爺の世間ばなし

思いつくままのお喋り

一口メモ

2009年09月29日 | ブログ

白内障手術後、自然の景色もテレビ画面も、きれいに見えて気分爽快だが、目立たなかった窓ガラスの汚れが気になるものの、掃除する日は年の瀬まで繰越。

子供の幸せを願いながらの命名、最近は凝った名前が多い、知人で電気屋さんのお嬢さんの名前が「あかりちゃん」、かわいらしく、分かりやすく、忘れない。

巨峰を手土産に栃尾市のTさん宅へ、帰りにいただいた名物の油揚げを、途中にMさん宅へ立ち寄りおすそ分け、お礼に自家栽培の巨峰を頂戴、孫に送る荷物の中へ一緒に。

我が家のワンちゃんと同種のヨーキーで名前がクロちゃん、女の子ながら、勇ましく吠えまくり、男の子と同じ片足を上げてのおしっこ、可愛いおてんば娘。

I市の奥座敷にあるM温泉で1人での民宿利用は初体験、6畳の和室にテレビ、小テーブルにお茶道具、ひかれた寝床の枕元に浴衣と洗面道具、廊下の所々に、ゴキブリホイホイとゴミ箱が、年寄りには多すぎる料理、湯につかりながら静かに心身の洗濯。


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或る日の診察室

2009年09月23日 | ブログ

今日まで、色々な分野の専門医の診察を受けている、名医か否かは別として印象深いお医者さんも何人か。

のどの痛みで、受信した内科医、受付係も看護婦も雇わず、診察室には大きな火鉢に炭火、机の上には、注射液、薬品などが雑然と積み重ねてある中から、ひっくり返しながら注射液を選ぶ、処方された内服薬も大丈夫かなと不安で飲む気にならず。

車のドアに指を挟んで外科へ、レントゲンで骨折と診断され指を固定、痛み止めと化膿止めをいただき、痛みも止まった段階で、医師が指をモミモミ、完治したと思いきや再度のレントゲンで完治していないと、またもや固定、素人でも不信感を、別の外科医へ駆け込み骨折なし。

発熱で「内科、小児科」と表示された医院に、受付係から「風邪ですか」と問われ、分かりませんと答える、小児科の先生らしく態度も言葉もやさしく丁寧だが、「お熱を測りましょう、お注射をしましょう」は、当時50代の爺には不似合いなお言葉。


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402号室

2009年09月17日 | ブログ

白内障という老人病の手術のため、左目と右目それぞれ4日間、延べ8日間を過ごした402号室、テレビ、冷蔵庫、洗面トイレ付きの個室で、入院診療計画書に沿って時間単位での点眼、内服、検温、血圧測定以外は、お食事とお昼寝。

病人用に献立された食事なので、量、味付け、カロリーも健康者にとっては物足りなく美味しくはないが、ありがたく頂戴、膳に添えてある献立表には食事に対するコメント欄も、家での食事と一緒、いつも異議なし。

点滴をしながら車いすに乗せられ始めて病人らしく、手術台で手足を縛られ、顔面は白布で目隠し、何をされているか定かでないが、繰り返し目を洗浄しながら吸引作業しているような感じ、何の痛みもなく、15分~20分程度で終了。

術後の視力回復で、使用中の近眼鏡、老眼鏡ともに使用できず、一日4回、3種類の点眼を施しながら安定視力になってから調整だそうで、半世紀にわたり体の一部だった眼鏡、自然に手を目に運んでしまう。


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野尻湖との縁

2009年09月11日 | ブログ

長野県信濃町に位置し周知の方も多い野尻湖、湖の形から別名が芙蓉湖とも呼ばれ、夏の観光シーズンは若者たちで賑わう湖、もう20年近く、ご無沙汰だが記憶に残る話題も多い。

最初の縁は、昭和29年の夏、仲間6人(男3女3)と湖畔でのキャンプ、予約したバンガローでの宿泊だが、当時、現地で用意されているのは共同の炊事場と簡易トイレ位、食材等は全て事前に準備したとは言え、夕食はカレー、朝食は味噌汁程度、不器用な爺の役割は先輩のH氏の指示に従い炊事用、キャンプファイヤー用の薪集めだったかと。

昭和49年夏、間もなく還暦を迎えるF夫妻の出会いの場に選んだ婚活の場、翌年3月「お彼岸のお中日」にはゴールイン、初めての仲人役を勤めることになったが、ちなみに当日は仏滅、この時期には珍しい猛吹雪、前途多難かと思いきや、3人の息子たちに恵まれ、人並みの夫婦喧嘩は耳にするも、仲良く頑張っているようで。


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借家住まい

2009年09月05日 | ブログ

小学校入学前の記憶を静かに思い出しながら頭の体操、5歳までに5か所の借家住まいだったとは聞いているが、E地とS地は、おぼろげながら覚えがある。

4歳~5歳時のE地は旧女学校の傍で学校敷地内にあった学生寮とは目と鼻の先にあり,寮から窓越しに、声をかけられ遊んでくれた当時の女学生も80歳代半ばになるかと、隣りが,お巡りさん、何か悪さをする度に「隣のお巡りさんに言いつける」と親からの決まり文句、子供心に、サーベルを携えたお巡りさんの姿を恐る恐る見ていたもの。

5歳時のS地は記憶も、やや確か、新築の2軒長屋の借家が3棟あり、右隣が、爺に初めての魚釣りを教えてくれた齋藤さん、左隣の松木さんには同い年のK君が、たまたま昭和50年に立ち寄った時、おんぼろになった長屋は健在。

転居しながらの借家住まいで育った爺、出身地を問われて、初めの頃は両親の出身地と経過説明をしたものだが、後には、親の出身地を答えるだけに。


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