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武田砂鉄・こんなことも言えなくなった?そんなことは昔から言うべきではなかったのだ 

2022年03月10日 | 生活

「東京新聞」2022年3月7日 

 「最近は何を言ってもいろいろ言われちゃうから大変だよ」という言い方をよく聞く。その言い方は、「あちこちで物を言うのが不自由になってきた」と展開していくのだが、「なぜ、これまでは何も言われなかったのか」という観点がすっぽり抜けていたりする。これまでもダメだったのかもしれないのだ。

 本人の性のあり方について本人の同意なく第三者に暴露してしまうことを「アウティング」と呼ぶ。自死につながったケースさえあるのだが、こうした事柄についても、「それくらいのことで」との声がまだまだ向かう。

 何でもかんでもセクハラになっちゃうんだからたまったもんじゃないよ、と吐き捨てる人は、どういうわけか、セクハラにならない限界点を知ろうとする。「髪切った?」はいいのかな、「このあと、彼氏とデート?」はいけないのかな、といった具合に。「相手がどういう気持ちになるか考えてみましょう」と、小学校で習ったようなメッセージを改めて送りたくなる。

 これまで自由に使えていた言葉が制限されると、自分たちが不自由になったと感じる人がいる。ジェンダー平等が繰り返し叫ばれる社会の中で、とりわけ男性はそう感じる機会が多いはず。その時、真っ先に、「これは、これまでもダメだったやつではないか」と考えなければいけない。そう考えないと、なぜかギリギリを目指してしまう。ギリギリを目指して、これもダメですと言われると、不自由な世の中だと世の中のせいにする。

 石原慎太郎は差別発言を繰り返した。女性に、外国人に、障害者に対して、とにかく繰り返した。なぜ繰り返したかといえば、それを、日本社会が、そしてメディアが、彼のキャラクターとして許容してしまったからだ。彼が亡くなると、彼の差別発言について聞かれた幻冬舎・見城徹社長が「世間的な調整や気遣い、忖度そんたくのできない人なんです」(2022年2月9日・朝日新聞デジタル)と述べていた。

 ほら、こんなことを言うのだ。なかなか「世間」とは合わせられない人だし、「忖度」が苦手だったと。ここには、それを言われた人がどう感じたかという視点がまったくない。棘とげとして体に刺さったままの人がたくさんいる。その人にとっては、言われた人が亡くなろうが、棘がとれるわけではない。むしろ、偉大な作家・政治家だったと大ざっぱに肯定されれば、棘は改めて体に刺さる。

 昔からダメだったものが、今、ようやくダメだと認定されるようになってきたという考え方をしたい。「こんなことも言えなくなっちゃったのか」があちこちから聞こえる。そんなことは、昔から言うべきではなかったのだ。ギリギリを目指す人には冷淡に接していい。「それ、ダメですよ」と言う。モゴモゴ文句を言うかもしれないが、だってダメなのだ。勉強してから出直してこい。年長者だろうが、この対応で構わない。


「その戦争、だめですよ」
ようやく「戦争」が「犯罪」として認められてきた。
「核兵器」を持つことが「犯罪」として認められるよう頑張っている。
東京大空襲の日に、「戦争」の不条理を考える。