目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

目黒健康ウォーキングマップA(駒場コース) 約5.4km

2018-07-31 08:29:13 | ウォーキング
異例のコースをたどった台風12号の影響が残る中、三週間ぶりにウォーキングを実施することができ、暑い中19名の参加がありました。皆さん夏バテの影も見せずお元気な様子です。


水たまりが残る
集合は井の頭線駒場東大前駅改札で普段私は歩いてゆきます。この日は中目黒に出て渋谷経由で集合場所に向かいましたが、渋谷駅ではかなりの勢いのにわか雨が降っており、台風の影響を感じさせます。駒場東大前駅に着くころにはもう晴れていました。




駒場野公園
駒場野公園に移動してストレッチをしてスタートです。地面が濡れているので荷物の置き場に困り、空いていたBBQ広場をお借りしました。地面にはぼこぼこ穴が開いており、近くにセミの抜け殻がたくさんぶら下がっています。


〆切地蔵
淡島通りは江戸時代からある街道なのでしょう。上目黒村と池尻村の境にあるこのお地蔵さまは大切にされていることがよくわかります。こちらは上目黒村ですが、世田谷側にも対抗するようにお地蔵さまが建てられているとのことなので、機会があったら確認してみます。


御用屋敷跡
目黒筋御用屋敷跡
 江戸時代、この周辺は約5万5千坪(約18万㎡)におよぶ御用屋敷の敷地です。この辺りに建っていたと推定される建物は、徳川将軍がこの近くの駒場野へ鷹狩に来た際には食事や休息場所となり、また平素は狩場の管理や準備にあたる鳥見役が詰めていました。
 御用屋敷を含むこの地域は元々、上目黒村の加藤家が拓いた土地でした。寛永3年(1626)に御用屋敷になる土地が加藤家より伊予宇和島藩伊達家へ献上され、同家の下屋敷となりました。そして、幕府によって江戸周辺の鷹狩場が整えられるに従い、享保3年(1718)に伊達家より下屋敷は建物を含めて幕府に差し出されて、御用屋敷になりました。御用屋敷には、将軍家のための「御薬園」も設けられ、薬用の植物が栽培されていました。
  平成22年12月
    目黒区教育委員会

綱差という役人は代々「川井権兵衛」を名乗り、そのご子孫の方が駒場に住んでおられ、以前ブラタモリに出演されていました。
幕末にあった一揆についてWikipediaから引用します。
駒場野一揆
駒場野一揆とは、1867年に起こった百姓一揆である。
近代的な軍隊の整備の必要性に迫られた江戸幕府は、1867年に、上記の整備計画を立てた。この拡張計画の詳細は史料上不明確なところがあるが、概ね現在の上原、北沢、代沢、富ヶ谷等が対象となっていたことは明確に窺える。これらの駒場の北方は、当時は農地よりも林地が目立っていた。
ところが、拡張範囲について風説が広がり、農地を奪われることを恐れた周辺村の農民が、同年8月に一揆を起こし、番小屋を破壊するなどの行動に出た。
幕府がこの一揆に対して地点変更を検討したことを示す史料もあるが、10月に大政奉還があり、練兵場計画は実現せず、一揆の始末もはっきりしないまま終わった。この事件は、幕府の衰退ぶりを示す事件として、目黒区、渋谷区、世田谷区の歴史にしるされている。



駒場東邦中学・高校

陸軍射撃場跡地

警視庁第三機動隊
もともと陸軍村だったこの辺りは警視庁関係の施設が占めています。駒場東邦高校がこの地に設立された経緯はわかりませんが、現在では少数派となった男子校です。射撃場跡地に駐車場を運営しているのは民間業者か、はたまた東邦病院か。


馬神碑

アパート
南西に開けた崖の上に立つのが馬神碑。今でも蹄鉄をお供えする人がいらっしゃるのでしょう。その下にはこの台地の通称「騎兵山」を冠したアパートがあります。


サルスベリ

メドーセージ

キキョウ

ハツユキカズラ

フヨウ

目黒川緑道
目黒川緑道のお花はきれいに手入れが行き届いています。暑い中ボランティアの皆さんのおかげですね。


記念碑

道標

参道

解説板

氷川神社

浅間神社
氷川神社
 祭神は素盞鳴命を主神とし、天照大御神、菅原道真を合祀しています。旧上目黒村の鎮守で、天正年間(1573~1592)に上目黒村の旧家加藤氏がこの地に迎えたといわれています。
 正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年(1905)に前を通る大山街道(現、玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。境内には、花崗岩造りの4基の鳥居や小松石造りの2対の狛犬があります。
 また、石段の下には「武州荏原郡菅刈荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保13年(1842)に建てられた大山道の道標があります。大山道は江戸時代、石尊参り(現、神奈川県伊勢原市の大山への参詣)をする多くの人々が利用しました。
 境内には、目切坂上(現、上目黒1-8付近)にあった目黒元富士から石碑などが移され、「目黒冨士」と称する登山道が築かれています。

  平成22年3月
  目黒区教育委員会



大坂
目黒川にかかっていたのが大橋で、大橋から代官山山脈(勝手に命名)への上り坂は大坂と呼ばれていました。上を走るのが首都高三号渋谷線でその下が国道246号通称玉川通り、と山手通りの立体交差になっています。元の地形は山手通りの高さで、左に見えているビル(日本地図センター)の脇から登るのが本来の大坂です。目黒川と渋谷川が削り残した代官山山脈は交通の難所で、電車を通すための苦労がうかがえます。玉川通りでは盛り土をして巨大な立体交差を作り坂をなだらかにして、東急玉川線を通しました。駒沢通りでは代官山山脈が狭くなっている槍ヶ崎にあったトンネルを崩し、切通しにして都電(開設当初は東急玉川線中目黒支線)を通しました。


レストランボラーチョ
淡島通りに古くからあるお店で、最近はとんとご無沙汰ですが美味しいレストランです。ナスグラタンがおいしかったかな?


松見坂交差点
山手通りと淡島通りの交差点が松見坂です。英文は「Matsumizaka Hill」???坂=Slopeのイメージがあり、Hillには違和感を感じました。和英辞典を引くと坂の項目にHillがありました。用例を見ると「坂の中ほどで=halfway down the hill」とあり、この用例には違和感は感じません。機会があればこの違和感について調べてみたいと思います。


駒場バラ園

井の頭線
渋谷駅を出た井の頭線はすぐにトンネルに入り、神泉駅手前の踏切で一度トンネルから出て、神泉駅はトンネルの中です。そのトンネルから出たところがこの写真の場所。渋谷駅から西に向かう電車は代官山山脈をトンネルで抜けます。


東大駒場一二郎池

駒場図書館

駒場農学校

東京大学博物館

東大教養学部一号館

いちょう並木

野球グランド
木の多い東京大学キャンパス内は他より気温が一、二度低い感じがします。真夏のウォーキングには林試の森公園同様にありがたい訪問場所です。


嘉納治五郎
講道館を作った人くらいのイメージしかなかったのですが、小泉八雲の短編集を読んでいた時に五校の学長だったことを知り、ちょっと調べてみました。東京大学文学部卒業だそうです。Wikipediaから一部引用します。
教育者として
嘉納は教育者としても尽力し、1882年(明治15年)1月から学習院教頭、1893年(明治26年)より通算25年間ほど東京高等師範学校(東京教育大学を経た現在の筑波大学なお、筑波大学キャンパス内にも立像が建っている)の校長ならびに東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)校長を務めた。
また、旧制第五高等中学校(現・熊本大学)校長(部下の教授に、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)等がいた)、嘉納自身が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」を校是とした旧制灘中学校(現・灘中学校・高等学校)の設立にも関わるなど教育者としても尽力する。ほかにも、日本女子大学の創立委員にも加わる。文部省参事官、普通学務局長、宮内省御用掛なども兼務した。
1882年には英語学校「弘文館」を南神保町に創立し、また1896年には清国からの中国人留学生の受け入れにも努め、留学生のために1899年に牛込に弘文学院(校長・松本亀次郎)を開いた。のちに文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、治五郎に師事した。魯迅の留学については2007年(平成19年)、中華人民共和国国務院総理・温家宝が来日した際、温の国会演説でもとり挙げられた。また旧制第五高等学校の校長だった頃、旧熊本藩の体術師範だった星野九門(四天流柔術)と交流している。
1887年(明治20年)、井上円了が開設した哲学館(東洋大学の前身)で講師となる。棚橋一郎とともに倫理学科目を担当し、同科の『哲学館講義録』を共著で執筆。1898年(明治31年)、全国の旧制中学の必修科目として柔道が採用される。



二ツ橋バス停
駒場東大裏の渋谷区との区界になっている行幸通りにあるバス停です。目黒区でももっとも標高が高いこの場所に「橋」の名を持つバス停があるのは不思議です。この先目黒区の最北端に「三角橋」という交差点もあります。行幸通りはもともと三田用水沿いの道で、用水に架かる橋があったためそれが地名になり、このようなバス停があるものと思われます。先ほどの玉川通りの大坂を切通しにせずに大橋から盛り土をしてなだらかな坂にしたのも、代官山山脈の尾根を三田用水が通っていたからかもしれません。切通しにした駒沢通りでは掛樋を作り、三田用水を流していました。その光景は私にも記憶があります。
行幸通りについてはあまり資料を見つけることができないのですが、東京大学(現在の東大先端科学技術研究センター)へ天皇陛下の行幸があり、その部分だけ道路が整備されたと聞いたことがあります。その話の通り三角橋から北側の道は急に狭くなります。この部分は現在拡張工事が行われ、やがて環状6.5号線として開通します。


アサガオ



旧前田家本邸(和館)
旧前田家本邸(和館)

 国指定重要文化財(建造物)
 平成25年8月7日指定
 駒場4-3-55

 昭和5(1930)年に竣工した木造二階建の近代和風建築で、隣接する昭和4年竣工の洋館とは渡廊下でつながっています。和館の設計には、塚本靖(工学博士)と佐々木岩次郎(帝室技芸員)とその息子佐々木孝之助(建築士)が携わっています。併設する茶室および茶室待合は、三代目木村清兵衛の設計です。
 旧加賀藩主の系譜をひく第16代当主前田利為侯爵とその家族は、洋館を日常生活の場としていて、和館は主に迎賓施設として使用していました。
 一階の主室「御客間」は床、付書院、違い棚を備える書院造です。隣の「御次之間」とは続き間となっていて、合わせると四十畳ほどの大広間となり、南面には池泉庭園が望めます。大広間では、欄間の精緻な透かし彫りや、襖の引手など金物の一部に、前田家の家紋「梅鉢紋」の意匠を見ることができます。
 旧前田家本邸は、第二次世界大戦中に前田利為侯爵が戦死すると、前田家の手から離れました。戦後しばらくは接収され、リッジウェイ連合国最高司令官の官邸などに使用されました。現在は区立駒場公園となり、洋館・和館ともに一般公開されています。

 平成29年3月
  目黑区教育委員会


この和館近くに中島飛行機の社長の家があり、停めてある車はスバルでした。


駒場公園

ケルネル田圃

駒場野公園正門門扉
ケルネル田圃はずいぶん雑草がはびこっているようです。再び駒場野公園へ戻り、ストレッチをして解散となりました。

この日は女性陣も一緒にマークシティのライオンへ。久しぶりのライオンのビール、美味しかったです。次回の活動日8月4日は「ビヤホールの日」で、ライオンでは生ビール全品半額になります。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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二年連続で中止となりました

2018-07-17 09:52:13 | ウォーキング
【中止】目黒健康ウォーキングマップN(緑ヶ丘コース) 約4Km
この日のウォーキングは中止になりました。予想最高気温が33度を超える日は中止という内規があり、予報は33度から35度までありましたが完全アウトです。このコースは都立大学駅に集まり......


緑ヶ丘コースは昨年に続き二年連続で高温のために中止となりました。昨年の記事を読み返してみると立源寺の蓮の花の写真と「まだ少し早いのかな?」とのコメントがありました。
でもよく見ると、すでに実になりそうなものもあり、花が開いていないのは時間的なものかな、という気がします。東京では盆供養も終わり、蓮の花はこの盛夏に一服の涼をもたらしてくれます。暑いけど、どこかに蓮の花でも見に行こうかな!

お盆の時期について7月のお盆は東京だけと考えていたのですが、そうでもなさそうなのでWikipediaから引用します。
伝統的には旧暦7月15日にあたる中元節の日に祝われた。日本では明治6年(1873年)1月1日のグレゴリオ暦(新暦)採用以降、以下のいずれかにお盆を行うことが多い。

 1. 旧暦7月15日(旧盆) - 沖縄・奄美地方など
 2. 新暦7月15日(もしくは前後の土日) - 函館、東京・横浜・静岡・栃木市旧市街地、金沢旧市街地、白山市旧美川町地区、かほく市旧高松町高松地区など
 3. 新暦8月15日(月遅れの盆。2.の地方では旧盆とも) - ほぼ全国的
 4. その他(8月1日など)
現在では3.の月遅れ開催がほとんどである。しかし、沖縄県では現在でも1.の旧暦開催が主流であるため、お盆の日程は毎年変わり、時には9月にずれ込む。8月1日開催の地域として、東京都多摩地区の一部(西東京市の旧田無市域・小金井市・国分寺市・府中市・調布市など)や、岐阜県中津川市付知町および加子母が知られる。これはかつて養蚕が盛んだった地域で、8月1日前後が養蚕の農閑期にあたっていた名残である。
なお、旧暦での盆を旧盆と言うが、一部の地方を除いて通常、新暦での盆は新盆とは言わない。新盆(しんぼん、にいぼん、あらぼん)は別の意味となる。



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東部地区コース 約5.3km

2018-07-09 10:47:16 | ウォーキング
この回から八月末までの8回のウォーキングは真夏バージョンとして歩行距離を5km程度として、日陰があるところを選んでいます。


ナイアガラが所有するSLの主動輪

平塚幼稚園
祐天寺駅前のみよし通り商店街から平塚幼稚園に入る入り口のところにこの動輪が展示されています。所有者はナイヤガラというカレーショップ。このカレーショップは何度か移転していますが、私が知る限り半世紀前には高架になる前の踏切の脇にありました。この動輪はC57117のもので、日豊本線を走っていたそうです。
小学校の同級生には平塚幼稚園の出身者が結構いたように思います。幼稚園のホームページから引用してみます。
平塚幼稚園について
 平塚幼稚園は昭和24年(1949年)2月、戦後の混乱期で資材や器材も乏しく、地域に子どもたちの通う園がなかった時代に、各方面からの協力を得て開園しました。
 都心の限られた環境の中で、できるだけ自然を生かし、仲間との活動を通じて幼児期を育ち合えるような保育を目指しています。

毎日の仲間との生活を大事にしながら
一人ひとりの子どもの関わりを大切にしています
・走り回れる広い園庭
・子どもたちの育ちに必要な自然環境
・子どもたちが主人公になった生活を大事にし、一人ひとりの人格を育てています

あそびの時間をたっぷりとっています
・子どもたちに『一番楽しいことは?』と聞くと、必ず『あそぶこと』と答えが返ってきます。 あそびは子どもにとっては自分の意欲・自発性・集中力・判断力・身体機能発達など、全てを養い、また満足・充実感をもたせてくれます。
・おもちゃとあそぶ、テレビを見るといったあそびではなく、仲間と関わってあそびます。 その中で相手(友だち)の気持ちを知る、ルールを作り出していくなど、どう仲間と生活していったらよいかを学んでいきます。
 たとえば、ケンカもただやめなさい、という指導ではなく、社会生活のルールやどうしたらよいか筋みちにそって考えていく場としてとらえています。
 このような点からも、子どもの成長にあそびは大事なのです。

仲間の中での関わりを大切にしながら
子どもたちの発達に必要な活動をします
年少児は……『お母さんと自分』の世界から出て、幼稚園という初めての集団の中で、自分以外の人(相手)を意識していきます。 友だちと2人で砂場で山をつくったり、体を動かしたり、踊るなどの活動をします。
年中児は……基本的な身の回りのことが自分でできるようにしていきます。 仲間のなかで、一人ひとりが自分の意見を出せたり、のびのびと絵を描いたり、体を動かして表現するなどのことをします。
年長児は…… 仲間と関わって一緒に考えたり相談しながら、畑活動、合宿、動物小屋、運動会などに取り組みます。 また、それらの体験をみんなの前で発表したり、絵画制作や運動に取り組みます。

動物も子どもたちの仲間です
 動物小屋にはにわとり、アヒルなどがいます。 はじめは怖がっていたり、いじめていた子も、年長組と一緒にえさをあげたり、さわったりしていくうちに慣れてきます。
 また、卵からひよこがかえり、大きくなっていく様子をみて、その動物の生態を知り、自分より小さい生き物への関心や生命の大切さを感じていきます。
 年長組が毎朝えさをつくり、世話をしています。

畑(土をさわる体験のない子がふえています)
 みんなで土を耕し、堆肥を運び、野菜をつくります。 ミミズや虫を見つけたり、発表や成長の様子を通しての新しい発見や驚きがあります。 収穫物は味噌汁やおやつにして楽しんでいます。

毎日歩いて登園します
 ふだん、乗り物に頼りがちな生活の中で、自分の足で歩いて幼稚園に来ることによって、歩く力、足の力を養っていくことになります。 また、忙しく過ごしてしまう毎日で、子どもとの会話、子どもの話を聞く、親と子のふれあいのひとときにもなります。

積極的に園外へ出かけていきます
(田んぼ・いもほり・たこあげなど……)
 子どもの生活の範囲を広げます。
 テレビや図鑑、本からの知識だけでわかったつもりになっている子どもが多くなりました。 都会の子どもだからこそ、自然に直接触れる体験が大事です。 幼稚園では友だちと田んぼに出かけていって、米づくりの一連の仕事を体験します。 田起こし、田植え、稲刈り、そして自分たちでつくったお米を食べます。 レンゲを摘んだり、かかし立てや虫を捕まえるなど、見たり触れたりの経験から、感じる心が育ち、感性がみがかれていきます。
 年長児は、小さい子たちの手をつないであげて出かけます。

お母さんがつくったお弁当を食べます
 たくさんの食品が今、氾濫しています。 生活習慣病が幼児期まで低年齢化していること、食品添加物、食品に関する問題が多く出されている現在、お母さんたちが自分の目で確かめ、その子どもの年齢や季節にあったものを作ることが大切になってきます。
 また、お弁当のときには、幼稚園の畑でみんなが作った野菜をおひたしにしたり味噌汁に入れて、当番の子どもが運んで食べます。




明顕山 祐天寺
祐天寺の境内をお借りしてストレッチをしてからウォーキングの開始です。現在でも消防と縁の深いお寺ですが、関連の話を「東京荏原歴史物語資料館」のページから一部引用します。
まといは堂内の天井にも描かれているという。祐天寺は江戸の町火消しと関わりが深いそうだ。というのも、火消しの組織の原型を作ったのが祐天上人とされているからである。祐天上人が増上寺の大僧上にもなったが、その頃増上寺は火災が大変多かったそうだ。そこで祐天上人は、寺内に火消しの組織を確立し、防火を行った。これが町奉行大岡忠相によって江戸の町にも応用され、町火消しができたという。そういう縁があるので、今でも正月の出初式のときには、消防団がお参りに来るのだと、郷土史家の先生はおっしゃっていた。


祐天寺裏五差路
祐天寺の裏は谷戸前川が削った谷になっており、川沿いのバス通りを含めた五差路になっています。駒沢通りがあるので、この五差路を通る車は多くありません。


油面小学校
さらに南下すると油面地蔵通り商店街があり、右側に油面小学校があります。油面は産業が地名となった良い字名だと思うのですが、現在の住所表示には使用されません。目黒区のページから引用します。
目黒の地名 油面
「油面」は、衾・碑文谷などとともに、初めての人にはまず読めそうにない地名の一つ。もとは、現在の中町一丁目に、同二丁目、中央町二丁目の一部を加えた一帯の旧字名だが、その名は、油面小学校、油面公園をはじめ、商店街通りや交差点、バス停などに今も残り、「住区」の名称ともなっており、その長い歴史に新たな一ページを加えている。
さて、「油面」の地名は、多くの地名の例に漏れず、土地の産物にちなむもの。江戸時代の中ごろから、この辺り一帯では菜種の栽培が盛んとなり、絞った菜種油は芝の増上寺や、その流れをくむ祐天寺の灯明用として使われていた。この油の奉納に付随して、絞油業に対する租税が免除されていたらしく、油製造により税が免ぜられている村、すなわち「油免」が、いつしか「油面」となったと伝えられる。
ただし、「面」については、韓国などで、村長のことを面長といっているように、「村」の意味とする説もあり、この説によれば、「油面」は、単に「油のとれる村」の意味となる。
なお、菜種の栽培は昭和の初めごろまで行われ、開校当時(大正14年)の油面小学校は、菜の花畑と竹やぶ、雑木林に囲まれた、畑の中の学校だったという。路線バスが商店街や住宅地を縫うように走る今日の町並みからは、想像もできない風景である。


油面小学校は区内でもかなり古い開校を誇ります。八雲小学校(1874年)、菅刈小学校(1875年)、下目黒小学校(1878年)、碑小学校(1879年)、中目黒小学校(1901年)、油面小学校(1924年)となっており、碑小学校までは19世紀の開校です。この時期に目黒区はなく、八雲小学校は衾村で初めて、菅刈小学校は上目黒村で初めて、下目黒小学校は下目黒村で初めて、碑小学校は碑文谷村で初めて開校した小学校でした。並べてみると区内oldest4は立て続けに5年間で開校していました。20年以上開いて旧中目黒村の中目黒小学校。1889年に三田村、上目黒村、中目黒村、下目黒村が合併して目黒村になっているので、中目黒小学校は目黒村に誕生した小学校となります。さらに20年以上開いて油面小学校が開校するのですが、この時点で目黒村は荏原郡目黒町となっています。小学校のある場所は旧中目黒村のようです。

東京府荏原郡目黒町全図
この地図を見ると油面の字名は中目黒村と下目黒村の両方に見ることができます。五本木の字名も同じように上目黒村と中目黒村に見ることができます。なかなか面白い。


目黒競馬場向こう正面の直線
目黒競馬場を突っ切るように南下してこの直線路に出ます。この道は元競馬場というより競馬場の周回道路だったと思われます。目黒競馬場の正面スタンドは目黒通りを背にしておかれ、厩舎は目黒通りを挟んで北側に置かれていました。


林試の森公園つばき門


七夕飾り

林試の森公園
羅漢寺川緑道を横断してつばき門から林試の森公園に入ります。めぐろウォーキング塾の合同地区ウォークで訪れた際、短冊に書き入れた七夕飾りがありました。よく見る光景ですが、短冊に書き入れるシーンから見ているのは今回が初めてです。
今年は梅雨明けが早く、7月にならないうちから夏空が広がっていたのですが、何か物足りないと感じていました。暑さに拍車をかけるような蝉の合唱がありません。この日の朝、今シーズン初めて聞いた蝉の声はミンミンゼミでした。ニイニイ蝉の方が出現が早いように思いますが、最近はニイニイ蝉はいないのかな?子供の頃はアブラゼミしかいない印象だったけど最近はミンミンゼミが増えました。クマゼミの生育域が北上しているという話も聞きます。東京でもクマゼミが席巻する日が来るのでしょうか?あれはうるさい!


石古坂のブドウ

龍泉寺三福神

山門前の不動明王と??

独鈷の滝

お不動様

大日如来坐像
石古坂を下り山手七福神の一つ恵比寿神を祀った三福神の前を通り山門から目黒不動龍泉寺にお参りしました。設定したルートではお参りせずにトイレ休憩の予定だったのですが、暑さを避けるため林試の森でトイレ休憩をして、こちらでの休憩の必要がなくなりました。夏場は汗をよくかくので、そもそもトイレ休憩を必要とする人が減ります。
休憩しないからと言ってめぐろ界隈で一番の観光地だった目黒不動にお参りしないのもなんだと思い、独鈷の滝をみて、男坂を登り、お不動様にお参りし、本堂裏の大日如来もお参りして、不動公園側から龍泉寺を出ました。


甘藷先生墓
この文字は青木昆陽先生の直筆という話をして、「自分で『先生』と書きますかねぇ」と言ったら、「先に生まれたことには違いない」との答え。さすが長老!


国旗掲揚台

目黒新橋
国旗掲揚台には「目黒区下目黒」とありますが、現在の住所は目黒一丁目とのこと。川を挟んで西側には下目黒小学校があり、下目黒村の中心地だったのでしょうか?目黒駅から下ってくる権之助坂は行人坂のバイパスとして開通したため、この橋は新橋となりました。


ドレメ?
目黒川遊歩道ふれあい橋下の壁面に描かれた絵です。


目黒清掃工場
清掃工場は建て替えのための解体中で、注目の煙突の解体も始まっていました。四本の足場をかけて、リフトが昇り降りしています。上から解体してリフトで下ろす工法のようです。クレーンで下ろすより風に強いのでしょうか?煙突を上から輪切りにして四分割し、それぞれの足場にリフトを付け替えて下ろしてゆくのかな。

川沿いを上流へ遡り、舟入場でストレッチをして解散しました。時間がちょうどよかったので「宝来へ行こう!」と古くからある中華料理屋に入りました。運よく座敷に陣取り、閉店まで飲むは飲むは!4人で生ビールの後、大瓶10本は空けたと思います。餃子、レバニラ、焼きそば、チャーハン、どれもおいしかったです。ごちそうさまでした。


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めぐろウォーキング塾終了

2018-07-06 11:00:11 | ウォーキング
先日めぐろウォーキング塾の最終回を実施しました。80名を定員として募集して、79名の申し込みがあり、実際に参加されたのは69名で7回以上出席した37名に修了証を発行しました。その中身について振り返ってみたいと思います。

第一回
講演内容:メタボリックシンドローム対策としてのウォーキングの有用性
講師:早稲田大学スポーツ科学学術院 教授 坂本静男氏


 塾の基調講演としてウォーキングの有用性についてお話しいただきました。基調講演にふさわしい内容でわかりやすかったと感じていますが、参加者の中には「むずかしかった」というご意見も見られました。

第二回~四回
内容:地区ウォーク


 塾生に実際にウォーキングクラブの活動にご参加いただき、座学では味わえない体験を通じてウォーキングの楽しさを伝えることができました。

第五回
講演・実技内容:インターバルウォーキング
講師:日本陸連上級インストラクター 長谷川佳文氏


 血圧の上げ下げをコントロールしながら行うウォーキング理論です。ネットで検索すると「インターバル速歩」という呼び方の方が一般的なようです。通常のウォーキングより運動効果を高めることができます。

第六回
講演内容:教養としてのウォーキング
講師:東京大学対学院総合文化研究科


 健康な体を維持するためのウォーキングの有用性についてお話しいただきました。健康維持を目的として運動するのは人間だけで「ウォーキングも教養の一部」と言った内容でした。科学的データをもとに、わかりやすくお話しいただきました。

第七回
内容:合同地区ウォーク


 塾生の皆さんと目黒川、目黒不動、林試の森公園を歩きました。樹木の多い林試の森公園が気持ちよかったという声が目立ちました。5.3kmのウォーキングでしたが「こんなに長い距離を歩いたのは初めて」という声もあり、普段歩きなれている私たちには思いもよらないご意見でした。

第八回
講演・実技内容:ノルディックウォーキング
講師:日本ノルディックウォーキング協会マスタートレーナー 長谷川佳文氏


 Leki社のノルディックポールを使用した実技指導でした。長谷川先生はこの分野では第一人者で様々な教室でノルディックウォーキングを推進しています。目黒区内では碑文谷体育館に常設の教室があります。

第九回
内容:講評 運動結果と今後のウォーキングの取り組みについて
講師:日本ノルディックウォーキング協会マスタートレーナー 長谷川佳文氏


 目黒ウォーキング協会ではウォーキング効果の見える化を推進し、血圧と心拍数の変化に着目してウォーキング塾を運営しています。塾生にはウォーキング塾の期間中血圧と心拍数を記録していただき、ひと月間の変化を長谷川先生が分析してお伝えしました。改善がみられた方もそうでない方も、ウォーキングを通じして健康寿命を延ばしていただきたいと思います。


目黒ウォーキング協会は理事会にて塾生から頂いたご意見を分析し、来期にはさらに楽しいウォーキング塾を提供できるよう努めてまいります。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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東横フラワー緑道・中華街コース 約6.6Km

2018-07-03 09:27:18 | ウォーキング
前日までめぐろウォーキング塾の地区ウォークをしていたクラブもあるのですが、すこやか歩こう会ではこの日から通常モードに戻りました。予想最高気温が33度だったので通常ならば中止とするところですが、会食の予定があり自由参加となりました。いつもは歩行誘導員の方にお世話いただいているのですが、担当歩行誘導員を含めてご自身の体調を考えてご参加くださいという意味の「自由参加」となりました。



東横フラワー緑道
2004年にみなとみらい線開通に伴い、東横線横浜駅は地下へ移り相互接続が始まりました。東白楽・反町間で東横線が地下にもぐることになり、線路の跡地に整備されたのが東横フラワー緑道です。中目黒GTに集合し、中目黒から急行に乗り菊名で乗り換えて東白楽駅を目指します。この時期は午前中に歩くので、スタートは通常10時なのですが、横浜方面へ向かう際は9時45分になります。週末10:03の急行が武蔵小杉止まりになってしまうので、10:00以降最速で横浜に到着する列車が10:13の特急までなく待ち時間が長くなってしまうことに加え、この特急が混むので9時45分スタートにして無駄な待ち時間をなくしています。
東横線の優等列車は急行と特急が交互に来るのですが、特急の5分後に急行が来て、そのあと特急が来るまでは10分の間隔があるので急行の方が座りやすいというメリットがあります。中目黒・横浜の所要時間は急行が27分、特急が23分ですが急行が特急に抜かれることはありません。
渋谷・横浜間を結ぶ東横線は横浜が渋谷の南西にあるので渋谷寄りが東で横浜寄りが西という印象があります。しかし横浜に向かい白楽駅の次の駅が東白楽になり「どうして?」という疑問が湧く(そんなことを考えているのは私だけ?)ので、調べてみると白楽・東白楽間はほぼ南下しており、東白楽の方がわずかながら東にあるそうです。その差経度にして5.3秒です。白楽駅の名前の由来をWikipediaから引用します。
駅周辺は神奈川宿の伯楽(ばくろう。馬喰、博労とも書く。馬を治療したり仲買したりする人)が多く住んでいたため、伯楽が転じて白楽(はくらく)となったもの。馬喰に因む地名は日本各地に存在する。白楽天とは無関係。


ストレッチにお借りした二ツ谷公園
風があり、時々雲がかかるものの、梅雨明けしたこの日は太陽が容赦なく照り付けて、日陰のないこの公園のわずかな日陰に隠れながらストレッチをしました。


ムクゲ

アジサイも終わり


アバカンサス

サンドアート
この時期アバカンサスがいつもきれいに咲いています。記録的な速さの梅雨明けでアジサイも「ちょっと待てよ!」と言いたいところでしょう。


東横フラワー緑道

ミッキーマウスの木

キバナコスモス

線路の装飾

反町駅
線路の跡地ということで広さもあり、アップダウンが少なくとても歩きやすい道です。オブジェと言っていいのか線路のようなものがありますが、東横線の狭軌より広く、標準軌くらいありそうです。反町駅は歩道橋で東海道を越えた高い位置にありました。



高島山トンネル

トンネルを抜けると下り坂
渋谷・桜木町間を走っていたころの東横線にはトンネルが二つあり、この高島山トンネルと、現在も残る代官山トンネルです。高島山トンネルの路面にも、線路がデザインされているのですね。


横浜駅近くの工事現場
ここはずっと工事が行われていますが何になるのでしょう?東横フラワー緑道はこの先線路跡を桜木町まで行けるようになりますが、この先の開通はずっと先になるとのことです。


新田間川

きた東口通路

横浜ポルタ
きた通路を通り西口から東口へ移動します。中央通路はものすごくたくさんの人が歩いていますが、こちらのきた通路は歩きやすくてより利用させてもらいます。横浜ポルタの開業は1980年だそうです。大学に入った頃ポルタにある写真屋さんでフィルム販売のアルバイトをしたことがありますが、出来立てだったのですね。


そごう横浜店 鐘の塔

はまみらいウォーク


帷子川
「鐘の塔」について動画の投稿はあるものの、これそのものの説明は見当たりませんでした。そごうの隣のスカイビルにある銀座ライオンには先日行きました。西口より混んでいないのでいいのですが、ジョイナスのライオンの雰囲気もいいんですよね。帷子川(かたびらがわ)ではいつもヨットの模型船を浮かべている人がいます。


日産グローバル本社
SUPER GTというカテゴリに参戦するニスモチーム23号車「MOTUL AUTECH GT-R」だそうです。


みなとみらい地区の歩道橋

風力、太陽光発電


横浜美術館

ランドマークタワー
みなとみらい地区にはまだまだ広大な空き地があり開発が進んでゆくことでしょう。美術館前の噴水で子供の水遊びがうらやましいです。炎天下で大人でも水を浴びたくなるような気温で、数人のお母さんは子供と一緒に水遊びをしています。


ドック・ヤード・ガーデン

ハード・ロック・カフェ

日本丸シーカヤック教室


練習帆船日本丸

インターコンチネンタルとコスモクロック

汽車道
横浜博覧会は1989年だったそうです。メイン会場となっていたこのあたりが「ザ・ヨコハマ」という感じがします。汽車道の線路のデザインも東横フラワー緑道と同じ幅ですね。横浜博覧会の頃にはまだ貨物の線路があり、ここを歩けるようになったのは博覧会の十年後だそうです。汽車道についてWikipediaから引用します。
汽車道は元々、ウィンナープロムナードと呼ばれていたが、1996年(平成8年)に行われた名称公募により改称となった。1911年(明治44年)開通の旧横浜駅と新港埠頭を結ぶ臨港線(通称税関線とも)の廃線跡を利用し、その一部にあたる約500mの区間をレールも残した上で緑地として整備したものである。
この臨港線は当初貨物輸送目的で作られたもので、新港埠頭内の横浜港荷扱所(後に横浜港駅へ昇格)を経由して岸壁や倉庫の前、さらに横浜税関構内の荷扱所まで結んでいた。一方、1920年(大正9年)からはサンフランシスコ航路の出航日に限り、旅客列車(ポートトレイン)の運行が行われるようになった。戦後は米軍により一時接収されたが、1952年(昭和27年)に返還され、以降1961年(昭和35年)の氷川丸の最終航海時まで旅客運送が行われていた。
その後、貨物支線としては1986年(昭和61年)に廃止となったが、1989年(平成元年)の横浜博覧会開催時にはこの路線を利用して会場ゲートがあった桜木町駅近辺(日本丸駅を設置)から山下公園の氷川丸付近(山下公園駅を設置)まで旅客列車(気動車)の運行を行い、博覧会終了と共にこの区間も廃線となった後、1997年(平成9年)に汽車道として整備されるに至った。
汽車道は日本丸側と新港地区を2つの人工島並びに3本の橋梁で結ぶ構造となっている。また、開通当時に架設されたアメリカ製とイギリス製のトラス橋を改修・保存しており、新港地区からの列車が頻繁に行き来していた頃の、かつての面影を残している。



高岡丸のイカリ


赤レンガ倉庫
いつもイベントをやっていて全貌が見えない赤レンガ倉庫ですが、この日は全貌が見えました。


象の鼻パークの転車台
開港当時の横浜港です。


大桟橋ターミナル

山下公園から大桟橋

山下公園からベイブリッジ

氷川丸
象の鼻パークの転車台は関東大震災で埋もれていた遺構が公園の整備時に見つかったものですが、山下公園もまた震災と大きくかかわっています。Wikipediaから引用します。
関東大震災の復興事業として、横浜市助役だった楢岡徹らが瓦礫などを使って海を埋め立て造成して、1930年(昭和5年)3月15日に開園した。面積は 74,121m2 。なお、横浜市は「日本最初の臨海公園」としているが、海に面する公園が当時既に存在しており、定義が明確ではない。
開園後40年に渡り、公園前面の海面を埋め立て埠頭とする計画が提出されるも、これは実現せず、後に東の隣接地に山下埠頭が造成された。現在、同海面地下にはトンネル構造の臨港幹線道路が計画されている。


山下公園でストレッチをした後、中華街での会食となりました。暑い中歩いた分だけビールがおいしいと思ったのですが、紹興酒もおいしかった。歩いた後の楽しくお食事が、すこやか歩こう会のモットーです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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