神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

御船神社(茨城県行方市)

2022-12-31 23:34:13 | 神社
御船神社(みふねじんじゃ)。通称:おみふね様。
場所:茨城県行方市蔵川495-2。茨城県道185号線(繁昌潮来線)沿いの「行方警察署麻生東派出所」(向かい側に「麻生蔵川簡易郵便局」がある。)から北西へ約500mの押ボタン式信号のところを左折(南西へ)、約270mで左折(東へ)、直ぐ。狭いが、駐車スペースあり。ただし、県道から先は自動車1台分の幅の上り坂で、結構怖い。あるいは、派出所の南、約100mの信号のある交差点から西へ約300m進んで、右折(北へ)すると「麻生東小学校」正門があるので、その手前辺りで駐車させていただき、校門の左手の未舗装路を北へ約300m進む方が安全かもしれない(なお、この未舗装路も自動車通行は可能。)。
社伝によれば、景行天皇28年、日本武尊が東国を平定中に船で当地に上陸し、 ここから騎乗して征旅を進めた。 大同2年(807年)、村人が船の接岸地に石祠を建てて聖地として永く保存すると共に、栗毛の駒を得られたところに駒形神社を祀り、騎馬群の勢揃いした場所に日本武尊を祀る神殿を設けて、船に因み「御船神社」と名付けた。なお、この船は岩と化して、北浦の水中に今もあるという。明治14年、村社に列格。祭神は日本武尊。
伝承によれば、日本武尊の乗ってきた船が化石化した場所の近くに「御井戸(おえど)」という聖地があった。それは、日本武尊が船から降り、静かな水面に顔を写して、髪を梳った場所と言い伝えられ、周囲を茅や芦に囲まれた広さ1坪・深さ2m程の溜池だった。近くに直径2m程の榛(ハシバミ)の木があり、その根元に石祠が東面して建てられていた。しかし、近代の圃場整備で「御井戸」は無くなり、石祠は当神社境内に遷された。「駒形神社」は、元は現・真言宗豊山派「蔵川山 宝泉寺」(行方市蔵川438)の右手寄りの高台近くにあった小祠で、土器の馬2頭が祀られていた。その前を農耕馬が通ると、馬が驚き騒ぐので、当神社の境内社として遷した(かつては「宝泉寺」から当神社に至る小径があったが、今は絶えているという。)。日本武尊が乗った馬が栗毛だったので、当地では栗毛の馬は飼わなかった。そして、「駒形神社」に、藁つとに飼料を入れて捧げると、腫物が治るという御利益があった。これは、馬が腫物(クサ)を食べてくれるという意味だったらしい。現在、「駒形神社」のほか、境内社として「姫宮神社(祭神:大橘比売)」、「稲荷神社」がある。因みに、当神社の西側には古墳数基があり、鳥居付近からも土器・刀片・勾玉などが出土したとされるので、往古から祭祀の地であったかもしれない。
さて、当神社の特殊神事として「ナーバ(苗束)流し」(毎年5月24日)がある。神田の田植えの際、麦藁で大きな男根と女陰を作り、笹竹を2本立てて注連縄を張ったところに吊り下げる。それが風で揺れると、麦藁の男根と女陰が離合するので、これを生殖の様に見立てて、五穀豊穣・子孫繁栄を願うものとされる。伝承では、当神社の御神体は舟型の黒い石と白い石剣であるとのことで、これが「ナーバ流し」と関係があるかもしれないという。


「神社探訪・狛犬見聞録」HPより(御船神社):「ナーバ流し」の画像もあり。


写真1:「御船神社」参道、社号標


写真2:鳥居


写真3:拝殿


写真4:本殿。覆いが掛けられ、外から見えない。


写真5:境内社


写真6:石祠など
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雷神社(茨城県行方市)

2022-12-24 23:34:41 | 神社
雷神社(らいじんじゃ)。
場所:茨城県行方市岡572。茨城県道185号線(繁昌潮来線)と同186号線(荒井行方線)の交差点(コンビニ「セブンイレブン行方根小屋店」がある。)から、185号線を北西へ約750mのところを左折、約40mで左折(南へ)、更に40m進む。駐車スペース有り。なお、県道沿いに「行方市消防団第2分団第6部」車庫があり、その横の道路が「寿福寺」境内への入口であるが、道路が狭いので、回り道した方が安全と思われる。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「田の里の南に相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里がある。古老が言うには、倭武天皇(日本武尊)が相鹿の丘前の宮に留まられたとき、食事を作る建物を浜辺に建てて、小舟を繋いで橋として行在所に通った。「大炊(おほい)」(天皇の食事を作る)の意義から「大生」の村と名付けた。また、皇后の大橘比売命が大和から来て、当地で逢ったことから「安布賀(あふか)」の邑というようになった。」(現代語訳)という記述がある。「田の里」というのは古代の行方郡道田郷で現・行方市小牧周辺とみられ、「相鹿」は古代の行方郡逢鹿郷で現・行方市岡周辺、「大生」は古代の行方郡大生郷で現・茨城県潮来市大生周辺と考えられる。そして、現・行方市岡の「寿福寺」と同じ境内に、「雷神社」と「丘前宮道鏡大明神(おかさきのみやどうきょうだいみょうじん)」がある。
「雷神社」の社伝によれば、日本武尊が東征の折、当地に着いて大炊の時に、炊事舎の傍らの椿(ツバキ)の樹に大きな雷が落ちた。詔があって、別雷命を祭神として社殿を建立したとされる。明治14年、村社に列格。雷神=田に雨をもたらす神として、特に農家の信仰が篤いとのこと。また、「丘前宮」は、日本武尊が当地を去るにあたり、石剣を遺した。これを神宝として「雷神社」の摂社として建立された。享保2年(1717年)に弓削道鏡(奈良時代の僧侶。孝謙天皇の寵愛を受けた。)を合わせ祀り、「丘前宮道鏡大明神」と称したという。
蛇足:上記「常陸風土記」の記述には不思議なところがある。先ず、当地と大生はかなり離れている(直線距離で約4km)のに、食事を運ぶために通ったということ。それは、おそらく、この逸話が単に地名の由来をこじつけたものということだろう。なお、食事は日本武尊のために作ったのではなく、日本武尊が北浦を渡って対岸の「沼尾神社」(常陸国一宮「鹿島神宮」の摂社、2017年10月21日記事)へ捧げるために運んだと解釈するべきという説がある。しかし、小舟を繋いで北浦を渡るというのは無理があるように思う。では、この舟橋はどこに掛けられていたのかということも不思議ではある。岡と大生の間にある「雁通川」だろうか。次に、日本武尊の妃といえば、普通は弟橘媛であるが、大橘比売と同一人物かどうか。「大」は年長を意味し、弟橘媛の姉を指す、という解釈もあるが、「后」というのに合わないし、義姉と逢うことが地名の由来にもなるような重大事というのは理解しにくい。同一人物とするなら、「日本書紀」・「古事記」では上総国に上陸する際の海難で既に亡くなっているはずで、話が合わなくなる。まあ、史実とは別のことなので、謎のままでもよいのかもしれないが・・・。

相賀山 海岸院 寿福寺(おうがさん かいがんいん じゅふくじ)。
寺伝によれば、神亀3年(726年)に行基が薬師仏を祀ったのが始まり。山号の「相賀山」というのが、古代の「逢鹿郷」(中世「相賀郷」)の遺称という。院号の「海岸院」は、開基の僧・海岸の名を取ったものである。神護景雲4年(770年)に道鏡は「下野薬師寺」(現・栃木県下野市)別当に左遷されるが、眼病を病み、当寺院の薬師如来の御利益を聞いて籠堂で100日間の修行を行った。その結願日に病気が快癒した道鏡は当地を去るが、薬師如来の霊験と道鏡の徳に感じた村人が道鏡大明神を祀ったという。その後、応永元年(1394年)に再興されるが、この頃には天台宗寺院となっていたらしい。本尊の木造薬師如来座像(松材の寄木造り、像高1m40cm)には、室町時代の応永29年(1422年)銘の胎内墨書があった。特に眼病平癒に御利益があり、多くの祈願者が「め」と書いた布巾を本堂正面の格子に結び付けたという。しかし、この薬師如来像は、平成12年の火災のため、享保2年(1717年)建立という本堂とともに焼失してしまった。現在の本堂は、その後の再建となる。


写真1:「寿福寺」入口


写真2:同上、本堂


写真3:「雷神社」鳥居、拝殿


写真4:同上、本殿


写真5:「日本武尊 大橘比売命 史蹟相鹿丘前宮跡」石碑


写真6:「丘前宮道鏡大明神」


写真7:同上、内部。木製の男根像が置かれている。子孫繁栄・五穀豊穣を願ったものだろうか。神宝の「石剣」というのも、元は縄文時代後期の磨製石器「石棒」で、同様の意味があったのかもしれない。
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香取神社(茨城県行方市四鹿)(常陸国式外社・その14の2)

2022-12-17 23:31:39 | 神社
香取神社(かとりじんじゃ)。
場所:茨城県行方市四鹿661。茨城県道50号線(水戸神栖線)と同2号線(水戸鉾田佐原線)の「一丁窪北」交差点から、県道2号線を北東に約1.3km進み、丁字路交差点を左折(北西へ)、約1.6km。駐車場なし。
社伝によれば、白雉元年(650年)(「茨城縣神社誌」では神護景雲元年(767年))、下総国一宮「香取神宮」から勧請して創建という。天長元年(824年)再建、その後も再建・修繕を重ね、最近では平成9年に本殿修復等が行われた。旧社格は村社(明治7年)。祭神は経津主命。
「常陸国風土記」行方郡の条に「男高(おだか)の里)」に関する記述があり、現・行方市小高が遺称地とされている。また、「和名類聚抄」(平安時代中期)に記載された常陸国行方郡小高郷に当たるが、小高郷は現・行方市小高・南・橋門・井貝・島並・四鹿を含む地域であるとみられている。「常陸国風土記」の「男高里」の記述の最後に、「栗家池がある。栗(栗の木、または栗の実)が大きかったので、池の名前にした。北に香取の御子の社がある。」(現代語訳)とあり、この神社を、現・行方市小高の「側鷹神社」(前項)のこととする説と、当神社のこととする説がある。「常陸国風土記」原文の「北」というのが「男高里」中心部からみて北なのか、「栗家池」の北なのか、どちらとも読めるようだが、いずれにせよ「栗家池」は現存せず、場所の特定ができないので、手掛かりとはなりにくい。当神社の位置は、古代の小高郷の中ではかなり北東側になる。いろいろな解説書・訳注等を見ても、「側鷹神社」か当神社のどちらかだろう、としているのが殆どで、いずれとも決めかねるようである。なお、境内の説明板(平成11年、麻生町教育委員会)には、「常陸国風土記に「北に香取の御子の社有り」とあるのは、この神社であると地元では伝えられている。」と記されている。
蛇足:古くは、当神社の社殿は南向きで、南に馬場があった。慶安2年(1649年)、当神社の所有をめぐって小高村と四鹿村で争いが起こり、江戸幕府の寺社奉行の裁定により四鹿村の勝訴となった。それ以来、社殿、鳥居、馬場が東向きに遷された、とのこと。事情がよくわからないが、小高は当地の西に当たるので、そっぽを向いたということなのだろうか。


写真1:「香取神社」一の鳥居と社号標


写真2:二の鳥居


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:境内社「大鷲神社」
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側鷹神社(茨城県行方市)(常陸国式外社・その14の1)

2022-12-10 23:34:08 | 神社
側鷹神社(そばたかじんじゃ)。通称:明神様。
場所:茨城県行方市小高406。国道355号線と茨城県道184号線(島並鉾田線)の「南坂下」交差点から、県道を北東へ約1.2km。駐車場なし。
社伝によれば、神代、経津主大神が東征の折、当地に高皇産霊尊を祀り、石槌を捧げて戦勝を祈願した。これを創祀とし、石槌剣が神宝となっている。神社としては、大同2年(807年)創立とする。そして、下総国一宮「香取神宮」の摂社であるともされる(因みに、現・千葉県香取市に「香取神宮」の第一の摂社として「側高神社」がある(2014年3月8日記事))。
さて、「常陸国風土記」行方郡の条に、「行方郡家から南に七里のところに、男高(おだか)の里がある。...栗家池の北に「香取の神子の社」(「香取神宮」の分祀の神社)がある。」(現代語訳)という記述がある。「男高」は現・行方市小高が遺称地で、「和名類聚抄」に記載のある古代行方郡小高郷に当たるとみられるが、「常陸国風土記」の男高里にある「香取神子社」というのが当神社であるとする。当神社の南、約5丁(=545m)のところ(現・曹洞宗「皇徳寺」付近か)に「車地池(くるまぢいけ)」という池があって、これが「栗家池」が訛ったものではないかというが、その池は現存していないようである。「新編常陸国誌」(中山信名ほか編、明治32年)では「小高村側高明神 香取の摂社にして、風土記に小高香取神子の社」とし、「香取新誌」(清宮秀堅著、明治12年)も「この側高も香取の神子なり」と考証しているという。古来から小高郷(現・行方市小高、南、井貝、橋門、島並、四鹿)の総鎮守で「小高郷社」と称された。慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国秋田城に移封された後、新たに新庄氏が麻生藩主となると、当神社と「産土八幡宮」、「大生神社」(2017年12月9日記事)を合わせて領内三社と称し、篤く崇敬したという。明治6年、村社に列した。現在の主祭神は高皇産霊尊で、ほかに経津主命、武甕槌命、倉稲魂命、天照皇大神、猿田彦命、彦火火出見命、伊弉諾尊、菅原道真公の8柱が合祀されている。


茨城県神社庁のHPから(側鷹神社)


写真1:「側鷹神社」鳥居と社号標。境内は県道に沿って細長くなっていて、奥行きがある。


写真2:拝殿。参拝時、ちょうど境内の大きな木の伐採が行われており、邪魔にならないように急いで退散した。このため、写真が少なめ。


写真3:本殿


写真4:石碑(由緒碑と思われる。)
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橋門の阿弥陀様

2022-12-03 23:35:29 | 寺院
橋門の阿弥陀様(はしかどのあみださま)。
場所:茨城県行方市小高。国道355号線「南坂下」交差点から北西へ約1.1km(国道沿い)。駐車場なし。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「郡家より南に7里(=約3.7km)のところに、男高の里がある。昔、この地に佐伯(土着の民)の小高という者が住んでいたことに因んで名付けられた。・・・南には鯨岡がある。昔、鯨が腹這って来て、伏せた場所である。」(現代語訳)という記述がある。「常陸国風土記」(養老5年(721年)成立)より昔(原文は「上古之時」)というのだから、「鯨岡」というのは古墳時代の古墳、特に前方後円墳が、鯨が陸に上がった形に見えたのだろうと思われる。そして、その場所が「橋門の阿弥陀様」という小堂のある付近に比定されている。ここは、「橋門の・・・」となっているが、実際の場所は行方市小高で、かつては霞ヶ浦の岸辺だったと思われる(行方市橋門は国道の西側で、霞ヶ浦の干拓地ではないだろうか。)。小高は「男高」の遺称地で、「和名類聚抄」に記載のある「小高郷」に当たり、少なくとも平安時代中期頃には現・行方市小高だけではなく、現・行方市南・井貝・橋門・島並・四鹿を含む地域だったらしい。「橋門の阿弥陀様」がある小丘も古墳の一部だったらしく、県道(国道355号線の前身である県道石岡潮来線と思われる。)拡張工事の際に人骨の入った壺が発見され、民家の井戸掘りの際に石板が出土しているという。また、当地の北東側に「公事塚古墳群(くじつかこふんぐん)」という前方後円墳1基・円墳2基の古墳群があったが、私企業の砂利採取場となり、昭和63年に緊急の発掘調査が行われたものの、既に削平・変形が進んでおり、現在では湮滅していて見る影もない。残念なことである。なお、「常陸国風土記」の解釈上の位置的な問題から、「鯨岡」を現・行方市島並の丘陵地に比定する説もあるようだ。
さて、「橋門の阿弥陀様」は、かつて当地に伝染病の麻疹(はしか)が大流行して死者も多かったとき、1人の行者が現れ、病魔退散の祈祷を行った。その際に阿弥陀如来を板碑に浮き彫りしたものを本尊としたとされ、その板碑が今も堂の中にある(ただし、肉眼では浮き彫りは判別できない。)。祈祷後、麻疹の流行が下火になったため、参詣する者が絶えなかったという。麻疹ばかりでなく、皮膚病にも御利益があり、特にイボ取りの仏様として信仰されていて、祈願する者は、ここにある杓文字(しゃもじ)を借り、平癒したら、御礼参りとして新しい杓文字を奉納することになっているという。


写真1:「橋門の阿弥陀様」。南西側(国道の向かい側)から見る。


写真2:西側から見る。


写真3:東側から見る。


写真4:南東側から見る。


写真5:阿弥陀堂


写真6:堂の内部。板碑と杓文字が見える。
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