目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

善福寺川公園コース 約6.6km

2020-01-31 09:51:01 | ウォーキング
朝はまだ雨が降っており13時からのウォーキングを行うべきかどうか難しい判断でしたが、夕方には晴れ間もあるという予報を信じ活動「あり」とメーリングリストで連絡を出しました。
予報通り雨はやみましたが、寒い寒い曇り空の中集合場所の西永福町駅へ向かいました。


理性寺
駅近くの商店街の中にあるこちらのお寺の前をお借りしてストレッチをしました。お寺については杉並区のホームページから引用します。
当寺は法華宗法真山理性寺といい、本尊は十界諸尊の曼荼羅です。
『御府内備考続編』によれば、当寺は承応3年(1654)、大久保越中守忠辰、忠陰兄弟が両親の忠当夫妻を開基として、その菩提のために創立したものです。
寺名は、夫妻の法名、法真院殿・理性院殿に因んで法真山理性寺としました。
創立にあたっては、内藤新宿四谷大木戸(現新宿区新宿一丁目付近)に、大久保家下屋敷の名義をもって草創し、後に老中久世大和守広之の許可により、境内地として使用することになったと伝えられています。
現在地に移転したのは大正3年(1914)です。
境内の左手には大黒殿があり、中には「火伏せの大黒天」と呼ばれる高さ約12センチメートルの木彫りの小さな大黒天が安置されています。
この大黒天は、高祖日蓮の作と伝えられ、お経の「経」の字を形取っており、寛政6年(1794)御殿医木村検校によって奉納されたものといわれています。
「火伏せ」の由来については、当寺が新宿に在ったころ、近隣火災の折、大黒天が大団扇をもって現れ、類焼から守ったことによると言われています。
以後、火伏せの守り神として今も、甲子の日に「大黒天甲子祭」が行われています。
墓地には、戯作者伊庭可笑・幕府医官林恒斎・初代杵屋三五郎の墓等があります。

平成23年3月



不二家
方南通りが井の頭通りに突き当たる西永福交差点の手前に昔からあり、社会人成りたて頃に何度か行った記憶があり、ちょっとなつかしい。


大宮八幡宮南参道鳥居
この鳥居はステンレス製です。見た目ではわかりませんが。


大宮幼稚園
毎回思うのですが、この鶏の絵が印象的です。


車修祓所
最近は神社などのステッカーを張った車をあまり見なくなりましたが、かつて大宮八幡神社のステッカーはよく見ましたね。南参道は車社会に対応するために作られたそうで、参道駐車スペースへの入り口にもなっています。
東京のへそ大宮八幡宮は人気の神社で、多くの車が訪れていました。安産祈願で訪れ大宮八幡息長帯(おきながおび)を授かり、お礼参りで訪れる人は車が便利ですね。


子年の扁額
戌年の時に訪れ戌の扁額だったので、「干支なのか安産のためなのか?」と疑問に思ったことがあるのですが、やっぱり干支でしたね。


御本殿

安産絵馬
いつもは多くの人が参拝しているのですが、雨上がりの寒いこの日はさすがにすいていましたね。





多摩清水社
神社のホームページから引用します。
神門を出た茶室入口に「広き野に靈(たま)の清水のあるところ」と青畝の句碑がありますが、ここに詠まれている広き野の靈の清水とは、「多摩の大宮」と云われた武蔵野の昔を想望してつくられ、今なお大宮八幡宮境内の多摩清水社からは御神水が湧き出ております。 水の大切な盛夏の時期、水神様の御神徳を称え、生命の源である水の恵みに感謝の誠を捧げる多摩清水社の例祭が水の日である8月1日朔旦祭に続いて執り行われます。参列員一同、水神様の御徳をお慕い申し上げ、命の源である水の恵みに改めて感謝の誠を捧げます。


表参道第一鳥居
参拝を終えこれから本格的なウォーキングです。気温は5度くらいと寒いのですが、適度に湿り気があり風がなかったので、冬のつらいウォーキングというよりすがすがしいウォーキング日和だなぁという印象でした。


ガードレールにカタツムリ
都道に設置されるイチョウマークのこのガードレールはよく見ますが、カタツムリ付きは初めて見ました。


宮下橋から善福寺川
和田堀公園野球場が貯水池の役割を果たすため、ここから善福寺川の水を流し込むのでしょう。昨年の台風では大いに活躍したことと思います。


和田堀池
この池にはカワセミも飛来します。この日も大きなレンズをつけたカメラマンが待機していました。ところで「和田堀」ってどんな堀?と思って調べて見ると、地名の和田と堀ノ内が合併して和田堀内町になり、それが短縮したものでした。以前にも調べて納得したような気がします。


善福寺川護岸整備工事

大成橋
宮下橋から大成橋まで三年くらい工事が続いている印象ですが、護岸を再整備して川底を下げているようです。この川の蛇行状況を見れば暴れ川であることが理解できます。


RIVER SHIPの遊具

ひこうきの遊具

負けない木

モクレンかな?

大谷戸橋
季節がら花もなく、ずっと川沿いを歩くので風景にあまり変化がありません。そんな中でも設置されたなんだかわからない標識のようなものから伸びてくる木や、春を待つ花芽などを探してみました。大谷戸橋のあたりは川が大きく蛇行しており、自然の善福寺川では大谷戸と呼ばれる湿地帯があったものと想像できます。


水草とカモ

白梅
善福寺公園から少し上流へ行くと川幅が広く取られ、水草がたくさん生えている場所があり、鴨の絶好のえさ場になっているようです。小魚やエビもこの水草の中で育つのかな。白梅が色のない冬景色に彩を添えようとしているように見えました。


おしかわ公園

晶子と鉄幹
荻窪駅の南に商店街があり、善福寺川を越えると川南共栄会商店街になるようです。晶子と鉄幹がデザインされたこのイラストは環八通りでもよく見ることが出来ます。旧居は環八の外側ですね。

このコース、今回で10回以上歩いていると思うのですが、そろそろ飽きたかな、終わりにしようかなと思っていました。この日歩いてみて、潤いがありウォーキングに適した気候だったこともあるのでしょう、とても気持ちの良いコースであると再認識しました。北風にあおられることもあるかと思いますが、またこのコースを歩き変化を楽しんでゆきたいと思います。次回は旧居跡にある与謝野公園でストレッチをしようかな?

解散後有志九名で新宿ライオン会館内のダブリナーズでピザとアイリッシュビールを楽しみました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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【下見】2020年度バスハイク向け、千葉県佐倉

2020-01-29 11:44:52 | ウォーキング
今回の下見はすこやか歩こう会ではなく、目黒ウォーキング協会の会員交流イベント「バスハイク」向けです。毎年春に行っており、来年度は4月21日(火)に実施の予定です。


がんばれ!! 佐藤優香選手
本番はバスなので下見は車で行います。本来バスから降りて歩く部分も下見をしたいのですが、今回のルートはそうもできないのですべて車で回ります。
最初に訪れたのは情報収集のため佐倉市役所産業振興課。こちらでパンフレットなどをいただき、参加者への情報提供に活用します。市役所入口にあった佐藤選手についてはWikipediaから引用します。
佐藤 優香(さとう ゆか、1992年1月18日 - )は、日本のトライアスロン選手。
千葉県佐倉市出身。日本橋女学館高等学校卒。
トーシンパートナーズ・NTT東日本・NTT西日本・チームケンズ所属。2010年のシンガポールユースオリンピック金メダリスト。記念すべきユースオリンピック金メダリスト第1号である。

リオデジャネイロオリンピックでは日本人最高で15位だったそうです。


旧佐倉順天堂
千葉県指定史跡
旧佐倉順天堂
  昭和五十年三月二十八日指定
 佐倉順天堂は、長崎に遊学後江戸に蘭医学塾を開いていた蘭医佐藤泰然が佐倉に移り住み、天保十四年(1843)に開いたオランダ医学の塾です。
 ここではオランダ医学書の基礎としながら、当時としては最高水準の外科手術を中心とした実戦的な医学教育と治療が行われ、その名声により幕末から明治にかけて全国各地から多くの塾生が参集しました。
 泰然の養子佐藤尚中(山口舜海)は、長崎でオランダ軍医ポンペに学んだ後、系統的な医学教育を取り入れ、ここで学んだ塾生の多くが明治医学界において活躍しました。
 明治時代になると佐藤尚中は新政府から大学東校(現東京大学医学部)の最高責任者として招かれた後、お茶の水に順天堂医院を開業しました。
 一方、佐倉の順天堂は養子佐藤舜海(岡本道庵)が受け継ぎ、佐倉順天堂として医療活動を続けました。
 現在残っている建物は、安政五年(1858)に建てられたものと、その後拡充された施設の一部です。
  平成五年十二月二十日
   千葉県教育委員会
   佐倉市教育委員会



入り口と礎石

扁額

手術道具

掛け軸

復元模型

病院旗
扁額には「蘭飛醫」と書いてあるようですが意味は分かりません。掛け軸については文字も読めません。
本番のバスハイクでは最初にこちらを訪れる予定で、三館共通入館券(佐倉順天堂記念館、旧堀田邸・さくら庭園、武家屋敷)を購入し拝観後旧堀田邸へ向け歩き始めます。


旧堀田邸・さくら庭園
旧堀田邸(重要文化財 旧堀田家住宅)・さくら庭園
 旧堀田邸・さくら庭園は、最後の佐倉藩主であった堀田正倫が、旧領地に住居を移すために建設した建物と庭園です。
主屋は木造平屋建て一部二階建て、屋根は寄棟造瓦葺の建物5棟で構成され、明治23年(1890)に竣工しました。その後、明治44年(1911)には湯殿が増築されました。主屋や門番所、土蔵はほぼ建築当時のまま良好な状態で残されております。庭園は、芝を中心に赤松やサルスベリなどの樹木と景石や石塔を配し、高崎川と対岸の台地を借景にした眺望が広がっています。
 平成9年3月26日佐倉市指定文化財名勝に、平成13年3月30日には千葉県指定文化財名勝にそれぞれ指定され、平成18年7月5日には住居部5棟と門番所、土蔵の合計7棟が国の重要文化財(建造物)に指定されました。更に、平成27年(2015)3月には、庭園を含む一帯が「旧堀田正倫庭園」として国名勝に指定されました。



客座敷

客座敷の掛け軸

襖の柄

庭園

玄関棟

居間からの眺め

玄関からの眺め


正倫の父、佐倉藩5代藩主堀田正睦は幕末老中首座として活躍しています。のちに井伊直弼との政争に敗れ失脚するのですが、堀田正睦が活躍した時代をWikipediaから引用します。途中で改名します。
老中首座・幕政主導
天保14年(1843年)閏9月に老中を辞任した後は、佐倉に戻って再び藩政改革に尽力し、一定の治績を挙げた。幕末においては攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。

安政2年(1855年)10月2日に安政の大地震が起こり、この地震で正篤は江戸上屋敷において負傷した。その1週間後の10月9日、当時の老中首座であった阿部正弘の推挙を受けて再任されて老中になり、正弘から老中首座を譲られた。この時、外国掛老中を兼ねた。この正睦の老中再任に対して徳川斉昭は蘭癖である正睦に好感を持てなかった事から反対し、島津斉彬は静観した。また立花鑑寛や松平慶永らは正篤は招聘された「看板」であって実権は阿部が掌握していると見ていた。確かに阿部は死去する安政4年(1857年)までは実権を握っており、正篤は首座とはいえ飾りに近かった。ただし正篤を立てる事で阿部が矢面に立つのをかわす事、黒船来航から山積していた外交・内政問題などからの激務で阿部の体調が思わしくなかった事、譜代大名の中で正篤は明快なほど開国通商の意見を持っているなどした事が、阿部に推挙された理由であるとも思われる。

安政3年(1856年)、島津家から13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する。

安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが、条約調印に反対する攘夷派公卿たちが廷臣八十八卿列参事件を起こし、さらに天皇自身も強硬な攘夷論者であったため却下され、正睦は手ぶらで江戸へ戻ることとなった。

一方、同年、将軍・家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって徳川慶福(紀伊藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜(一橋徳川家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦は元々水戸藩の徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわず、従ってその子の慶喜にも好感が持てず、心情的には慶福が14代将軍に相応しいと考えていた節がある。しかし、京都で朝廷の強硬な反対に遭って勅許を得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に、福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋贔屓の朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では南紀派から一橋派に路線を変えた。



旧河原家住宅の兜

台所

風呂

手水鉢

縁側
佐倉の武家屋敷は鹿児島知覧などと比べると申し訳ないがいまいちです。しかし関東でこれだけの武家屋敷が残っている場所を私は知りません。見学できる武家屋敷は三棟ですが、旧河原家住宅は比較的上級の大屋敷との位置づけです。


旧但馬家住宅

甲冑


こちらは中屋敷で室内に入ることが出来ました。納戸を含めて六部屋かな。


旧武居家住宅
こちらは小屋敷で三部屋。国登録有形文化財となっています。
佐倉の武家屋敷がいまいちなのは小規模なことに加え、通常の住宅が点在しているところです。通勤圏でもあり致し方ないところでしょうか?見学はできませんが、児玉源太郎の旧居跡もあります。


大聖院

ひよどり坂
本番ではこの坂を下り佐倉城址へ向かいます。佐倉城は珍しく江戸期の築城とのこと。その後帝国陸軍第二歩兵連隊の駐屯地となったことも含め、Wikipediaから概要を引用します。
概要
佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ、北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていたとされる。

戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中断、千葉邦胤の代にも工事が試みられたが邦胤の暗殺によって頓挫、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったとされる。

1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、更に初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている(詳細は佐倉藩を参照のこと)。

城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。

1962年(昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建っており、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示され、日本100名城スタンプが置かれた佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)がある。

本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。佐倉連隊の弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構も残存している。



平安期貴族の邸宅模型


第四展示室 民族


東福寺三門模型
佐倉城址にある国立歴史民俗博物館も見学の予定です。


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自由ヶ丘コース 約4.9km

2020-01-18 09:48:04 | ウォーキング
目黒区が設定した目黒健康ウォーキングマップには17のコースがありますが、その1つである「自由ヶ丘コース」を今日は歩きます。スタート地点は、都立大学駅近くの呑川緑道です。緑道公園の隅をお借りし準備運動のストレッチを行った後、ウォーキングを開始します。


自由ヶ丘コース地図

昭和27年の呑川
このコースは呑川本流の緑道の他、呑川野沢支流緑道等、多くの呑川支流の緑道を通りますが、遡って昭和27年の呑川流の八雲二丁目付近の写真を掲載します。この辺りが今や立派な住宅が立ち並ぶ高級住宅街に成っていますが、当時の人々が今を想定できたとは、到底思えないような写真の光景です。


自由ヶ丘熊野神社
ウォーキングは、東横線の脇を南に下り自由ヶ丘の熊野神社に向かいます。自由ヶ丘は、昔、谷畑と呼ばれていましたが、熊野神社は、この地域の鎮守で、伊弉諾の尊を祭神とし、「谷畑の権現様」として親しまれてきたそうです。創建年月は不明ですが、寛政八年(1796年)に社殿改修棟札の写しなどもあり、東国の熊野権現信仰に基くもので、室町時代に遡るとみられています。又、自由ヶ丘一帯の繁華街は、呑川の支流丑川(うしかわ)に沿う水田地であったとの事です。


自由の女神像
なお、自由ヶ丘のシンボルとして駅前に立つ「自由の女神像」は、昭和三十六年(1961年)7月建立された彫刻家沢田政広の作品です。


高級住宅街のジム
ウォーキングは、自由が丘と八雲の高級住宅街を通過し、呑川本流緑道⇒呑川駒沢支流緑道を通りめぐろ区民キャンパス公園へ、さらに常圓寺、東光寺、八雲氷川神社に至ります。


八雲氷川神社
氷川神社は、旧衾村の鎮守で、現在八雲と言う地名になっていますが、この名称も「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」日本で一番古い和歌で「古事記」にのっている「八雲」の名をとったもので、村の代表者、宮司と相談し付けたものと言われたいます。
この神社は癪(腹痛)神様として近郷近在に知られ、九月十九日の祭礼には、健康を願う参拝者が続々とつめかけていたとの事です。

周回コースを歩き終え、呑川緑道公園に戻ってゴールしました。ストレッチをして解散となりましたが、、乾いた喉と空腹が気になるメンバー達で、都立大学駅前の中華屋「万豚記」に入りました。「歩こう会」から「アルコール会」に名前を変えて大い飲み食いしながら懇親を深めました。


吉井


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目黒七福神コース 約7.0km

2020-01-17 09:54:29 | ウォーキング
令和2年の歩きはじめのウォーキングは毎年恒例となっている「目黒七福神コース」(7.0Km)です。このコースの公式な呼び名は「山の手七福神」、東都歳時記(天保9年(1828年)刊行)にすでに記載されている古い歴史を持ったコースです。江戸の庶民にも人気のコースだったのではないかと想像します。


大鳥神社本殿

大鳥神社ご朱印
集合場所の大鳥神社は七福神とは関係ないのですが、この神社も大変歴史のある神社で、創建は大同元年(806年)、江戸地図でも古い「長禄江戸地図」に古江戸9社の1つとして書かれています。又、目黒村の総鎮守でもあったとの事です。私は、あらかじめ集合時間の30分前に着くよう出かけ、お蔭様で大鳥神社新年のご朱印も戴く事ができました。


山手七福神

弁財天


大円寺

瑞聖寺本堂

瑞聖寺布袋尊

七福神ルート図

覚林寺毘沙門天尊
七福神の最初は蟠龍寺の弁財天を拝みます。ここから最後の覚林寺の毘沙門天まで6社7福神を廻ります。


明治学院大学

池田山公園
その後、明治学院大学前、池田山公園を通過り目黒駅にゴールしました。この後の今年最初のアルコール会は、目黒駅西口にある天狗で開催しました。今年の会の発展を祈るつと共に新年を祝いました。


吉井


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【散歩】千駄ヶ谷の富士塚

2020-01-16 09:40:06 | ウォーキング
日経ビジネスの記事『鎌倉時代の道をたどりつつ「いざ!国立競技場」』を見て、気になった場所に散歩を兼ねて行ってきました。年末に訪れたJAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE経由で訪ねました。




銀座線渋谷駅
訳あって井の頭線から渋谷駅へアプローチすることになり中央改札を出て「明日の神話」(岡本太郎)の前を通り、東横西館のエスカレーターで地上に出ました。モヤイ像からJR南改札前を通過しスクランブルスクエア1Fへ。スクランブルスクエア2Fへ上がり明治通りをまたぐ通路でヒカリエに出て一階へ下りて、明治通り沿いにある銀座線の改札に到着しました。JR中央改札前を通るのが一般的かもしれませんが、今回通ったルートはすべてエスカレーターの利用が可能です。東京メトロの渋谷駅構内図を見てみましたが、まさに迷路です。よくこんなイラストが描けたな。


秩父宮ラグビー場

国立競技場

東京オリンピック1964の聖火台(レプリカ3/4スケール)

札幌オリンピックの聖火台(レプリカ)2/3スケール

長野オリンピックの聖火台(レプリカ1/2スケール)
ワールドカップで盛り上がった余韻が残るラグビートップリーグが行われています。秩父宮ラグビー場が解体されて神宮球場が建設されるという認識でしたが、その前に神宮第二球場を解体し、ラグビー場を作るそうです。名称はやっぱり秩父宮ラグビー場なのかな。
聖火台があるのはJAPAN SPORT OLYMPIC SQUAREになります。


三段跳びのモニュメント

JAPAN SPORT OLYMPIC SQUAREビル

Jigoro KANOとJAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE
日本人初のオリンピック金メダリスト織田幹夫さんの記録は15.21メートルだそうで、その距離を実際に見ると驚異的です。ちなみに現在の世界記録は18.29メートル。昨年の大河ドラマでの嘉納治五郎、脚色されたお話ということは分かっていますがクドカンの描いた治五郎さんの大ファンになりました。ここはあえて“Jigoro KANO”と呼ばせていただきたい。




瑞圓寺

観音坂
観音坂沿いに瑞圓寺の角があるのですが、坂の名前の由来となる観音様は八世紀に行基が彫った聖輪寺の如意輪観音像だそうです。


鳩森八幡神社隣りの将棋会館
藤井聡太君の活躍でテレビの露出が増えた将棋会館はこちらにありました。


鳩森八幡神社正面鳥居

能舞台



千駄ヶ谷の富士塚
神社のホームページからご縁起を引用します。
鳩森八幡神社縁起 御祭神  応神天皇・神功皇后

 『江戸名所図会』によると大昔、此の地の林の中にはめでたいことが起こる前兆の瑞雲(ずいうん)がたびたび現れ、ある日青空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然白鳩が数多、西に向かって飛び去った。この霊瑞(れいずい)に依り 神様が宿る小さな祠(ほこら)を営み鳩森『はとのもり』と名付けた。貞観2年(860年)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の途中、鳩森のご神体を求める村民の強い願いにより、山城国石清水(男山ともいう)八幡宮に宇佐八幡宮を遷座し給うた故事にのっとり、神功皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし尊敬し奉ったと伝えられている。


今年5月8日(金)に薪能が催されるそうです。富士塚についても神社のページから引用します。
~都指定有形民俗文化財~ 千駄ヶ谷の富士塚
(指定:昭和56年3月12日)

寛政元年(1789)の築造と言われ、円墳形に土を盛り上げ、富士山の溶岩は頂上近くのみ配されています。頂上に至る登山道は自然岩を用いた階段となっており、山腹にはクマザサも植えられています。山裾の御影石の里宮(浅間社)をはじめ、7合目には身祿様が安置されている洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ石、山頂にボク石で覆われている奥宮等富士山を再現しています。また富士塚の前にある池にみたてた場所には毎年開山式(6月3日)の頃菖蒲が咲き、訪れる人の目を楽しませています。





将棋堂
本年度の祈願祭について神社のページから。
1月6日(月) 将棋堂祈願祭

午前11時 将棋堂祈願祭斎行
 将棋連盟の皆様ご参列の元、将棋界のご発展、棋力向上をお祈りする将棋堂祈願祭が斎行されます。毎年、佐藤日本将棋連盟会長はじめ多くの棋士の方々、ここ数年の将棋人気に合わせたくさんの見学者が見守る華やかな雰囲気の中、祭典が執り行われます。
一般の方も見学できますのでご来社下さいませ。



甲賀稲荷神社
御由緒を神社のページから引用します。
甲賀稲荷社   御祭神 宇迦之御魂神
昔は青山権田原の御鉄砲場付近に鎮座していて、甲賀組組屋敷の武士等が崇敬していた。明治18年に、青山練兵場設置のため、当社境内に遷座、合祀されたのである。昭和20年5月の戦災で社殿を焼失し、本殿の中に八幡神宮、諏訪大神とともに祀られていたが、復興を望む声が高まり、昭和45年欅造りの社殿が完成し、遷座された。



大銀杏

狛犬
大鳥居前の五差路で方向感覚を失いましたが、副都心線北参道駅まで歩き帰って来ました。鳩森八幡神社をメインに周辺の寺院を訪ねるウォーキングも面白そうです。


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