神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

石龍神社(秋田県秋田市)

2015-08-29 23:49:48 | 神社
石龍神社(せきりゅうじんじゃ)。
場所:秋田県秋田市寺内神屋敷11-3。寺内小学校の西側、旧国道7号線沿い。駐車場無し。
久保田(秋田)藩士・那珂惣助通逹は、藩領内の出羽6郡(秋田・山本・河辺・仙北・平鹿・雄勝。他に飛び地の領地として下野国に2郡があった。)の治水工事を任され功績があったが、それでも領内に出水水難が絶えないため、上洛の途中、瀬田の龍神に祈願すること4回に及んだ。享保16年(1731年)、湯沢で「石龍」(龍の形をした石?)を得て、この地に祀ったという。近世には「龍神堂」と称した。「瀬田の龍神」というのは、現・滋賀県大津市瀬田に鎮座する「龍王宮秀郷社(龍王神社)」で、平安時代の豪傑・藤原秀郷(俵藤太)が「瀬田の唐橋」下に住む龍神に請われて大ムカデを退治したという伝説に因む神社で、龍神(乙姫)と藤原秀郷が祀られている。本来、瀬田川と唐橋を守る龍神を祀ったもので、元は唐橋自体が社であったとされ、唐橋の架け替え工事の際に現在地に移されたという。
さて、それだけだと、直接、古代とは関係ないのだが、当神社の祠は古墳の石棺を利用したものとの伝承がある。下の写真4のように、社殿と塚が一体化しているのだが、遺跡としては「径6m程高さ2mの円墳状の高まり」とされていて、必ずしも古墳と認定されているわけではない。また、石棺にしては小さすぎる、との評もあるようだ。
ただし、当神社が鎮座するのは「神屋敷」という地名であり、その中に「勅使館」、「長者平」などという場所もある。「神屋敷」という地名は、あるとき、21夜に亘って妙なる音楽が鳴り響いたというところから付けられたとされる。また、「勅使館」は聖武天皇の勅使・大野東人が当地に館を立て、統治を行ったことにより、「長者平」は「朝日長者」・「夕日長者」の屋敷があったところから、それぞれその名があるという。これらは伝説に過ぎないが、土塁(造営時期不明)が発見されていたりする。「秋田城跡」・「古四王神社」の直ぐ近くであり、あるいは国司等の屋敷や墳墓があった場所かもしれない。


秋田市のHPから(秋田県遺跡カード:根笹山遺跡)PDF


写真1:「石龍神社」の標柱。「根笹山古墳」とも。


写真2:「石龍神社」の鳥居、社殿


写真3:社殿(拝殿)


写真4:本殿は、塚と一体化している。


写真5:社殿内部


写真6:社殿の北側、旧国道から狭い道路を登っていくと、通称「勅使館」という場所。土塁が発見されたというが、現状は雑木林で、よくわからない。
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高清水霊泉

2015-08-22 23:40:05 | 史跡・文化財
高清水霊泉(たかしみずれいせん)。
場所:秋田県秋田市寺内大小路。国道7号線(臨海バイパス)「港大橋前」交差点から北東に進み、突き当りを左折(北西へ)して約600m進んで「古四王神社」前の狭い道路(通称「桜小路」)を西へ約130m進むと案内標柱と石碑があり、そこから未舗装路を谷に向って(南に)下りる。駐車場なし。
伝承によれば、斉明天皇4年(658年)、征夷大将軍・阿倍比羅夫が当地に下向した際、自らの祖である大彦命を祀った(前項「古四王神社」参照)ところ、霊泉が湧き出したという。現在も滾々と湧き出しており、衛生上の問題から飲用不可とされているものの、(公財)秋田県総合保健事業団の調査によれば、大腸菌等が検出されず、良い水質であったという。
なお、「高清水霊泉入口」の向かい側(北側)に「古四王神社」の別当寺「亀甲山 四天王寺 東門院」があったという。「東門院」は、秋田城の付属寺院とされる「四天王寺」の後身といわれ、江戸時代には領主・佐竹氏の祈願所「宝鏡寺」の隠居寺とされたが、明治時代に廃寺となった。
因みに、「桜小路」は旧「羽州街道」といわれているらしい。「古四王神社」前の道路は旧国道7号線であるが、どうやら、「秋田城跡」までの旧国道7号線が古代の駅路(東山道)の後身でもあるようだ。古代東山道は「秋田城」(=出羽国府)が終着駅であったようで、「延喜式」にも「秋田」という駅家の記載がある。また、東山道には「水駅」があり、最上川・雄物川の水運も利用したようだ。「秋田城跡」のある高清水岡の西側を通る現在の国道7号線(通称「臨海バイパス」)は、元は雄物川の河道であり、「桜小路」を下りていったところに「船着場跡」というところがある。また、その近くに、江戸時代の紀行家・菅江真澄の墓がある。菅江真澄は、「秋田城跡」が高清水岡にあることを予言したほか、古代の出羽国の史跡について鋭い考察を行っており、参考になる。


写真1:「高清水霊泉入口」の案内標柱と「高清水」の石碑


写真2:「高清水霊泉」


写真3:「旭さし木」。「高清水霊泉」に向う途中にある。樹齢約1200年といわれるケヤキ(欅)で、秋田市内で最も古い樹木とされる(秋田市指定天然記念物)。樹高約20m、目通り約7m。当地に「旭(朝日)」という長者がおり、その屋敷の目印になっていたため、その名があるという。なお、この木の根元からも泉が湧いており、眼病にきく「目洗水」または「亀の尾水」とも呼ばれていたという。


写真4:小川の流れに従い、下りていったところが「船着場跡」らしい。なお、写真左下に見えるのが「伽羅橋(きゃらはし)」(または「香炉木橋(こうろぎばし)」)。昔、大阪から来た船人が誤って煙草の火を落としたところ、良い香りがした。橋に使われていた木材は貴重な香木であり、船人はその香木を大阪に送って大金持ちになったという伝説がある。


写真5:「菅江真澄の墓」。「伽羅橋」の向かい側の墓地内。
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古四王神社(秋田県秋田市)(出羽国式外社・その1)

2015-08-15 23:10:48 | 神社
古四王神社(こしおうじんじゃ)。
場所:秋田県秋田市寺内児桜1-5-55。国道7号線(臨海バイパス)「港大橋前」交差点から北東に進み、突き当りを左折(北西へ)、約600m。駐車場有り。
社伝によれば、崇神天皇の御世、北陸に派遣された四道将軍の1人・大彦命が、北門の鎮護のために武甕槌神を「齶田浦神(あぎたのうらのかみ)」として祀った。崇神天皇は第10代天皇とされているが、実在の可能性がある最初の天皇と考えられており、実在したとすれば3~4世紀頃といわれている。ただし、大彦命が当地にまで来たか、といえば、流石に疑わしい。次いで、斉明天皇4年(658年)、征夷大将軍・阿倍比羅夫が当地に下向した際、自らの祖である大彦命を合祀し、「越王神社」として創建したという。「越王」というのは、北陸地方はかつて「越国」と呼ばれ、その支配者となった大彦命の別名とされる。当神社のほか、古四王・越王・胡四王・腰王などの名の神社が東北地方に多く存在する。「日本書紀」には、阿倍比羅夫が180隻の船団を率いて日本海を北上したところ、齶田の蝦夷の長・恩荷が「齶田浦神」にかけて服従を誓ったという記事がある。「齶田浦神」が蝦夷の神なのかヤマトの神なのか不明だが、これを大彦命が祀った武甕槌神とすることで、ヤマト政権の支配を正当化したものだろう。ただ、当神社が「齶田浦神」と同一であるかは確証がない。とはいえ、「齶田」というのが現在の「秋田(あきた)」という地名の初見とされ、「秋田城」の鎮護社と考えられた。というのも、「日本後紀」(逸文。「類聚国史」による)にある「天長の大地震」(天長7年(830年))の記事において、「秋田城」の鎮護寺院とみられる「四天王寺」と並んで「四王堂」という名が出てくる。四天王といえば持国天・増長天・広目天・多聞天という4人の仏法の守護神であり、「四王堂」は、本来はこの四天王を祀ったものとも思われるが、これが「越王」と習合したものとみられるからであり、中世以降は「古四王大権現」として当地の領主に崇敬されるようになったと考えられる。
更に、「日本三代実録」貞観7年(865年)条に「出羽国高泉神に従五位下を授与する」との記事があり、この「高泉神(たかしみずのかみ)」が当神社のことであるというのが通説。当神社は式内社ではないが、「齶田浦神」または「高泉神」であれば国史現在社ということになる。こうした由緒などから、明治15年には秋田県で唯一の国幣小社に指定され、県内で最も社格が高い神社となった。


秋田県神社庁のHPから(古四王神社)

玄松子さんのHPから(古四王神社)


写真1:「古四王神社」正面。鳥居と社号標


写真2:境内社の「田村神社」。延暦21年(802年)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐に来た際、当神社に戦勝祈願したという伝承がある。


写真3:「古四王神社」拝殿


写真4:同上、本殿
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続・秋田城跡(鵜ノ木地区)(出羽国分寺 ・その1?)

2015-08-08 23:20:48 | 史跡・文化財
「秋田城」の外郭東門を出て、幅12mの大路を下ってゆくと、南側に建物群の跡と復元された古代水洗式厠舎・古代沼などがある。城の外になるが、この周辺から、「秋田城」の政庁跡に匹敵するような重要な発見があった。
まず、通称「天平の井戸」といわれる井戸跡で、ここから「天平六年」と書かれた木簡が出土した。「続日本紀」に、「天平5年(733年)、出羽柵を秋田村高清水岡に移設した」との記事があり、これを裏づけるものと評価されている。
次に、建物群であるが、「日本後紀」(逸文。「類聚国史」による)によれば、天長7年(830年)に大地震があり、城郭官舎や城の付属寺院とみられる「四天王寺」等が大きな被害を受けたことが記されているが、この「四天王寺」跡ではないかと推定されている。瓦葺でないこと、礎石建物でないこと、塔址が発見されないこと、寺域を画する施設がないこと等の点から、寺院跡ではないとする説も有力であるが、方位を揃えたり、左右対称に配置されたりしていること、「…寺…」銘の墨書土器が発見されたことなどから、「四天王寺」跡であろうと推定されているようだ。また、これらと隣接して古代の水洗式厠舎(トイレ)跡が発見され、復元されている。それ自体も貴重な発見であるが、より重要なことは、沈殿堆積物から豚を常食する人の寄生虫卵が発見されたことで、この厠舎は中国大陸からの来訪者が使ったものとみられている。出羽柵を秋田に移設したことに伴って出羽国府も同地に移したとする通説において、律令政府が治安維持に不安があるにも拘らず、当時辺境であった秋田に敢えて国府を移した理由として挙げられるのは、この中国大陸から来訪者(おそらく「渤海国」の使節等)を接遇するためということらしい。そこで、建物群の性格として「迎賓館」とする説もあるが、歴史的に見れば、寺院が高貴な身分の客の宿舎になるのはよくあることで、寺院兼迎賓館であってもおかしくはないとも考えられる。
残る謎は、この「(秋田)四天王寺」と「出羽国分寺」との関係である。国分寺は、聖武天皇が天平13年(741年)、各国に寺を建立する詔を出している。通説によれば、このとき既に出羽国府は秋田に移っていたから、国分寺も秋田に建立されたとみるのが普通だろう。出羽国府は現・山形県庄内地方から移動しなかったとする説もあるが、少なくとも奈良時代の国分寺跡は(現・山形県でも秋田県でも)未だ発見されていない。国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」であり、国分寺建立の詔が出る前に、「秋田城」の鎮護寺院として「(秋田)四天王寺」が建立されていたとすれば、これを国分寺の代替としたことは十分に考えられる。なお、先の「日本後紀」の記事では、地震で「四天王寺の丈六の仏像が倒れた」という記載があり、この丈六の仏像というのは、釈迦の身長が1丈6尺(=約4.85m)あったというところから仏像の基準サイズとされるもの。よって、本尊がどのような仏かは不明だが、奈良時代からのものであれば、釈迦如来像だったかもしれない。
因みに、京都国立博物館所蔵の大和古印の1つとして重要文化財に指定されている「四王寺印」は、「(秋田)四天王寺」の印として京都「聖護院」末の「積善院」に伝わっていたものである。江戸時代、「聖護院」が修験本山法頭とされた関係から、「古四王神社」別当の「亀甲山 四天王寺 東門院」から「積善院」に流出したものと考えられているとのこと。刻された四文字の印文から「四王寺印」と称されてきたが、よく見ると(下のHP参照)、「四」の字には足がついている。これは、「四」と「天」を合わせて簡略化したもので、この四文字で「四天王寺印」と読むのではないかという説も出てきている。


e國寶HPから(銅印)


写真1:「秋田城」外郭東門の外(東側)から。幅12mの大路があった(側溝から推定)とされている。一段下のところから東門まで約90m、高低差約5mを上る。


写真2:井戸跡。ここから「天平六年」と書かれた木簡が出土した。


写真3:建物跡


写真4:同上


写真5:同上。奥に東門が見える。


写真6:古代水洗式厠舎(復元)。掘立柱建物の中に3つの個室がある。


写真7:同上、裏側。流した汚物を一旦沈殿させて、上澄みだけを沼に流していたらしい。
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秋田城跡(出羽国府・その2)

2015-08-01 23:49:28 | 史跡・文化財
秋田城跡(あきたじょうあと)。「秋田城」は「あきたのき」ともいう。
場所:秋田県秋田市寺内大畑4-1(「秋田城跡出土品収蔵庫」の住所)。国道7号線(臨海バイパス)「港大橋前」交差点から北東に進み、突き当りを左折(北西へ)、約850m進んで「秋田城跡→」の案内板がでているところを右折(北東へ)、約300m。駐車場有り。
律令政府は、和銅元年(708年)、越後国を北に伸ばし出羽郡を創設し、それと前後して「出羽柵」という軍事拠点を設置した。和銅5年(712年)には出羽郡を出羽国に昇格させ、その翌年、陸奥国から置賜郡と最上郡を移管した。その当時の国府は「出羽柵」の所在地に置かれたとみられ、現・山形県の庄内地方とされることに異論は無いが、詳しい場所は不明である。天平5年(733年)、「出羽柵」は「秋田村高清水岡」(現・秋田県秋田市寺内)へ移設され(「続日本紀」)、天平宝字4年(760年)頃には「秋田城」と改称されたとされる(「丸部足人解」という古文書に「阿支太城」とある。)。「柵」と「城」の差は明確ではないが、最近では、軍事機能とともに、官衙=行政機能を有することが強調されるようになってきている。ただし、「出羽柵」が秋田に移されたとき、出羽国府も移転したのか、出羽郡(現・山形県庄内地方)に留まったのかについては議論が分かれている(いわゆる「出羽国府論」)。その詳細について記すと相当な分量になるので省くが、史料や「秋田城跡」の出土品などを素直にみれば、いったん国府も秋田に移転したとするのがよいように思われる。移転しなかったとする説は、当時未だ安定していなかった辺境の地である秋田に国府を移転したなど考え難いとすることを背景に、史料等について「移転した」との確実な証拠ではない、と指摘するもののようである。とにかく、現・山形県庄内地方からは、奈良時代の出羽国府とされる遺跡が発見されていないことが最も弱い点だろう。ここでは、通説的見解に従い「秋田城」の盛衰について記すと概ね次のとおりである。
「出羽柵」が秋田に移転し、「出羽柵」が「秋田城」に改められると、出羽国府も秋田に移転した。ただし、それまでの国府(出羽郡)から一気に100kmも北進し、周辺の蝦夷を十分に服従させていない状況であったことから、早くも宝亀6年(775年)には国府移転が検討される状況となった。宝亀11年(780年)には、国府を「河辺」に移転させることを前提に、「秋田城」を停廃することが議論された(「続日本紀」)。延暦23年(804年)には、ついに国府の「河辺」移転と「秋田城」の停止・(秋田)郡への移行が行われた(「日本後紀」)。そして、「日本三代実録」仁和3年(887年)の記事には、出羽国府は「出羽郡井口」にあり、延暦年中(782~806年)に国府移転があったことが記されている(この「井口」の国府が現・山形県酒田市の「城輪柵」であるということにほぼ異論はない。)。こうして「秋田城」は停止されたものの、その後も鎮秋田城国司として介(次官)が置かれ、天長7年(830年)の「天長の大地震」、元慶3年(878年)の「元慶の乱」などの被害報告の記事が史料にある。発掘調査でも、このような被害と復興の変遷が発見されており、8世紀第2四半期から始まり、10世紀後半まで、政庁は建替えられながら存在したと考えられている。ところが、史料の中では、中世に至るまで、官職名として「出羽城介」、施設名として「秋田城」が存続したとみられる記事がある(例:「吾妻鏡」文治6年(1190年)など)。鎌倉時代にも「秋田城介」の任官記事があり、これは「秋田城介」が、武家社会の中で1つの名誉職とされたことによるものといわれている。このように、10世紀後半以降の「秋田城」がどのようになっていたのか、というのも謎の1つであるとされる。


秋田市のHPから(秋田市教育委員会 秋田城跡調査事務所)


写真1:「史跡 秋田城祉」の石碑


写真2:「秋田城」の政庁ミニチュア


写真3:建物跡


写真4:外郭東門(復元)


写真5:同上、築地塀は古代の工法で復元されたものという。
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