目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

台東区一万歩コース 約7.0km

2018-02-26 16:55:45 | ウォーキング
すこやか歩こう会には「普段歩かないところを歩きたい」という欲求が常にあり、企画としてはそれに応えたいという欲求があります。企画員の知っている場所だけでは限界があり、どのように企画を広げてゆくかというカギは「現地の人に聞く」ということに尽きます。ネットで調べて現地の人が紹介しているルートをたどるのが一番です。
目黒区では「めぐろ健康ウォーキングマップ」を作成し無料で配布していましたが、財務状況の悪化に伴い改版が行われず、在庫もなくなり新しいものを手に入れることはできません。ネットには公開されていますのでちょっと古いですがそちらをご利用ください。
東京都北区健康福祉部健康推進課が作成した「北区ウォーキングコースガイド」をお手本に、当時目黒区教育委員会事務局スポーツ振興課が中心となり、目黒ウォーキング協会が協力をして「めぐろ健康ウォーキングマップ」を作成しました。その後北区、目黒区の取り組みを参考に「台東区ウォーキングマップ」が作成されたと記憶しています。あらためて調べてみると北区も台東区も改版が行われて、東京都福祉保健局の「トーキョーウォーキングマップ」と連携しています。区長直轄組織となったスポーツ振興課は後れを取っているので、挽回しなくてはなりませんね。

前置きが長くなりましたが、今回は台東区を歩きます。このコースは二回目の実施なのですが、私自身は前回歩くことが出来なかったのでとても楽しみです。企画時点では失念していたのですが東京マラソン開催日で、江戸通りや蔵前橋には交通規制がかかっていました。幸い我々が歩く時間には規制も解除され、問題なく歩くことが出来ました。



写真:下谷神社
中目黒GTに集合し、日比谷線で上野駅へ。男性用トイレが使用禁止になっていたのは、東京マラソンの影響でしょうか?下谷神社にお参り後、ストレッチをしてウォーキングスタートです。神社についてWikipediaから引用します。
概要
古くは下谷稲荷社、下谷稲荷明神社と呼ばれた都内最古の稲荷神社。東京メトロ銀座線の稲荷町駅に名を残す旧町名の稲荷町は、この神社の旧称が由来の町名である。例大祭で近隣町内を渡御する本社神輿は台輪幅4尺1寸の千貫神輿といわれ、大きな威容を誇る。
社殿の天井画は横山大観の作。また、1798年に初代・三笑亭可楽によって当社境内で初めて寄席が開かれた。このため、本神社には「寄席発祥の地」の石碑がある。 夏になるとドライミストで神社に集まる人々が涼しんでいる。 「水」と「芸能」のパワースポットと云われる。 宮司の阿部明徳は、東日本大震災で被災した神社等の仮社殿、鳥居、神輿、縁日などの復旧支援活動を、他の神社関係者と共に行っている。
歴史
当初は上野公園に鎮座していた。730年(天平2年)、峡田の稲置らが建立したとも、行基が伏見稲荷大社を勧請したとも伝えられる。939年(天慶2年)、平将門による天慶の乱追討祈願のため、藤原秀郷が社殿を新造したという。寛永年間、境内が寛永寺山内となるにあたり、1627年(寛永4年)別当正法院と共に下谷屏風坂下に移転したが、126坪余と手狭だったため、1680年(延宝8年)下谷広徳寺前にあった谷中天眼寺先住少林庵抱地525坪余と土地を交換した。1703年(元禄16年)旧地も正法院抱地になった。
1868年(明治元年)神仏分離令により正法院を分離した。翌年周囲の町名が当社に因み下谷稲荷町となる。1872年(明治5年)下谷神社と改称、翌年下谷地域の郷社と定められた。関東大震災で社殿を焼失、1928年(昭和3年)現在地に移転。1934年(昭和9年)現在の社殿が完成した。東京大空襲では被害を受けなかった。



写真:東上野二丁目付近

写真:佐竹商店街
古い感じの建物が残っているのは神社同様東京大空襲の被害を受けなかったのでしょうか。佐竹商店街のページから一部だけ引用します。
秋田久保田藩主、佐竹右京太夫の江戸屋敷には、上屋敷中屋敷・下屋敷のほか、お囲地などがありました。このうち、上屋敷は当初内神田佐竹殿前(現千代田区神田)にあったそうで、そこには鎌倉の佐竹屋敷から移築された金彫絢爛たる「日暮らしの門」があったといいます。しかし天和二年(1682年)十二月二十八日の八百屋お七の放火による江戸の大火で焼失してしまいました。こんなこともあってか、翌天和三年(1683年)には現在の台東区の地に移転したのであります。
秋田と関係があったのですねぇ。


写真:斎藤茂吉歌碑

写真:三筋児童遊園
歌碑は三筋保育園内にありました。
浅草の三筋町なるおもひでも
うたかたの如や過ぎゆく光の如や

タイル張りの児童遊園は初めて見ました。


写真:蔵前小学校

写真:精華公園の梅

写真:ZETT
私が持っている地図には「精華小学校」となっているのですが、四校が合併して蔵前小学校となったようです。目黒区では中学校の合併は行われていますが小学校の合併は反対する意見が多いと聞いています。クラス数が少ないことから生じる教育的弊害も考慮すれば、小学校の合併は避けて通れない課題なのでしょう。
ZETTはSSKと並ぶ野球用具のブランドですが、グローブではミズノが大きなシェアを占めており、私が草野球をやっている頃はミズノかローリングスを持っていることがステータスでした。今ではダルビッシュ投手と契約しているアシックスなど、以前は考えられないようなブランドが進出しています。ZETTは大阪の会社なのでこちらは東京支社でしょうか。


写真:鳥越神社
このコースのハイライトだったようですが通り過ぎてしまいました。Wikipediaから引用します。
概要
鳥越神社(とりこえじんじゃ)は、東京都台東区鳥越にある神社である。白雉2年(651年)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝えられている。例大祭に出る千貫神輿は都内最大級を誇る。 例大祭(鳥越祭、鳥越まつり)は、例年6月に開催される。
歴史
景行天皇の御代に、この地に日本武尊が良き斎庭と定めて皇祖二柱の大御神を祀り、その後白鳥村とよばれたこの地に白雉2年(651年)、村民が「白鳥明神」として奉祀したのが由緒とされる。
前九年の役征圧のため源頼義、義家父子がこの地を通った際、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り大川(隅田川)を渡ることができた。それを白鳥明神の加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉った。
江戸時代までにここには三社の神社が成り一帯の約2万坪の広大な敷地を所領していたが、元和6年(1620年)、江戸幕府が全国の天領からの米を収蔵するため、隅田川沿いに蔵(浅草御蔵)を造営することとし、この埋め立て用に大明神のある鳥越山を切り崩すことになり土地を没収されてしまった。さらに、大明神の北側にあった姫ヶ池も鳥越山からの客土で埋め立てられ、大名屋敷などの御用地とされた。
三社のうち熱田神社は今戸へ、第六天榊神社は森田町(現・蔵前3丁目)に遷され、残った大明神が現在の鳥越神社である。



写真:浅草橋五丁目付近

写真:旧浅草上平右衛門町
下町まちしるべ
旧町名由来案内「旧 浅草上平右衛門町、同左衛門町」

 浅草上平右衛門町を開いたのは、平右衛門という人物である。
 天正十八年(1590)家康入国に従い江戸へ入り、元和二年(1616)、家康が浅草寺へ参詣した際、この地に町屋を開くことを命じられた。町名は、平右衛門が住んでいる土地ということで付され、この地の名主になった。
 当初、町名には上下の区別はなく「浅草平右衛門町」であったが、俗に浅草御門(現浅草橋南詰にあった)より東側を下平右衛門、西側を上平右衛門と称していた。明治五年になり正式に上下二町にわかれた。昭和九年(1934)、上平右衛門町は二分され、東側を浅草橋一丁目とした。残った西側部分も昭和三九年の住居制度の実施で、浅草橋1丁目となった。
 一方、浅草左衛門町が起立したのは、明治二十三年(1890)である。この地には、慶長(1598)以来、徳川譜代大名庄内藩酒井左衛門尉邸(明治元年現在で十二万石、領主酒井忠宝(ただみち))があったが、明治元年(1868)に公収され、同五年に町屋が開かれた。当初、平右衛門町の隣にあったことから、新平右衛門町と称していた。後に、神田川に望むこの地を俗に左衛門河岸と呼んでいたのをとって町名となった。

浅草平右衛門町
 |-浅草上平右衛門町
   ∟浅草橋一丁目  (S9.6)-|
   ∟浅草上平右衛門町(S9.6)-|_浅草橋一丁目の一部(S39~)
 |-浅草下平右衛門町
   ∟浅草橋一丁目  (S9.6)-|
   ∟浅草柳橋一丁目 (S9.6)-|_柳橋一丁目の一部(S39~)





写真:神田川
井の頭公園を水源とする神田川の最下流部で、屋形船がたくさん係留されています。


写真:浅草橋吉徳

写真:浅草橋久月
コマーシャルでよく聞くこれらの人形店は浅草橋にあります。浅草橋と人形の関係を「人形のまるぎん」のページから引用します。
浅草橋といえば人形の街です。かつては30数軒の人形屋が、今日でも10数軒が、しのぎを削っています。が何故ここに人形屋が多いかというと、江戸時代頃、ここに浅草見付という門があり、ここから浅草寺(つまり観音様)までの参道の両側にあったお土産やさんが、後に発展したのが、人形屋やおもちゃ屋なのです。人形屋は今は浅草橋駅付近に集中していますが、バンダイはじめ玩具メーカーや玩具問屋は中間の蔵前付近に多数あります。人気テレビ番組の「アド街ック天国」の浅草橋編の第一位はもちろん人形街でした。浅草見附から浅草寺まではほとんど一直線のため、古い川柳に『浅草寺、見附で聞けば、突き当たり』という句もあります。ただし、地下鉄で二駅、歩けば30分はかかります、浅草と浅草橋は、意外と離れているのです。
浅草橋には又、袋物や雑貨の問屋さんが多数あります。それは地理的な理由だからです。隅田川と神田川にはさまれたこの地域に、物資輸送を河川交通に頼っていた江戸時代には、大量の荷物を扱う問屋さんが集中したのは、自然の成り行きだったのです。

中略

現在の浅草橋は人形と手芸と雑貨の街です、最近ビーズ手芸のお店が増えたことにも驚きますが、一番人出の多いお店は「シモジマ」さんです、本業は包装用品の問屋さんですが、当店隣のシモジマギフトラップ館は、一階でイタリア、タイ、韓国などの輸入食材を安売りしています。また数軒先の五号館のニ階三階では文房具を、五階では家庭雑貨を問屋価格で販売しています。安いのでいつも人がいっぱい、さらに何軒も店があるのでこの江戸通りをシモジマ通りという人もいるほどです。当店へのついでに覗いてみてください。



写真:榊神社
第六天榊神社(だいろくてんさかきじんじゃ)は、東京都台東区蔵前にある神社。略して「第六天神社」または単に「榊神社」ともいう。


写真:黒塀


写真:柳橋

写真:神田川の終点
黒塀は料亭でしょうか船宿でしょうか。
柳橋
台東区柳橋一丁目一番一号
この橋は元禄十一年(1698)に、神田川が隅田川に注ぐところにかけられ、最初は「川口出口の橋」と呼ばれた。近くに幕府の矢の蔵があったとにちなみ、矢の倉橋・矢之城橋と呼んだともいう。柳橋は享保頃からの呼称らしい。橋の名の由来には、「柳原堤の末にある」「矢之城を柳の字に書き換えた」「橋畔の柳にちなむ」など諸説ある。鉄橋にかけ替えられたのは明治二十年で、現在の橋は昭和四年に完成した。江戸時代、橋畔は船舶が並んで賑わった。幕末・明治以降、柳橋は花柳界として名を知られ、多くの文人墨客が題材に取り上げている。また、柳橋は落語にもよく登場し「船徳」等はこの地を舞台にした噺である。
[柳橋ゆかりの人々]
成島柳北 蔵前生まれ。『柳橋新誌』を著した。
小林清親 「元柳橋両国遠景」で、往時の柳橋周辺の情景を描いた。
正岡子規 句集『寒山落木』の中で「春の夜や 女見返る 柳橋」と詠んだ。
島崎藤村 今の柳橋一丁目に住み、柳橋を題材にした随筆『新片町にて』を発表し、小説『沈黙』の中では大正期の柳橋界隈を情景豊かに書いている。また、代表作の『春』『家』などの作品も柳橋在住の時に発表した。
池波正太郎 『剣客商売』などの作品で柳橋界隈を取り上げている。
平成二十八年
  台東区教育委員会



写真:なまこ壁と隅田川テラス

写真:隅田川と東京スカイツリー

写真:狂い咲きのハクモクレン
総武線の鉄橋あたりから隅田川テラスに出て、上流に向かって歩きます。ハクモクレンが5本くらい植えてあって、どれも狂い咲きの様相でした。川沿いの特殊な環境ということで普通より早く咲いてしまったものの、寒くて花が霜にやられたといった感じでした。面白いですね。



写真:蔵前橋(くらまえばし)

写真:首尾の松
レリーフには「くらまえはし」と書いてあるので調べてみたのですが、「くらまえばし」が正解のようです。首尾の松についてはWikipediaの蔵前のページから引用します。
蔵前という地名はこの地に江戸幕府の御米蔵(浅草御蔵)があったことに由来する。
この蔵は幕府が天領他から集めた米を収蔵するためのもので、元和6年(1620年)に鳥越神社の丘(鳥越山)にあった三神社のうち二社を移転させ、丘の切り崩しによって隅田川を埋め立てて造られた。その総敷地面積は36646坪(ただし『御府内備考』は27900坪とする)、東を隅田川、他の南北西の三方を堀で囲み、67棟の蔵があった。
この蔵の米が旗本・御家人たちにとっての扶持米すなわち今でいう給料となり、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が敷地内や、新たに鳥越山の北側や西側に広がる湿地帯だった姫ヶ池なども埋め立てて武家屋敷を整備し、役宅を与えられ住んでいた。
浅草御蔵は、隅田川の右岸に上流から一番、二番と数える8本の堀を作り、それに面した多くの米蔵が連なった。四番堀と五番堀の間には、「首尾の松」という枝を川面に垂れた松の木があった。この名前の由来には諸説がある。首尾の松は江戸中期の安永年間に大風に倒れ、その後何度か接ぎ木を試みたが明治までに枯れてしまった。
御蔵の随伴施設の厩が北側にあり、対岸には御米蔵に匹敵する広さの幕府の建築資材を貯蔵する御竹蔵が置かれ、御蔵から隅田川の対岸に渡る「御厩河岸の渡し」があった。また南側にも渡しがあり「御蔵の渡し」の名があったが、こちらは富士山が見渡せたため「富士見の渡し」とも呼ばれた。御厩河岸の渡しは転覆事故が多く、「三途の渡し」とも言われたことがある。
御蔵の西側にある町は江戸時代中期以降蔵前と呼ばれるようになり、多くの米問屋や札差が店を並べ、札差は武士に代わって御蔵から米の受け取りや運搬・売却を代行した。札差がこの地域に住むようになったのは寛文の頃にさかのぼるという。札差は預かった米から手数料を引いて米と現金を武士に渡し、現物で手元に残った分の米は小売の米屋たちに手数料を付けて売るほかに、大名や旗本・御家人に金も貸し付けて莫大な利益を得、吉原遊廓や江戸三座を借り切りにするなどして豪遊した。
なお、享保年間に、対岸の御竹蔵は貯木機能を猿江(現在の猿江恩賜公園)に移し、御竹蔵も米蔵として使われた。



写真:蔵前橋

写真:東京スカイツリー
ここは東京マラソンのコースになっており、コーンは先ほどまで車道上に置かれていたものでしょう。マラソンの交通規制のおかげかどうか、この日は走っている車の数が極端に少なかったです。



写真:都立横網町公園
東京都慰霊堂があり、重たい雰囲気の公園です。Wikipediaから引用します。
当公園は元々陸軍被服廠があったところであったが1922年に赤羽(現在の東京都北区)に移転し、東京市(当時)が買収し公園として整備したものである。工事は1923年7月から始まったが、その最中の9月1日に関東大震災がおきた。直後、周辺の下町一帯から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所とみなして集まったが、16時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々を襲った。避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。結果、横網町公園に避難した人だけで38,000人が犠牲になったという。震災後、その38,000人の遺体はその場で火葬され、3メートルの高さになるほどの大量の遺骨はその場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された。やがて東京の復興が進む中、建築家・伊東忠太の設計の元、当公園に関東大震災による遭難死者約58,000人の遺骨を納める納骨堂(三重塔)や慰霊堂が建てられ、1930年に完成。数十個の大瓶に移された遺骨は堂内に安置された。また横網町公園自体も1930年9月1日に開園した。翌1931年には当公園内に関東大震災の惨劇とそこからの復興を後世に伝えるため、復興記念館が完成した。しかし、1945年、東京は第二次世界大戦により再び焦土と化し、多くの犠牲者が出た。特に3月10日の東京大空襲では多くの犠牲者が出た。当横網町公園をはじめ、多くの公園に犠牲者が仮埋葬されていた。その後第二次世界大戦で身元不明の遺骨などを当公園にある納骨堂を拡張し「震災記念堂」に合祀されることになった。そして1951年に「東京都慰霊堂」と改称され現在にいたっている。他には関東大震災の際に、朝鮮系の住民が震災に乗じて略奪や襲撃を起こしているという情報が流れたため、一部の朝鮮人(朝鮮人と間違えられた日本人も)が混乱下の避難民により殺害され、それを追悼する石碑や、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑などがあり、横網町公園は関東大震災と第二次世界大戦のメモリアルパークとしての要素が強い公園となっている。
重たい歴史ですがこの場を訪れ、歴史を正しく認識してゆくことが重要なのだと思います。

慰霊堂の脇の場所をお借りしてストレッチをして解散しました。この日はヱビスビールの日でヱビスビールが半額で飲めるライオンに行きたかったのですが断念し、中目黒へ戻ってきました。新規開拓「串カツ田中」でチンチロリンにつられてジム・ビームのハイボールを飲みすぎ、勢い余って伊勢五本店にまで繰り出したため、翌日二日酔いに悩まされる羽目になりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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流山を下見

2018-02-22 13:54:26 | ウォーキング
松戸で用事があり、4時間ほどの空き時間が発生するのでどうしたものかと考えてみました。以前から行きたいと思っていた農産物直売所「かしわで」へ行くことも選択肢だったのですが、尺が埋まらない。以前柏の友人に勧められた「流山」を調べると、松戸から30分くらいで行けることがわかり、流山へ行ってみることにしました。
すこやか歩こう会では一昨年まで柴又を起点として、帝釈天、矢切の渡しを経由し、江戸川をさかのぼって松戸を訪れ、「松戸の里宮前」で新蕎麦を食べるという企画を行っていたのですが、宮前さんが蕎麦屋をやめてしまうということで昨年は松戸を訪れる機会を逸しました。流山は「松戸の代替企画」になるのか、もしくは「目黒ウォーキング協会のバスハイクで訪れて、面白い企画」になるか。そんな観点から下見へ行ってきました。




写真:流鉄流山線
常磐線各駅停車馬橋駅で乗り換え。流鉄流山線は馬橋から流山を結ぶ私鉄(総武流山電鉄)の路線です。まずは流山がどのように発展してきたのかについてWikipediaから引用します。
下総国に属する。18世紀頃から江戸川の水運のための河岸ができ、みりんの製造で栄えた。幕末期には新選組が本陣を置いたが、新政府軍に包囲されたため隊長の近藤勇が出頭し、盟友土方歳三との離別の地となった。






写真:流山駅
ベンチの座布団が印象的でした。車両は塗装が異なり、それぞれの編成ごとに愛称がつけられています。私が乗ってきたのは「あかぎ」。なんで「あかぎ」と疑問がわきますが、その答えは後ほど。流山駅にとまっていたのが「若葉」でした。車両は西武鉄道からの譲渡とのこと。


写真:流山車両基地
手前が「なの花」、青い車両が「流星」です。


写真:竹材店
材木屋さんでも竹を扱っていると思いますが、こちらのお店は「青柳竹材」という名前でした。おもな産業を調べると「みりん」しか出てこないのですが、竹がたくさんとれたのでしょうか?


写真:博物館
とてもローカルな感じで図書館と併設されています。台地の上にあり、流山の町が江戸川沿いの低地に発展していったことがわかります。


写真:金上落川
上流で江戸川から分水した農業用水でしょうか。この下流で江戸川に注いでいます。普段は草に覆われてわからないのでしょうが、ごみが散乱してあまり良い風景ではありません。


写真:江戸川


写真:矢河原の渡し跡
パット見川幅が狭いなぁと思ったのですが、中州に木が生えて向こう岸のように見えているだけでした。渡しのために中州を切ったのが切れた場所だから渡しになっているのか。
「加村の渡し」とも言い昭和35年頃まで存続した。幕末に再起を図るため流山で屯集した新選組の局長・近藤勇は新政府軍の包囲に単身出頭、この渡しで流山を後にした。


写真:あかり館@雑貨Konocono

写真:お弁当屋さん

写真:呉服新川屋

写真:丁子屋
これらの建物は本町通り沿いにあり、流山観光の核となっているようです。新川屋は国の有形文化財に登録されています。流山市観光協会が発行している「流山本町江戸回廊」というパンフレットがわかりやすく、とても役に立ちました。パンフレットを引用します。
百数十年の歴史ある老舗が点在する街
江戸川沿いに位置する流山のまちは、江戸時代から明治大正にかけて商業の中心地として栄えていました。
今も明治時代前後の土蔵造りの家屋と百数十年の歴史ある老舗が点在し、当時の面影を忍ばせています。



写真:浅間社

写真:富士塚
江戸時代初め、富士信仰のため地域の鎮守さまとして創建されました。本殿の裏手には県内トップクラスの規模を誇る富士塚があり、際神は木花開耶姫命(女性の神様)であることから、安産・子育て・縁結び・夫婦円満・火伏せのご利益があるとされ、今も人々に敬われています。7月上旬の土曜・日曜に浅間神社大祭が行われます。



写真:近藤勇陣屋跡
稲荷社も陣屋跡も「秋元」という会社の敷地内のようです。
株式会社秋元(みりん・酒・おみやげ)
流山の特産品、流山キッコーマンが特別に造った万丈特選純米本みりんをはじめ、新選組・近藤勇の最期の本陣地となった酒造家・長岡屋跡であることから、清酒本醸造・極辛口「本陣・長岡屋」や黒麹芋焼酎「本陣・長岡屋」といったご当地ならではの銘柄酒も販売しています。

近藤勇陣屋跡
幕末、流山は新撰組が屯集した地であり、最後の陣営地となりました。流山に集まっているとの情報を得た新政府軍に包囲された勇は、「流山に兵火を上げることは町の人々を苦しめることになる」と、流山を兵火に巻き込むことを嫌がり、慶応4年(1864)ここで自首をします。



写真:閻魔堂
閻魔堂の本尊は閻魔大王で、堂内に座像が安置されています。
閻魔大王は地獄で死人の生前の罪状をあばき、様々な責め苦にあわせる大王といわれています。
また、閻魔堂と向き合う形で、講談『天保六花撰』や歌舞伎『天衣紛上野初花』(くもにまがう うえのの はつはな)で知られ、義賊と言われる金子市之丞の墓があります。



写真:万華鏡ギャラリー寺田園茶舗 見世蔵
流山市在住で、世界的に活躍している万華鏡作家・中里保子さんをはじめ、多くの作家の万華鏡作品を展示・販売しています。
また、流山観光のおすすめコースの案内、流山活性化のためのイベント、歴史的文化に関する講座などを企画するなど、地域のコミュニティスポットとして情報を発信しています。



写真:オオイヌノフグリ

写真:江戸川の桟橋跡
江戸川土手はもう少し花が咲いていてもいいかなぁと思ったのですが、菜の花とオオイヌノフグリが咲いているくらいで、ホトケノザも見られませんでした。桟橋跡のようなものがたくさん見えているのですが、江戸川を水運に使っていた商家がこれらを所有していたのかな?


写真:流山寺
なんでここに防犯パトロールののぼり旗あげちゃうんだろう。流山を散策して感じていた違和感を象徴するような風景でした。本町通り沿いに古い商家が残っているなど、観光地としてアピールする素材があり、観光協会としてはその方向で力を入れているのでしょう。ただし街全体としてその方向に向かっているようには見えず、観光地ではなく生活の場所のままにしておきたい思いが強いのでしょう。







写真:赤城神社
この注連縄は見事です。
流山にあるこの赤城山は、海抜15メートルのお椀を伏せたような小山で、山頂に赤城神社が祀られています。赤城神社の石碑には、上州(群馬県)の赤城山が噴火し、土塊がここに流れ着いたと記されており、“山が流れてきた”から流山という地名がついたという伝説があります。また、別の言い伝えによれば、上州の赤城山のお札が流れ着いたからともいい、赤城山は、流山の地名由来となる面白い伝説がある地です。
赤城神社は江戸時代において、「正一位」という神格を受けた、位の高い神社です。なお、神社の鳥居にある大しめ縄は、毎年、氏子や地元住民が協力して一日で造りあげ、重さは約500kgもあります。
赤城神社の大注連縄は、長さ約10メートル、太さ約1.5メートル。
この大注連縄づくりは、現在は10月の第3土曜、日曜日の祭礼に先立って行われます。
大注連縄の行事は、流山市指定無形民俗文化財です。

これで私が乗ってきた電車の愛称が「あかぎ」だった意味が分かりました。


写真:イヌマキの生け垣
このような生け垣が街のいたるところで見ることが出来ると、よい観光地になると思います。個人的な希望ですけど。

すこやか歩こう会のウォーキングで来るにはちょっと遠い。観光バスで訪れるにはお住まいの人の迷惑なるかなぁ。個人的に訪れるのがおすすめです。特に新撰組ファンの方に。


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烏山川緑道コース 約6.0km

2018-02-19 14:33:42 | ウォーキング
朝の予報では、晴れ最高気温12度との事でしたが、集合場所の池上大橋駅に着く午後1時過ぎには、冷たい風が吹き上空も雲に覆われて、今にも雨が降りだしそうな気配でした。観察通り、途中パラパラと雨が降りだす事もありましたが、後半は晴れ間も出てきて総勢20名の楽しいウォーキングになりました。


写真:東邦大学病院
先ず、目黒川緑道わきのスペースを利用してストレッチを行います。その向かい側では、建設中の東邦大学病院新館が完成間近のようで仕上げ作業が急ピッチで進んでいました。


写真:目黒川緑道

写真:河津桜

写真:鯉
緑道沿いでは、満開の河津桜や紅白の梅の花、せせらぎを泳ぐ鯉等が目を楽しませてくれます。


写真:烏山川分岐

写真:太子堂小学校
目黒川緑道を7百メートル程遡上すると、烏山川と北沢川の分岐点となります。烏山川緑道を進み、太子堂小学校を見ると大きなプラカードが目に入りました。「大志の学び舎」のごろ合わせに「少年よ大志を抱け」と言ったウイリアム・スミス・クラーク博士も苦笑いしているかもしれませんね?


写真:世田谷線の車両

写真:玉電
烏山川が環七を渡る世田谷線の若林踏切で、昔の玉電を思わせる塗装の電車に遭遇しました。懐かしさがこみ上げます。



写真:世田谷城址公園
烏山川緑道を離れ、世田谷城址公園で休憩を取ります。


写真:北沢川緑道
豪徳寺、世田谷八幡、小田急線豪徳寺駅を通過し、今度は目黒川緑道で烏山川と分岐したもう一方の北沢川緑道を歩き羽根木公園に向かいます。







写真:世田谷梅まつり
羽根木公園では世田谷梅祭りが開かれていました。赤、白、桃色、様々な梅の花をめで、甘酸っぱい梅の香りを楽しむこともできました。


写真:ビール
梅祭りを楽しんだ後は、有志を募り井の頭線で渋谷のライオンに向いました。2時間たっぷりののアルコール会では、梅に代わって、ビールの香りを楽しみました。

吉井

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南東部公園コース 約7.0km

2018-02-15 10:52:07 | ウォーキング
区内を巡る定番コースで、一年に二回このコースを歩いています。区内の定番コースは参加者が少なかったりするのですが、この日は22名の参加がありました。



写真:目黒川
集合は中目黒GTで、スタート時間になると目黒川舟入場へ移動してストレッチをしてウォーキング開始です。田楽橋から眺める目黒川では、アオサギの大きな姿が目立ちます。その下流では川床の改修工事が行われ、オイルフェンスのようなものが浮いていました。



写真:目黒清掃工場
現在建替え工事が進められています。


写真:田道橋から見た目黒川



写真:目黒区民センター
ジム、プール、体育館、図書館があり区立美術館が隣接する文化施設です。いつどんな目的で建てられたものかなかなか資料にたどり着かないのですが、その歴史は半世紀近くになります。「被爆二世のカキ」など、平和を願うものが多く設置されいて「平和の鐘」というものもあります。ある区議のブログから引用します。
「めぐろ平和の鐘」は人間国宝で名誉区民の鋳金家・香取正彦氏の作品で、広島平和の鐘、カナダ・バンクーバー市平和の鐘と同型の、いわば三姉妹に当たる梵鐘です。
昭和60年に目黒区が平和都市宣言をした記念として、香取氏から寄贈された梵鐘を「めぐろ平和の鐘」と命名し、世界恒久平和と区民の限りない幸せを記念して区民センター公園に設置しました。
香取氏は、戦時中の金属供出で全国からたくさんの鐘が失われたことを悲しみ、戦後は平和の願いを込めた鐘を作り続け、昭和52年に人間国宝に指定されました。8月6日区民センターで行われる「平和祈念のつどい」の後、12時半から「平和の鐘の打鐘」が行われます。



写真:玉川屋
和菓子屋さんのホームページから引用します。
目黒仁王餅
北海道産の小豆を使用した自家製のつぶし餡を、わらび餅でやさしく包み黄な粉を降りかけました。
由緒ある目黒不動尊に奉ってある仁王様(当時、玉川屋3代目が寄進)にちなんでこしらえた看板商品です。
第二次世界大戦の戦火は目黒にも及び昭和20年5月24日目黒不動尊は、一部の建物を残して焼けてしまった。
戦後の復興はまず本堂の再建に始まり25年いち早く完成し、次は由緒正しき仁王像となった。
29年当時玉川屋三代目小川雄一・りよ夫妻は仁王像の寄進を青木大僧正に申しいでその制作を木彫会に雄として知られていた後藤良氏に依属し快諾して頂いた。
ことは順調に進み高弟線引司郎氏の協力をえて32年早春三尺の原型が完成した。それと同時に後藤氏は76歳の生涯を突如として閉じたのであった。
原型から木に移す作業は吉田暁未氏の協力によって行われ、昭和35年8月26日めでたく完成、のみ納め式が行われた。仁王門の完成をまって昭和36年4月2日落慶式が行われた。
その前夜後藤夫人イクさんは重荷を下ろしたかのように急逝したのであった。



写真:交差点二階のお店

写真:すき家の前
山手通り(都道317号)と目黒通り(都道312号)の交差点。大きな通りですがどちらも都道ですね。二階のお店はHOという規格の鉄道模型で有名な「カツミ」の直営店だそうです。下のすき家の前には、母娘の像がベンチに座っています。由来はネットで調べてもわかりません。


写真:大鳥中学校

写真:風呂屋の鯱
大鳥中学校は三中と四中が合併して三中の後にできました。6-3-3制の施行により昭和22年5月に開校した目黒区の中学は一中から十一中の11校でしたが、生徒数の増加により昭和31年に一中の分校が作られ、昭和33年に東山中学校が分校から昇格して12校になりました。二中、五中、六中が統合され中央中学校となり大鳥中学校を含めて現在目黒区立の中学校は9校となりました。


写真:白梅と多聞天(目黒不動尊)

写真:大日如来坐像(目黒不動尊)

写真:本堂脇の看板(目黒不動尊)
看板には「不動明王本地仏」とあり、「不動明王の正体は大日如来」という意味です。大日如来は未年と申年の人の守護本尊なのですね。調べてみて面白いことを発見しました。不動明王は大日如来の化身ですが、酉年の守護本尊なのです。化身になると変わるんだ。そのほか、阿弥陀如来は戌年と亥年、勢至菩薩が午年、普賢菩薩が辰年と巳年、文殊菩薩が卯年、虚空蔵菩薩が丑年と寅年、千手観音菩薩が子年の守護本尊です。


写真:紅梅

写真:灯篭

写真:神変大菩薩

写真:家光の鷹

写真:白梅

写真:手水舎
女坂を下り神変大菩薩様に会長が早く元気に歩けるようお参りをしてきました。


写真:比翼塚
PDD図書館というページから引用します。
 江戸の初め、鳥取藩士平井権八(?~1679)は父の同僚本庄助太夫を殺害して江戸に逐電。吉原三浦屋の遊女小紫と馴染となって金に困り、浅草日本堤で通行人から金銭を奪い辻斬り殺人強盗を重ねました。
 ある時、この寺の住僧随川にかくまわれ、尺八を習いました。改心した権八は死ぬ前にもう一度両親に会いたいと思い、虚無僧となって郷里鳥取に帰りましたが、すでに両親とも他界していました。観念した権八は江戸に戻って自首し、鈴ヶ森で処刑されました。
 随川によって遺骸は東昌寺に葬られましたが、そこへ小紫が吉原から抜け出てきて権八の墓の前で後追い心中しました。人々は二人を哀れみ建てられたのが、この比翼塚です。

 平井権八の話は、浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、白井権八のモデルとなりました。
 また、江戸に出奔して行く美貌の若侍白井権八が、鈴ヶ森で大勢の雲助にからまれて、やむなく切り払って立ち去ろうとした時、江戸の侠客幡随院長兵衛(1622~1657)が駕籠の中から権八を呼び止める「お若えの、お待ちなせえやし」の名科白はご存知と思います。正当防衛とはいえ人を斬ったのを見られた権八はうろたえますが、長兵衛は口外しないと安心させ「いつでも尋ねてごぜえやせ。陰膳すえて待っておりやす」と江戸での再会を約束する名場面です。



写真:石古坂
林試の森公園前のこの坂は古くからの道で、江戸時代目黒や世田谷の農家が野菜を売りに毎日通った道です。もう少し南へ行った武蔵小山に「朝日地蔵尊」があり、農民がこのあたりを歩いたのがちょうど夜明けだったことがわかります。江戸時代は一日を日の出日の入りで二つに分け、日の出の時間を「明け六つ」、日の入りの時間を「暮れ六つ」としていたので、太陽の位置と生活の時間が一致していたのですね。









写真:都立林試の森公園
都立公園のページから引用します。
ここは明治33年(1900年)6月に当時の農商務省林野整理局が「目黒試験苗圃」としてスタートしたのが始まりで、その後「林業試験場」に名称を変更、林野庁の付属となり昭和53年まで営々として使用されてきました。
そして、筑波研究学園都市の建設に伴い、移転した跡地を整備し、「目黒公園」の暫定開放期間を経て、平成元年6月1日に「都立林試の森公園」として生まれ変わり開園しました。
この公園は東西に700m、南北に250mと細長く、外周の園路をぐるっと一周すると45分程で廻れます。

カワヅザクラは二分から三分咲と言ったところです。


写真:羅漢寺川緑道

写真:夏ミカンの収穫

写真:六畝川プロムナード

写真:碑文谷ベーカリー

写真:この花何の花

写真:環状6.5号線
区内では「補助26号線」として親しまれているこの道路は、環状六号線と七号線のあいだにあることからタモリ倶楽部では環状6.5号線いう名をつけて辿る企画がありました。Wikipediaから引用します。
概要
東京都道420号鮫洲大山線は、東京都品川区八潮橋交差点と板橋区仲宿交差点を結ぶ特例都道である。狭隘区間が多く残るが、おおむね東京都道317号環状六号線(山手通り)と東京都道318号環状七号線(環七通り)の中間を通り、それらを補完する役割を担っている。

通称
中野通り
南長崎六丁目交差点 - 笹塚交差点
千川通り交差点~南長崎六丁目交差点、笹塚交差点~大山交差点も含まれることがある。
三宿通り
三宿池尻交差点 - 五本木交差点

26号線通り
目黒郵便局前交差点 - 戸越三丁目交差点
(東京都都市計画道路補助26号線に由来)
また、国道254号大山西町交差点より終点方向への約300mの区間は、ハッピーロード大山のアーケード街を経由している。



写真:清水池公園

写真:七中
碑さくら通りを西へ向かいます。










写真:すずめのお宿公園
モニュメントにかかれた由来です。
すずめのお宿緑地公園の由来
この付近は、昭和のはじめまで目黒でも有数の竹林で、良い竹の子がとれました。竹林には無数のすずめが住みつき、朝早くいづこへともなく飛び立ち、夕方には群れをなして帰ってくることからいつしか人々は、ここを「すずめのお宿」と呼ぶようになりました。
この土地の所有者角田セイさんは、長年ここで一人暮らしをしておりましたが、「土地は自分の死後お国に返したい」といって大事にしておられたそうです。
その尊いご遺志が生かされて、角田セイさんの没後、目黒区が国からこれを借り受けて公園を造り、多くの人々の憩いの場として、利用することができることとなったものです。
ここに「すずめのお宿緑地公園」の由来を記して、故人のご遺志に深い感謝をささげます。
昭和五十六年四月吉日 目黒区長 塚本俊雄

目黒区のページから。
今からおよそ200年前、江戸時代安永年間に始まったという目黒の筍栽培は、大正中頃に最盛期となり、有数な竹林だったこの地では良質の筍が収穫されたと言われています。
また昭和のはじめ頃、この竹林は付近一帯のスズメのねぐらになっていました。数千羽というスズメが朝どこへともなく飛び立ち、夕方には数百羽が一団となって帰り、空が薄暗くなるほどだったそうです。そのためこの場所は「スズメのお宿」と呼ばれるようになりました。
今でも竹林やシイ・ケヤキの大木が残り、野鳥が多く生息しています。なお北側の一角に栗山家の母屋(目黒区指定有形文化財)が復元されています。



写真:サレジオ教会
Wikipediaから引用します。
1954年5月22日に落成。36m余の鐘塔を備えたロマネスク様式の大聖堂で、1708年に来日し、小石川切支丹屋敷にて死去した宣教師ジョヴァンニ・シドッティを偲ぶカルロ・ドルチのマリア像「悲しみの聖母」(江戸のサンタ・マリア)が内部に掲げられている。延床面積は752m2。鐘はミラノの信者から寄付されたもので、ラ・ド・ミの美しい音色を奏でる。


写真:碑文谷ダイエー前のマセラティ

写真:フェラーリ
この二軒は以前東京日産でした。マセラティに乗る人騒々しい運転をする人が多いと感じているのは私だけでしょうか?



写真:碑文谷公園

写真:子供動物広場(碑文谷公園)
死体遺棄事件があった時、警察が捜索している映像を見た番組担当者が「水抜いちゃえばいいのに」と言ったことが、「池の水ぜんぶ抜く」という企画の始まりだったそうです。
子供動物広場については、目黒区のページから引用します。
ポニー乗馬(引き馬)
中学生以下のかた(就学前のお子さんは保護者のかた同伴)を対象に、公園内の約150メートルのコースをポニーに乗って往復します。
利用時間午前10時から11時半まで、午後1時半から3時までです。
1人1回200円。当日ポニー舎で乗馬券を購入してください。

ポニー教室(個人)
小学生・中学生を対象とした、3か月の定期登録制で、動物の世話や乗馬を通じて生きものへのいたわりや集団活動での協調性を養います。
開園日の午後3時から午後5時まで。自分の都合が良い日であれば期間中何回でも参加できる制度です。
料金は3か月で2,400円。
募集は2月・5月・8月・11月の年4回(応募多数の場合は抽選を行います)。
募集の詳細は下記のチラシや現地掲示及びめぐろ区報でお知らせします。


碑文谷体育館でストレッチをしていたら体育館の館長長谷川さんがご挨拶に来てくれました。長谷川さんは総合型地域スポーツクラブ スポルテ目黒の創設メンバーで、目黒区民の体育事業をけん引されています。長谷川さんの写真はこちら

ストレッチ後はクラブハウスだと勝手に思っている和食レストラン天狗で反省会。春の旅行の話題などで盛り上がりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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隅田川七福神コース 約5.5km

2018-02-04 15:42:54 | ウォーキング
初めて歩くコースで21名の参加がありました。


写真:堀切駅

写真:東武特急
中目黒に集合し、日比谷線で北千住。スカイツリーラインで浅草方面へ二つ目の駅が堀切です。地図で見ると隅田川と荒川に囲まれており、川の水面と家が建っているところがほぼ同じように見えるゼロメートル地帯です。





写真:多聞寺
ご本尊は不動明王で、その他に毘沙門天をお祀りしています。どちらも戦いの神として信仰されていますね。毘沙門天は四天王としてお祀りするときは「多聞天」という名に変わるのですが、お寺の名前はこちらに由来しているのでしょう。茅葺の山門を持つ落ち着いた感じのお寺なので、その由来をすみだ観光サイトから引用します。
 天徳年間には今の隅田川神社付近にあって、大鏡山明王院隅田寺と称え、本尊は不動明王でした。狸(たぬき)にまつわる伝承もあることから、多聞寺を一名「たぬき寺」とも呼びました。
 多聞寺は区内の最北端にあり、関東大震災、戦災ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。寺前の道は古代から続く街道の名残です。特に山門は木造茅葺(かやぶき)切妻造四脚門の様式をとるもので、多聞寺に残る唯一の江戸期木造建築であり、区内最古の建造物と考えられます。享保3年(1718)に焼失し、現在のものはその後に再建されたものです。
また、多聞寺は毘沙門天を祀ることから、文化年間(1804~1818)に隅田川七福神のひとつに組み込まれました。以来、現在に至るまで正月は七福神巡りで賑わいます。
他にも狸塚や映画人の碑があります。

震災、戦災の被害あっていないことが落ち着いた雰囲気をとどめている所以ですね。展示されている浅草国際劇場の鉄骨も興味深いので説明書きを記します。
東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
 1945(昭和20)年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町一帯は“炎の夜”と化した。この東京大空襲による下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)
 この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的“証人”である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃団を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。
 戦争の実相を伝える“証人たち”に静かに心を傾け、
 不殺生の誓いを新たにしましょう。

隅田山 多聞寺




写真:都営白鬚東アパート
見るからに異様なこのアパートの説明は内閣府の防災情報のページから引用します。
このあたりは江東デルタ地帯で最も災害危険度の高い地域であったことなどから、隅田川沿いの大規模工場跡地を東京都が買収、都の「防災拠点」構想のもとに再開発が行われた。具体的には、堤通に高さ40mの高層住宅を1.2kmにわたり防火壁の役割を果たすよう配置し、内側には約9haの避難広場を設け、災害時には約8万人を収容するため、約1週間の逗留に必要な飲料水・食料・医薬品等を備蓄するという壮大なもので、地上13階地下1階の建物群は地盤のよい洪積層まで杭を打ち、地下部分には水槽等を設けて転倒防止が図られ、関東大震災クラスに対応できる強度を持つよう作られている。
いざ防火壁となる際に住民は避難するとしても、家財はそのまま犠牲になるのかと思っていたら、その対策もなされているそうで、防火壁となる場合にはベランダはすべてシャッターでおおわれ、過熱防止のための放水銃が備えられているほか、屋上に大きな水のタンクがあり、建物全体を守る工夫がされているとのことです。


写真:榎本武揚公像
アパート敷地内の梅若公園にこの銅像があるのですが、住まいはもう少し南の向島で墨堤を馬に乗ってこの辺りまで来ていたということでこの銅像が建てられたようです。都営白鬚東アパートが建設される前の大規模工場とは、のちにカネボウとなる鐘淵化学の工場だったのでしょうか。


写真:白鬚神社
幸か不幸か節分の日に当たってしまったので、節分祭が行われていた神社のまわりは自転車で一杯。境内は人がいっぱいで、お参りは断念しました。














写真:向島百花園
こちらにお祀りされている福禄寿が隅田川七福神の一つとなっているのですが、七福神巡りで庭園に行くのも、有料なのも珍しいです。福禄寿をお祀りしているから、福寿草を置いてあるのかな?曇り空で花が開かずちょっと残念です。
こじんまりした趣のある庭園ですが、向島百花園のページで由来を確認して納得できました。引用します。
江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830年)に造られた庭園。庭を造ったのは、それまで骨とう商を営んでいた佐原鞠塢。交遊のあった江 戸の文人墨客の協力を得て、旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園しました。
開園当初は、360本のウメが主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどです。その後、ミヤギノハギ、筑波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。「百花園」の名称は、一説では、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものです。
百花園は当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で、文人趣味豊かな庭として、小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった美しさをもっています。
民営としての百花園の歴史は昭和13年まで続き、同年10月に最後の所有者の小倉未亡人から東京市に寄付され、翌14年7月に東京市が有料で制限公開を開始しました。なお、昭和53年10月に文化財保護法により国の名勝及び史跡の指定を受けました。



写真:鳩の街
風情のある商店街という感じでしたが、赤線だったのですね。Wikipediaから引用します。
鳩の街(はとのまち)は現在の東京都墨田区向島と東向島の境界付近にあった赤線地帯。地理的に「玉の井」と近く、1kmほどの距離である。太平洋戦争末期に、東京大空襲で玉の井を焼け出された業者が何軒か、この地で開業したのが始まりという。終戦直後は、米軍兵士の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、1946年(昭和21年)に米兵の立ち入りが禁止された。その後、日本人相手の特殊飲食店街(赤線)として発展した。
この街の店舗は、警察の指導でカフェー風に作られた。1952年(昭和27年)当時は、娼家が108軒、接客する女性が298人いたという。
また、吉行淳之介の小説「原色の街」の舞台となった。さらに、永井荷風がこの地を舞台に戯曲「渡り鳥いつかへる」「春情鳩の街」を書いている。これらの荷風の2作品は、久保田万太郎の手により構成され「『春情鳩の街』より渡り鳥いつ帰る」として映画化され、森繁久弥、田中絹代、高峰秀子、岡田茉莉子らが出演した。
玉の井と同様に、この街も訪れる作家や芸能人が多く、吉行や荷風の他、安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎、小沢昭一などが、出入りしたことが知られている
また、女優・歌手の木の実ナナがこの地で生まれ育ったことで有名である。
1958年(昭和33年)4月1日に売春防止法が完全施行され、すべての業者が廃業。最終日の3月31日には「蛍の光」を流して別れを惜しんだ。跡地は商店街やアパートなどの住宅となった。
現在でも、商店街の裏に入ると色タイルを貼った娼家風の建物が多少残っているが、老朽化による建て替えや改築により、それらも少なくなった。
また、今も、商店街や道路の名称として「鳩の街」の名は残っている。商店街は、下町らしい活気のある街であったが、現在はシャッターを下ろした店が多い。



写真:弁財天石碑(長命寺)

写真:子供地蔵(長命寺)

写真:大雄宝殿(弘福寺)

写真:布袋尊石碑(弘福寺)

写真:弘福寺山門
隣り合う二つのお寺で弘福寺の本殿が立派なのに比べ、入り口が幼稚園となっている長命寺は貧弱に見えました。弘福寺大雄宝殿は国もしくは都の文化財になっているのではないかと思うほど立派です。でも調べてみると区指定有形文化財でした。黄檗宗の禅寺ということで、山手七福神の瑞聖寺と同じ宗派です。瑞聖寺大雄宝殿は国指定有形文化財に指定されています。
長命寺はいろいろ面白いことが書いてあったのでWikipediaから引用します。
由緒
この寺の創建年代等については不詳であるが、平安時代円仁の開山により創建されたとも、慶長年間(1596年 - 1615年)に創建されたともいう。もとは宝樹山常泉寺と号していたが、江戸幕府3代将軍徳川家光の命により現名に改められたという。それは、家光の放鷹の途中で、軽い病気(微恙)になってここで休憩したので、僧孝海が加持のうえ境内の般若水で薬をすすめると、効験あって治癒した。家光は喜んでその井戸水を長命水と名付けて家康の画像を付して毎年供養料を給したという。

月香楼
1888年(明治21年)の夏、境内にあった桜もち屋月香楼の二階に、正岡子規が仮寓していたことがある。子規は三か月あまり滞在して、『七草集』を書いたが、その「蕣(あさがお)の巻」に含まれる子規唯一の能作品に登場するシテの女のモデルが、月香楼の一人娘山本陸(やまもとろく)である。陸は当時15,6歳で、子規の思慕の対象として噂の種となった。

門前
長命寺のある向島は、徳川吉宗ゆかりの桜の名所「墨堤の桜」を抱え、花見や隅田川花火大会でにぎわう。関東風の桜もち発祥の地とされる「長命寺桜もち」や、言問橋の名称の由来となったとの説もある「言問団子」が並ぶ。



写真:向島墨堤組合
江戸中期になると社会も安定し、連歌や俳諧などの会席が料理茶屋で開かれるようになった。こうした宴の席に華を添えるため、踊りや唄で客をもてなす芸妓が現れ、花柳界が誕生。以降、幕末まで大いに栄えた。しかし、明治に入ると、急速な近代化の中でこうした「江戸情緒」は徐々に失われていく。
伝統や文化の喪失を惜しむ多くの文化人は、風光明媚な向島に居を移し、新たな文学や芸術を創造し、花街もかっての賑わいを取り戻していった。粋な空間で楽しむ「お座敷遊び」は、文人墨客に愛され、やがて一般の人にも普及していった。
向島には、今なお料亭のお座敷と芸妓、舞や唄いなどの伝統芸能が脈々と継承されており、一種独特の文化圏が保たれている。
向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、平成24年3月現在、16軒の料亭が加盟し、100名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について修練している。



写真:三囲神社摂社



写真:池袋三越のライオン像
このライオンを見て、「三越本店のライオン像が戦時中三越により東郷神社に寄付されていたので溶かされずに済んだ」いう話を聞いたことを思い出しました。聞いた話とは少し話の流れが違うのですが、「銀星の瓦版」というサイトの記述を引用します。こちらの話の方が信ぴょう性がありますね。
三越のシンボルとしても有名なライオン像は、1914年に日本橋本店の玄関前に設置されました。
日本初の百貨店として新店舗をオープンした際、当時の支配人だった日比翁助(ひびおうすけ)氏のアイデアにより、二頭のライオン像を設置したのが始まりだったそうです。
像がライオンだった理由は、日比氏が「ライオンが好きだった」という非常にシンプルなもの。それ以外にも「三越を商売の王者にしよう」という意気込みが込められているのだそうです。
ちなみに、日比氏のライオン好きは相当なものだったらしく、自分の息子にも「雷音」と名付けたこともあるそうです。
ライオン像は青銅でできており、長さは269cm、頭までの高さは120cmあります。
この像は、日比氏が百貨店開設の準備で欧米を視察した際、イギリスで注文したもので、英国の彫刻家メリフィールドが型をつくり、鋳造家バルトンが制作したものだそうです。
ロンドンのトラファルガー広場にある、ネルソン提督像を囲んでいるライオン像がモデルになっているそうで、有名な彫刻家に作らせたということもあり、当時、イギリスの彫刻界では相当話題になったようです。
そんなライオン像ですが、太平洋戦争の際には、金属回収のために海軍省に供出されてしまったそうです。
しかし、この像は幸運にも溶解を免れていました。
戦後は行方不明とされていたのですが、渋谷区にある東郷神社に奉納されているのを、三越の社員が発見し、昭和21年には無事に本店に戻されました。
東郷神社によると「海軍の担当者の依頼で、神社の敷地内にあった防空壕の中に隠しておいたのです。戦局の悪化を見越して、溶かして武器にする無意味さを悟っていたのでは」とのこと。
このライオン像は関東大震災の際も焼け残っており、震災と戦争を乗り越えてきたことで「日本橋の生き証人」とも呼ばれ、三越の守り神として現在も愛され続けています。
ちなみにですが、2009年に閉店した池袋三越のライオン像は、三越と縁の深い三囲神社に奉納されているそうです。






写真:稲荷神社(三囲神社摂社)
老翁老嫗の石像

 元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠を守る老夫婦がいました。願い事のある人は老婆に頼み、老婆は田んぼに向かって狐を呼びます。すると、どこからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうのです。不思議なことに、他の人が呼んでも決して現れることがなかったそうです。
 俳人其角は、そのありさまを「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と詠んでいます。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を募って建てたのが、この老夫婦の石像であると伝えられています。老嫗像には、「大徳芳感」、老翁像には「元禄十四年辛巳五月十八日、四野宮大和時永、生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれています。
 平成18年(2006)12月 墨田区教育委員会




写真:東京スカイツリー
押上まで歩き、スカイツリーを見上げながらストレッチをして解散となりました。関東大震災以降に人口が急増した山の手地域とは異なり、下町の歴史は奥深いものを感じとても面白い七福神めぐりでした。


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まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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