目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

4月14日(土)活動の下見

2018-03-29 15:34:11 | ウォーキング
先週末のすこやか歩こう会は総会を行ったためウォーキングはありませんでした。ご協力をいただいた皆さん、ありがとうございました。今回のブログは下見についてです。これまで新たなコースを作るための下見の記事は載せてきましたが、今回はちょっとだけ趣旨が違います。
すこやか歩こう会は様々なコースを歩くことを特徴としています。2000年12月にこの会を結成した時に、会の皆さんをいろいろな所に連れてゆきたいと計画員となられた方のおかげです。その時から二か月分の歩行計画を作成し、会員に郵送するという今のスタイルを続けているのはすごいですね。来月には18回目の新年度を迎えることになります。
すこやか歩こう会の結成から数年後にこの作業を引き継ぐことになりました。現在の役職名は歩行企画員です。企画をして地図を作ると、他の役員がコピーして郵送してくれました。企画や地図の作製はたいして負担にはならないのですが、毎回出席をして会の皆さんを引き連れ先導してゆくことは負担になりました。休めません。
その対策として生まれたのが「歩行誘導員」という担当です。比較的ベテランとなった会員さんに歩行誘導員となっていただき、先導と、他の歩行者などに迷惑にならないような目配りをしていただきます。現在では16名の歩行誘導員の方々に月に一度担当していただいています。初めてのコースは企画をした私が先導することが多いのですが、今回仕事の都合で先導が出来なくなり、歩行誘導員の方に下見をしていただくことになりました。
コースの様子は以前の記事をご参照ください。



写真:ふれあい橋から見た目黒川のサクラ
今の時期多くの観光客が花見に訪れるのは中目黒駅周辺ですが、その下流の川幅が広くなったところにもソメイヨシノが植えられています。木が大きくなって下流のソメイヨシノも見ごたえが出てきました。現在我々が見ているソメイヨシノは、私が小学生の時に見ていたものとは違います。護岸工事のためすべて切って新しい若木を植えました。その貧弱だったソメイヨシノが40年くらい経って以前よりさらに華やかになりました。


写真:千代ヶ崎の三田児童遊園

写真:自衛隊艦艇装備研究所
区民センターから坂を上って千代ケ崎。恵比寿方面に向かい判りにくい床屋の角を左へ曲がり、さらにわかりにくい家と家の隙間を行くと陸軍境界石。三田用水の説明があると聞いた茶屋坂児童遊園に説明書きはありませんでした。茶屋坂の説明版を見て、三田用水の隧道の説明書きを見て、研究所裏から坂を下ります。戦後オーストラリア軍が進駐していたという自衛隊研究所の門が新しくなっていました。


写真:再開発プロジェクト
かつて官舎があった場所が売却され、野村不動産による「(仮称)恵比寿南三丁目計画」が着工中です。角にあった江戸時代の道標は現在お引越し中。


写真:目黒新富士からの眺め

写真:ツクシ

写真:シモクレン

写真:ハナカイドウ

写真:ハナモモ
三田用水を遡る形で目黒新富士から目黒元富士方面へ向かいます。


写真:朝倉家住宅



写真:エジプト大使館
代官山ヒルサイドテラス内にある猿楽塚古墳を見て、「ここまでくれば後は大丈夫」と歩行誘導員と下見を終えました。


写真:西郷山公園の散ったソメイヨシノ

写真:菅刈公園のノバラ

写真:菅刈公園のスズメノエンドウ

写真:菅刈公園のレンギョウ

写真:菅刈公園のソメイヨシノ

写真:菅刈公園のオオシマザクラ
ソメイヨシノの片親であるオオシマザクラはちょっと青いですね。Wikipediaのコマツオトメのページからから引用します。
2007年、千葉大学の中村郁郎らの研究グループにより、コマツオトメのようなエドヒガン系のサクラが、日本では最も一般的なサクラであるソメイヨシノの最初の片親であるという可能性が指摘されたが、2012年に同グループによりコマツオトメはあくまでもソメイヨシノの近縁であるにすぎないことが発表された。その後の2014年には、首都大学東京の加藤珠理らの核SSR(シンプル・シーケンス・リピート)法を利用した従来より精度の高いDNA解析により、ソメイヨシノの起源はエドヒガン47%、オオシマザクラ37%、ヤマザクラ11%、その他5%の交雑であることが明らかにされた(詳細はソメイヨシノ参照)


写真:目黒橋から上流を見たソメイヨシノ
目黒川を渡る山手通りの橋が目黒橋です。この橋から玉川通りの橋である「大橋」までの川沿いもきれいです。山手通りが目黒川を渡る橋がもう一つあり、大崎駅付近の居木橋です。

会員の皆さんはこのコースを実際に歩いて楽しんでください。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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小江戸川越コース 約6.4Km

2018-03-19 17:01:47 | ウォーキング
2013年3月16日に副都市線と東横線が相互直通運転を始めたのですが、この時はすでにこのコースが設定されており、開通初日に川越に行っています。このコースを設定したのは副都心線が開通した2008年以降、池袋での乗り換えなしに渋谷から川越に行けるようになってからです。それ以前にも埼京線に乗れば一本で行けたんですけどね。
渋谷集合で二度くらい川越に行った記憶があるのですが、調べてみると2010年3月20日の一度だけでした。2011年3月19日は地震のためウォーキングを中止、2012年3月17日は雨のため中止しています。


写真:中目黒駅のシデコブシ

写真:Fライナー特急森林公園行
ちょっとピンクがかったシデコブシがきれいですね。Fライナーはいまでは違和感なく乗っていますが、中目黒駅の行き先表示で初めて“Fライナー”の文字を見たときは「???」といった感じでした。Wikipediaから引用します。
「Fライナー」の愛称は以下の2系統の列車に対して付与される。列車種別は運行路線毎に異なり、境界駅で種別変更される。種別名は、一貫して、Fライナー ○○ のように愛称を冠して呼称される(例:副都心線内 → Fライナー 急行 元町・中華街行き、東横線内 → Fライナー 特急 森林公園行き)。

1. 元町・中華街駅 - 小手指駅・飯能駅間
 ・横浜高速鉄道みなとみらい線・東急東横線 - 特急
 ・東京メトロ副都心線 - 急行
 ・西武有楽町線・池袋線 - 快速急行
2. 元町・中華街駅 - 森林公園駅間
 ・横浜高速鉄道みなとみらい線・東急東横線 - 特急
 ・東京メトロ副都心線 - 急行
 ・東武東上本線 - 急行
「Fライナー」の愛称は、
 ・速達性をイメージした「Fast」
 ・相互直通運転を行う5社「Five」
 ・「Fukutoshin」(副都心)
これらの共通となる頭文字「F」に由来し、ロゴマークにも「F」が使用される。

Fライナーの運航開始は2016年3月26日で、すこやか歩こう会の川越行きでFライナーを使うのは今年で二回目ということになります。その前は東武線区間が各駅だったので、東武線区間を急行で走行するFライナーになって、川越到着が6分早くなりました。


写真:川越八幡宮

写真:民部稲荷神社
川越八幡宮境内にある民部稲荷神社。額が下手な画像合成のようになっていますが、合成したものではありません。ここは珍しい足腰にご利益のある神社で、我々のようなウォーキングクラブのメンバーにとっては御利益に預かりたいところです。川越八幡宮のページから引用します。
相撲をとった狐さんのお話
(TBS放送「まんが日本昔ばなし」にて紹介)
昔、八王子の近くの丘の上に年をとった狐が侍に化け「民部」と名乗り住んでいました。この狐、話し相手がほしかったのか、近所の寺の小僧さんを自分の家に呼んでは、夜遅くまで帰そうとしませんでした。しかしある日、しきりに寺をぬけ出す小僧さんを不思議に思った和尚さんが 「お前は、いつもこんな時間にどこへ出かけるのだ」と尋ねたところ、「実は、ここから少し行ったところにあるお侍様のお家に毎晩呼ばれているのです」
と答えました。
和尚さんはそんな所に侍の屋敷が無いことは知っています。小僧さんが物の怪に化かされているに違いないと思い、一計を案じてこう言いました。「それでは、お前がお世話になっているお侍様にお礼を言って、わしもご挨拶をしたいから一度お越しくださるよう頼んできておくれ」これを問いた小僧さんは 早速この話を民部に伝えました。そして次の日の夜。供のものをつれた民部は寺にやってきました。「本日はお招きくださってありがとうございます」「いやいや、こちらこそ小僧がいつもお世話になっているようで」
和尚さんは民部を手厚くもてなします。杯を重ねるごとに四方山話に花が咲き相撲の話になったときです。「実は私、相撲が大好きでしてな、供回りの者と小僧さんで相撲の勝負をするというのはいかがですかな」と民部が言いました。「それは面白そうですな、どれ一つやってみなさい」和尚さんも小僧さんに言いました。
そしてこの日は、相撲を見ながら皆で楽しく過ごしました。翌日、小僧さんが庭掃除に行くと昨日、相撲を取ったあたりに狐の毛がたくさん散らばっていました。これを見た和尚さんは、「やはり、物の怪の仕業だったか。しかし別に悪さをしているわけではないしのう。取り合えず昨日のお礼でもしておくか」と言い民部に会いに行きました。
ところが和尚さんに会った民部は悲しそうに、「昨日はありがとうございました。せっかく知り合いになれたのに寂しいのだが、故あって、川越の梵心山に移ることになりました。あなた方のことは忘れません。友達になった印に私たちに古くから伝わる打ち身の手当ての術を教えましょう」と言って術を教え去っていきました。
この梵心山にいつの頃からか民部稲荷があったのですが荒廃してしまい、後に川越八幡宮の境内に移され相撲の絵馬が今も収められています。打ち身、挫きの時絵馬を納めると霊験が有るとされています。また面白いことに相撲にこじつけ、四畳半相撲の水商売の人たちの信仰が盛んな頃もありました。その後梵心町に民部稲荷が再建されましたが、現在は丸広百貨店の守護神として屋上に鎮座しています。



写真:川越第一中学奉納

写真:縁結び祠
ご由緒についても神社のページから引用します。
当社・川越八幡宮は、第68代・後一条天皇の時代の長元3年(1030)に甲斐守源頼信によって創祀されたと伝えられています。長元元年(1028)、下総国(千葉)の城主前上総介平忠常は朝廷に謀反を企て、安房、上総、下総の3カ国を従わせ、大軍を起こして武蔵国に攻め入りました。この乱は長元の乱と言われ、3年に渡り鎮圧できませんでした。有力武士だった冷泉院判官代甲斐守源頼信が長元3年に平忠常追討の倫旨を賜りました。
源頼信は当地で必勝祈願を行い、敵陣に斬り込んだところ、忠常の軍勢はたちまちに乱れました。そして三日三夜の間、追討してついに乱を平定しました。頼信は神様の御神威に深く感謝して、すぐに当地に八幡神社を創祀しました。これが当社の創建です。
当時このあたりは、豪族河越氏の所領で鎌倉時代、神社後方に河越氏の館がありました。応永32年(1425)には、関東管領足利持氏河越兵庫助の館跡地の半分を当神社に日供料として寄進したといわれています。長禄元年(1457)、川越城が完成しました。築城の名手だった太田道灌は当神社を篤く崇敬し、分霊を川越城内の守護神として奉斎しました。
爾来、川越の歴代城主、城代の崇敬が深く、特に天正18年(1590)以来の城主・酒井氏一族の崇敬はすこぶる篤く、社殿の造営、神田、神宝の寄進が相次ぎました。酒井氏は国替後も崇敬を加え、しばしば改築費、修繕費等を奉納しました。文化9年7月1日(1812)、姫路城主・酒井雅楽頭源朝臣忠衛は御神号「河越八幡宮」(文字は向鳩形)の額と掛物一幅を奉納しました。寛永2年(1625)には、徳川家光公が日光社参の折、酒井備後守忠利が道中安泰の祈願をし、その功により葵紋付祭器具の寄進がありました。
明治維新の際には、別当万蔵寺を廃しましたが、川越城主の地の人々は当社を川越の守護神として崇敬しています。昭和51年秋に、当社は埼玉県にて一社、神社本庁第一次神社振興対策モデル神社に指定されました。
創建から約980年、今も変わらず当社は篤い崇敬を受け、関東一円より多くの皆様からご参拝をいただいております。



写真:川越工業高校
NHKの街歩きスペシャル川越は、この高校の卒業生であるハウンドドッグの大友康平さんがナレーションをしていました。日本ハムファイターズの大型内野手太田賢吾選手も卒業生で、今シーズンの活躍が期待されます。


写真:納豆屋さん
モヤモヤさまぁ~ずの「川越」では、小野食品の仙波豆腐が紹介されていましたが、川越で納豆といえばこちらの「渡辺納豆」が有名なようです。


写真:中院のアセビ

写真:中院の枝垂れとミモザ

写真:中院のユキヤナギ
中院へ向かう途中、光西寺の川越藩主松井・松平家墓所にあるシダレザクラが二分咲きだったのが見え、中院のシダレザクラも期待が出来ました。中院の歴史についてWikipediaから引用します。
平安時代、淳和天皇の勅許で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺仏地院と号した。鎌倉時代、尊海僧正によって再建する。日蓮が尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受ける。東国580ヶ寺の本山の勅書を受けるなど隆盛を極めた。無量寿寺には仏蔵院(北院)、仏地院(中院)、多聞院(南院)が存在し、後伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした。天台宗の学問所である仙波談義所が開かれ関東八檀林の一つとして栄えた。天海大僧正が喜多院(北院)の住職となるまでは、中院が無量寿寺の中心的な役割を果たした。仙波東照宮建立の際に中院は移動した。

 ・ 830年(天長7年)円仁は淳和天皇の勅許により、仏地院(中院)を建立する。
 ・ 941年(天慶4年)天慶の乱により、焼失する。
 ・1296年(永仁4年)尊海は成田氏の外護により、伽藍を再建する。
 ・1296年(永仁4年)仙波談義所が開かれる。
 ・1537年(天文6年)北条氏の侵攻により、焼失する。
 ・1632年(寛永9年)伽藍を再建する。
 ・1638年(寛永15年)川越大火により、焼失する。
 ・1639年(寛永16年)現在の地に移転する。
 ・1733年(享保18年)本堂を再建する。
 ・1945年(昭和20年)釈迦堂・薬師堂、焼失する。
 ・1983年(昭和58年)釈迦堂を再建する。
 ・2012年(平成24年)薬師堂を再建する。

1296年には「成田氏」の文字が見えます。今度バスハイクで行くさきたま古墳公園がある行田市の忍城城主「成田長親」の祖先ですね。1639年に現在の地に移転したため、中院が南院より南に置かれることになりました。


写真:南院遺跡
北院(喜多院)、中院、南院とあったのですが明治初頭の廃仏毀釈により、南院だけ廃寺になってしまいました。その遺物を集めたのがここ、南院遺跡となります。


写真:仙波東照宮

写真:仙波東照宮のスミレ


写真:仙波東照宮のエドヒガンザクラ

写真:仙波東照宮葵庭園
もともと中院があった場所に、徳川家康を祀る東照宮が建立されました。仙波東照宮について観光協会のページから引用します。
東照宮といえば徳川家康を祀った日光東照宮が有名だが、日本各地数多くの東照宮があれど、川越は日本三大東照宮の一つで、仙波東照宮といい、喜多院の南側に隣接している。
元和2年(1616)駿府で徳川家康公が没し、その遺骸を静岡から日光山へ移葬する途中、天海僧正によって喜多院で四日間の法要が営まれたことから、寛永10年(1633)建立された。
それから5年後の寛永15年(1638)、「寛永の大火」と呼ばれる大火事でよって、喜多院山門を残し、焼け落ちたが、徳川家光より喜多院復興の命令がが下ると、まず東照宮の再建が行われ寛永17年(1640)に完成した。

中院の歴史にもあるように、川越は何度か大火が発生しているのですが、太平洋戦争での空襲被害が軽微だったため、東京ではあまり残らなかったような古い桜の木が残されています。仙波東照宮のエドヒガンザクラもその一つでソメイヨシノより少し早目に咲きます。このような桜の古木が川越観光の魅力の一つと考えています。Wikipediaの「エドヒガン」のページから引用します。
エドヒガンは落葉高木であり、樹高はおおよそ15m-25m。葉は楕円形で長辺が5-10cm。名前の通り春の彼岸ごろに花を咲かせる。ソメイヨシノより早く花が着き始める。花は薄紅色から白で花弁は5枚で一重。萼の付け根が丸く膨らんでいるため見分けやすい。葉より先に花が咲き、咲きはじめは他種に比べると一週間から十日ほど早い。ヤマザクラと共にサクラの中では非常に長寿の種であることが知られており、樹齢2000年を超えるといわれる神代桜や樹齢1500年を超える淡墨桜、樹齢1000年と言われる樽見の大桜、その他にも樹齢300年を越える石割桜などが有名である。花が多く咲く特性から多くの品種の母種として使われている。また、ソメイヨシノの片親としても知られている。



写真:喜多院慈恵堂


写真:三代将軍お手植え桜(二代目)

写真:多宝塔
喜多院をゆっくり見たことが無いのですが、堀を巡らせた大きなお寺で川越観光の目玉の一つです。喜多院のページから引用します。
創建と歴史
天台宗川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれません。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。
その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。
正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。
慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。
寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。
尚、明治維新の神仏分離令からは東照宮、日枝神社は別管理となっています。



写真:成田山川越別院本堂

写真:不動明王

写真:四国霊場御砂踏

写真:不動明王剣
御賓頭盧様にお願いし、八十八カ所もめぐってきました。成田山のご本尊はお不動様なのですね。毎月28日には蚤の市が開かれるそうです。


写真:浮島公園
元は神社の境内だったようで、奥に浮島神社があるのですが、ずいぶんさびれて見えます。結構以前から神社の管理者がいなくなって、市営の公園になったという感じです。


写真:川越まつりの山車の保管所
すごい高さがありますが、電線にかからないようにルートが決まっているのでしょうね。


写真:川越城本丸御殿

写真:道灌まんじゅう

写真:中ノ門堀跡

写真:手打ちそば百丈
川越城は天守はありませんが大きなお城で、県庁前にあるこのお蕎麦屋さんの場所も城内だったようです。県庁前には築城主の太田道灌像があります。川越城についてWikipediaから引用します。
概要
武蔵野台地の北東端に位置する平山城。1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存する(埼玉県有形文化財)。かつての城は、現在の初雁公園から川越市役所に至る広さであった。大半は失われ、二の丸跡は川越市立博物館・川越市立美術館、三の丸跡は埼玉県立川越高等学校となっているが、高校の南に、小高い丘の「富士見櫓」跡(埼玉県指定史跡)が残り、頂に御嶽神社と浅間神社が建っている。川越城には天守はなく、宇都宮城の清明台櫓と同様に、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守の代わりをしていた。富士見櫓は三層と考えられている。
中世から近世にかけて改築がなされ規模を大きく変えた。藩政時代には、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など、幕府の要職についた歴代藩主が多く、幕閣の老中数7名は全国でも最多の藩の1つであり、江戸時代中期までは「老中の居城」であった(中期以降は親藩)。

歴史・沿革
室町幕府より関東の押さえとしておかれた鎌倉府は、鎌倉公方足利氏と、その補佐役である関東管領上杉氏との内部対立が生じ、1454年に公方が管領を殺害するに至り、関東を戦乱の世とした享徳の乱が勃発、鎌倉府は壊滅し、公方は古河に拠点を構え、関東を二分した(古河公方)。 武蔵国は上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、足利氏の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に川越城(河越城)の築城を命じ、自ら城主となった。また、南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌が江戸城主となった。さらに、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。


写真:菓子屋横丁

写真:なんだかわからないハシビロコウ

写真:川越まつり会館

写真:時の鐘
札ノ辻あたりは歩道も狭いので、観光客があふれている感じでした。小江戸川越は情緒があって観光にはいい街なのですが、道が狭くて人と車の住みわけが課題のようです。
この日は一日奇麗な青空でしたが、夕方になって風が冷たくなりました。



写真:出世稲荷神社
大正浪漫通りを通り、出世稲荷神社を最後にお参りし、境内をお借りしてウォーキング後のストレッチを行います。
その後東武線川越市駅まで歩きました。森林公園から来るFライナーはそこそこ混んでいたのですが、皆どうにか席を見つけて中目黒まで座って帰ることが出来ました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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古代の歴史、武蔵国府・国分寺コース 約6.9km

2018-03-13 09:46:40 | ウォーキング
奇数月の第二週のウォーキングはあまり歩いたことが無いところを歩く企画をしています。前回烏山川の源流をたどるウォーキングを行い、そのあとの企画に野川・仙川を考えていました。野川の源流は日立中央研究所内にあります。国分寺崖線の湧水を集めて野川となるのですが、武蔵国分寺と関連付けをすることにして、今回のコースを野川ウォーキングの初回として企画しました。


写真:馬場東公園
渋谷駅で集合し、井の頭線、京王本線と乗り換え府中へ。この公園をお借りしてウォーキング前のストレッチをしました。今回参考にしたのが「東京文化財ウィーク 府中・国分寺を歩いて見ませんか」という冊子です。その導入を引用します。
 武蔵野の緑に囲まれた府中・国分寺周辺は、古代国家において国府や国分寺が建設され、中心地として発展を遂げました。
 今回は、武蔵国府跡や武蔵国分寺跡などの古代の歴史に触れながら、真姿の池湧水群をはじめとした緑豊かな武蔵野を感じられるコースを設定しました。
 古代の東京を想像しながらのんびりと散策されてみてはいかがでしょうか。

府中を歩こう
 現在の都庁、県庁のような存在で、「国司」と呼ばれる地方官が派遣され、国司が政務を行う役所の中枢施設を「国庁・国衙」といいます。この「国庁・国衙」と関連する役所群などの所在する場所が「国府」と呼ばれます。
 「府中」という市名は「国府の中」という国府の所在場所に由来します。
 国庁の造営は、各地の事例から8世紀前半の平城京遷都頃と考えられますが、国府域が生まれるのは7世紀末へ遡ると考えられます。律令国家における国の中心としての国府の役割は10世紀後半頃には衰退していきますが、府中地域は、古代から中世を通じても政治的拠点として引き継がれます。
 中世には国衙地区に大國魂神社(明治時代以降の名称)の前身である武蔵総社あるいは六所宮と呼ばれる社が築かれます。中世段階では六所宮の地として栄えますが、同時に多摩川を望む交通・軍事上の要地としても重要でした。府中崖線眼下の分倍河原は元弘3年(1333)の合戦場となり、崖上の高安寺には度々鎌倉公方などの陣が置かれました。
 近世では、徳川家康が江戸入府の年に豊臣秀吉の宿泊施設として「府中御殿」を築き、六所宮を手厚く保護しました。甲州街道の宿場町としても栄え、現在に至る街並みが形成されました。



写真:ラグビーのまち府中


写真:馬場大門のケヤキ並木

写真:八幡太郎源義家
馬場大門のケヤキ並木
国指定天然記念物 指定:大正13年12月9日
 馬場大門のケヤキ並木は、大國魂神社の北に延びる参道に所在し、大國魂神社の大鳥居から約600m 続きます。大正13年(1924)に全国で2番目に指定された由緒ある天然記念物です。指定当時は幹周3m以上の巨木が60本以上も整然と並び、その間にイヌシデ、コナラ、スギなどを交えた壮観な様相を呈していました。
 このケヤキ並木は徳川家康が大國魂神社に2条の馬場と並木を寄進したことが始まりといわれ、「馬場」の地名はこの寄進に由来したといわれています。幕末までは馬市も開催されていました。
 大鳥居から北に向かってケヤキ並木を歩いていくと、右側の歩道に源義家像が見えてきます。これは、平成4年に建てられたものですが、初めてケヤキが植えられたのは、平安時代に前九年の役の戦勝祈願成就のお礼として源義家が並木を寄進したという伝承に由来しています。
 更に歩いていくと、京王線府中駅に差し掛かります。江戸時代には、ケヤキ並木周辺は宿場のある甲州街道周辺と比べ人通りが少なかったようですが、明治以降、甲州街道・市中心部・鉄道を結ぶ通りとして発展しました。現在は沿道に商業施設が建ち並び、市の中心地となっています。このため、交通量の増加・市街地化・老木化などによりケヤキ並木の維持が難しくなってきています。地元では、60年近くにわたりケヤキ並木の保全や環境整備を行っています。










写真:大國魂神社
大國魂神社を歩く
 大國魂神社は社伝によれば、景行天皇41 年(111)5月5日の創建で、武蔵国造が代々奉仕したといわれています。奈良時代以降、武蔵国府が当地に置かれると武蔵国内諸神を祀る武蔵総社とされ、小野神社(多摩市一ノ宮)・二宮神社(あきる野市二宮)・氷川神社(さいたま市大宮区高鼻町)・秩父神社(埼玉県秩父市番場町)・金鑽神社(埼玉県神川町二ノ宮)・杉山神社(横浜市緑区西八朔町)の六祭神を祀る六所宮となりました。『吾妻鏡』には、源頼朝の妻・北条政子の安産祈願が行われた関東十社の一つに「武蔵六所宮」が挙げられるなど、古来より武蔵国内の崇敬を集めています。江戸時代には、幕府から社領五百石を寄進され、度々社殿が修造されました。明治4年(1871)に大國魂神社と称するようになりました。
 ゴールデンウィークに1週間行われる例大祭「くらやみ祭」は、様々な神事・附け祭のクライマックスとして5月5日の夕刻から、6張の巨大な太鼓に先導された8基の神輿が渡御します。近世以来の伝統を色濃く残した貴重な祭礼で、東京都の無形民俗文化財に指定されています。

大國魂神社本殿
 本殿には、中央の中殿に大國魂大神等が、東殿・西殿にそれぞれ3柱ずつが祀られています。古くは、それぞれ独立した社殿が3棟建っていたようで、慶長11 年(1606)の古図からもそのことが分かります。
 現存する大國魂神社本殿は、正保3 年(1646)の火事により社殿等をほとんど失った後、徳川4代将軍家綱の再建の命により、寛文7年(1667)に完成したものです。三間社流造の社殿3棟分を隙間なく横に連結した九間社流造という特異かつ希少な形式で、1棟ごとに3社を合わせ祭る相殿造となっています。桁行は約14mあり、棟高も約9mと高く、玉垣で囲まれた本殿は朱漆塗りで、玉垣内に敷き詰められた白玉石に映えます。屋根はもとは檜皮葺でしたが、幕末に銅板葺に変更されています。
 寛文7年の棟札と祈祷札も現存し、祈祷札には家綱の名も記されています。
 多摩地域における公儀普請の作例としても貴重です。




写真:武蔵国府跡(国衙地区)
 国指定史跡 指定:平成21年7月23日
 武蔵国府跡は、奈良平安時代の武蔵国府の中心地にあたる国衙の跡地です。建物跡の一部が復元され、見学施設として開放されています。
 古代国府に関する文献は少ないため、研究には考古学的手法が欠かせません。府中市では、昭和50年以来、継続的に発掘調査を行ってきました。その成果の一つとして、国衙(国司が政を行った役所)の所在場所の判明がありました。この武蔵国府跡を中心に、南北約300m、東西約200mの大規模な区画溝に囲われた地域には、整然と並んだ大型の建物群の跡が発見され、瓦などの特徴的な遺物が出土しています。
 また、調査により、国府全体の様子が徐々に明らかになってきています。国衙付近の東西約2.2㎞、南北約1.8㎞の範囲に竪穴建物が密集しており、この範囲に国衙に関連した空間が広がっていたことが推測されます。一部では、東西・南北に直線に延びる道路や道路に沿って建設された建物の遺構などが発見され、一定の都市計画があったことが分かりました。これまでに都から赴任した国司の館跡、役所と推測される建物跡、井戸や鍛冶工房を備えた住居跡などが見つかっています。
 また、硯や木簡を削る小刀などの役所で使う文房具を始め、土器や鉄製品などの生活道具、施設の名称や人名の書かれた土器などが出土し、そこに住んでいた人々の様子まで分かるようになったのです。



写真:府中観光協会
大國魂神社の隣にあり、トイレなども提供しくれている建物です。東京文化財ウィークの冊子をもらおうと思ったのですが、在庫切れだそうです。2016年8月に作成されたもののようですが、増刷されなかったのですね。


写真:府中高札場
 都指定旧跡 標識:昭和4年10月 旧跡指定:昭和30年3月28日
 府中高札場は、旧甲州街道と府中街道の交差するかつての府中宿の中心地に位置します。高札場とは、江戸時代に幕府の政策や禁止令などを墨で書いた板の札(高札)を掲示する施設です。村や宿場などの中心地に設けられ、幕府の威光を示す重要な役割を果たしていました。
 府中高札場は往来の多い宿場にあったため、他の村よりも多くの高札が掲げられました。天保9年(1838)には10 枚の札が掲げられたことが記録に残っています。その内容は、親兄弟仲良く暮らすように、といった生活態度のことや、宿場駄賃などの生活に密着した内容、切支丹禁止や鉄砲禁止といった幕府の基本政策など内容は多岐にわたっていました。
 以前は街道に面して建っていましたが、昭和40年(1965)、自動車事故があったため、交通事情に配慮し、交差点に対して斜めに付け替えられました。現在では、当時の姿をとどめる高札場は少なく、この高札場は非常に貴重です。



写真:府中市民球場

写真:私設水準点

写真:府中刑務所

写真:早咲きのサクラ

写真:気仙沼ハウス
しばらく府中街道を北上します。左側には武蔵野線の線路の奥に東芝府中工場。エレベーター実験棟が目立ちます。右はなんといっても府中刑務所が目立ちます。その両方が三億円事件の舞台となります。
府中街道から左に入り、国分尼寺跡近くにあった気仙沼ハウス。住所は東京都府中市武蔵台1丁目36-2なので、なぜ気仙沼なのか謎です。









写真:国分尼寺
文化財ウィークの冊子には国分尼寺の項目がないので、Wikipediaの国分寺のページから引用します。
日本の国分寺・国分尼寺の先例として、隋王朝を建てた文帝・楊堅による大興国寺(大興善寺)があった。その後の唐王朝では、則天武后による大雲寺、中宗による竜興寺観、玄宗による開元寺があった。
聖武天皇は、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と『大般若経』を写す詔、天平12年(740年)には『法華経』10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。
『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。
国司の怠慢のために、多くの国分寺の造営は滞った。 天平19年(747年)11月の「国分寺造営督促の詔」により、造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに、完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示した。これにより、ほとんどの国分寺で本格的造営が始まった。
国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。また、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた。ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もある。なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。



写真:ホトケノザ
このあたりは日差しがあって暖かかったんです。




写真:武蔵国分僧寺跡
国分寺を歩こう
 武蔵国分寺は、府中市の国府から北方約2㎞の地に「東山道武蔵路」を挟んだ東西に「僧寺」と「尼寺」が建立されました。国分寺は、天平13 年(741)、聖武天皇による「国分寺建立詔」により全国に建立されたものです。武蔵国分寺は、出土遺物や「漆紙文書」の年代観などから天平宝字年間(757~765)頃に創建されたと考えられます。
 国分寺は全国60余国に建立されましたが、所在地が不明な国もあり、また、同一地域に「僧寺」と「尼寺」が判明され保存されているのは大変貴重です。国分寺としての規模も大きく、七重塔が建立されるなど壮大な寺だったと思われます。
 承和2年(835)に七重塔が落雷により焼失し、その10年後、再建願が出て許可されたことが『続日本後紀』に記されていますが、10世紀前半頃には寺域区画溝が埋没し、徐々に衰退していきます。新田義貞と鎌倉幕府方による分倍河原の合戦(1333)により国分寺は焼失し、建武2年(1335)には義貞により薬師堂が再建されたと伝えられています。
 詔などでは、国分寺は清らかな良い場所を選んで造営するよう定められました。武蔵国分寺の地は、現在も国分寺が法燈を受け継いでいるとともに、国分寺崖線の湧水や緑に恵まれた良好な地であることも重要です。この国分寺にあるような崖線のことを日本の古語で「ハケ」と呼び、大岡昇平『武蔵野夫人』は、この「ハケ」を舞台とした小説です。




写真:金堂基壇の復元工事
金堂を復元するのかと思ったら、復元するのは土台だけのようです。


写真:ちょっと目を引いた木
この時期に青々と葉を茂らせている姿が目を引いたのですが、種類はわかりません。



写真:国分寺
現在でも国分寺というお寺があり檀家がいて墓地もあります。この楼門は国分寺市の重要文化財に指定されています。柳の新芽がきれいだったのですが、うまく写真にすることが出来ませんでした。



写真:お鷹の道遊歩道

写真:武蔵国分寺跡資料館
武蔵国分寺跡資料館は、平成21年10月にオープンしました。史跡武蔵国分寺跡の僧寺地区内、現在の国分寺の東側、おたかの道湧水園内にあります。国分寺村の名主を務めた本多家の屋敷跡です。資料館には、「見る」・「学ぶ」・「訪ねる」をコンセプトにした史跡武蔵国分寺跡を紹介する資料が展示されています。敷地内には湧水源泉もあり、国分寺崖線の静かな雰囲気が伝わる資料館です。




写真:真姿の池湧水群
 都指定名勝 指定:平成10年3月13日
 国分寺崖線下には、湧水点がいくつも見られますが、その一つが、真姿の池とその周辺の「真姿の池湧水群」です。周辺にはケヤキ、スギなどが多く見られ、国分寺崖線の雑木林景観がよく残されています。かつては飲用水としても利用されていました。
 「真姿の池」の名はこの地の伝説が由来となっています。嘉祥元年(848)、皮膚の病に苦しむ玉造小町という女性がいました。小町は、国分寺を訪れ、病気平癒を願い参詣しました。お参りを始めて21日目、一人の童子が小町を池に案内し、この水で身を清めるようにと言い残しました。言われたとおりにすると、病は治り、小町は元の美しい姿を取り戻しました。小町の元の姿(真姿)を映したことから、人々はこの池を「真姿の池」と呼ぶようになりました。
 現在、池には祠があり、弁財天が祀られています。祠の中にはヘビが描かれた絵馬がたくさん奉納されており、病気治癒、安産祈願などのために訪れる人もいます。12年に一度、御本尊の開帳を行っており、平成25年に開帳されました。
 真姿の池周辺は、手入れの行き届いた雑木林に囲まれ、市街地の中にありながら美しい景観が好く残っており、環境省の「名水百選」、東京都の「東京の名湧水57 選」にも選
ばれています。





写真:東山道武蔵路
武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡
 国指定史跡 指定:大正11年10月12日 追加指定及び名称変更:平成22年8月5日
 武蔵国は、はるか奈良の都に東山道とその支路とでつながっていました。東山道は、近江、美濃、信濃、上野などの国を通り、出羽、陸奥へ至ります。武蔵国府へは、上野国新田駅(群馬県太田市)付近で分岐し、そこから南下します。その道上、国府2km手前に、武蔵国分寺(僧寺と尼寺)が作られました。
 武蔵国分寺の創建年代について、正確な記録は残っていませんが、出土した文字瓦や漆紙文書などの年代観、瓦型式などから、天平宝字年間に完成したと考えられています(第Ⅰ期)。その発展は、9世紀の七重塔炎上後の再建とそれにあわせた主要建物の改修・整備拡充期(第Ⅱ期)、10~11世紀にかけての制度崩壊やそれに伴う衰退期(第Ⅲ期)と、大きく3期に区分し、捉えることができます。
 僧寺は、官道「東山道武蔵路」の東側に建立されました。「中枢部」「伽藍地」「寺院地」の三重の区画から成ります。伽藍配置は、南門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、塔が回廊外に置かれる東大寺式です。
 尼寺は、官道「東山道武蔵路」の西側に建立されました。塔はなく、「中枢部」と「伽藍地」の二重の区画から成ります。中枢部の建物としては、金堂と中門、尼坊を確認しています。
 現在、国分寺市は発掘調査の成果をもとに、復元・整備事業を進めています。平成25、26年度には講堂の基壇を復元し、そこに建物の跡を平面表示しました。基壇とは、周囲より一段高く盛られた建物の土台のことですが、側面は瓦で装飾されていたことが分かっています。復元するに当たって、古代の瓦を再現・製作し、部分的に本物の瓦や市民の手作りによる瓦も埋め込みました。今後は、中門、鐘楼、金堂について、復元・整備を進めていく予定です。
 国分寺四小入口交差点を北へ渡り、JR西国分寺駅へ向かうと、車道より3倍近い幅を持つ歩道が現れます。これは、幅12mで真っすぐ造られた官道「東山道武蔵路」を復元・表示したものです。古代道路の大きさを体感しながら、歩いてみてください。


目黒区やその周辺を歩いていると江戸時代を感じさせるものはありますが、今回歩いたところは古代ですから。律令国家となることを定め、仏教を導入して国を治めてゆこうという壮大な構想の一部です。庶民はまだ竪穴式住居だった時代に、荘厳な寺院建築や七重塔などは、どのように受け入れられ、繁栄し、衰退していったのでしょう。
また武蔵国分僧寺跡は三億円事件の現金輸送車が乗り捨てられていた場所でもあります。古代寺院の跡が荒廃し人目につかないような荒れ地になっていたのですね。

今回の国分寺と、野川を関連付ける記事を国分寺市観光協会のページから引用します。
741年、聖武天皇の命により全国に国分寺が建立される際、武蔵国の国府(現在の府中市)の近くに良い土地はないかと選ばれたのが現在の国分寺市です。なぜ選ばれたのか?それは、帰国した遣唐使から伝えられた「四神相応(ししんそうおう)の地」の考えに基づきます。「四神相応」の「四神」とは、東西南北の四方を守護するとされる聖獣のことで
青龍(せいりゅう)
白虎(びゃっこ)
朱雀(すざく)
玄武(げんぶ)
のことを指し、それぞれ特徴のある土地に棲むと言われています。その特徴を説明すると
東:青龍…豊かな川の流れがある
西:白虎…大きな道があり交通の便がよい
南:朱雀…広大な平野や海があり開けている
北:玄武…山や丘陵がある
四神相応の地というのは、古代中国に始まった風水における四聖獣(四神)が東西南北の各方向の地形とフィットする地のことです。国分寺は、東に清流があり、西には当時の大動脈といえる東山道武蔵路、南には広大な平野が広がり、北には国分寺崖線がそびえるという理想の地相であったのです。鎌倉時代末期、国分寺は新田義貞によって残念ながら燃やされてしまったと伝えられていますが、礎石の跡などは残っており、周辺には真姿の池やお鷹の道など、東京都とは思えないのどかな風景が残っています。都会と閑静な佇まいの融合。是非一度、国分寺の地にお立ち寄りください。

ということで、次回の企画は「東:青龍…豊かな川の流れがある」の野川を下ってゆきます。


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まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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呑川緑道・池上梅園コース 約5.0km

2018-03-04 15:11:38 | ウォーキング
かなり前に呑川を都立大学から下り、東京湾にそそぐ河口まで歩いたことがあるので、このコースは初めてではないのですが、梅園をゴールにしたのは初代企画委員の頃以来となるので十数年ぶりのことです。前回の記憶があるのは私だけかな。
川沿いをずっと歩いてゆくので風景自体はそれほど変わりません。今日は花の写真を中心にご紹介したいと思います。



写真:ひな祭りイベント
集合場所は都立大学駅裏の呑川緑道。いつもストレッチでお借りしている場所はひな祭りイベントをやっていて使えませんでした。


写真:桜森児童遊園
呑川緑道を下流に向かい、住宅街に入ったところにある桜森児童遊園をお借りしてストレッチをしました。いきなり現れた年配の集団に、通行人がちょっとびっくりしているような様子が印象的でした。普段の児童遊園の平均年齢と比べると十倍くらいになっていたでしょう。


写真:呑川緑道

写真:自転車置き場
呑川緑道へ戻り下流に向かいます。「稲荷橋置場」の看板には、桜森稲荷神社そばの橋の名前なんだと納得しました。


写真:オウバイ

写真:早咲きのサクラ
早咲きのサクラは名札がついていないのでわかりませんが、オオカンザクラでしょうか?エドヒガンのような色合いでした。


写真:目黒十一中

写真:コウバイ

写真:カンヒザクラ

写真:花壇

写真:アセビ
知らないうちにアセビが咲いていました。


写真:東京工業大学

写真:大井町線(上)と目黒線(下)

写真:支流遊歩道

写真:緑が丘三丁目

写真:呑川

写真:東京工業大学
「九品仏川緑道」の看板があり、この先に緑道があるのですが、九品仏川の合流点はもう少し下流で、目黒線の線路の先になります。呑川が緑が丘三丁目と大岡山二丁目の境になっており、東京工業大学は十一中と隣接する一部のキャンパスを除き、ほとんどが大岡山に所在します。東京工業大学開学の地は先週歩いた蔵前で、東急電鉄が沿線価値を高めるために誘致して、この地に移転してきました。その後学芸大学、都立大学の移転などがあり、東急電鉄の思惑通りの展開となっています。


写真:大田区の児童公園

写真:しだれ梅

写真:カワヅザクラ

写真:白梅と紅梅

写真:清流の復活
現在呑川、目黒川、渋谷川に水が流れているのは「清流の復活」事業のおかげです。事業についてWikipediaから引用します。
昭島市内にある多摩川上流水再生センターにおいて高度二次処理を施して再生した下水を送水し、小平監視所(玉川上水駅近傍)直下にて玉川上水へ、またやや東方地点(東大和市駅近傍)から野火止用水へと放流している。 前者の水はさらに境橋地点(武蔵境駅北方)で分水し、一部を千川上水へも流している。 これらの上水/用水はいずれも、1970年代までには生活排水で汚れてしまったり、水を失って空堀化してしまっており、当事業の実施によってはじめて水辺としての地位を回復できたものである。“清流復活”以前の経緯については各上水/用水の項目を参照されたい。
野火止用水の再生水はそのまま埼玉県へ越境し、暗渠を経て新河岸川へと合流するが、玉川上水と千川上水については暗渠に入った先で水を回収の上、前者は神田川、後者は善福寺川へと放流し、両河川の渇水対策に役立られている。

城南三河川清流復活事業
上記とは別に「城南三河川清流復活事業」として、落合水再生センターで処理した再生水を、渋谷川(古川)、目黒川、呑川へと送水・放流している。これらの都市河川は、その源流・支流のほとんどが(暗渠化された上で)下水道へと転用されているため、常時水量に乏しく、場所によってはほとんど涸れ川のような状態となっていた。これを補うためのものである。この事業以降、アユの生息も確認され、水辺に親しむ気運が高まってきたという。

この事業実施前の荒れた状態を知っているので、今の状況はとてもありがたいと思います。汚い川にはごみを捨てる人が多かったのですが、今はそのような状況も改善されました。



写真:石橋供養塔
大田区文化財
石橋供養碑
安永三年(1774)に、雪ヶ谷村の浄心ら六名の者が本願主となって、石橋の安泰を祈って建てられた供養塔である。
石橋は現存しないが、呑川を渡って中原街道を通るため、当時すでに石橋がかけられていたことがわかる。
正面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれ、側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名と花押が刻まれている。このように日蓮宗の色彩を帯びているのは、雪ヶ谷村の寺院がいずれも同宗であったという地域的な特色によるものである。
石橋供養塔は、他の民間信仰供養塔と兼ねたものが多いが、この塔は石橋の無事と通行人の安全という交通安全だけを目的として建てられたものであり、貴重である。
昭和五十一年二月二十五日
  大田区教育委員会



写真:池上線

写真:池上線土手のフキノトウ
池上線の開業は1922年で、1926年開業の東横線より歴史があります。しかし何か虐げられた印象が残るのは、相互乗り入れをしていないからなのでしょうか?東急五反田駅は相互乗り入れを想定して作られたのですが、ご破算になった過去があるようです。虐げられた印象についてWikipediaから「池上線(曲)」のページを引用します。
西島三重子のセカンドシングルである。
東急池上線を舞台に、別れる男女の悲哀を、当時の昭和の風情も織り交ぜながら歌っている。
この歌詞に池上線の車両の古さや状態の悪さを思わせる箇所があり、東急がそれらを否定するコメントを出す事態となった。ただ、当時の池上線を走っていた車両はほとんどが戦前製のデハ3450形を始めとした旧型車の初代3000系で、車体の更新工事は始まっていたものの、製造から40年以上が経過したものがあったことは確かである。
その後2007年(平成19年)には「池上線開通80周年」企画の一環として「池上線の名前を全国に広めた」ということで特別列車「名曲池上線号」が運転され、この曲を歌った西島三重子も乗車してイベントが行われた。
2012年11月7日にはアンサーソングの『池上線ふたたび』をリリースした。



写真:ボケ

写真:呑川

写真:アロエ

写真:ナノハナ

写真:農地

写真:新幹線の鉄橋
映画「シンゴジラ」でゴジラは上陸して呑川を遡るのですが、どのあたりまでさかのぼったんだろう?新幹線が通るあたりに広大な農地が残っていました。


写真:道々橋
国道一号線の手前に現れたこの道は旧道の雰囲気を感じさせる道だったので、旧東海道かなぁと思い写真に撮って調べてみました。「丸子道」という古道だそうです。徳川家康が江戸に入ったのは現在の中原街道といわれており、これより北側になります。第二京浜と呼ばれる国道一号線はまっすぐで、このあたりではあまり旧道を意識せずに作られたものなのかもしれません。


写真:仲池児童公園
ゴールの少し手前のこちらをお借りして整理体操のストレッチを行いました。


写真:池上梅園
今日歩いて見て初めてこの梅園の崖は呑川が削ったものと気が付きました。梅はちょうど見頃でいい香りが漂っていて、こちらで解散となりました。



写真:大坊本行寺

写真:多宝塔
確認したいことがあったので梅園には入らず、いつもの飲み仲間と本門寺へ向かいます。


写真:本殿仁王像阿形

写真:本殿仁王像吽形
池上駅から本門寺へお参りすると、加藤清正が普請したという階段があり、仁王門があって大堂でお参りしておしまいというパターンでしたが、その奥に本殿があることを先日のテレビ放送で知りました。本殿にはアントニオ猪木をモデルとした仁王像があることを知り、それを見に来たのですが阿形か吽形がどちらの像がそうなのかわからなくなり両方写真に撮ってきました。帰ってから調べてみると猪木をモデルとして作成されたのは吽形の方でした。仁王像の作者がアントニオ猪木のファンで、猪木をモデルとしたいと話したところ、「師匠(力道山)の門前を守る役割ならぜひともやらせていただきたい」と快諾を得て実現したという話でした。


写真:五重塔(重要文化財)


写真:力道山墓所
力道山のお墓があることは知っていたのですが、テレビ放送を見て興味を持ち、初めて訪れました。



写真:大野伴睦墓所
虎に目をひかれてこのお墓にたどり着きましたが、なぜここに虎が置かれているのか明確な説明は見つかりませんでした。大野伴睦という政治家の名前は知っていましたが、豪快な人物だったようですね。Wikipediaからいくつか引用します。
概要
典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の名言を残した。
東海道新幹線岐阜羽島駅
産経新聞の『戦後史開封』によると、岐阜県は岐阜市または大垣市への新幹線駅設置を要望するが、その場合、新幹線路線を大幅に迂回させなくてはならないため、建設予算や名古屋駅以西の所要時間が増える関係上、日本国有鉄道(国鉄)は難色を示した。これに地元は激しく反発し、一時国鉄は岐阜県内での測量ができない状態になった。そこで国鉄が大野に斡旋を依頼し、結局、新幹線路線を迂回させることの無い岐阜羽島駅の設置となった。これは大野自身が地元の利権に絡んで国鉄に圧力をかけたわけではなく、むしろ地元の利益よりも新幹線の速達性を優先した結果であった。岐阜羽島駅が今日、政治利権の権化とされるのは、地元の利益の代弁を装い、地元の利益誘導をでっちあげたことに由来する。なお、国鉄樽見線(現在の樽見鉄道樽見線)の建設にも関わり、セメント工場を誘致したのも彼の働きかけだということは意外に知られていない。
人物像
酒豪としても知られ、「酒は飲む以上わけがわからなくなるまで飲むべきだ」という名言がある。



写真:徳川吉宗側室の墓所
Wikipediaから引用します。
深徳院(しんとくいん)
吉宗の側室となり、正徳元年(1711年)12月21日に家重を生んだ。正徳3年(1713年)にも懐妊したが、同年10月24日[1]、赤坂の紀州藩邸において難産のため母子ともに死去した。享年26。戒名は深徳院妙順日喜大姉。墓所は池上本門寺。
宝暦13年(1763年)4月16日、従二位が追贈された。


ちょうど良い時間となったので先週大いに楽しんだ串カツ田中へ行こうと、池上店に飛び込みました。先週ハイボールに限られていたチンチロリンが生ビールにも拡大されておりラッキー。串揚げがなかなか出てこないという落ちがありましたが、串揚げとビールプラスハイボールを大いに楽しみました。


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協会バスハイク下見 武蔵水路・さきたま古墳公園

2018-03-01 18:13:04 | ウォーキング
毎年四月に実施している目黒ウォーキング協会のバスハイクのため、埼玉県へ下見に行ってきました。


写真:武蔵水路
中目黒から練馬ICへ一般道で40分と想定していたのですが、通勤通学時間帯とも重なり60分かかってしまいました。本番のバスハイクではスタートは目黒区役所ですが、何カ所かピックアップを重ね最終的な出発地は都立大学となるため、首都高速も使いづらく、環八経由の練馬ICまで90分の想定でしょう。
東松山ICで関越自動車道を下りて、北鴻巣駅近くの赤見台近隣公園に車を停めました。
武蔵水路についてWikipediaから引用します。
武蔵水路(むさしすいろ)は、利根川の水を荒川に導くための導水路。利根川水系に属する。埼玉県行田市の利根大堰で利根川から取水され、鴻巣市で荒川に注ぐ。全長14.5 kmで全体が開水路である。管理者は水資源機構。東京都水道局の約4割、埼玉県企業局の約8割の給水エリアの水道水を送っている。また、周辺地域の洪水や出水を取り込む役割(内水排除機能)を果たしている。1965年、見沼代用水路の一部を使用して緊急送水を開始、1967年、武蔵水路の工事が完成した。2015年度までに改築工事を実施し、これに伴い、一部区間で治水機能を新たに有したことから、2016年に利根川水系に属する一級河川に指定された。






写真:さきたま緑道
武蔵水路沿いにさきたま緑道が整備され分離した遊歩道と自転車道があり、歩くにはよい環境です。特に見どころがないのが残念ですが、緑道に設置された彫刻作品を見ながら歩くことになります。


写真:さきたま古墳公園
さきたま緑道を少し歩き、だいたいの様子をつかんだら車へ戻りさきたま古墳公園へ向かいます。入場料も駐車料金も無料で、公園事務所のようなものが見当たりません。博物館で資料をもらってきました。


写真:行田のウォーキングマップ
この時点では行田をよくわかっていなかったのでこのマップの通り歩くイメージが湧きません。テレビドラマ「陸王」が人気となり、行田市を訪れる人は増えているようです。Wikipediaの陸王のページから反響をピックアップします。
撮影に協力した行田市では、放送開始から徐々に『こはぜ屋』の外観撮影地などロケ地を回る観光客が増加し、煎餅店に注文が殺到するなど地元のドラマ関連商品の売り上げが伸びたり、足袋製造の技術指導も行っている『きねや足袋』はランニング足袋『きねや無敵』の注文が増えた。 行田市は、『陸王』のドラマ化や田んぼアート事業10周年を記念して古代蓮の里南側の水田に役所広司の似顔絵による陸王の田んぼアートを製作した。なお、この田んぼアートは十万石まんじゅうと陸王のコラボレーションの際に発売された「陸王まんじゅう」のパッケージのデザインにも使用された。
このドラマを見ていれば、こちらのウォーキングマップに沿ったコースも面白いのかもしれませんが、今回はウォーキングの安全を重視して、さきたま緑道を歩くことにします。



写真:愛宕山古墳
県立さきたま史跡の博物館のページから引用します。
愛宕山古墳は、中央駐車場のすぐ東にあり、車を降りたお客さんを出迎える位置にたたずんでいます。長さ53mで、埼玉古墳群の前方後円墳としては最小です。墳丘はやや変形しているためわかりにくくなっていますが、他の前方後円墳と同じく、前方部が南側になります。
周囲に建物が接していることもあり、あまり目立たず、周囲の古墳の大きさに気をとられると見落としてしまうかもしれません。しかし、よく見ると墳丘に石仏があり、まばらに生い茂る木立とともに、心落ち着く静かな空間となっています。また、駐車場側の堀にはハナショウブが植えられており、二子山古墳同様、初夏には花を楽しめます。「愛宕山」の名は、かつて墳丘の上に愛宕神社がまつられていたことによるものです。
最小ではありますが、墳丘は、他の大型前方後円墳と同じく二重の堀に囲まれていることが、発掘調査により確認されています。
また、その際、武人などの人物埴輪、大刀・盾・きぬがさ(貴人の傘)などの器財埴輪、馬形埴輪や円筒埴輪が出土しました。円筒埴輪は高さ40cmほどで、古墳の大きさに比例するように、100m級の大型前方後円墳に立てられた円筒埴輪に比べ小さいものです。それらの特徴から、この古墳は、二子山古墳に近い時期の、6世紀前半に造られたと推定されています。



写真:はにわの館


写真:埼玉県名発祥の地
「足袋蔵のまち行田」と足袋やその材料を収蔵した蔵が残っていることを前面に押し出しています。
埼玉県名の由来
明治四年十一月十四日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て明治九年八月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉(さきたま)郡という表示も行われ、正倉院文書新亀三年(726)の山城国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
ここ行田市埼玉の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。
昭和六十二年四月
  埼玉県




写真:奥の山古墳




写真:さきたま緑道
北鴻巣駅から武蔵水路に沿って、「さきたま緑道」を歩いてくると、最初に見えてくる古墳が奥の山古墳です。埼玉(さきたま)古墳群の多くの古墳が大字埼玉に分布していますが、奥の山古墳や中の山古墳は大字渡柳(わたりやなぎ)にあります。渡柳地区にある古墳は、東から戸場口山古墳・中の山古墳・奥の山古墳と並び、一番奥にあることからこの名前が付けられました。
1968(昭43)年に周堀の一部の発掘調査が行なわれ、埼玉古墳群では唯一、一重で盾形周堀と考えられていましたが、2007年度から2009年度まで行った発掘調査で、台形で二重周堀の前方後円墳であることや、墳丘の全長がこれまで考えられていた長さより4m短い66mであることが分かりました。また、周堀については埋まっていた土を分析したところ、水のない空堀(からぼり)であったことも分かりました。




写真:中の山古墳

写真:梅林
中の山古墳は、奥の山古墳と並んで埼玉(さきたま)古墳群の南端に位置しています。東側には、壊されてしまいましたが方墳(ほうふん)の戸場口山古墳が隣接しており、3つの古墳の真ん中にあたることからその名がつきました。全長は79mです。墳丘は、前方部の保存状態が良い一方、後円部はかつて畑となっていたため、細長く変形しています。今は完全に埋まっていますが、発掘調査により、周囲は二重の堀で囲まれていることが確認されています。後円部の頂上には掘り返されたとみられるくぼみがあり、かつて石棺が出土したという言い伝えがあることから、埋葬施設は盗掘された可能性が高いようです。またこのことから、中の山古墳は「唐櫃山(かろうとやま)」という別名を持っています。駐車場からも博物館からも離れているため訪れる人は多くないようで、古墳西側の芝生は、日中でも静かな空間になっています。静かな散策を楽しむには絶好と言えるでしょう。
発掘調査では、他の古墳のような埴輪ではなく、変わった土器が出土しました。須恵器(すえき)と同じく灰色に焼きしまり、形は、口がラッパのように広がり、胴体はやや細長く、底は穴があいています。頭の大きな「銚子」のようですが、これを「須恵質埴輪壺(すえしつはにわつぼ)」と呼んでいます。九州北部のいくつかの古墳で似たものが出土していますが、関東の古墳では他に例がありません。近年、西に約30km離れた寄居町末野遺跡で、中の山古墳と同じ須恵質埴輪壺を焼いたとみられる須恵器の窯跡が発見されました。その年代は、須恵器の特徴から、6世紀末から7世紀初めと考えられます。この頃は前方後円墳が造られなくなる時期にあたり、中の山古墳は埼玉古墳群最後の前方後円墳です。




写真:鉄砲山古墳
鉄砲山古墳は、県道を挟んで二子山古墳の南側、埼玉(さきたま)古墳群では南に寄った位置にあります。長さ109m、埼玉古墳群の前方後円墳では3番目の大きさです。「鉄砲山」という、古墳としてはめずらしい名前は、江戸時代、古墳の周辺が忍藩の砲術練習場になっていたことから名付けられました。70年ほど前からその名が見られますが、それ以前は「御風呂山」と呼ばれていました。今は完全に埋まっていますが、墳丘は二重の堀に囲まれていることが、発掘調査により確認されています。ただ部分的な調査であるため、正確な形態はまだわかっていません。埋葬施設も発掘調査されていないため、形態は不明です。墳丘の西側は中央付近がえぐれてやや変形してますが、東側は保存状態が良く、隣接する芝生からは、古墳本来の形が美しく眺められます。墳丘に登ることはできませんが、夏のオニユリなど季節ごとに野草の花が咲き、古代の遺跡とはまた別の顔を楽しむことができます。ただ、周囲には民間地が接しているため、見学の時は注意してください。
これまでの発掘調査では、円筒埴輪の破片や土器が出土しました。それらの特徴から、この古墳は6世紀の後半に造られたと推定されています。鉄砲山古墳の東側は、中の山古墳、前玉神社の森に囲まれた緑ゆたかな空間になっています。埼玉古墳群を見学にこられても、ここまで足をのばす方は多くないようで、人でにぎわう稲荷山古墳南側の広場とは対照的な、埼玉古墳群の隠れた奥座敷と言えるでしょう。



写真:マラソン大会
「陸王杯」の名を冠したのは昨年からのようです。「鉄剣」はさきたま古墳から出土した国宝です。鉄剣についてWikipediaから引用します。
稲荷山古墳出土鉄剣
稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)は、1968年に埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣。1983年に同古墳から出土した他の副葬品とともに国宝に指定された。「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」とも称される(「金錯」は「金象嵌(きんぞうがん)」の意味)。
現在は埼玉古墳群近くの埼玉県立さきたま史跡の博物館内で、窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている。

銘文発見の経緯
1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が行われた。その際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明する(新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは1978年9月)。その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定され、2年後の1983年には国宝に指定された。
当初、古墳の発掘は愛宕山古墳で行われる予定であったが、崩壊の危険があるため稲荷山古墳に変更された。

銘文の内容
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」




写真:瓦塚古墳
博物館に一番近い古墳で、移築民家の裏山のように見えます。全長73mの前方後円墳で、6世紀前半ころに造られたと考えられています。埼玉古墳群の特徴である、長方形で二重の周堀が巡り、前方部の西側には造出しが見られます。また、外堀には通路となるような掘り残した部分が1ヶ所あります。瓦塚古墳からは、整備にともなう発掘調査で多くの埴輪や土器などの遺物が出土しています。出土した埴輪を調べると、墳丘や中堤には多くの種類の埴輪が並べられていたことが分かりました。筒のような円筒埴輪だけではなく、家形の埴輪や、水鳥の形をした埴輪のほかに、琴を弾く男・首飾りを付けた女・盾を持つ男・馬を引く男など多くの人物埴輪も並んでいたようです。特に、円柱状の太い柱を表現した家形埴輪は全国的にも珍しいものです。これらの埴輪からは当時の住居や服装だけではなく、葬送のまつりの様子をうかがうことができます。現在、瓦塚古墳には登られませんが、内堀と外堀の一部が砂利敷きによって復原されています。外堀の通路を通り、墳丘の近くまで行くことができますので、古墳の大きさを間近に見ることができます。



写真:移築民家
羽生から移築されたものですが、船は洪水の多い場所だったことを物語っています。埼玉県のこのあたりは利根川、荒川など大きな河川があるので洪水から自力で脱出するための船が必要不可欠だったのでしょう。奇しくも今回のバスハイクで歩くことになる武蔵水路は、その水害対策の一環です。


写真:駐車場入り口のオブジェ


写真:二子山古墳
二子山古墳は、稲荷山古墳の南側、埼玉古墳群のほぼ中央にあたります。長さ138m、埼玉古墳群の中で、そしてかつての武蔵国の中でも最大の前方後円墳です。名前は、前方部と後円部という二つの山が連結したような形からついたもので、「観音寺山」とも呼ばれていました。「二(双)子山」という名の古墳は全国各地にみられます。墳丘は二重の堀に囲まれており、それを含めた長さは南北240m以上になります。墳丘に登ることはできませんが、堀に挟まれた中堤は遊歩道になっており、ぐるり四方から墳丘を間近に見ることができます。側面から見ると、古墳は大きな船が港にいるように見え、その大きさが実感されます。でも気分は、史跡の中にいるというより、のどかな散歩道を歩いているようです。春にはその周囲でポピー、花菖蒲などの花が咲き、訪れる人の目を楽しませてくれます。南側の県道からは、前方部の前面を直接見渡せます。この道路は古墳群の中央を横切っていますが、沿道の建物に視界をさえぎられて、自分が古墳群の中にいるとはほとんどわかりません。例外は二子山古墳で、家並みがとぎれたかと思うと緑の大きな墳丘が突然目の前にあらわれ、何か不思議な世界の入り口に来たように思えます。思わず引き込まれてしまいます。
埋葬施設は発掘調査されておらず詳しいことは不明ですが、墳丘周囲の調査で出土した埴輪から、6世紀初頭前後に造られたと推定されています。稲荷山古墳に続く時期にあたりますが、稲荷山古墳とは、墳丘の向きが同じ、またともに、中堤の西側に「造出し」と呼ばれる四角い土壇(どだん)をもつなどの共通点があります。位置、時期とともに、両者の連続性がうかがわれます。また相前後して日本最大の円墳である丸墓山古墳が造られたとみられ、両者の関係は埼玉古墳群の大きな謎となっています。






写真:丸墓山古墳
忍城が見えました。
丸墓山古墳は、直径105m、日本最大の円墳として有名です。墳丘の高さは埼玉古墳群で最高、まさに山のようです。頂上に立つと、隣に稲荷山古墳、その向こうに将軍山古墳の、復原整備を終えた墳丘がよく見えます。また、近年では昔地元の方が植えたソメイヨシノが成長し、桜の名所として親しまれています。振り返って北西には、行田の市街地が遠望されます。下から見上げても、上に上ってもその大きさ、高さが実感されます。「丸墓山」という名の由来については、「麿墓」(まろはか)が訛って「丸墓」になった、あるいは丸い墳丘からその名が付いたなどの説がありますが、いずれにしても江戸時代の書物に「丸墓山」が登場することから、当時からすでにその名で知られていたことが確認できます。埋葬施設は発掘されていないため詳しいことはわかりませんが、出土した埴輪から6世紀前半ころに造られたと推定されています。とすれば、稲荷山古墳のあと、二子山古墳と同じころに造られたことになります。二子山古墳は埼玉古墳群中最大の前方後円墳ですが、相前後して日本最大の円墳が造られたわけです。丸墓山古墳に盛り上げられた土の量は二子山古墳より多いという試算もあります。このように、最大級の丸墓山古墳が、前方後円墳が連続していく埼玉古墳群の中に、なぜひとつだけ円墳という形で現れたのか、そして二子山古墳との関係は。謎のむこうに歴史のドラマが秘められているかもしれません。
その後、丸墓山古墳は思わぬ形で歴史の舞台となります。豊臣秀吉が天下統一を進める1590年、家臣の石田三成は、秀吉の備中高松城水攻めにならい忍城を水攻めにします。その際、城がよくみえるこの古墳の上に陣を張ったのです。現在駐車場から古墳へと続く道は、その際築かれた堤防の跡といわれています。いわゆる「石田堤」です。水攻めは結局失敗しましたが、三成はどのような光景を見つめていたのか、古墳の上でそんな想像をしてみてはいかがでしょう。



写真:稲荷山古墳
稲荷山古墳は5世紀後半に造られた前方後円墳で、埼玉古墳群の中で最初に出現した古墳です。以前、古墳の上に小さな稲荷社があったことから、稲荷山と呼ばれるようになりました。前方部は1937年に土取で壊されてしまいましたが、1997年からの復原整備で前方部が復元され、現在では造られた当時のカタチを見ることができます。墳丘の全長は120mで、12m近い高さがあり、周囲には2重の堀が巡っています。堀の整備などはこれからも続けていきますが、墳丘の頂上(ちょうじょう)には登れるようになり、周囲の古墳を見ることができますので、高さを実感して下さい。さきたま風土記の丘を整備するために、1968年に稲荷山古墳の後円部を発掘調査したところ、頂上から2基の主体部(人を埋葬した施設)が発見されました。ここからは、表面に57・裏面に58の文字が刻まれた金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)や甲冑・馬具などの副葬品が出土しました。115の文字には、ワカタケル大王(雄略天皇)に仕えたヲワケの功績などが記されており、我国の古代史を考える上で貴重な資料となっています。これらの遺物は1983年に国宝に指定され、さきたま史跡の博物館の国宝展示室に常時展示されています。実物資料の輝きをご覧になって下さい。


写真:将軍山古墳
埼玉古墳群の北東部にある将軍山古墳は、6世紀後半に築かれた全長90mの前方後円墳です。明治時代に後円部にあった横穴式石室が発掘され、馬具や環頭太刀など豊富な副葬品が出土しました。しかし、墳丘東側が削平されており、石室の一部が露出するなど崩壊の危険が迫っていました。そこで、埼玉県では1991年から墳丘と周堀の復原や墳丘に埴輪の複製品を並べるなどの整備を進めてきました。崩落した墳丘部分をドームで覆い、古墳の内部に入って複製の石室や遺物の出土状況を見学できるガイダンス施設を建設し、1997年に将軍山古墳展示館としてオープンしました。
古墳の頂上部と中段の平坦な部分には埴輪が並べられ、墳丘のまわりには二重の堀が巡っており、外堀には通路のような土橋が見つかっています。将軍山古墳は、主体部の発掘調査が行われ出土遺物も豊富なことから、埼玉古墳群の中では古墳の構造や時代が最もよく分かる古墳でもあります。展示館には出土した埴輪や土層断面が展示してあり、薄暗い2階に上がると石室の中を再現した空間を見ることができます。石室の内部を見学した後には、隣の稲荷山古墳の頂上から将軍山古墳を見てください。古墳が造られた時代の姿を想像することができます。




写真:丸墓山古墳の階段と石田堤
階段を下った先が石田堤の一部となります。Wikipediaから引用します。
天正18年(1590年)の関東平定において、忍城城主・成田氏長は小田原城に籠城し、残った士卒・兵・地元農民ら3000が忍城に立て籠った。攻城の総大将に任じられた石田三成は力攻めを行ったが、周囲は沼や深田という足場の悪さにも守られ、城攻めは遅々として進まなかった。そのため、三成は忍城を望むことができる丸墓山(現・丸墓山古墳)の頂きに本陣を構え、水攻めを発案し、そこを起点に忍城周囲に総延長28 km、比高1.8-3.6 m、基底(幅)約11 mにも及ぶ堤を築いた。
総延長28 kmに及ぶ堤を6月9日に着手され、わずか1週間(一説には5日間)で作り上げたと言われるが、実際には自然堤防や微高地を巧みに繋ぎ合わせたものと思われる。堤が完成した後、利根川・荒川の水を引き入れたが、城にはあまり水が溜まらなかった。
その後、増水したため、現在の堀切橋付近(袋 - 堤根間)で堤が決壊して石田方に多数の溺死者が出て、水攻めは失敗に終わった。その後は開墾などにより次第に取り壊されたが、1866年(慶応2年)名主増田五左衛門らにより石田堤の保存活動が行なわれた。



うどん大地
事前調べではさきたま古墳公園で行田ゼリーフライなどを食べることが出来るとなっていたのですが、オフシーズンの平日のためなのか焼きそば店が一軒あるものの食事する場所がなく、車で訪れたのがこのうどん店です。意外といっては失礼ですが美味しくてラッキーでした。



写真:浮き城の径







写真:忍城
映画「のぼうの城」で有名な忍城。
忍城は文明10年(1478)頃、成田顕泰[あきやす]により築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐え、この城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという。
寛永16年(1639)時の老中阿部忠秋[ただあき]が入城し忍城大改築に着手。孫の正武[まさたけ]の代にいたり忍城御三階櫓の建設、城門、土塀の修築などが完成し面目を一新したという。文政6年(1823)伊勢の桑名から松平忠堯[ただたか]が移封し忠誠[ただざね]のとき明治維新を迎えた。行田市では維新後とりこわされていた城郭の面影を再建し永く後世に伝えることになった
平成三年三月
  行田市



この後滑川町へ移動し「なめがわ温泉 花和楽の湯」で日帰り温泉に浸かって帰途に就きました。関越自動車道、環八を経由して目黒区役所まで二時間といったところでしょう。久しぶりの遠出で、リフレッシュできる下見となりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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