神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

大雄山 海禅寺(茨城県守谷市)

2021-08-28 23:03:46 | 寺院
大雄山 海禅寺(だいゆうさん かいぜんじ)。
場所:茨城県守谷市高野1337。国道294号線「けやき台4丁目」交差点から西~南西へ道なりに約1.4km。駐車場有り。
寺伝等によれば、官位を得るため京都に上った平将門が、延長8年(930年)に相馬御厨の下司(「伊勢神宮」の荘園の徴税係)の地位を得て帰り、承平元年(931年)、父・良将の菩提を弔うため真言宗総本山「高野山 金剛峯寺」(現・和歌山県高野町)を模して創建したという。また、本尊の延命地蔵尊は、奈良時代の名僧・行基菩薩作と伝えられ、将門の娘・如蔵尼の持仏であったとされる。その後、一時荒廃し、現在は臨済宗妙心寺派の寺院であるが、いつから臨済宗になったのかは不明。中世、海運禅師を開山として再興、将門の子孫と称する相馬家の菩提寺となり、将門の位牌(戒名:春渓院浄心禅定門)とともに、相馬家11代の位牌がある。戦国時代以降、下総国の相馬氏は次第に衰退したが、陸奥国(現・福島県)の所領に住んでいた相馬氏の一族が近世大名(相馬中村藩、現・福島県相馬市)として残り、当寺院に度々参拝に訪れたという。なお、慶安4年(1651年)、堀田正俊が守谷城主となったとき、当寺院に対し、縁起書を手書して与えた。その縁起書の文中に、「遂領関東八州、居相馬郡以立つ新京、自称平新皇」とあり、将門が守谷に新京(偽都)を立てたという説が信じられていたことがわかる(「守谷城址」(2021年7月24日記事)参照)。
さて、境内に「七騎塚」と呼ばれる、将門と家来の7騎武者の墓(供養塔)がある。これは、将門が承平7年(937年)に京都から帰国する途中、平良兼・平貞盛の両軍に待ち伏せされ、身代わりで亡くなった7人の家来たちの供養塔とされる。伝説では、将門には7人の影武者がいたという話もあるが、これらは将門の子孫を称した千葉氏~相馬氏の妙見信仰に基づき、北極星と北斗七星に準えたものと考えられている。なお、かつては「新皇堂」という小堂があり、将門の霊を祀り「国王明神」と称したといわれている(現在は廃堂で、現存しない。)。
因みに、東京都台東区に同名の「大雄山 海禅寺」がある。寛永元年(1624年)に覚印周嘉(無礙浄光禅師)が開山となって創建、江戸時代には臨済宗妙心寺派の大寺であった(現在は臨済宗系の単立寺院)。覚印は、常陸国真壁(現・茨城県桜川市)の生まれで、守谷市の当寺院にいたことがあり、創建に当たり同名の寺院を建立したとされる。


写真1:「海禅寺」入口。本堂の西側になる。


写真2:本堂(南向き)の前には石段があるが、こちら側からは出入りできない(南側が「高野小学校」の敷地になっているため。)


写真3:本堂


写真4:「七騎塚」。8基ある五輪塔のうち、向かって右端の最も大きいものが将門(「平親王塔」と刻されている。)で、その他の7基が家来のものとされる。なお、殆どは江戸時代に造られたものとみられている。


写真5:スダジイの大木。目通り直径1.6m、同周囲4.9m、樹高約25m、樹齢約250年という(現地説明板による。)。守谷市天然記念物。
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釈迦山 大圓寺

2021-08-21 23:32:30 | 寺院
釈迦山 大圓寺(しゃかさん だいえんじ)。
場所:茨城県守谷市大木676。「御霊山」(前項)の北西、約200m。駐車場有り。
寺伝によれば、第33代・推古天皇(在位:593~628年)のとき、悦翁が開山したという。...ちょっと、古すぎて何とも言えない。現・守谷市には(あるいは隣接する茨城県取手市にも)平安時代に創建という寺院も多いが、それは平将門に因んだものが殆どで、その後しばらく消息不明というケースが多い。当寺院の創建はもっと早いが、やはりその後はしばらく不明で、現在は曹洞宗だが、いつ曹洞宗になったかも不明。天正年間(1573~1591年)、現・千葉県柏市の藤谷城主・相馬源三郎胤吉が当寺院に詣でた後、本尊・釈迦如来の夢を見たことから、堂宇を修理して名刀を奉納したという。その後一時衰退したが、江戸時代に入ると、旗本の一色義直が修理して再興したとされる。本尊は、聖徳太子作との伝承がある木造の釈迦如来坐像(茨城県指定文化財)。像高146cm、ケヤキ(欅)材の割矧造で、製作者は不明だが、定朝様式の影響がみられるところから、製作年代は平安時代末~鎌倉時代初期とみられている。左手の一部が欠損していることなどもあり、本来は薬師如来であったかもしれない(薬師如来は左手に薬壺を持つ。)。結跏趺坐が左足を上にした形になっているとのことから、これは「降魔坐」と呼ばれ、禅系統で主流の坐り方らしいので、当寺院が中世以前に創建されていたとしても、曹洞宗になったときに釈迦如来像として入手したのではないかとも思う。
また、境内にムクノキ(椋木)の巨木がある。樹高約18m、周囲約5.9mで、樹齢約500年と推定されている(現地説明板による。守谷市指定天然記念物)。当地の「大木」という地名の由来となったとの伝承があるが、この地名は平安時代末頃には既にあった可能性もあり、疑わしいようである。
なお、墓地の奥から西に隣接して「六十六所神社」が鎮座している。社伝によれば、応永4年(1397年)に出雲国一宮「出雲大社」から分霊を迎えて創建されたという。現在の主祭神は大國主命。ちょっと珍しい社号は、元は現・守谷市大木660に建立されたからという。


茨城県教育委員会のHPから(木造 釈迦如来坐像)


写真1:「大圓寺」入口。寺号標(「禅 曹洞宗 釈迦山 大圓寺」)。


写真2:同上、本堂。モダンな感じのコンクリート造だが、伝統的な切妻破風を付ける?工事中だった。


写真3:同上、ムクノキの巨木


写真4:同上、墓地の奥に石造の弘法大師像がある。その先に「六十六所神社」社殿がある。


写真5:「六十六所神社」一の鳥居。扁額は「六十六社大神」となっている。(場所:茨城県守谷市大木673、駐車場なし)


写真6:同上、二の鳥居


写真7:同上、社殿


写真8:同上、こちらにも境内に石造弘法大師像がある。
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御霊山(茨城県守谷市)

2021-08-14 23:29:02 | 伝説の地
御霊山(ごりょうやま)。大木山霊山。
場所:茨城県守谷市大木。茨城県道58号線(取手豊岡線)「常総運動公園入口」交差点から東へ約350m、「四季の里公園」の案内板が出ているところを左折(北へ)、約90m進んだ突き当りを左手(狭い方へ)の道路に入り、約300m。駐車場なし。手前の突き当りを右手に道なりに約400m進むと、「四季の里公園」の駐車場があり、そこに駐車して南西に約70m進む(その道路の東側が「御霊山」)方が便宜かもしれない。
「御霊山」は、伝説によれば平将門には7騎の従臣(あるいは7人の影武者)がいたが、ついには討たれ、その7騎の武者を憐れんで村人が墓に葬ったという場所である。「守谷町史」(昭和60年)では、堂宇等がないにもかかわらず「寺院」の項で扱われているほか、3枚の板碑の写真を示して「将門の七人の影武者の供養塔ではないかといわれている」という記述がある。現在では板碑はないようだが、「御霊権現」という石祠などが祀られている。「御霊」というのは、祟る怨霊を祀って平穏を願う信仰とされ、東京都千代田区の「将門の首塚」が1つの典型かもしれないが、当地では「祟る」という話は聞かない。
また、「守谷町史」では、軍記物語「将門記」の書かれた場所との説があることにも触れている。「将門記」は、著者も、書かれた時期も不明とされているが、「守谷町史」では、書かれたのは天慶6年(946年。将門の死からわずか6年後)とし(根拠不明。なお、「将門記」巻末近くに「天慶三年六月中記之」とあるが、通説では否定的で、実際には10世紀末~11世紀末頃とする説が多い。)、山崎謙という人の説として「将門記を記した人は、将門にゆかりのあった大木の僧侶で、この人が守谷の大木山連乗院に入山して、そこで書いたものであろう。本来ならば、将門が開山したといわれる筒戸の禅福寺で書きたかったであろうが、そこでは書けない事情があった。」というのを紹介している。これに対して、「傍証する資料はあまり残されていない」としているのだが、現・茨城県つくばみらい市の「普門山 禅福寺」(前項)が元は「真福寺」と称していて、「将門記」の古写本が「北野山 真福寺 寶生院」(現・愛知県名古屋市中区)で発見され、一般に「真福寺本」と呼ばれているところから、2つの「真福寺」には「何等かの関連性があったものと考えられる」とも書いている。かなり根拠薄弱な気もするが、どうだろうか。


写真1:「御霊山」入口


写真2:石段を上って行くと、左手に大師堂がある。


写真3:正面に石祠を祀る小堂


写真4:堂内の石祠。「御霊権現」と刻されている。


写真5:「御霊権現」の裏手は一段高くなっていて、多少傾斜がある。古墳のような形状にも見えるが、実際には、舌状に伸びた台地の一部のようである。
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普門山 禅福寺

2021-08-07 23:21:33 | 寺院
普門山 禅福寺(ふもんさん ぜんぷくじ)。
場所:茨城県つくばみらい市筒戸1094。国道294号線「新守谷駅南」交差点から北東へ約500m、突き当りを左折(北へ)して直ぐ、信号機のある交差点を左折(北へ)、約200m進んだところで右折(南東へ)、道が二岐に分かれるが、右側を進み、約200mで本堂横の広い駐車場。正門はその先、約400m。
寺伝等によれば、承平元年(931年)、平将門を開山として創建、元は現・茨城県守谷市の相馬氏領内にあり、「真福寺」と称した。その後、いったん廃寺となるが、貞和元年(1345年)に夢窓国師により再建されたという。江戸時代に寺領13石8斗余の朱印状を受けていた。現在は臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊は十一面観世音菩薩。
当寺院には、妙見菩薩が将門に矢を授ける場面を描いた掛軸も所蔵されていて、将門が妙見菩薩を信仰するようになった経緯が伝わっている。即ち、伯父の平良兼から「子飼(小貝川)の渡し」で猛攻撃を受け、危機に陥るが、童子が現れて、持ち矢が尽きた将門に矢を拾ってくれたり、脱出路を教えてくれたりした。将門が童子の名を尋ねると、自らは妙見菩薩であり、十一面観音の垂迹であると答えたという。こうして、将門は妙見菩薩を信仰するとともに、当寺院創建に当たり、上総国にあった行基作と伝わる十一面観音像を請来したとされる。
当地、旧・筒戸村は小貝川の右岸(南岸)にあり、近世以前は下総国相馬郡に属した。その後、合併等により茨城県北相馬郡小絹村、同筑波郡谷和原村を経て、現在のつくばみらい市の一部になっている。当寺院の現在の境内は、戦国時代の永禄2年(1559年)に相馬氏一族の筒戸氏によって築かれた「筒戸城」二の丸跡とされる(なお、筒戸城は天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で落城し、廃城となったという。)。ということで、将門による開山であるとか、将門の妙見信仰とかというのは、将門の後裔を称した相馬氏由来であろうと思われる。
なお、当寺院から東の低地にいったん下りた先の微高地が「御出子(おんでし)」という地名で、「御出子城」という中世城郭があったともいわれている。この変わった地名は、将門が当地の女性に産ませた子を平良文(将門の叔父で、将門に好意的だったとされている。千葉氏の祖)が見て、立派な風采をしていたため「御出子」と呼んだ、ということに因むという伝説がある。そこに「妙見八幡神社」があり、良文が創建したと伝承されているとのこと(ただし、「谷和原の歴史 通史編」では、天正2年(1574年)の創建としている。)。


写真1:「禅福寺」境内入口


写真2:同上、山門


写真3:同上、大師堂


写真4:同上、本堂前の塚。これを「将門塚」といって将門所縁の墓所とする説もある。


写真5:同上、本堂前にある「平新王将門公之霊」供養碑


写真6:同上、本堂


写真7:「妙見八幡神社」(場所:茨城県つくばみらい市筒戸3182)鳥居と社号標。向かって左手奥に三春桜。枝を長く伸ばしており、花の時期は美しいとのこと。


写真8:同上、鳥居の正面奥は、何故か仏堂(安置されているのは石造の地蔵菩薩と思われる。)。


写真9:同上、社殿。鳥居を潜って、左手にある(社殿は北西向き)。現在の主祭神は天御中主命。
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