目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

代官山・恵比寿・広尾コース 約7.6km

2022-12-31 15:27:21 | 東京都目黒区、渋谷区、港区
私のいうところの代官山山脈を越えて東へ行きまた戻ってくるコースです。始めと終わりに上り坂があり、トイレ休憩前も登りがあるのでちょっときついかな。鍛錬だと思って頑張りましょう。


目黒川のサギ

鴨だと思うけど潜水が得意
目黒川船入場集合、ストレッチをして川沿いに上流へ向かいます。


皀樹橋(さいかちばし)歩道橋

駒沢通り
歩道橋の「中目黒一丁目」が東急中目黒駅の由来となります。多摩川の砂利を都心に輸送する鉄道として明治29年に玉川通りの路面電車として玉川線が開業します。大正11年、支線天現寺線が開業し玉川線と直通運転が始まります。昭和2年渋谷橋交差点から正覚寺付近までの駒沢通りに中目黒支線が開業し、玉川電気鉄道中目黒駅が設けられました。同年東横線が開業して駅を設ける際、所在地は上目黒三丁目となる荏原郡目黒村大字上目黒字諏訪山でしたが、開業していた玉川電気鉄道中目黒駅との乗換駅として中目黒駅という名になりました。


町会の張り紙
おめでとうございます!



東京音楽大学

旧朝倉家住宅

元富士
目黒川沿いに歩き、宿山橋手前を曲がって北東へ行くと東京音楽大学。敷地内にみどりの鎌倉街道が開放されており、目切坂の狭い歩道を歩かなくてよいので助かります。坂の北側は朝倉家住宅で、南側には元富士の看板があります。江戸時代丸旦組という富士講が持ちかえった溶岩などで築山を作り江戸の観光名所でした。明治政府の管理になると岩倉具視の別荘となり築山の溶岩は上目黒氷川神社に移されました。最近気づいたのですが目黒駅近くのホテルプリンセスガーデンは三条実美邸の跡です。富士山を望むことが出来る三田用水沿いに別荘が建てられたのですね。


駅前代官山アドレス

坂下の八百屋?

バス停
旧山手通り、八幡通りを横断し、代官山駅前から線路に沿って進みスプリングバレー前の坂を恵比寿方面へ向かいます。ハチ公バスに初めて乗った時「ハチ公バスだワンワンワン!」と歌が流れてなんじゃこりゃと思ったのですが、最近は歌が流れなくなりちょっと寂しいです。


恵比寿庚申塔



福昌寺
 東三丁目10番13号 曹洞宗 渋谷山 福昌寺
 区指定有形文化財 平成19年3月1日
阿弥陀石棺仏

石棺仏とは、古墳時代の石棺を転用して、そこに仏像を彫り込んで路傍に立て庶民が礼拝の対象としたものです。本石棺仏は、古墳時代中後期頃の家型石棺の蓋を利用しており、その内側は長方形に彫り窪められています。中心部に表されるのは蓮台上に立つ阿弥陀如来像で、船形光背を負い、来迎印を結ぶ姿が浮き彫りにされています。現存する阿弥陀石棺仏の多くが座像であり、このような立像は稀な例になります。
この石棺仏の材質は、兵庫県高砂市・加西市付近を産地とする播磨竜山石と考えられます。石棺仏が彫られた時期は、その像容や年紀を持つほかの作例から見て、南北朝時代頃と推定されます。現状は石棺蓋の上端部に物が奉置されるような窪みが穿たれていますが、阿弥陀如来像や蓮華座に破損や摩滅等がほとんど見られず、保存状態は比較的良好です。
この阿弥陀石棺仏は、和歌山県那賀郡から運ばれて来たものと伝えられ、昭和25年頃に造園業を営む東光園が入手して当寺に寄進したもので、東京では本例のみという珍しいものです。
 渋谷区教育委員会



渋谷橋交差点

法雲寺

セサミ・インターナショナル・プリスクール

ネギ山坂
渋谷橋交差点から明治通り一本北にある路地を歩き、左折して坂を上ります。この坂の名前は知りませんでした。


東北寺

サリー屋さん

夏ミカンと青空
東北寺には「白木屋店員の墓地」などがあり、大きな墓地です。


スノーマン

聖心女子大学


広尾商店街

広尾湯
広尾商店街はお風呂屋さんがあったり、古い建物の商店があったり意外と庶民的です。


つくしんぼ

ワインショップ

ナショナルマーケット

有栖川公園
外苑西通りを広尾橋交差点で横断します。広尾橋はかつて笄川にかかっていた橋の名前。裏道をちょこちょこっと歩き有栖川公園へ。


フィンランドの民族衣装

有栖川宮熾仁親王騎馬像
トイレ休憩。


クリスマス飾り

新富士見坂

天現寺

天現寺橋
南、フランス大使館方面に向かい新富士見坂を降りて天現寺交差点へ。かつての天現寺橋は笄川にかかる明治通りの橋だったと聞いていますが、現在は渋谷川にかかる外苑西通りの橋です。渋谷川と笄川が合流し古川と名前が変わります。


バカラシャンデリア

からくり時計
外苑西通りを自然教育園まで南下し西へ向かうと恵比寿ガーデンプレイス。ビアホール銀座ライオンが無くなってしまったのであまり来る機会がありません。


目黒新富士
ゴールは別所坂公園、新富士の石碑などが移されてきています。新富士は富士講(たぶん丸旦組とは別の)に頼まれ近藤重蔵の敷地内に築かれたものです。この方は幕臣で千島や択捉島を探索したことで有名です。息子の近藤富蔵は質の悪い借地人を切って八丈島へ島流しになります。島の子供たちに読み書きを教えながら島を探索し「八丈実記」を著作しました。赦免後本土に戻り父の墓参、西国巡礼をした後八丈島へ戻り生涯を終えました。親子で探検家なんですね。

別所坂公園でストレッチをして解散し、一部有志は中目黒で納会を行い互いの労をねぎらいました。

令和四年、ご愛読いただきありがとうございました。よい新年をお迎えください。令和五年は例年通り山手七福神めぐりが歩きはじめとなります。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自由ヶ丘コース 約4.9km

2022-12-25 11:15:44 | 東京都目黒区
最近は長いコースを敬遠する声がちらほら聞こえてくるので、短いコースを混ぜるようにしておりこのコースは使い勝手の良い距離です。






駅周辺の商店
都立大学駅近くの呑川暗渠に集合してその場でストレッチして、線路沿いを自由が丘方面に向かってゆきます。町の魚屋が次々と姿を消す中、新興の魚屋は頑張っているようです。駅周辺には古くからやっている商店も健在です。



柵は線路の廃物利用
白金桟道橋、水道橋駅などよく見ると線路を利用している鉄道関連のものは多いです。“1971”と読めるけど、その頃に製造した線路がもう廃物なのでしょうか?私鉄でもロングレールが本格的に導入されるちょっと前くらいで、定尺レールが早めにお役御免となったのかも。


スイセンとツワブキ

シクラメン、パンジーなど
冬の花がきれいな季節になってきました。


相鉄車両

東横線の歴史

幸せの黄色いヒカリエ号
東横線の線路を相鉄車両が走っているのを始めて見ました。渋谷駅が地下化される前は東急、みなとみらい線、東武・東京メトロ(中目黒菊名間)の車両で運行していました。渋谷駅が地下化されると、全線で東武、東京メトロに加え、西武車両が加わりバラエティに富んでいます。写真の相鉄車両は試運転で2023年3月18日から営業運転を始めます。通常ダイヤに試運転が加わったことにより、土曜の昼間にもかかわらず開かずの踏切となっていました。


キク




谷畑弁財天
自由が丘は低湿地だったので弁財天が祀られているのだと思います。


熊野神社

表参道

車祓い処

稲荷神社

熊野神社裏口
衾村の総鎮守でもおかしくない立派な神社です。


柴垣

新しくできたマンション

緑小通り

植木屋のサザンカ
緑小通りを右折して目黒通り方面、北へ向かいます。


無人販売所がある畑の大根

アオイ科のアブチロン

呑川と衾村
呑川は、世田谷区桜新町の湧水を合わせた呑川源流と、奥沢浄真寺(九品仏)境内の湧水池を水源とする九品仏川が合流し、次に大田区池上で洗足池を水源とする小川を合わせて蒲田方面へと流れ、東京湾に注ぎます。江戸時代より農業用水として利用されてきました。当時川流がつくる地形は起伏に富み、谷地は水田に、台地上は畑地に利用されました。このあたり一帯は衾村といい、大根、芋、筍などが特産品だったようです。衾の名の由来については定かではありません。村の地形が衾を広げた形に似ているからという説、牧場が多く、馬の飼料であるフスマの産地であったからという説、また病気の馬の伏馬から付けたという説などがあります。

大根は衾村では由緒正しい作物なんだ。


うさぎとかめ

マンリョウ


リノベーション工事中

八雲学園

呑川駒沢支流緑道


全国大会
高校生になると全国大会があるんだ、費用が大変だろうな、と思うのですが、甲子園の野球大会は年二回やっていましたね。


???
万葉歌碑の石板に登るやつがいるんだ?子供でしょうか、大人なら単なるバカでしょうか?


ツツジの紅葉
都立大学の跡地、区民キャンパスでストレッチをして解散としました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

湯島・御茶ノ水・大手町コース(逆) 約4.7km

2022-12-12 13:49:41 | 東京都千代田、文京区
初出のコースです。御徒町をスタートして湯島天神から南下するコースとして下見したのですが、「逆にすれば吉池で忘年会が出来る」と思いつき逆コースで実施しました。



丸の内仲通り



行幸通り

パレスホテル東京
集合を行幸通りとしたので「行幸通りのどこなのか?」と会員さんは不安に思ったそうです。私は日比谷駅から丸の内仲通りを歩いて行幸通りへ向かいました。樹脂製スケートリンクが設置されていてちょうど人通りが遮られるスペースがあったのでそちらを借りてストレッチをしてスタートです。26名と今季最多の参加者数。


箱根駅伝 絆の像


将門塚
日比谷通りを北へ向かい、東に寄り道して絆の像、西に寄り道して将門塚を見たとさらに北上を続けます。


神田橋

豊展観守像と十月桜
象は形状として鉄人28号にも見えるのですが、「こがね虫の擬人化像」だそうです。日比谷通りはここから先、本郷通りと呼ばれるようになります。


小川町交差点
「おがわちょう」かと思っていたら「おがわまち」でした。高校入試の試験会場だった大学に行くのに通ったことがあります。その大学は移転して今は神田スクエアになっています。


三井住友海上前

紅梅坂


ニコライ堂

駿河台の楽器街
本郷通りを紅梅坂で左折してニコライ堂、お茶の水石碑を見学。


聖橋から湯島聖堂

丸の内線

中央線快速と各駅停車

東京医科歯科大学



湯島聖堂
再び本郷通りに戻り、聖橋を渡ります。湯島聖堂について知らなかったことが多いのでWikipediaから長めに引用します。
湯島聖堂(ゆしませいどう)は、東京都文京区湯島一丁目にある史跡。江戸時代の元禄3年(1690年)、江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟であり、後に幕府直轄の学問所となった。JR中央線の御茶ノ水駅聖橋口からでて、聖橋を渡り右手の森の中にあり、「日本の学校教育発祥の地」の掲示がある。
湯島天満宮(湯島天神)とともに、年間(特に受験シーズン)を通して合格祈願のために、参拝に来る受験生が訪れる。特に、合格祈願の鉛筆を買っていく受験生の姿が多く見受けられる。国の史跡に指定されている。

歴史
1690年(元禄3年)、林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた。翌1691年(元禄4年)2月7日に神位の奉遷が行われて完成した。林家の学問所も当地に移転している。
大成院の建物は、当初朱塗りにして青緑に彩色されていたと言われているが、その後度々の火災によって焼失した上、幕府の実学重視への転換の影響を受けて再建も思うように出来ないままに荒廃していった。その後寛政異学の禁により聖堂の役目も見直され、1797年(寛政9年)林家の私塾が、林家の手を離れて幕府直轄の昌平坂学問所となる。これは「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれる。「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなった。これ以降、聖堂とは、湯島聖堂の中でも大成殿のみを指すようになる。また、2年後の1799年(寛政11年)には長年荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は1万2千坪から1万6千坪余りとなり、大成殿の建物も水戸の孔子廟にならい創建時の2.5倍規模の黒塗りの建物に改められた。この大成殿は明治以降も残っていた。
ここには多くの人材が集まったが、維新政府に引き継がれた後、1871年(明治4年)に後進の昌平学校は閉鎖された。教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができる。この間、学制公布以前に維新政府は小学→中学→大学の規則を公示し、そのモデルとして1870年(明治3年)、太政官布告により東京府中学がこの地を仮校舎として設置された。昌平学校閉鎖後、文部省や国立博物館(現在の東京国立博物館及び国立科学博物館の前身)等と共に、東京師範学校(現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が構内界隈に設置された。また、敷地としての学問所の跡地は、そのほとんどが現在東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている。
1872年(明治5年)3月10日から、大成殿で東京初の博覧会「湯島聖堂博覧会」(文部省博物局主催)が開催された。これが後の東京国立博物館の始まりである。
1922年には敷地が国の史跡に指定されたが、翌1923年(大正12年)の関東大震災で入徳門と水屋以外の建物が焼失し、現在の大成殿は伊東忠太設計、大林組施工により、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。これは、寛政年間の旧制をもとに再建したものである。
現在、湯島聖堂構内に飾られている世界最大の孔子像は、1975年(昭和50年)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたものである。孔子像の他、孔子の高弟たち、四賢像(顔子-顔回、曾子、思子-子思、孟子)が安置されている。大成殿は現在、土曜日曜、祝日のみ開放されており、見学可能である。











神田明神
平次親分は明神下にお住まいです。


湯島天神

王貞治さん「努力」の碑

湯島天神女坂

湯島天神の紅葉
神田明神からさらに北を目指すのですが、新妻恋坂を下ってしまったので、湯島天神には学問のみちからアプローチすることになりました。


黒門小学校の紅葉
湯島三丁目児童遊園をお借りしてストレッチ後、学問のみちを東へ向かって黒門小学校。黒門町には伝七親分がお住まいです。

この日は三年ぶりに忘年会を吉池食堂で行い25名参加で大いに盛り上がりました。仲御徒町から中目黒に帰り伊勢五本店で一杯やってゆこうと思ったら19時で終わり。オンセの前を通ると店長はいるけどお客さんはいなかったので聞いてみると、連日ワールドカップで朝までにぎわっているもののこの日は試合なし。ワールドカップで感じていた数々の疑問を店長に答えてもらって、有意義のスポーツ談議が出来ました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呑川、化坂、秋山の森コース 約7.1km

2022-12-10 14:30:14 | 東京都目黒区、世田谷区
都立大学駅をスタート・ゴールにして呑川を歩くコースは古くから設定されているのですが、八雲にある「化坂」、深沢の「秋山邸」をめぐるコースとして新たに設定しました。駒沢公園内の歩き方も普段通らないようなルートに変えています。


八雲氷川神社一の鳥居

二の鳥居と紅葉

拝殿

アカガシ
「めぐろ風景」から引用します。
旧衾村の鎮守様。昔から「癪封じの神様」として知られ、健康を願って、わざわざ遠方から参詣に来る人のための宿泊所まで設けられていた。御神木である境内のアカガシをけずりとり、煎じてのむと咳や腹痛がなおると信じられていたそうで、そのご利益にあやかろうと木の皮をはぐ人が絶えなかったという。
昔のご神木はすでに枯れてしまったが、樹齢数百年にもなるアカガシの根株が今も神殿の裏手に残っている。また神社には八岐の大蛇退治にちなんだ「剣の舞」が伝わり、祭礼の折には二百年あまりの歴史を持つ古式豊かな舞いが奉納される。



氷川神社の紅葉

皇太子殿下御降誕記念
現在の上皇さまでしょうか?


金蔵院

古いガラス


氷川神社に隣接するお寺で江戸時代は神社の別当寺でした。


八雲茶寮

化坂

ユズ

エチオピア連邦民主共和国大使公邸
金蔵院の北を東西に通る道が化坂です。呑川が削った崖から水がしみだしていた「ハケ」が名前の由来との一説があります。元来の化坂は耕地整理でなくなってしまっているので正確には化坂跡でしょうか。
アベベのイメージしかないのですがエチオピアは連邦共和国なのですね。世界最古の独立国の一つだそうです。


竹林

橙?

姫りんご

ハゼノキかな
公邸の角を北へ、その先の十字路に竹林がある広い敷地の家で西へ行くと駒八通りに当たり、呑川本流緑道へ戻ります。駒八通りの「八」は何?と調べてみると、環八説が有力なようです。斬新だなぁ!


深沢神社

秋山邸のご当主?

だまし絵
三島公園でトイレ休憩を取り皆さん深沢神社を訪れるかと思いきや、それほどの人気はありませんでした。神社はかつて三島神社と呼ばれ、三島公園の名前の由来となっています。寄贈主の秋山さんはこれから行く秋山邸のご当主と思われます。


カフェテナンゴで柿無料配布


醫王寺


秋山邸

秋山の森
「せたがや地域風景資産 秋山の森と旧秋山邸」となっていますが公開はされておらず、ときどき中に入ることが出来るイベントが開催されるようです。


駒沢大学
この場所に三越エレガンスがあったのはもうずいぶん前のことになるでしょうか。


うま公園

サンタラン

紅白のサザンカ

リス公園
駒沢公園内のぶた公園は時々トイレ休憩をするのですが、うま公園、リス公園はあまりなじみがありません。サンタランには初めて遭遇しましたが、医療系の大学が中心となって難病の子供たちのために行われるイベントのようです。


衾町公園児童交通施設の信号

東京都立桜修館中等教育学校の紅葉

目黒区民キャンパスの万葉歌碑
八雲十中通りを南下してやくも文化通りへ。区民キャンパスではだしおかっぱ少女の応援を背に、ストレッチをして解散となりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小石川植物園コース 約3.7km

2022-12-04 16:02:41 | 東京都千代田、文京区
植物園内を歩くと5キロを超えるコースですが、集合場所の九段下駅から植物園までは約一時間で到着します。


九段会館

北の丸スクエア パブリックスペース
九段会館は震災で都内唯一の死者を出すほど被災しましたが、正面のイメージを残したまま立て替えられました。我々は北の丸スクエアのパブリックスペースでストレッチをしてスタートしました。


グランドパレスホテル跡
跡地のをのように活用するのか、三菱地所を中心とした企業グループにより検討中とのことです。一等地ですからね。グランドパレスと言えばドラフト会議と金大中事件。Wikipediaのグランドパレスの項目には金大中事件はふれられていないので「金大中事件」で調べてみました。1973年に起きた事件だったのですね。事件の詳細を知らなかったので一部Wikipediaから抜粋します。
事件の経緯
1973年(昭和48年)7月、世界でも「民主主義の活動家」として高い名声を得るようになっていた金大中は、日本の自民党左派の宇都宮徳馬らに招待され、講演するため東京を訪問した。当時のことを金は「私が東京に着いたとき、友人達が在日韓国朝鮮人のヤクザたちが私を狙っていると忠告してくれました。在日韓国朝鮮人のヤクザたちは大韓民国居留民団(民団)やKCIAと強い結びつきがあるのです」と後のインタビューで語っている。すぐに亡命者生活に入り、2・3日ごとにホテルを変え、日本人の偽名を使った。
1973年(昭和48年)8月8日午前11時頃、金は東京のホテルグランドパレス2212号室に、病気療養のため宿泊していた梁一東民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。前年開業した同ホテル(東京都千代田区飯田橋1-1-1)は、九段下交差点を飯田橋方面に入ってすぐにあり、裏路地からは朝鮮総連本部に至近の場所に位置している。
午後1時19分ごろ、会談を終えた金は2212号室を出たところを6、7人に襲われ、空部屋だった2210号室に押し込まれ、クロロホルムを嗅がされて意識が朦朧となった後、4人により、エレベーターで地下に降ろされ自動車に乗せられた。パレスホテルから自動車で関西方面(神戸市)のアジトに連れて行き、その後、工作船(コードネームは龍金〈ヨングム〉号)で、神戸港から日本を出国したと見られる。朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。
金大中は「船に乗るとき、足に重りをつけられた」、「海になげこまれそうになった」と後日語っている。しかし事件を察知した(当時の厚生省高官の通報によるとされる。またアメリカ合衆国連邦政府も、このことを察知していたとされる)海上保安庁のヘリコプターが拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、日本国政府に拉致の事実が発覚したことを悟った拉致実行犯は、金大中の殺害を断念し釜山まで連行し、ソウル特別市で解放したとされている。金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、追跡していた日本のヘリコプターが照明弾を投下したと証言している。
拉致から5日後、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。直後に自宅で記者会見を行った際、日本人記者団に対して解放された直後の心境を、「暗闇の中でも尚 明日の日の出を信じ 地獄の中でも尚 神の存在を疑わない」と日本語でメモに記した。



北辰社牧場跡記念碑

飯田橋むかしむかし
北辰社を含む明治時代の牛乳事情について東京牛乳のサイトから長めに引用してみます。
初めは荒廃した武家屋敷跡の開墾、武士の失業対策から
江戸幕府が崩壊して明治になると、江戸幕府を支えてきた幕臣は静岡に移封され、諸大名の江戸屋敷も廃止されたため、新首都東京の中心部では、多くの屋敷跡が廃墟となって残っていた。そうした屋敷は、武士の失業対策もかねて払い下げられ、農業のほかに酪農の牧場として利用され、明治6年には、すでに都心部に7軒の牧場があったという。
てっきり、北海道大学の前身である札幌農学校をルーツとするのかと思っていたが、同校の開校は明治9年だから、東京の酪農はそれに先駆けていたことになる。 また、戊辰戦争で有名な榎本武楊は、明治時代の飯田橋に「北辰社」という牧場を持っていたほか、東京農大の前身である「育英学農業科」の初代学長にもなっているそうだ。これは彼が、江戸末期に酪農の本場オランダに3年間留学していたことと関係しているに違いない。
ではなぜ東京の中心部で酪農が発達していたのだろう?
上に述べたような政府の方針のほかに、牛乳の消費者の中心が外国人や新しもの好きの江戸っ子だったこと、当時は輸送手段が整備されていなかったこと、保存手段が無く毎日配達する必要があったこと、乳牛の飼料である粕の入手が容易だったことなどに関係している。こうした状況は、明治から大正、昭和の初めまで続き、明治32年には、3,000頭が飼育されていたという。その後、酪農の中心は区部から多摩地域へと変わり、戦後、近郊酪農の進行とともに酪農を取り入れた農業が盛んに行われるようになっていく。『東京牛乳』の生産者の方々も、全て多摩地域である。
現在では政治やビジネスの中心地である都心部で、のんびりと乳牛が草を食んでいたと思うと笑えるが、理由を考えると納得だ。
都内で牧場が多かった地区に、文京区も挙げられる。明治の元勲・山県有朋が出資して、明治10年代に雑司が谷村に牧場を開設、清戸坂の道沿いに平田貞次郎に開かせた平田牧場には、売店もあって、「KANSEI USHINOTITI(官製 牛の乳)」というローマ字の旗を掲げて小売も行っていたそうだ。当時の人は、旗ざおの文字を読めたのだろうか、売れ行きはどうだったのだろう?
明治中期の文京区には、20軒近い牧場があったという。現在でも文京区は緑やアップダウンの多い地域なので、牧場を開くのには、最適だったに違いない。
想像の中の明治の姿と変わってしまった現在の姿とを対比させながら東京の酪農に思いを馳せ、都内を散歩してみてはいかがだろうか。

榎本武楊(1836-1908)
江戸御徒町生まれの幕臣。幕府留学生としてオランダへ3年留学。戊辰戦争では、江戸陥落後に徳川残存艦隊を率い蝦夷箱舘へ脱出、蝦夷地を占領し『蝦夷共和国』を樹立して総裁になるが、明治2年、函館戦争で降伏。 その後、北海道開拓使に任官するなど、新政府でも活躍。


現在の目黒区役所は千代田生命本社の建物をそのまま利用していますがそれ以前その場所にはアメリカンスクールがありました。その前は牧場だったと聞いてちょっと意外に思っていましたが、明治時代の東京の事情や牛乳の事情が分かればあの場所が牧場だったことは納得できますね。


徽章業発祥の地

山田吉邦弓具店
弓具店は残っていましたがソーセージのハライコはなくなってしまったようです。


駅前の外堀通り交差点

外堀通り

目白通りと神田川

外堀通り

日中友好会館

小石川後楽園庭園

中央大学
牛天神下交差点に中央大学の建物が出来ていました。もとはJTの社宅だったのかな。


都道434号
この先東京ドーム付近では、自転車専用スペースを避けて車が駐車していました。


特別養護老人ホームを守る鍾馗(しょうき)様
知らなかった風習なのでWikipediaから引用しておきます。
京都市内の民家(京町家)など近畿 - 中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に10 - 20cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる。これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる。


萩の舎跡
塾主中島歌子(1844~1903)は、幼名を「とせ」といい、武蔵国入間郡森戸村(一説に江戸日本橋)で生まれた。夫である水戸藩士の林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、えどにあった実家の旅人宿池田屋にもどった。その後歌子は、桂園派の和歌を加藤千浪(ちなみ)に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。
御歌所寄人(よりうど)伊藤佑命(すけのぶ)、小出粲(つばら)の援助で、おもに上・中流層の婦人を教え、門弟1000余人といわれた。歌集に「萩のしづく」などがある。1903(明治36)年歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。
樋口一葉(1872~1896)は、父の知人の紹介で14歳の時、萩の舎に入門した。1892(明治23)年18歳の時、内弟子となり萩の舎に寄宿したこともあった。佐佐木信綱は、姉弟子の田辺龍子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の3人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで、歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。田辺龍子の「薮の鶯」の刊行に刺激されて近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作「闇桜」(明治25年)を発表し、小説家の道に進んだ。
近くの牛天神北野神社(春日1-5-2)境内に中島歌子の歌碑がある。
文京区教育委員会 平成23年3月



安藤坂
 この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42年)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。
 坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。
 古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。
文京区教育委員会 平成8年3月



学芸大学と都立竹早高校
伝通院前を左折し春日通りを西へ向かいます。


播磨坂桜並木



共同印刷本社
播磨坂を下ると間もなくゴールです。


コダチダリア

イロハモミジ

精子発見のイチョウ

リンゴ?

関東大震災記念碑

ナンテン

センリョウ

シマサルスベリ

カリン



センリョウ

松ぼっくり


水鏡

イチョウ


メタセコイアの気根

メタセコイア

タイミンチク

メタセコイアと飛行機雲
小石川植物園に入場し、ストレッチをして解散。秋の景色を満喫して帰途につきました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする