目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

【ANOTHER VIEW】烏山川緑道コース 約6.0km

2019-02-22 14:27:06 | ウォーキング
集合場所の池尻大橋駅改札口からは、5分も歩けば大橋の雑踏を離れ、川のせせらぎや手入れされた草花を眺めながらの散歩道である目黒川緑道に足を踏み入れる事ができます。
「烏山川コース」は、目黒川緑道と烏山川緑道を上流に向かってたどり、世田谷城址付近で烏山川を離れます。そこから世田谷城址、小田急線豪徳寺駅へと進みます。さらにその先でスタート直後に、目黒川の分岐で分かれたもう一方の北沢川緑道に落ち合います。この川に沿って進み、梅ヶ丘駅近くの羽木公園に至る約6キロのコースです。


池尻大橋の東邦大学病院
緑道をほんの少し上流に進み右手にある東邦大学病院の敷地の一隅をお借りしてスタート前のストレッチを行いました。


目黒川緑道の水仙

水仙

烏山川へ
目黒川緑道を更に7百メートル程歩くと、冒頭に紹介した、目黒川が烏山川と北沢川との分岐点に至ります。烏山川緑道には、川沿いに太子堂小学校、国士舘大学付属中学校・高校、国士舘大学、明正高校、城山小学校が隣接しています。


烏山緑道の梅

太子堂小学校
太子堂5丁目付近では、太子堂小学校の大きな看板が目に入ります。「大志の学び舎」とありますが、「太子堂」「大志」のごろ合わせには思わず苦笑いがでました。


国士舘大学前を歩く

国士舘大学

緑道の白梅

世田谷城址公園

江戸名所図会

世田谷八幡
城山小学校を通過、世田谷城址公園に向かう手前では烏山川緑道を離れて、世田谷城址公園に入って小休止です。休憩の後、世田谷八幡宮に参拝しましたが、向かいにある豪徳寺に立ち寄るのかどうか気になったのですが、


豪徳寺パス

豪徳寺招き猫
ウォーキンググループの先頭に立つ今日の歩行誘導員は、ルートを忠実に守って大変真面目に誘導しています。豪徳寺への寄り道はせず、ひたすらコースガイドの通りゴールを目指しました。邪心で豪徳寺内の招き猫にご挨拶しようと狙っていたのですが、今回は叶いませんでした。(三年前にこのコースをたどった時の豪徳寺の招き猫です、次回は立ち寄りたいですね)


黄色の世田谷線車両
豪徳寺駅に向かう途中、幸運な事に「幸せの黄色い電車」に遭遇することができました。この電車を見ると何故か嬉しくなるのはどうしてでしょうか。黄色は心ときめく特別な色なのかもしれません。


豪徳寺駅構内の招き猫

北沢川緑道
かろうじて、小田急線豪徳寺駅の構内の招き猫には会うことができました。その先の北沢川緑道を通り梅ヶ丘駅付近一帯の広がる羽根木公園にゴールしました。


羽木公園
羽根木公園では世田谷梅祭りが開かれており。色とりどりの梅が盛りを迎えていました。


神泉の串カツ田中
梅の花見を大いに楽しんだ後は、花より団子です。Kさんの奮闘で予約の取れた神泉駅近くの「串カツ田中」に向かいました。7名の参加を得て、団子では無く、たこ焼きと串カツをつまみにビールとハイボールでお腹を満たしました。


吉井


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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烏山川緑道コース 約6.0km

2019-02-17 16:36:18 | ウォーキング
今回はブログを書いている時間がないので、簡潔版で失礼します。


東邦大学大橋病院
この日は土曜日で、いつも会社前の空きスペースをお借りしている東京燃料林産は営業中でした。東邦大学病院の新館が完成し、敷地に入れるようになったので病院の空きスペースをお借りしてストレッチをしました。この病院、男子生徒の通行が多いなぁと思ったら、東邦大学付属東邦高校の生徒さんで、同じ系列なのですね。目黒川緑道からのこの入口が開き、大学病院を訪れる患者さんにとってずいぶん便利になったことでしょう。


烏山川緑道

環状6.5号線工事現場
補助26号線はタモリ倶楽部で「環状6.5号線」として紹介されていた道路です。Wikipediaから引用します。
東京都道420号鮫洲大山線(とうきょうとどう420ごう さめずおおやません)は、東京都品川区八潮橋交差点と板橋区仲宿交差点を結ぶ特例都道である。狭隘区間が多く残るが、おおむね東京都道317号環状六号線(山手通り)と東京都道318号環状七号線(環七通り)の中間を通り、それらを補完する役割を担っている。

中略

通称
中野通り
南長崎六丁目交差点 - 笹塚交差点
(東京都通称道路名設定公告整理番号34)
千川通り交差点~南長崎六丁目交差点、笹塚交差点~大山交差点も含まれることがある。
三宿通り
三宿池尻交差点 - 五本木交差点
26号線通り
目黒郵便局前交差点 - 戸越三丁目交差点
(東京都都市計画道路補助26号線に由来)
ハッピーロード大山商店街(旧川越街道)
国道254号大山西町交差点 - 東武東上本線第16号踏切手前
商店街は大山駅方へ分岐、この区間には都市計画が存在する。
旧養育院(現・地方独立行政法人東京都健康長寿医療センター)前通り
東武東上本線第16号踏切 - 仲宿交差点



下の谷橋



三宿一丁目あたりの水の流れ(清流復活事業)

紅梅
今年は梅の開花とこのウォーキングがタイミングぴったりだったようです。



太子堂小学校
学校の前がずっと整備されていましたが奇麗になりました。目黒区立八雲小学校の前身が「太子堂郷学所分校」ということで、こちらの小学校と関係があるのかなぁと思って調べてみましたが、こちらは昭和4年の開校ということで関係ないようです。


稲荷橋跡
奥に福寿稲荷の鳥居が見えます。



世田谷線若林駅

世田谷線山下駅

豪徳寺

日高屋はハッピーアワー

懐かし感じの本屋さん
ちょっと歩ききるのはむずかしそうな会員がいたので、お付き合いして若林から山下まで世田谷線で移動しました。本体到着まで珈琲という感じでもなかったので、日高屋でしばし休憩。


ジンチョウゲ

アセビ




羽根木公園の梅まつり
ゴールの頃は少し寒くなったのですが、この日は良い気候で世田谷梅まつりも多くの人が出ていました。ウォーキングはこちらで解散です。

東松原駅へ向かい井の頭線に乗りました。マークシティーの銀座ライオンは入れないと断られ、神泉交差点近くの串カツ田中へ。たこ焼きと串揚げを食べて、チンチロリンのハイボールで大いに盛り上がりました。
帰り道に菅刈公園に寄りカンザクラが咲いているのを確認したのち、最近鬼門のONCEへ。前回の反省を生かし、飲みすぎに注意してお酒を楽しみました。


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文化財めぐり中目黒コース 約3.0km

2019-02-11 13:29:51 | ウォーキング
土曜日の降雪の影響が心配されたのですが、予報ほど降らなかったし積もらなかったので無事実施することができました。下見の時は一眼レフで撮ったのでコンデジでそれ以上の写真は撮れません。下見の時には撮らなかった写真でブログをお届けします。下見の様子は、

【下見】文化財めぐり中目黒コースの祐天寺

【下見】文化財めぐり中目黒コース、続編

で見てみてください。解説板の内容などテキストに書き起こしています。



祐天上人かさね済度(仏舎利殿)

五社神社

阿弥陀堂

仁王門

御本堂

お地蔵様

鐘楼

地蔵縁起碑

皇太子殿下御成婚記念樹の碑
目黒区教育委員会が設置した解説板に地蔵堂への言及がなく、阿弥陀堂が区指定有形文化財となっているので、地蔵堂は文化財登録されていないものと思っていました。国登録有形文化財でした。お寺の境内略図から、文化財をピックアップしてみましょう。

[国登録有形文化財]
本堂、書院、地蔵堂、地蔵堂門、水屋(龍)、鐘楼、表門

[東京都指定旧跡]
祐天上人墓

[目黒区指定有形文化財]
阿弥陀堂、仁王門、梵鐘、海難供養碑

地蔵縁起碑は逆光で正面から撮れず裏面です。裏面の方が祐天寺と江戸火消し組のかかわりがわかっていいですね。祐天寺についてお寺の略縁起を引用します。
江戸の高僧・祐天上人

祐天上人は江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧です。寛永14年(1637)に四倉(福島県いわき市)でお生まれになり、芝増上寺で修行されました。50歳の時に増上寺を離れて牛島(墨田区)に草庵を結び、念仏三昧の日々を送りながら「南無阿弥陀仏」の名号を書写して多くの人々に授けました。やがて、その名号を手にした人々がさまざまな利益を得ます。名号の噂は5代将軍綱吉公の生母桂昌院のお耳にも達し、将軍家や皇室、諸大名家からも帰依を受けるようになりました。正徳元年(1711)には6代将軍家宣公から増上寺36世住職を命じられました。一度引退した身でこのような出世を遂げたのは前代未聞のことでした。正徳4年(1714)に増上寺を退隠したのちも、ひたすら念仏と名号書写の生活を送り、享保3年(1718)7月15日に82歳で遷化されました。

目黒の念仏道場・祐天寺

「念仏の道場を建てて欲しい」との祐天上人の遺命を受け、弟子の祐海上人が享保3年に建立しました。当時は新しい寺院の建立が禁止されていましたが、8代将軍吉宗公のお取り計らいにより、善久院という小庵に祐天寺の名を付す形で建立することが特別に許可されました。将軍家から寄進された諸堂宇によって伽藍が整えられ、百萬遍講などの念仏講も結成されて、多くの参詣人で賑わう念仏道場として発展してきました。しかし、明治27年(1894)の火災により本堂などを焼失し、祐天寺は起立以来の危機を迎えます。明治31年(1898)に境内にあった将軍家代々の御霊殿を本堂として曳き移し、そこへ内陣・外陣を増築して復興しました。その後も増改築を繰り返し、平成19年(2007)から同29年にかけて免震工事が施され、現在に至ります。



祐天寺裏交差点

自然園下バス停
古地図によるとこの交差点の北東に馬場があります。目黒競馬場のパドックでしょうか?目黒競馬場から辿ってみるとパドックは目黒通り沿いにあり、こちらはパドックではありません。調教のための馬場?
自然園はあまり知られていませんが、谷戸前川沿いにある解説板、このバス停と、マンション名に名を残しています。




長泉院

イイギリの実
長泉院の彫刻を見学し、アーバンハイツ中目黒わきの階段を下り、松風園ハイツ・コーポの看板で、松風園の説明をしました。


めぐろ歴史資料館


白梅
めぐろ歴史資料館で少し長めのトイレ休憩をとります。


懐かしいポスト


馬繋ぎ石


「陸軍用地」境界石


「三田用水」境界石


宿山組道標(みちしるべ)
宿山組道標(旧所在:上目黒4丁目付近)
宿山組は上目黒村に四組あった組の一つで現在の上目黒・東山あたりを範囲としていました。

前面 世田谷并ふちう
   あをやまほりの内 道
右面 右 碑文谷仁王尊
   いけかみ本門寺 道
左面 左 目黒ゆうてん寺
   ふとうそん道
背面 上目黒村宿山組





宿山組道標


田道橋道標


富士講道標

長泉院道標
古地図で見ると字宿山は現在の上目黒五丁目ですが、宿山組の範囲はもっと広いようですね。この組について記述がある目黒区ホームページから引用します。
目黒の地名 五本木(ごほんぎ)
更新日:2014年2月3日

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 五本木
「五本木」のほか、かつての「中一ツ木」(現八雲三丁目付近)、隣りの港区の「六本木」など、数字と木が組み合わされた地名は、枚挙にいとまがない。
昭和43年1月1日、それまでの上目黒五丁目、三谷町の一部および中目黒三丁目の一部は、「住居表示に関する法律」による町名変更で、五本木一丁目・二丁目・三丁目となった。昭和7年の区制施行によって姿を消した五本木という地名が、ここに再び登場したのである。
旧守屋教育会館郷土資料室(目黒区五本木二丁目)裏手の庚申塔群の中に、「上目黒五本木組 庚申供養塔 文化七庚午年十一月吉日」と記されている碑面がある。江戸時代の村には、「組」という小行政単位があって、年貢の徴収や生活共同体としての機能を持っていた。明治22年まで続いた目黒六カ村の一つ上目黒村は、上知(あげち)、宿山、石川、五本木という四つの「組」から成っていた。
こうした組は、江戸時代以前からあった集落を母体としていたというから、五本木という地名は、室町さらには鎌倉時代へとさかのぼれるだろうが、そもそもの由来は、五本の大樹があり、それがこの地の特徴を成していたことから、地名となったのではないかといわれている。前述の庚申塔群の前を走る細い道は、鎌倉幕府の勢力下にあった関東八州と鎌倉を結ぶため、各地に発達した「鎌倉街道」の一つといわれる。旅人は、この五本の大きな樹木をながめながら、鎌倉へと道を急いだことであろう。
「昼間でさえ、身の毛がよだつほど薄暗く、元気のよい若者でも通ることを恐れた」とは、明治の初めごろの様子を語った土地の人の言葉。今の五本木小学校辺りからわき出ていた水を利用した野菜の洗い場もあったという。今日の様子からは想像すらできないほどのんびりとした農村「五本木」に、宅地化の波が押し寄せる原動力となったのは、昭和2年の東横線の開通であった。


上知組、石川組というのは現在目黒区の地名につかわれていないので知りません。調べてみると上知組は駒場周辺、石川組は大橋周辺のようで上目黒氷川神社は石川組の鎮守となっています。上知組は江戸時代に徳川幕府のお鷹場になっており、それまでの集落が崩壊してしまったのでしょうか。
私が住む上目黒三丁目は宿山組ですが、字烏森と字諏訪山に分かれます。道を隔てると字小川で小川坂や小川児童遊園に小字名が残されています。近所で八百屋を営み現在は廃業してしまった小川一族が住んでいたからという話も嘘ではないのかもしれませんが、調べるのも難しそうです。と、思ったら意外と簡単に見つかりました。目黒区のページから引用します。
目黒の坂 小川坂
更新日:2014年2月3日

「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の坂 小川坂
中目黒駅から山手通りを大橋方面へ向かって歩くと、上目黒交差点から西へ斜めに入る道がある。東山一丁目と上目黒三丁目の境を、烏森小学校のほうへと上るこの道が小川坂。弓のような弧を描く緩やかな坂で、周辺に旧家小川家所有の土地が多かったのが、名前の由来ときく。
小川坂上の寿福寺辺りは、小高い丘陵地帯で、旧小字名を宿山と呼んだ。鎌倉街道のひとつがここを通過していたから、その宿駅という意味であろうか。
小川坂も鎌倉街道の一部で、坂を下ると目黒川に架かる宿山橋から目切坂を経て渋谷へと続き、坂を上ると寿福寺から碑文谷八幡宮、下野毛へと通ずる。昔、坂東武者が鎌倉目指して駆けたこの坂も、現代の馬「自動車」にとっては下りだけの一方通行路である。





中目黒八幡神社

天祖神社の神輿

エリカと目黒区役所
中目黒の鎮守と、伊勢脇の名前の由来になっている神社をめぐり、区役所南門前の中目黒しぜんとなかよし公園でストレッチをして解散となりました。区内のウォーキングの割には人が集まり、28名のウォーキングでした。30名を超える日も来るのかもしれません。

この日は10名で反省会となりました。中目黒の高級イタリアンレストランサイゼリヤでマグナムボトルの赤ワインを二本あけた後、伊勢五本店に行ったようないかないような。。。


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小石川七福神コース 約3.8km

2019-02-07 09:45:29 | ウォーキング
今年二度目の七福神巡りは寒中、節分の前日でした。二月の初回に七福神巡りを行うので、いつも節分前後になるのですが、当日にあたってしまうと豆まきをする寺社もあるので、節分前でちょうどよかったです。


茗荷坂
中目黒→東横・副都心線→池袋→丸ノ内線→茗荷谷と乗り継いできました。高校生の時は後楽園駅を利用していて、中目黒から霞ヶ関経由だったので茗荷谷へ行くときもそのルートが浮かんできます。乗換案内で一番に表示されていたのが池袋経由で、乗車時間22分。霞ヶ関経由だと29分なので池袋経由が最早です。料金はPASMOで払うとどちらも237円ですが、切符を買うと池袋経由が330円で、霞ヶ関経由が240円です。副都心線と東横線が接続してから、PASMO利用は不思議な料金になっています。鉄道会社間ではどのように割り振りしているのでしょう?副都心線と接続して東横線の乗客も増えているので、東急としては細かいことは気にしないのかな?
この日のウォーキングでは茗荷谷駅から茗荷坂を下りてゆきます。このあたりに茗荷が自生していたのだろうと思って文京区のホームページで検索すると、意に反して「29年度ロケ撮影協力実績」というタイトルのページが引っかかりました。引用します。
孤独のグルメseason6 第11話「東京都文京区茗荷谷の冷やしタンタン麺と回鍋肉」
テレビ東京で長年人気のグルメドラマ「孤独のグルメ」に撮影協力しました!
現在season6を迎えた本ドラマ、毎回松重豊さん演じるサラリーマンが仕事の合間に様々な地域の飲食店で食事を楽しみます。今回は文京区の茗荷谷エリアを訪れ、飲食店に加え駅周辺や播磨坂等をめぐります。
撮影の詳細は以下の通りです。

【撮影日】平成29年5月30日(火曜日)
【放送日】平成29年6月24日(土曜日)0時12分~0時52分(23日(金曜日)深夜)予定
【放送局】テレビ東京
【撮影場所】茗荷谷駅及び小石川エリア、文京シビックセンター25階展望ラウンジ


目黒区での撮影許可は結構なお役所仕事で土日は受け付けないようなニュアンスで書かれていますが、文京区はホーム>文化・観光・スポーツ>文京の観光案内>観光に関する計画・事業等>フィルムコミッション事業(区内ロケーション撮影の支援)>ロケ撮影協力実績>29年度ロケ撮影協力実績といった感じで、積極的に撮影を受け入れているようです。見習うべきですよね。
茗荷谷町については、Wikipediaから引用します。
旧茗荷谷町は、小石川台地と小日向台地の間の浅い谷が「茗荷谷」と呼ばれていて、江戸時代、茗荷畑が多かったからといわれており、この町名は、この「茗荷谷」からとったものである。なお、現在は茗荷の本格的な栽培は行われていないが、拓殖大学文京キャンパスの脇の小さな畑で、茗荷が栽培されている。また、茗荷谷駅もこの町名から名付けられている。呼び方として、小石川區史にはめうがだにちょう(旧仮名遣い)と書かれていた。


しばられ地蔵(林泉寺)
茗荷坂を下りてゆくと左側に林泉寺があり、その墓地にしばられ地蔵があります。大岡越前のお話で有名ですね。しばられ地蔵は都内にいくつかあるようで、有名なのは葛飾区の南蔵院です。南蔵院のホームページから引用します。
しばられ地蔵とは What's Shibararejizo ?
 しばられ地蔵尊は、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。
 像高1メートルほどの石の地蔵尊で、元禄14年(西暦1701年)の造立と伝えられています。「文政寺社書上」によると、この地蔵尊は諸願成就、殊に難病平癒に霊験があり、信心の者が祈願するときは地蔵尊を縄で縛り、成就したときには縄を解くことから、しばられ地蔵と称したと記されています。
 毎年12月31日(大晦日)の夜、しばられ地蔵尊の縄解き供養が行われます。また、大晦日と元日には厄除けから縁結びまで、あらゆる願い事を結ぶ開運の縁起「結びだるま市」が開かれます。

しばられ地蔵の由来
 江戸時代の享保年間、八代将軍徳川吉宗の治世。日本橋にある呉服問屋の手代が南蔵院の境内でうっかり一眠りしている間に反物を荷車ごと盗まれてしまいました。
 調べに当たった名奉行、南町奉行大岡越前守忠相は、「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは、地蔵も同罪なり、直ちに縄打って召し捕って参れ」と命じました。
 かくして地蔵はぐるぐるに縛られ、車に乗せられ江戸市中を引き廻され南町奉行所へ。物見高い野次馬が、どんなお裁きが始まるかと奉行所になだれ込みました。
 頃を見計らった越前守は門を閉めさせ「天下のお白州に乱入するとは不届至極、その罰として反物一反の科料申附ける」の一声、奉行所にはその日の内に反物の山が出来ました。
 手代に調べさせるとその中から盗品が出て、それからそれへと調べると当時江戸市中を荒した大盗賊団が一網打尽となったのです。
 越前守は地蔵尊の霊験に感謝し、立派なお堂を建立し盛大な縄解き供養を行いました。
 以来、お願いするときは縛り、願い叶えば縄解きするという風習が生まれ、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られています。

縄解き供養
 12月31日午後11時からは、南蔵院住職による「願かけしばられ地蔵尊」の縄解き供養が行われ、解かれた縄は祈祷護摩の火でお焚き上げされます。
 もうじき年も明けようという頃、住職が除夜の一番鐘を撞き、年が改まったところで地蔵尊に新年の一番縄が結ばれます。
 参詣の人々は、一年に一度縄を解かれた地蔵尊のお姿を拝み、除夜の鐘を撞き、そして新たに地蔵尊に願かけの縄を結び、新年の願いを託すのです。
 ご供養の間、住職、衆僧により聲明が唱えられ、境内に新設された舞台では「伶楽舎」による雅楽の演奏が行われます。荘厳な音の世界に浸りながら、新年を迎える儀式が執り行われます。



拓殖大学

深光寺(恵比寿)


滝沢馬琴の墓
七福神の一つ目は恵比寿様。希望者はこちらで小石川七福神案内帳を100円で購入しました。スタンプ帳になっていてますが、七福神めぐりの期間は終わってしまっているので、すべてのスタンプが埋まるわけではありません。


釈迦坂



徳雲寺(弁財天)
こちらの男弁財天は御開帳されていないので、お姿を確認することはできません。撮影禁止となっているので、御開帳されていたもご紹介できないのですが。


播磨坂


極楽水(弁財天)
こちらは女弁財天です。マンションの敷地内に整備されていますが、誰でも参拝することができます。でもこちらも御開帳されておらず確認できません。台地の縁にあたり、よい湧水が出ていたのでしょうね。



宗慶寺(寿老人)

茶阿局墓碑

珂北野口先生之碑
「野口先生」を調べてみると野口雨情の伯父にあたる方だそうです。野口先生は幕末水戸藩の武家の家に生まれ、混乱した水戸藩の中で生き残り混乱の顛末を後世に伝えたとのこと。関連する「維新史料」についてコトバンクから引用します。
1887年(明治20)より96年まで、野史台(やしだい)により発行された明治維新関係の基本史料集。富岡政信、太田長吉、野口勝一らを中心に、「嘉永(かえい)以後明治五年ニ至ル二十五年間ニ生シ、苟(いやしく)モ国事ニ関スルモノハ事大小トナク網羅蒐集(しゅうしゅう)シテ遺漏ナカラシメン」という編集方針で、毎月1~3回発行され、182編に及んだ。日記、伝記、書翰(しょかん)のほかに、見聞録、落首、条約正文などまで収めた内容豊かな史料集である。現在、東京大学出版会より『野史台維新史料叢書(そうしょ)』として復刻され、手軽に入手しうる。[横山伊徳]


エーザイ本社



真珠院(布袋尊)

墓地にある布袋尊像

観音様
深光寺で購入したスタンプ帳はこちらの真珠院が中心となり作成されたようです。下見で見逃していた、墓地の布袋様にもお参りしてきました。




福聚院(大黒天)

門わきのお地蔵様

子守大黒天

せきどめ地蔵
文京区のホームページから福聚院について引用します。
浄土宗 霊應山 福聚院 鎮護寺
安永3年(1774)開山。三国伝来大黒天。江戸時代から有名で、甲子の日に参れば商売繁盛、金運に恵まれるといわれにぎわった。鎌倉時代の作と伝わる大黒天座像は、古式で簡潔、量感にあふれている。
門を入ったところにあるとうがらし地蔵は、明治の中ごろとうがらしの好きなおばあさんが持病のぜん息に苦しんでいたが、医者からとうがらしを止められていたにもかかわらず食するうちに亡くなった。そこで近所の人があわれんで地藏尊を造りとうがらしを供えた。その後、ぜん息に苦しむ人々が祈願すると治りお礼にとうがらしを供えるようになったと伝わる。


下見の時は平日で、幼稚園児が境内で遊んでいるので入りずらくてお参りが出来ませんでした。この日は土曜日でお参りできてよかったです。







伝通院

処静院跡


清川八郎墓
 天保元年~文久三年(1830~1863)、幕末勤王の志士。羽前(山形県)清川村斎藤治兵衛の長男。嘉永四年(1851)江戸に出て千葉周作に剣を、安積艮斎に儒学を学び、その後、昌平坂学問所に入り文武を学ぶ。はじめ真木保臣・平野国臣らの尊王攘夷運動に参画したが、寺田屋事件に失望して、文久三年幕府の浪士隊(のちの新撰組)結成に参加したが、近藤勇・土方歳三らの佐幕派と対立し江戸に戻され、その後暗殺された。(隣りは貞女阿連の墓)
  文京区教育委員会 平成三年三月



佐藤春夫墓
 明治25年~昭和39年(1892~1964)。大正・昭和期の詩人・小説家。和歌山県の生まれ。明治43年(1910)上京し、与謝野寛の新詩社に入り、永井荷風を慕って慶應義塾大学に学ぶ。はじめ叙情詩人として出発したが、のちに耽美主義の影響を受けて大正8年(1919)小説「田園の憂鬱」を発表し好評を博し小説家として独自の地位を確立した。
 古典的な詩人としては、大正以降の第一人者である。芸術院会員となり、文化勲章を受け、区内関口三丁目の自宅で没した。文京区歌の作詞者でもある
  文京区教育委員会 平成三年三月



善光寺坂のムクノキ

えんま通り商店街
金栗四三の旗が加わりましたね。



源覚寺(毘沙門天)

木造閻魔王坐像 一躯
区指定有形文化財(彫刻)
 源覚寺に伝わる閻魔像で、閻魔堂に安置されている。右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い老婆に己の右眼を与え、老婆は感謝のしるしとして”こんにゃく”を供えつづけたという言い伝えがある。このことから、眼病治癒の『こんにゃく閻魔』として庶民の信仰を集めた。
 像は、高さ100.4㎝。ヒノキ材の寄木造りで、彩色を施し、玉眼が嵌入してある。優れたできばえを示し、運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作と思われる。銘文によると、寛文12年(1672)に仏師竹内浄正が修理している。
 この像は、彫刻美術品として優れているとともに、本区所在の仏像のなかで、古い製作年代に属するものとして貴重な文化財である。
 閻魔王は、冥界にあって死者の生前の罪業を裁断する十王のうち、最も良く知られている。わが国の閻魔信仰は、平安時代後期にはじまり、鎌倉時代に盛んになった。
  常光山源覚寺 小石川2-23-14
   文京区教育委員会 平成5年3月



東京ドーム(福禄寿)
小石川七福神は男女の弁財天がいらっしゃるので八カ所、これで終了です。ドーム総合案内所わきで場所をお借りして、ストレッチをして解散です。


水道橋駅
この駅に来るのは初めてではないものの、相当長い期間訪れていないでしょう。以前は気にならなかっただろう、線路をリサイクルした構造物が気になりました。


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まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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【下見】文化財めぐり中目黒コース、続編

2019-02-04 14:23:57 | ウォーキング
祐天寺を出て、南へ向かうとすぐ谷になって祐天寺裏という五差路があります。バス通りになっているこの道は馬喰坂から続いている古くからある道で、谷戸前川沿いになります。目黒税務署方面から来る暗渠がありますが、古地図を見ると旧区役所方面から来る流れも書かれています。この川跡も機会があれば調べてみようと思います。


谷戸前川暗渠

自然園
中目黒5-12から20
 現在はバス停の「自然園下」にのみその名を残す「自然園」は、大正時代にあった自然を生かした健康増進施設です。
 当時このあたりは清流が流れ、田園風景が広がる、自然豊かな地域でした。農学者の岡見彦蔵は、人々が都会生活を健康的に営むためには自然と触れあう場所が必要であると考え、大正4 (1915)年頃に現在の中目黒5丁目12番から20番にあたる場所に、広さ8300坪ほどの「自然園」を開園 しました。
 園内には野菜やイチゴの畑が作られ、新鮮な作物を提供していました。ま た、走ったり寝転がったりして自由に自然に触れられる芝生の広場や、若者の憧れのスポーツであったテニスコートなども造りました。さらにヤギ牧場では当時珍重されたヤギのミルクを飲むこともできました。
 目黒地域の住宅化の進行に伴い、大正14 (1925)年頃には閉園とな りましたが、大正時代に、新しい思想に基づく健康増進に着目した施設が開 設されたことは注目すべき点です。
   平成24年3月
    目黒区教育委員会




菅沼権之助の墓
 中目黒-6-14
 菅沼権之助は、元禄の頃の中目黒田道に住み多くの人々に慕われていた名主です。
 その頃行人坂の急峻な坂道往来に苦労している人達を見かねて、掟を破り、幕府の許可を受けずに“新坂”を切り開いたので処刑されたと言われています。その行動は人々に惜しまれ今も権之助坂名にその名が残っています。
 権之助の墓はこの敷地内の奥の墓地に建っています。墓石には「元禄十年八月廿五日月桂光秋霊」(1697)という爽やかな戒名が刻まれ、郷土目黒の偉人として今も香華が絶えません。
    平成4年3月
     目黒区教育委員会


坂の名前に名を残していることは事実のようですが、新坂を切り開いた点について疑問の声が多いようです。Wikipediaの菅沼権之助の項目を引用します。
元禄時代の江戸近郊・中目黒村田道の名主。荷を運ぶ人が急坂の行人坂で苦労しているを気の毒に思って、緩やかな権之助坂を開いたとも、地域の貧しい百姓が重たい年貢で生活が苦しいのを気の毒に思って、幕府に年貢の軽減を嘆願したともいわれる。
刑死したが、無断で権之助坂を開いたことを幕府に咎められたとも、貧しい小作農のために年貢軽減を嘆願したことが罪に問われたともされる。年貢軽減説では、罪に問われ引き立てられる際に新坂の上から最後の別れと自分の家を望み、そのために権之助を慕う農民が新坂に権之助の名を付けたと言われる
権之助の話には異説もあり、異説では、実は名主などではなく坂を開いたわけでもなく強盗を働き処刑されたともされる。異説では罪人として引き立てられ晒された坂に名がついたとされる。しかし、権之助の墓は現在も目黒区中目黒5-6にある。強盗で刑死したのであれば当時の情勢では墓を作ることが許される可能性は低く、強盗は同名の別人で、おそらく菅沼権之助は人々のために働いて命を落とした義の人であろうとされる


品川区のホームページの記述はシンプルに説明しています。引用してみましょう。
 江戸中期、中目黒・田道にいた名主・菅沼権之助が村人のために年貢の取立てを緩めてもらおうと訴え出たため、罪に問われて死罪となってしまいました。刑に処せられる権之助は、当時「新坂」と呼ばれていたこの坂の上から我が家を振り返り、刑場に引かれていったそうです。村に尽くした功績をたたえて、この坂を「権之助坂」を呼ぶようになったと云われています。
 また一説では、当時の道路(前述の「目黒道」)は江戸市中から白金を通り、行人坂を下って太鼓橋を渡り大鳥神社に抜けていましたが、行人坂があまりに険しく通行人が難儀していました。見かねた権之助が私財を投じて新しい坂を切り開きましたが、当時は江戸城を守る観点から勝手に道を作ることが禁じられており、権之助は事前に許可を取らなかったために、罪に問われて死罪に処せられたとも云われています。


説明版の「史跡」が消されています。誤って書かれていたわけではなく、何らかの事実が判明して史跡ではなくなったのでしょうか?けれどお話としては「新坂を開削した」が面白そうなので、そういうことにしておきましょう。


松風園の道?
古地図を見るとこの場所に道はなく驪山荘(りざんそう)となっています。松風園住宅として開発されたときに新たに作られた道だと思います。




長泉院
 中目黒4-12-19
 長泉院は浄土宗の律院として、宝暦11(1761)に増上寺45世の大玄和尚を開山として建てられました。
 名前の由来は、「山間より清泉湧出して、境内を続り流るるゆえに、長泉の号あり」と「江戸名所図会」にあります。
 現在境内には、江戸時代後期の儒者松崎慊堂の墓(都指定文化財)などがあります。

普寂徳門自筆仏典注釈書
  区指定文化財(昭和55年9月9日指定)
 普寂徳門(ふじゃくとくもん)は宝永4(1707)年、伊勢国桑名に生まれました。長じて京に出て学び、また諸国を遍歴しながら広く仏教を学びます。その後、近江や京都などで多くの僧に仏典を講じ、宝暦13(1763)年に長泉院に招かれました。徳門は仏教学への造詣が深く、宗派にとらわれない広い視野に立った論説を展開しました。長泉院には徳門の記した多くの注釈書のうち、5種28冊が残されています。それらは華厳宗および天台宗の典籍の注釈書で、徳門の自筆本として大変貴重なものです。
徳門は天明元(1781)年に没し、当寺の墓地に葬られました。
   平成17年10月
    目黒区教育委員会

















現代彫刻美術館
あまりゆっくり見たことがなかったのですが、たいしたものです。「中学生以下の方は保護者の同伴が必要です」とありますが、中学生には刺激が強い?



中目黒南緑地公園
薄氷が張っていますが、台地の縁に湧き出す湧水と思われます。ガスタンクがあった時からこのように水が溜まっていたのでしょう。


松風園ハイツコーポ
古地図で見る驪山荘は鍋ころ坂より北側になっているので、驪山荘を箱根土地株式会社(後の国土計画)が入手して松風園住宅を開発したという話とつながりません。また、ガスタンクになった経緯もわからず、さらに研究が必要です。驪山荘が2万4千坪で、松風園が2万1千坪ということなので、ほぼ一致しているのかな?それにしても西郷従道侯爵邸跡地28万5千坪って、どれだけ広かったんだか。


目黒大使公邸

八幡公園
八幡神社が近くにあるだけでなく、地名も大字中目黒字八幡でした。


中目黒八幡神社

さざれ石

手水

八幡神社拝殿

中目黒八幡神社
  中目黒3-10-5
 旧中目黒村全体の鎮守で、誉田別命(応神天皇)を主神とし、天照大神を合祀しています。
 創建以来、幾度か火災にあい記録や資料に乏しく、創建年代は不明です。現在の建物は堂々とした八棟づくりで昭和11年9月の落成です。
 この神社は昔から十二座の神楽を奏することで有名で、今でも毎年9月の例大祭(第3の土、日)には演目十二座の神楽が奏されています。
 本殿の左側に神社の縁起などが刻まれている八幡神社の碑がありますが、文字には書道の大家豊道春海先生の書かれたものです。
 また境内には高さ30mをこえる榎の名木や、いちょう、けやき、しいなどの古木が茂り、泉が湧き出ている静寂な環境をつくっています。
   平成3年3月
    目黒区教育委員会





天祖神社
  上目黒2-32-15
 古くから伊勢森と言うこの地に鎮座している神社で、天照大神を祭神として祀り、地元人の深い崇敬を受けています。創建の年代は不明ですが、境内には樹齢数百年と推定される老樹が多く、その年代から考えてもかなり古い時代の創建と思われます。
 現在の社殿は昭和8年5月に新築されたものです。毎年9月の第1土日に例大祭が行われ、現伊勢脇町会、現祐天寺町会員が氏子として祭事を行っています。なお、本殿右奥には神輿蔵があり、一年中宮神輿が見学できます。
 境内には、宝永5(1708)年と、道標をかねている享保元(1716)年の2基の庚申塔が建立されています。(目黒区教育委員会掲示より)



目黒区総合庁舎
古地図でこの場所はほとんど農地でわずかに宅地がある程度です。聞いた話を総合すると江戸時代は入会地で、北向きの斜面なので葦などが生い茂り屋根の材料になったと思われます。明治時代になり牛乳の需要が高まり牧場になり、昭和2年にアメリカンスクールとなりました。昭和32年に千代田生命が買い取り、この建物が出来たのは昭和41年6月です。Wikipediaから引用します。
現庁舎はかつて村野藤吾の設計による、旧千代田生命保険本社ビル(1966年)で、外壁の白色アルミ鋳物製ルーバーが印象的な建築物で、1969年にBCS賞(第10回)を受賞している。
2000年10月に千代田生命保険が、更生特例法の適用を申請し破綻した。管財人は目黒区に本社敷地・建物の売却を打診した。
かねてから区役所庁舎の手狭化に直面していた区は、この物件を取得し新庁舎として大規模に改修を行った。
総合庁舎には、他に目黒区保健所、東京都目黒区都税事務所が入居している。 


文化財めぐり中目黒のブログが二部にわたる大作になるとは思いませんでした。郷土の歴史、知れば知るほど面白いですね。


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