式内社・その13の4)

2018-12-29 23:53:38 | 神社
子安神社(こやすじんじゃ)。
場所:茨城県かすみがうら市東野寺252。国道6号線「新治小学校」交差点から南東へ約750m進み、押ボタン式信号(「新治小学校」方面からは常時赤点滅。)の交差点を直進、直ぐ。鳥居から南に約200mの参道がある(社殿は北向き)。駐車場なし。
社伝によれば、大同2年(807年)に「鹿島大神」(常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事))と「富士浅間大神」(駿河国一宮「富士山本宮浅間大社」(2010年7月31日記事))の分霊を鎮斎したのが創祀。源頼義・義家父子が征奥のため現・茨城県石岡市三村に宿営したところ、たまたま正月七日の大祭礼に当たり、あまりの賑やかさに里人に尋ねたところ、当神社の由来を聞き、感銘した父子が朝敵降伏・国家安泰を祈った。康平6年(1063年)、凱旋の折に社殿修営・祭祀料の寄進をしたとされ、また、そのとき、義家の妻が懐妊しており、無事に嫡男が生まれたことから、源家累代尊襲すべきものと定められたという。9月の例祭には「子安講」の人々で賑わい、社殿開扉の音が高ければ出生子が少なく、低ければ多産で安産だとされているそうである。現在の祭神は、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)と武甕槌命(タケミカヅチ)。
さて、当神社は、直線距離で南西約500mのところにある「胎安神社」(次項予定)と殆ど同様の由緒をもっており、いずれも常陸国式内社「羽梨山神社」または「夷針神社」の論社とされることがある。それは、それぞれの第一候補となっている神社(「羽梨山神社」(2018年11月24日記事)、「夷針神社」(2018年12月8日記事))の比定に難点があることだが、かと言って、当神社などが有力であるかというとそうでも無い感じである。極めて単純に言うなら、「羽梨山神社」の場合は霞ヶ浦の高浜の湊に近い古社であること、「夷針神社」は「新治」という地名の場所にある古社であることが論拠なのだが、そもそも、いずれも自ら式内社であることを主張されていない(「式内社とする説もある」程度)ことには留意すべきであろう。なお、「夷針神社」比定の論拠については、次々項で書く予定。


写真1:「子安神社」入口。社号標がある。ここから長い参道。


写真2:参道途中の鳥居。参道はさらに続く。


写真3:境内。全体に苔むして、雰囲気が素晴らしい。


写真4:社殿。北向きであるのは、「鹿島神宮」と同様、東北地方の蝦夷に対する政策上の意図があったらしい。
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足尾神社(茨城県石岡市)(常陸国式内社・その13の3)

2018-12-22 23:27:20 | 神社
足尾神社(あしおじんじゃ)。
場所:茨城県石岡市小屋1(本宮)。茨城県道7号線(石岡筑西線)の石岡市・桜川市境の「上曽峠」から北筑波稜線林道に入り、北へ約4.5km。駐車場有り(境内)。林道は舗装されているが離合困難な道幅で、途中にハンググライダーの離陸場があったり、登山・ハイキングの歩行者がいたりして、十分注意が必要。
当神社の創建時期は不明。社伝によれば、第60代醍醐天皇(在位:897年~930年)が足の痛みで苦しんでいたとき、夢に「足尾の神」が現れたので、足尾山を遥拝したところ、たちまち快癒した。そこで、醍醐天皇は、紙に足形を印し、「日本最初足尾神社」の勅額を下賜した。その勅額が野火により焼失したので、寛正5年(1464年)に再下賜があったという。文治年間(1185年~1189年)の初め頃、源義経の家臣・常陸坊海尊が足尾山に籠って荒行を行ったといわれ、以来、「足尾山大権現」の霊山として修験道の修行道場として広く知られるようになった(常陸坊海尊は、元は円城寺又は比叡山の僧で、衣川の戦いの時には不在であったため生き延びたとされるが、その後の消息は不明。400年生きて、仙人になったとの伝説がある。)。「足尾山」で修行した行者や修験者が諸国を行脚しながら、「足尾神社」が足病消除に効験ありとの神徳を全国に広めたらしく、近世には足痛・足病の快癒を願う参拝客が多かったという。現在の祭神は国常立命(クニノトコタチ)、面足命(オモダル)、惶根命(カシコネ)。
ところで、「足尾山」(627m)は、「常陸国風土記」に「葦穂山」、別名「小泊瀬山」(原文:「乎婆頭勢夜麻」(おはつせやま))として記載があり、「萬葉集」にも歌われている。ただし、「常陸国風土記」では、その記載が「新治郡」の条の末尾にあり、「郡家の東、50里(約27km)のところに笠間村がある。そこへ越えて行く道を葦穂山という。」という内容になっている。ここでいう「郡家」が「新治郡家」(現・茨城県筑西市古郡、「新治郡衙跡」(2018年8月4日記事参照))であれば、「笠間村」(現・茨城県笠間市笠間)に行くには、今なら国道50号を東~東北に向かえばよい(約22km)。古代には、途中で「大神駅(家)」(現・茨城県桜川市平沢、「大神台遺跡」(2018年9月1日記事参照))を通っただろうから、国道50号線より北側を通ることになるが、こちらも国道289号線を進み、「鏡ヶ池」(茨城県桜川市山口)付近の分岐で直進すると「笠間」に着く。この間も約22kmで、「笠間」に入る前に越えるのが「鍬柄山」(276m)になる。よって、「新治郡家」から南東にある「足尾山」を越える必要はなく、「鍬柄山」を「葦穂山」とする説もある(なお、この説は当神社のHPにも紹介されている。)。これに対して、中村啓信監修・訳注「風土記 上」によれば、上記の「葦穂山」に関する記述は(失われた)「白壁郡」の条の一部であるという。「白壁郡」は、宝亀元年(770年)に白壁王が即位して光仁天皇となったことから、その名を忌んで「真壁郡」に改められた。「白壁郡(真壁郡)」の郡家の所在地は確定していないが、「真壁城跡」(現・茨城県桜川市真壁町)付近というのが有力。仮にそうだとすれば、「真壁城跡」は「足尾山」の西側にあることから、「笠間」へは、東に向かい、「足尾山」を越えることになる。その後の道順が不明だが、直線距離なら約18kmなので、徒歩で約30kmほどで「笠間」に至ると思われる。
ということで、当神社が由緒ある古社であり、常陸国茨城郡鎮座の式内社「夷針神社」に比定されてもおかしくはないと思われるが、当神社がなぜ「夷針神社」という名で登載されたのかという理由が不明で、なかなか論社として有力とは言えないのではなかろうか。


足尾神社のHP


写真1:林道沿いの「足尾神社」入口。社号標がある。以前は、ここにも鳥居があった。


写真2:鳥居


写真3:境内の「草鞋奉納所」。もちろん、草鞋ではなく、スニーカーやサンダルなどが多い。


写真4:真新しい社殿


写真5:社殿は一部石造で、天狗のレリーフも。


写真6:社殿横から更に上っていく道。結構急坂で距離もあり、息が切れる。


写真7:「足尾山」山頂付近の石祠。これが本殿。台座に「葦穂山」と刻されている。


写真8:県道7号線沿いにある「足尾神社一の鳥居」。かつては、ここから「足尾山」山頂までの道があったようだ。


写真9:「足尾神社」里宮の社号標


写真10:「足尾神社」里宮の社殿(場所:茨城県石岡市小屋387)。こちらにも、靴や松葉杖などが置かれている。
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飯綱神社(茨城県笠間市)(常陸国式内社・その13の2)

2018-12-15 23:14:26 | 神社
飯綱神社(いいづなじんじゃ)。愛宕神社奥社。
場所:茨城県笠間市泉101。国道355号線と茨城県道43号線(茨城岩間線)の交差点(コンビニ「セブンイレブン岩間泉店」があり、「愛宕神社」への案内看板がある。)から西へ、約1.2kmのところで右折(北へ)、道なりに「愛宕山」山頂へ向かい、約2.6kmで広い駐車場。「愛宕神社」の社殿までは、駐車場から徒歩で数分。「飯綱神社」は「愛宕神社」の社殿背後の石段を上ったところにある。
社殿によれば、「愛宕山」(305m)は大同元年(806年)に「筑波山 知足院 中禅寺」の開基・徳一大師が開山し、山頂に「愛宕神社」を創建したという。密教系修験道の霊山とされ、元は「風穴山」といわれていたが、愛宕信仰の高まりにより「愛宕山」という名になったとのこと。平田篤胤が天狗小僧・寅吉に取材して書いた「仙境異聞」では「岩間山」と称しており、十三天狗が棲んでいるとしている。「愛宕神社」は火伏の神で、火事が多かった江戸庶民の信仰を受けたようで、一時は多くの参拝客を集めたとのこと。現在の祭神は、「伊邪丹大神」(イザナギ)、「火具土命」(カグツチ)、「火結命」(ホムスビ)、「水波女命」(ミズハノメ)、「埴山比売命」(ハニヤマヒメ)の5柱。
さて、この「愛宕神社」の境内社である「飯綱神社」(現在の祭神・「手力雄命」(タヂカラオ))を常陸国式内社「夷針神社」に比定する説がある。「飯綱神社」は境内社ではあるが、「愛宕神社」本殿の背後の更に高い場所に鎮座し、「奥社」、「本宮」などと呼ばれている。このような扱いは、要するに「愛宕神社」を勧請する際に地元神に敬意を示したということなのかもしれない。これが式内社「夷針神社」であるとの伝承があり、戦前はその名を称していたが、戦後に旧称(「飯綱神社」)に復したという。当神社を式内社「夷針神社」に比定する論者の根拠としては、「夷針」を「イシミ」と読み、これが当地の「泉」(旧・泉村)という地名に関係づけるものである。因みに、伝承では、「和名類聚抄」に記載がある「茨城郡夷針郷」は当地を含む地域で、「夷針神社」の名に因むもの、とする。「夷針郷」の所在・範囲が不明であるので、正否は不明だが、同書には「茨城郡岩間郷」も記載されており、当地が平安時代に「石間」という表記での記録もあることから、整合的ではないと思われる。
ところで、「愛宕山」開山の徳一(とくいつ)大師(749年?~843年)は奈良時代~平安時代初期の法相宗の僧で、最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)と論争した記録が残っていることでも有名だそうで、ということは、実在の人物であって、常陸国や陸奥国南部で多くの寺院を建立したのも事実らしい。ただし、近世より前には「愛宕神社」の記録がないこと、「飯綱神社」=「夷針神社」であるとしたときに「愛宕神社」との関係についての説明がないことが気になる。近くの「筑波山」や「加波山」などにも天狗伝説がある(修験の霊山でもある)ことから、修験同士の権威付けのために、所在不明となっていた式内社「夷針神社」を持ち出してきたのではないか、と疑われる。
蛇足(最近多いな)。「愛宕神社」は山城国・丹波国の境にある「愛宕山」(924m)に鎮座する「愛宕神社」(現・京都市)が総本社とされる。近世までは神仏混淆・修験の聖地(寺院としては「白雲寺」)として本殿に「愛宕大権現」の本地仏である「勝軍地蔵」が、奥の院(現・若宮)に「愛宕山」の天狗・「愛宕太郎坊」が祀られていたという。また、「飯縄神社」・「飯綱神社」の総本社は信濃国「飯縄山」(1,917m)に奥社がある「飯縄神社」(現・長野県長野市)で、こちらも神仏混淆(本地仏:大日如来)で元は「飯縄大権現(大明神)」を祀っており、「飯綱三郎」という天狗が棲んでいたとされる。因みに、現・滋賀県の「比良山」に「比良山次郎坊」が居たということになっている。この3天狗を含めて「八天狗」があまたいる天狗の中の代表格であるが、笠間市の「愛宕山」のように、1つの山で2天狗の信仰が併存するというのは珍しいのではないだろうか。


笠間市のHPから(愛宕山紹介・天狗伝説)

笠間観光協会のHPから(愛宕神社)


写真1:「愛宕神社」鳥居。山頂付近の広い駐車場から。


写真2:社殿前の石段に向かうところにある鳥居。


写真3:社殿前の石段は少し暗くて雰囲気がある。「従是女人禁制」の石碑も。


写真4:社殿(拝殿)。本殿は覆屋に囲われている。


写真5:「愛宕神社」の背後にある急な石段。


写真6:「愛宕神社奥社」こと「飯綱神社」の拝殿。


写真7:「六角殿」。これが「飯綱神社」の本殿であるという。奥の石祠は「十三天狗祀」。


写真8:「愛宕神社」境内の「徳一大師宝塔」


写真9:同じく、「パワースポット」の説明石碑。わざわざこのような石碑を建てる感覚が面白いと思って撮影したが、肝心の「岩脈」を撮り損ねた。


写真10:駐車場を少し下ったところからの参道。この脇にある社号標は「日本火防三山の一 愛宕神社」とある。「日本三大〇〇」の一種なのだろうが、他ではあまり聞かないようだ。


写真11:年季が入った参道もあり、これはこれで、とても雰囲気がある。
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夷針神社(常陸国式内社・その13の1)

2018-12-08 23:58:42 | 神社
夷針神社(いはりじんじゃ)。
場所:茨城県東茨城郡茨城町大戸1768。「大戸小学校」の北東端の向かい側にある火の見櫓?のところ(大戸の桜→ という案内板がある)を北へ入る。そこに当神社の鳥居があり、社殿は約400m先。鳥居の右側の狭い道路が車道だが、社殿の近くに駐車場なし(途中の「大戸の桜」前に数台分のスペースがあり、これが利用できるだろうか。)。
社伝によれば、神亀2年(725年)の創建。しかし、その後について六国史などに記事がない。室町時代の応永33年(1426年)、江戸但馬守通房により水戸城が攻められ、落城の時に城主・大掾満幹の家臣・根小屋伊勢守が水戸城の鎮守「武熊大明神」の神璽を持ち出し、当神社に合祀した。このため、以降は、「武熊明神」、「両社大明神」などと呼ばれたという。近世には、寛政9年(1797年)、天保9年(1838年)の裁許状に「夷針大明神 武熊大明神」とあって、両神並列の認識はあったようだが、一般には専ら「武熊明神」と称されていたようで、当神社が「延喜式神名帳」登載のいわゆる式内社「夷針神社」であるとの認識は殆ど無かったようである。明治45年、現社号で村社に列せられる。
現在の祭神は「奥津彦命」・「奧津姫命」で、「武三熊大人」・「興玉命」を配祀する。「奥津彦命」・「奧津姫命」(オキツヒコ・オキツヒメ)は「大年神」の御子神で、竈の神とされる。よって、防火、家内安全、豊作などの御利益があるという。なお、「奧津姫命」の別名は大戸比売神」(オオベヒメ)というので、ひょっとすると、当地の地名は当神社に由来するのかもしれない。因みに、神話では「武三熊大人」(タケミクマ)は「天穂日命」(アメノホヒ)の御子神で、「天穂日命」が国譲りの交渉役に選ばれて出雲の「大国主神」の許へ派遣されたが3年経っても報告しないため、子の「武三熊大人」が遣わされたものの、やはり戻らなかったということになっている。ところで、「古事記」では「天菩比命」(「天穂日命」)の御子神を「天夷鳥命」(アメノヒナトリ)としていて、「武三熊大人」と同神と考えられているらしい。気になるのは、「夷」の文字で、寧ろ、こちらの方から式内社「夷針神社」に繋げたのではないかと勘繰ってしまう。
というのは、常陸国式内社の中で最も比定が困難なのが「夷針神社」だとされていて、現在、旧・常陸国域内で「夷針神社」と名乗っているのは当神社だけのようなのだが、式内社であることを否定する説が多い。実は、当地は、「大化の改新」(646年)以前は「仲国」、その後は「那賀郡」に属し、「茨城郡」内になったのは文禄3年(1594年)の「太閤検地」以降のことだとされている(「茨城町史 地誌編」など)。よって、「延喜式神名帳」の「茨城郡」鎮座というのに反するというわけである。ただ、古代「那賀郡」と「茨城郡」の境界は、当神社の南西、約1kmを流れている現・「涸沼前川」といわれているので、結構微妙かもしれない。平安時代中期の「和名類聚抄」には「茨城郡」に「夷針郷」があると記されており、式内社「夷針神社」もそこに鎮座していたはずだが、「夷針郷」の範囲はわかっていない。そもそも「夷針」を何と読むのかということに諸説あり、「イハリ」、「ヒナハリ」、「ヒラハリ」、「スイハリ」、「イシン」、「イシム」、「イシミ」などが提示されている(当神社の現在の社号は、茨城県神社庁のHPの記載による。)。で、それぞれの読み方に従って遺称地(らしき)場所を探して、それぞれの比定地が主張されているわけである。ということで、混沌としているが、他の論社も必ずしも有力とは思えないので、当神社を式内社「夷針神社」の第1候補としておくことにする。
蛇足。合祀された「武熊明神」は「武三熊大人」とされているが、現・宮城県岩沼市の「竹駒神社」(通称:「竹駒稲荷」。日本三大稲荷の1つともいわれる。)の旧称である「武隈明神」との関係はないのだろうか? はて。


写真1:「夷針神社」一の鳥居と社号標「村社 夷針神社」


写真2:二の鳥居


写真3:境内


写真4:拝殿。実は、参拝時には本殿が無かった。覆屋の下に萱葺屋根の本殿があると聞いていたのだが、建替えになったのだろうか。


写真5:「大戸の桜」。根元周囲約10.4m、高さ約15m、推定樹齢500年超。大正時代には約300坪の範囲に枝を広げていたという。国指定天然記念物。
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瓦塚窯跡

2018-12-01 23:48:34 | 史跡・文化財
瓦塚窯跡(かわらつかかまあと)。
場所:茨城県石岡市部原604ほか。茨城県道140号線(西小塙石岡線)沿い、「瓦会郵便局」から南東へ、約350mのところで左折(北東へ。「←鳴滝 瓦塚窯跡」の案内板がある。)、約200m進んだところで右折(南東へ)、斜面を上るように約250m進んだところが入口。駐車場なし。
「瓦塚窯跡」は、昭和43年に隣接する山林を開墾中に発見された古代窯跡で、発掘調査の結果、窯の構造が粘土質の地山をくり抜いてつくられた「地下式有段窖窯(ちかしきゆうだんあながま)」と判明した。天平13年(741年)の「国分寺建立の詔」に基づいて常陸国にも現・茨城県石岡市に「常陸国分寺」(2018年1月20日記事)・「常陸国分尼寺」(2018年1月27日記事)等が建立された際、その屋根に葺く瓦類を製造した窯跡とされている。ところが、その後の調査によって、南北130m・東西80mの範囲に、須恵器と呼ばれる硬質の土器を焼く窯跡が1基、瓦窯跡が34基、製鉄炉が1基あることが確認された。つまり、須恵器の窯は7世紀前半のものであり、瓦窯も「常陸国分寺」創建よりも早い8世紀前半には操業が開始されており、その瓦は「常陸国府」(2018年1月6日記事)や「茨城廃寺」(2018年2月3日記事)に供給されていたことが判明した。そして、「常陸国分寺」が衰退する10世紀前半までは継続的に操業されていたとみられている。なお、製鉄炉は8世紀半ば頃のもので、地下に穴を掘り、その上に炉壁を建てる半地下式の竪形炉と呼ばれるものとされる。当地でも砂鉄から鉄が生産されていたことがわかり、貴重な発見とされている。このように、大規模で、長期的に操業した窯跡であることが評価され、平成29年に国指定史跡に指定された。
因みに、県道沿いにある「瓦塚窯跡」への案内板の下には、「難台山ハイキングコース入口」という案内板もある。ここから登るには結構距離があると思うが、「愛宕山」~「難台山」~「吾国山」の尾根上に続くハイキングコースが整備されているようで、ひょっとして、「瓦塚窯跡」で工人として働いていた人々が見上げて信仰の対象になっていたということはないだろうか。


茨城県教育委員会のHPから(瓦塚窯跡)

石岡市のHPから(瓦塚窯跡)


写真1:「瓦塚窯跡」入口。説明板がある。ここから斜面を少し上る。


写真2:窯跡


写真3:同上(「第三号窯跡」)。「ハチ・マムシに注意」という札もかかっているが、とにかく蚊や虻など虫が多くて閉口した。
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