幸喜幸齢 生きがい 日記!       

八十路の青春賦 人生の黄金期を自分らしく あるがままに生きる幸喜幸齢者 感謝と幸せの生きがい日記 頑爺/肇&K

母の追憶

2020年12月07日 | 江戸・山陽 西国街道56次歩き旅(京都・羅城門から九州・小倉へ)
12月7日(月) 3/16℃

母の追憶 
( 以下の話は子供たちやその家族への伝承にて、あえて忘備録として記載しておく 20.12/3)

 今回の江戸西国街道歩き旅で姫路宿を通るのを楽しみにしていたもう一つの理由がある。
それは亡き私の母親が過ごした街で、晩年もう一度訪れたいと言っていたのに私も仕事や生活に追われてとうとうその機会を失い、連れて来れずに深く後悔しているからだ。

 そこで事前に姫路市役所に連絡し、担当部署を紹介してもらい、母の過ごした大正時代の古い地図と資料を用意しておいてもらった。
 そして訪問し事前にメールでやりとりをしていた担当の方にお会いし資料の提供を受けたが、望んだ以上の調査をして頂き、また多くの資料も揃えておいていただき感激した。

と言うのも、祖父が所長をしていたと言う財閥系の紡績会社姫路製糸所は広大な敷地に旧国鉄の貨物引き込み線もあったとかでその場所の特定はできたが、それが現在どのようになっているのかは分からなかった?
 また母は女中さんが2人いたと言うその社宅で幼児期から小学校時代を過ごしたようで、通学したであろう近くの小学校も探索したが、何しろ大正時代で戦前の話でもあり、かつ姫路は戦争時に大空襲にあい、その後の都市開発で相当地図も変化しているようだった。

 しかし結論から言えば、その工場跡地は見つかり大きな住宅団地や商業施設となり、母の通学したであろう小学校はすでに廃校となっていたがモニュメントがあり、そこに大正6年創設との文字があり、祖父の紡績会社も大正6年の開業であり、大正9年生まれの母がここに通った事は間違いなさそうだと確信した。

 祖父母や母らが過ごした姫路の所在地とその様子をしっかりと目に焼き付け、その場で天を仰ぎ母に ここだよね? と確認するとともに、やっと来れたことにお詫びと感謝を持って報告をした。
諸々の想いが交錯し涙があふれた。

 その後一家は松本へ帰り、母は革靴に袴を履いて馬に乗り当時の松本高等女学校に通っていたそうだが、もう1人馬に乗って同じ学校に留学していた旧満州国の皇女(日本名 川島芳子)、かの男装の麗人として歴史的に有名な女性だが、その二人だけだったとか。
 
 父親の急死、戦争、敗戦、戦後の混乱期で母の人生は激変してしまったようだが、生前に私には全く過去の話はしなかったので聞いておきたかった。

(* 人生終盤に母の想い出を辿ることができたが、その古い当時の地図や背景、また用意してくれていた多くの資料から垣間見る当時の生活を後日、家族への伝承としてまとめたいが、生きていれば今年100歳になり、3歳と1歳になる二人の玄孫と会えたのになぁと涙する)


コメント
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