目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

【中止】小江戸川越コース 約6.4Km

2019-03-17 11:20:34 | ウォーキング
寒冷前線が関東地方を通過するため荒れ模様という点では各メディアの天気予報が一致しているのですが、いつどこで雨が降るのかという点はメディアによって三者三様といったところでした。区内のウォーキングであれば実施するところですが、一時間かけて川越まで行って、にわか雨で歩けないという状況も想定され、早々に中止の判断をしてメーリングリストに流しました。
それでもウォーキングとは別の用事があったので川越にはゆきました。歩き始める予定の13時頃は晴れ間もありましたが、15時頃には、にわか雨も降ったようで、中止の判断が正しかったのかどうか何とも言えません。中止にしても歩きたい人は自らの判断で歩くことでしょう。



川越八幡宮

民部稲荷
去年調子が悪い知り合いがいて、ウォーキングに復帰できるよういろいろなところにお願いしたので、今回はお礼参りも兼ねています。民部稲荷は足腰が健康になるよう祈願し、一年たってずいぶん歩けるようになりました。


道ばたのスミレ


中院墓地のカンヒザクラ

光西寺

光西寺の枝垂れコヒガンザクラ
川越の魅力は小彼岸桜が多いことです。東京では関東大震災、太平洋戦争の空襲によりコヒガンザクラは失われ、ソメイヨシノが多く植えられました。どこでも地元に多かれ少なかれサクラの名所があります。ソメイヨシノの開花、満開、散る様子なども華やかでよいのですが、小さくてピンク色が濃いコヒガンザクラ、特に枝垂れのコヒガンザクラに風情を感じます。川越ではそれがあちらこちらで見られるのです。来週から再来週にかけて見頃を迎えることでしょう。
光西寺についてお寺のホームページから引用します。
光西寺は、永禄九年(1566)に石州浜田(島根県浜田市)に、恵誓法師を開基として寺が建立されたのに始まる。浜田藩士の菩提寺として尊崇されていた。
天保七年(1836)、藩が日本海の竹島を根拠地として外国との貿易(当時は禁制)を行って、幕府の政策に違反した。事が露見し、藩は外様大名ならばお家改易になるところ、徳川家の親藩の故をもって、重臣数人が責任をとって切腹し、船頭(今の船長)が処刑されて、奥州棚倉(福島県)に左遷転封されたので、家臣ともども光西寺も移転した。
棚倉在城三十余年、幕末の危機に直面した幕府は、藩主松平周防守康英公の英才と外交的手腕を重視し、老中職に任じ川越城主に転封させ国内国外の重要任務の責任者とした。時に慶応三年、光西寺も家臣とともに移転し南町養寿院門前に仮寺を求めた。
その翌年は明治元年、所謂明治維新となったので、寺領も寺の建立もならず暫く大正の末現在地に小堂を建立したのである。藩についてきた寺ということで士族寺とかお伴寺とよばれている。




中院のコヒガンザクラ

中院のお地蔵様

中院のミモザ

サクラ(種類不明)

サンシュ

トサミズキ
中院の駐車場にあるサクラを「早く咲くソメイヨシノ」と思っていましたが、この時期に見ると小彼岸ですね。ちょっと白っぽくて花が大きめなので、少し何かがかかっているのかもしれません。中院のハイライトは御本堂前の小彼岸のシダレザクラとミモザの競演。今回はミモザのみ。コヒガンザクラはよく探すと一二輪咲いている花があるかもしれません。メジロが落としたのか、開花寸前の蕾が落ちていました。


喜多院の空堀

成田山川越別院

御賓頭盧様
御賓頭盧様にも快癒のお礼参りをし、いちのやでうな重を食べて川越駅からFライナーで座って帰って来ました。これで一万歩越え。神様仏様に感謝ですね。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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古代の青龍、野川下りコース合流編 約5.2km

2019-03-12 10:12:47 | ウォーキング
2018年3月11日に野川のバックグランドとなる武蔵国分寺のウォーキングに始まった野川下りは、一年を経て多摩川合流点に達することができました。初回に引用した国分寺市観光協会のページを再度引用し、「青龍」の意味を復習しましょう。
741年、聖武天皇の命により全国に国分寺が建立される際、武蔵国の国府(現在の府中市)の近くに良い土地はないかと選ばれたのが現在の国分寺市です。なぜ選ばれたのか?それは、帰国した遣唐使から伝えられた「四神相応(ししんそうおう)の地」の考えに基づきます。「四神相応」の「四神」とは、東西南北の四方を守護するとされる聖獣のことで
青龍(せいりゅう)
白虎(びゃっこ)
朱雀(すざく)
玄武(げんぶ)
のことを指し、それぞれ特徴のある土地に棲むと言われています。その特徴を説明すると
東:青龍…豊かな川の流れがある
西:白虎…大きな道があり交通の便がよい
南:朱雀…広大な平野や海があり開けている
北:玄武…山や丘陵がある
四神相応の地というのは、古代中国に始まった風水における四聖獣(四神)が東西南北の各方向の地形とフィットする地のことです。国分寺は、東に清流があり、西には当時の大動脈といえる東山道武蔵路、南には広大な平野が広がり、北には国分寺崖線がそびえるという理想の地相であったのです。鎌倉時代末期、国分寺は新田義貞によって残念ながら燃やされてしまったと伝えられていますが、礎石の跡などは残っており、周辺には真姿の池やお鷹の道など、東京都とは思えないのどかな風景が残っています。都会と閑静な佇まいの融合。是非一度、国分寺の地にお立ち寄りください。



井の頭線のさりげないおしゃれ
井の頭線渋谷駅改札に集合し渋谷→井の頭線→下北沢→小田急線各駅停車→喜多見と移動しウォーキングスタートです。井の頭線車内は桜の模様の装飾がされていました。


セブンイレブンの配達車

滝下橋緑道

次太夫堀(六郷用水)の説明
喜多見駅と世田谷通りを繋ぐ商店街には丸屋という古くからありそうな佇まいの蕎麦屋さんがあり、昔からある道なのでしょう。写真に撮り損ねましたが、この蕎麦屋さんは評判がいいようです。滝下橋緑道で場所をお借りしてストレッチ、ウォーキング開始です。次太夫堀も今回のウォーキングのテーマの一つです。


ユキヤナギ

次太夫堀公園

レンゲ
野川沿いに歩き始めてしばらくすると次太夫堀公園があります。下見の時には気づかなかったのですが、田んぼにはレンゲの種がまかれているようで、4月末には見事な蓮華畑になりそうです。コースを復習することはあまりないのですが、レンゲの時期にまた訪れたいと思います。公園について世田谷区のページから引用します。
施設の概要
 世田谷の農村風景の典型的なイメージと昔ながらの小川を復元したのが次大夫掘公園。公園名は小泉次大夫が昔この地域の用水を確保するために作った堀の名にちなんでつけられました。
 面積は約36,000平方メートルで650メートルの水路を有し、その水路に沿って、当時の古民家や水田(1,400平方メートル)が配置されています。水路や池には、コイ・メダカ・アメンボもたくさん生息しており、コサギがきてドジョウをついばむ姿も見られます。
水田では、毎年稲作が行われ、近隣の保育園や小学生達による田植えや稲刈りが、東京中央農協の協力のもと行われています。また、多摩堤通りをトンネルで横断できるようになっており、パズルトンネル(卵から鳥が生まれてくるパズルです)と呼ばれています。

民家園
 次大夫堀は、江戸の初期、小泉次大夫の指導で開削された農業用水(六郷用水)の別名です。喜多見あたりでは、半ば埋められごみ捨て場のようになってしまいましたが、野川から取水して昔ながらのきれいな流れを復元しました。本物の水田をつくり、そこに江戸時代後期の古民家と土蔵、納屋、消防小屋などを移築復元したのがこの民家園です。昔の世田谷の農家の暮らしをまるごと復元しています。


次太夫堀についてWikipediaの六郷用水の項を引用します。
多摩郡和泉村(現在の東京都狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領、つまり現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る用水路であった。 延長は23kmで、49の村、約1500haに、主に農業用水として水を供給した。 多摩川の対岸の川崎市を流れる二ヶ領用水(同じく小泉次太夫が建設指揮監督)と合わせて四ヶ領用水(よんかりょうようすい)とも呼ばれる。
1597年からの14年かけて用水が開削された。開通後100年を経過したころ荒廃したが、1725年に代官田中丘隅(休愚)の手により改修された。この改修は、二ヶ領用水と並行して行われた。この改修後、世田谷領でも六郷用水が利用できるようになった。
廃止されたのは1945年である。宅地化が進み、大半は1970年代までに埋め立てられたか雨水用の下水道となった。流路の大半が失われたため「幻の六郷用水」と呼ぶ向きもある。一部区間(世田谷区岡本~大田区田園調布)は丸子川として残っている。また、世田谷区喜多見では、同じ場所に野川からの取水により次大夫堀が再現されて次大夫堀公園となっている。大田区内では、中原街道から東の東急多摩川線の多摩川駅~鵜の木駅付近に湧水を使って用水路が再現されていて、残りは歩道になっている。
現在、用水の跡地は、道路、緑道(遊歩道)、次大夫堀公園のほか、未だ更地の場所もある。 なお、六郷用水は既存の多くの河川と分合流あるいは交差していた。





次太夫堀公園民家園




消防小屋と火の見櫓
民家園はとても面白い場所でした。建物を保存してあるだけではなく、活用しているので生活感が感じられます。むかしの消防はこんな粗末な装備なので、延焼を食い止めるだけでも命がけだったでしょう。



旧城田家住宅主屋

スイセン

作業場

フクジュソウ



フキノトウ

オオイヌノフグリ

開園記念碑
枯葉を集めたところにフクジュソウやフキノトウが出ていて、里山といった風情です。大きなのこぎりで丸太を切っていましたが、今ならチェーンソーの出番ですね。


庚申塔

庚申塔

御嶽山

大口真神

からす団扇
庚申塔はこのブログでもたびたび取り上げているのでお馴染みですね。御嶽山や大口真神はあまりなじみがなかったので調べてみました。小学生の頃何度かハイキングに行った青梅の先の御嶽山でした。大口真神(おおぐちまかみ)について、御岳山神社のホームページから引用できないので、リンクを貼っておきます。Wikipediaから真神の項目を引用します。
真神(まかみ)は、日本に生息していた狼(ニホンオオカミ)が神格化したもの。大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)、御神犬とも呼ばれる。
真神は古来、聖獣として崇拝されてきた。また、猪や鹿から作物を守護するものとされた。人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと信仰された。また、厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。
大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化された。『万葉集』巻八には「大口の まかみの原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに」(舎人娘子)と記され、少なくとも(大和国風土記の逸文と合わせ)8世紀からみられる。この「大口の真神原」には後に飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅があったとされ、用明天皇の代に蘇我馬子が寺の建立を発願、崇峻天皇の代に館を廃し法興寺(後の飛鳥寺)の造営が始まったとされる。
現在も埼玉県秩父地方の神社を中心に、狼が描かれた神札(お札)が頒布され、信仰を集めている。このすぐ南の武蔵御岳山上の武蔵御嶽神社には『日本書紀』の記述に基づく「おいぬ様」(または「お犬さま」)の伝説があり、日本武尊の東征の折、邪神が大鹿の姿で現れたのを野蒜で退治したが、その時に大山鳴動して霧に巻かれて道に迷ったのを、そこに忽然と白い狼が表れて道案内をして、無事に日本武尊軍を無事に導いたので、尊は「大口真神としてそこに留まるように。」といったという。大口真神は江戸時代の天保年間ころより盗難除け・魔物除けとしての信仰が盛んになり、本殿のおいぬ様の狛犬はブロンズ製(1807年の作)で、本殿前の像は北村西望の作(1985年奉納)である。


からす団扇については、大國魂神社のページからすもも祭りを引用します。
すもも祭(7月20日)
夏の風物詩として、近郷近在の人々より親しまれている『すもも祭』は毎年7月20日に斎行されます。その起源は源頼義・義家父子が、奥州安倍氏平定(前9年の役)途中、大國魂神社に戦勝祈願をし、戦に勝ち凱旋の帰途、戦勝御礼詣りのためこの祭が起こりました。その際神饌の一つとして李子(すもも)を供え、境内にすもも市がたつようになったのが、この祭りの名前の由来です。

安倍氏征伐
前九年の役(1051~1062)奥州平定(安倍頼時と貞任・宗任親子)のため源頼義・義家父子が朝廷より派遣された。朝廷の東国平定の足がかりとなる。
当日神社では五穀豊穣・悪疫防除・厄除の信仰をもつ「からす団扇」「からす扇子」を頒布しています。この扇を以て扇ぐと、農作物の害虫は駆除され、又病人は直ちに平癒し、玄関先に飾ると魔を祓いその家に幸福が訪れるといわれ、これを受ける人達で境内は終日賑わい、参道には李子を売る店をはじめ多数の露天商が軒を連ねます。

からす扇・からす団扇」の起源
「からす扇・からす団扇」の起源は、五穀豊穣・悪疫防除の意味からで、その扇や団扇で扇ぐと害虫は駆除され病気は平癒する、という深い信仰があるからである。そのいわれは今から約1200年前、大同2年(807年)に「古語拾遺」の神話から出ており、内容は次のとおりである。


神代の昔、大地主神が田植えをなさる時に、早乙女や田夫らを労うために牛肉をご馳走した。 ところが御歳神の御子がそれをご覧になって家に帰ってそのことを御父にお告げになった。 御歳神は、これをお聞きになり非常にご立腹なされて、田にイナゴを放ち、苗の葉をことごとく 喰い枯らせてしまった。大地主神は大変に驚かれて、何か神の崇りであろうといって卜者を呼んで 占わせてみたところが「これは御歳神の崇りであるから宜しく白猪、白馬、白鶏を献じて お詫びするのがよろしい、されば怒りも解けるであろう」とお告げがあったので、その通りに したところお怒りが解けたばかりではなく、蝗の害を駆除する方法も、いろいろと教えて下された。その方法の中に「烏扇をもって扇げ」とお教えなさったのである。


旧加藤家住宅主屋

糸車

菱餅かな?

旧秋山家住宅土蔵
民家園は面白かったです。外国人を連れてきても喜ばれるかも。


多摩堤通りの下をくぐる

ツクシ
次太夫堀公園は多摩堤通りの下を抜けて、再び野川へ戻ります。公園に引き入れられた水も野川へ戻ります。


外環道工事現場

きしべの路「大正橋」

きしべの路「新井橋」

外環と東名のジャンクション工事現場

テニスコート入口

カワヅザクラ
東名高速まで大規模な工事が行われています。これが開通すると我々にとっても関越道が近くなり、東北道への選択肢が増えることになります。砧にある目黒区のテニスコートは何度か通いましたが、車で訪れていたので印象が違います。歩いてきたこの場所に見慣れた看板があり写真に撮ってみました。今日地図で確認をして、車で通っていた場所と、野川沿いを歩いてきたときに感じたギャップを確認しました。この看板30年前から変わってないかもしれません。





カワセミ
野川にカワセミはいるだろうと思って目を凝らしてみていたらようやく見つけました。この場所には結構長い時間とまっていて、うるさい集団が来ても逃げませんでした。この後飛び去るのですが飛んでいるときの色がきれいです。そんな写真を撮ろうと思うとお高いレンズをそろえなくてはならないので、ちょっと無理ですね。遠景はコンデジのズームを最大にしたもの。拡大写真はその一部を切り取ったものになります。スマホでも撮ったのですが、コンデジの写真の方がきれいでした。


仙川合流点

オオバン

マメザクラかな?

野川水道橋

水道関連遺産
水道橋の下に一時水道の本管が通っており、水道管が地下に埋設された今でも水道橋という名前が残されています。竣工時は澁谷町水道の施設でした。多摩川の水を砧下浄水場で飲料水へと浄化し、ポンプで駒沢給水塔へ送水し高度差を生かして渋谷方面に上水道を提供しており、目黒村も給水地域に含まれていました。駒沢給水所は2016年10月の蛇崩川馬事公苑コース 約7Kmで訪れているので、覚えている会員がいることでしょう。


武蔵工大グランドわきのミモザ

種類不明のサクラ
現在東京都市大学と名称が変わっていますが、武蔵工大の方がなじみがあります。東京都市大学と首都大学東京(旧都立大学)が区別しにくいですね。


多摩川河川敷

ナズナとヒメオドリコソウ

多摩川サミットの碑

カワヅザクラ

ホトケノザ

オオイヌノフグリ

野川にかかる最後の橋、兵庫橋

野川多摩川合流点
下見の時にはコヤマドライビングスクール方面へ行ってしまったので、多摩川河川敷に出ることはありませんでした。河川改修が行われて、私が持っている地図とはずいぶん変わっているのです。多摩川河川敷はテニスコートなどもありますが、草野球のメッカという感じです。
暖かい一日だったのですが、夕方になり雲って寒くなるとオオイヌノフグリも花を閉じています。兵庫島でストレッチをして解散しました。

この日は大相撲春場所の初日だったので、急いでONCEへ移動して大画面で相撲を楽しみました。みんなでワイワイ言いながら見るスポーツは面白いですね。そんなことをいいながら、大いに酔っぱらいました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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呑川緑道・池上梅園コース 約5.0km

2019-03-03 13:24:14 | ウォーキング
今日日曜日は雨の朝を迎えましたが、ウォーキングが行われた土曜日は快晴でした。日陰では風が冷たく感じられましたが、日が当たる場所は春を通り越して初夏の陽気。会員の皆さんは少し汗ばみながら、ウォーキングを楽しんでいました。


呑川本流緑道
都立大学駅付近で柿の木坂支流と合流している呑川は上流からずっと暗渠になっており、駅の近くは自転車置き場になっていますが、それ以外はほぼ未舗装の土の通路となっています。ソメイヨシノの古木が多く、その根が舗装道路を持ち上げてしまうので未舗装の方がかえって歩きやすい。



ハボタン


カワヅザクラ

紅梅白梅

カンヒザクラ

花壇

アセビ
ところどころに花壇が整備され奇麗な花が目を楽しませてくれます。カワヅザクラやカンヒザクラなどの早咲きのサクラがうきうきした春の気分を運んできます。紅梅白梅も電柱が無ければもっと映えるんですが。


東京工業大学

九品仏川合流点

清流の復活、開渠のはじまり
目黒区最南端の大岡山で九品仏川が合流します。九品仏川はもともと呑川の支流ではなく、この流れは河川改修により作られたものという見方が多いのですが、決定的な資料はないそうです。東京工業大学は鉄道院官僚から東急電鉄の経営者へ転身した五島慶太が打った東急沿線のイメージアップ戦略によりこの地へやってきました。Wikipediaから略歴を引用します。
略歴
創立年は、東京職工学校が設立された1881年(明治14年)とされている。さらに源流を遡れば、1874年(明治7年)にゴットフリード・ワグネルの進言によって東京開成学校の中に設置された「製作学教場」に行き着く。
東京職工学校は1881年(明治14年)5月26日に創設され、1882年(明治15年)6月10日文部省より東京市浅草区蔵前東片町に浅草文庫の建屋を交付され、校舎新築の工事を起こした。明治初期の工業教育機関は、工部大学校(東京大学工学部の前身)と東京職工学校の2校だけであった。前者がイギリス人をスタッフに迎え、鉱山・土木・電信など国土経営に関する指導者養成を目指したのに対し、後者は英独仏の大陸欧州諸国の技術教育に関する調査に基づき、手島精一ら日本人によって構想され、製造現場および工業教育の指導者養成を目的として、化学工芸科および機械工芸科の2科で発足した。
その後、学科課程の分化拡充を経て、東京高等工業学校となり、その所在地から長く「蔵前」と称された。1923年、関東大震災により壊滅的被害を受けたのを機に市外の東京府荏原郡大岡山に移転。1929年の旧官立大学昇格時には、工学系8学科に加え理学系4教室を設置した。太平洋戦争後の1949年、新制大学へ移行。戦後も拡充を続け、2004年に国立大学法人となった。2018年には指定国立大学法人となる。


知っているようであまり知らない、五島慶太についてもWikipediaから抜粋して引用します。
人物概要
東京帝国大学卒業後、官僚を9年務めた後に現在の東急東横線の前身である武蔵電気鉄道常務に就任。実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道や玉川電気鉄道をはじめとする数々の競合企業をM&Aを用いて次々と買収。その強引な手口から「強盗慶太」の異名をとった。ただし、鉄道事業では優れた経営を行い、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と賞された。

生涯
幼少期 - 大学卒業
長野県小県郡殿戸村(現・青木村)に農業を営む小林菊右衛門・寿ゑ夫妻の二男として生まれる。五島慶太の『私の履歴書』によれば、「私の家は貧しい農家とはいっても、千戸余りしかない山中の一寒村では、村一番の資産家だった」という。父・菊右衛門は熱心な法華経の信者で、朝起きた時、夜寝る前、南無妙法蓮華経を少なくとも五百遍から千遍ほども唱えていた。その両親の姿勢を受け、慶太もまた仏教に感化を受けていった。
父は製糸業などに手を出し失敗していたため、家計は楽な状況ではなかったが、慶太の志は高く、父を説得して長野県尋常中学校上田支校(1899年(明治32年)には長野中学校上田支校に、翌33年に上田中学校として独立、現・長野県上田高等学校)に入学させてもらった。中学の3年を終えると、長野県尋常中学校松本本校(現・長野県松本深志高等学校)に親友大井新次郎(後の多摩川園長)とともに下宿しながら通学し、4年・5年を修了した。
慶太はさらに上級学校への進学を夢見たが、経済的理由から進学を諦め、中学卒業後は青木村の小学校の代用教員をしていた。しかし、慶太の向学心は強く、1902年(明治35年)の夏に上京し東京高等商業学校(現:一橋大学)を受験するが、英語で失敗し不合格。その翌年に、学費のいらない東京高等師範学校(現・筑波大学)へ合格し、代用教員を辞し英文科へ進学した。
卒業後、英語教師として三重県の四日市市立商業学校(現:三重県立四日市商業高等学校)に赴任した。『私の履歴書』によれば、「一度学校に赴任してみると、校長はじめ同僚がいかにも低調でバカに見えて、とうていともに仕事をしていくに足りない者ばかりだった。」という。
さらに最高学府への進学を志し、1907年(明治40年)9月に東京帝国大学政治学科の選科に入学。10月には、当時難関中の難関とされた旧制第一高等学校の卒業資格試験に挑戦、見事これに合格し、法学部本科に転学した。しかし、再び学資に窮してしまい、東京高師の校長で在学中に世話になった嘉納治五郎の紹介により、富井政章男爵の息子の家庭教師として居候することになった。
富井の息子の第二高等学校進学が決まると、次は富井の紹介で加藤高明の息子である加藤厚太郎の家庭教師として加藤邸に居候することとなった。またこの頃、精力の捌け口を求めてたびたび吉原や浅草六区、根岸の女郎屋に出入していたという。『私の履歴書』によれば、「書生の分際ながら、これだけはどうしようもなかったのである。」という。
1911年(明治44年)、東京帝国大学を卒業する時にはすでに29歳になっていたが、高等文官試験に合格し、加藤高明の斡旋で農商務省に入省。工場法施行に伴い、工場監督官に採用されるが、施行が3年延期になったため、鉄道院に移ることとなった。

鉄道業界へ
鉄道院転属の前年の1912年(明治45年)2月24日、慶太が30歳の時、工学博士・古市公威の仲人で、皇居二重橋の設計者である工学博士・久米民之助の長女・万千代と見合い結婚をした。万千代は慶太と結婚して久米民之助の祖母の実家、五島家を再興した。慶太は万千代と結婚した後に五島姓を名乗ることになった。
鉄道院では、文書課、監督局、監督局内の総務課と職場を移り、1919年(大正8年)には総務課長に就任したが、高等官七等という身分であったために「課長心得」という肩書になった。しかし、この処遇が気に食わず、稟議書の認可を押す時に、わざと「心得」の2字を消してから、上へと回した。すると次官がそれに気付き、かくして五島は「課長」になることができた。課長に就任して1年半ほど経ち、官吏の生活に嫌気がさしてきた頃、武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東急東横線の母体)社長の郷誠之助が資金集めに難航し、鉄道建設に専門の知識を持った常務を求めて鉄道院次官に掛け合ったところ、次官は「課長心得が気に入らないと言って『心得』を消してくる面白いやつがいる」と五島を紹介した。これを渡りに舟と感じた五島は1920年(大正9年)5月11日に鉄道院を退職し、武蔵電気鉄道常務に就任した。
その頃、実業家の渋沢栄一らによって理想的な住宅地「田園都市」の開発を目的に設立された田園都市株式会社が東京府荏原郡の田園調布や洗足等に分譲用として45万坪の土地を購入、その住民に交通の便を提供するため、目黒駅と蒲田駅から同経営地まで鉄道を敷設すべく、荏原電気鉄道(後の目黒蒲田電鉄)も設立したが、素人ばかりのため経営不振に陥っていた。そこで、大株主の第一生命保険社長の矢野恒太に相談したところ、第一生命相談役の和田豊治が阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)総帥の小林一三を推し、小林は、名前を出さず、報酬も受け取らす、日曜日のみ、という約束で経営を引き受け、玉川、調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めた。しかし、目黒蒲田電鉄を立ち上げる時に、小林が多忙のため、代わりに鉄道院出身であった五島を推薦した。小林からは「荏原電鉄を先にやって、45万坪の土地を売り、その利益で武蔵電鉄をやればいい」と説得され、1922年(大正11年)10月から荏原電気鉄道の専務を兼務した。直前の1922年(大正11年)7月に、荏原電気鉄道は目黒蒲田電鉄と名前を変え、1924年(大正13年)11月に目蒲線の全線開通を迎えた。その時期が関東大震災と重なったため、都心を焼け出された人々が沿線に移住し、業績は一気に好転した。その利益で武蔵電鉄の株式過半数を買収し、名前を武蔵電鉄から(旧)東京横浜電鉄と変え、1927年(昭和2年)8月に東横線(渋谷 - 神奈川間)を開通させた。
しかし、昭和恐慌の煽りを受け一転業績は悪化、一時は自殺を考えるほどの苦境に陥った。その時、五島は「予算即決算主義」というものを確立した。これは後々まで五島の経営哲学として生き続けて行くこととなる。
五島は阪急の小林の手法に倣い、沿線に娯楽施設やデパートを作り東横沿線の付加価値を高めた。しかしそれだけでなく、大学等の学校を誘致する。まず、1924年(大正13年)、関東大震災で被災した東京工業大学を浅草区(現・台東区)蔵前から目蒲電鉄沿線の大岡山に移転させることに成功した。1929年(昭和4年)には慶應義塾大学に日吉台の土地を無償提供し、1934年(昭和9年)日吉キャンパスが開設された。1931年(昭和6年)には日本医科大学に武蔵小杉駅近くの土地を無償で提供し、1932年(昭和7年)に東京府立高等学校(後に東京都立大学)を八雲に誘致した。1936年(昭和11年)は赤坂区(現・港区)青山北町にあった東京府青山師範学校(後に東京学芸大学)に資金援助を行い、世田谷・下馬に誘致するなど、東横沿線は学園都市として付加価値が高まっていくことになる。それと同時に、多くの通学客という安定的な乗客を獲得した。
五島は事業拡大にも乗り出し、1933年(昭和8年)7月、競合していた池上電気鉄道の株を東京川崎財閥から譲り受け、一夜にして買収を成し遂げた。しかし3か月後の10月、東京市長選に関連して盟友牛塚虎太郎への選挙資金を目蒲電鉄が拠出したという投書が警視庁に届き、目蒲電鉄に家宅捜索が入った。池上電気鉄道買収の際に川崎財閥に渡した手付金の小切手10万円が市長選に使われたとの嫌疑がかかり、五島は市ヶ谷刑務所に送致された。一審では有罪判決を受けるが、二審で逆転無罪となり、大審院が上告を却下したため無罪が確定し、釈放された。この間半年であったが、五島は後に「私はこのときが人間として最低生活であった」と回想している。獄中では読書に明け暮れ、『菜根譚』といった難解な書物にも挑戦した。後日、この注釈書『ポケット菜根譚』を著述している。
その後の株主総会で、五島に感謝金5万円を贈呈することが決議された。五島は以前に教師を務めていたことから、教育事業には関心を持っており、その資金に私財12万を投じて、東横商業女学校(後の東横学園)が設立された。その後も、武蔵高等工科学校(武蔵工業大学→東京都市大学の前身)を有する財団法人東横学園(現・学校法人五島育英会)を設立したり、東横学園中学校や東横学園女子短期大学(のちに東京都市大学へ統合)を開校するなど、晩年まで教育活動には熱心だった。
1934年(昭和9年)11月、渋谷に関東初の電鉄系ターミナルデパートである東横百貨店を開業した。当時、呉服が中心だった百貨店事業の中で、東横は日用品中心の品揃えを展開する。ターミナルであった渋谷駅は当時でも30万人近い乗降客があり、都心に行かずして買い物ができる東横百貨店は人気を呼んだ。また、東横百貨店の隣に本社ビルを所有し、渋谷の開発をめぐり競合関係にあった玉川電気鉄道を内国貯金銀行(現・りそな銀行)の前山久吉から株式譲渡の形で買収、1938年(昭和13年)4月に(旧)東京横浜電鉄に吸収合併した。翌1939年(昭和14年)10月に目黒蒲田電鉄は(旧)東京横浜電鉄を合併し、名称を逆に(新)東京横浜電鉄とする。
なお、1927年(昭和2年)から1944年(昭和19年)にかけて、近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌。1941年からは後述する参急と統合し関西急行鉄道(関急)となる)の監査役および、大軌子会社である参宮急行電鉄(参急)の取締役も務めている。



上呑川児童公園

川沿いのお宅のお庭
川沿いにはいくつかの公園が整備されています。河川改修で発生した土地でしょうか?フキノトウもそろそろ薹が立ってきましたね。



水道道路

水道道路わきの白梅
この水道道路の先に玉川浄水池があるので、渋谷町水道の送水管が埋設された道路なのだと思いますが、ネットでそれらの情報に行き着くことができません。「緑道軸」というのも気になります。大田区が公開している資料からそれらしき部分を抜粋します。
3 水と緑の環境軸への配慮
「水と緑の環境軸」とは大田区緑の基本計画「グリーンプランおおた」に定めているもので、「緑の環境軸」は多摩川沿いから山王までつながる国分寺崖線と南北崖線沿いの範囲、「水の環境軸」は多摩川、呑川、内川、臨海部の運河などの水際線沿いの範囲を示しており、緑化の推進や散策路の整備、公園緑地の整備など重点的に行われています。
 緑化の計画にあたっては、これらの環境軸の形成に寄与するように、なるべく環境軸に沿った緑を創出し、緑の連続性が保たれるようにご協力をお願いいたします。
 特に、区内中央部を縦断する呑川沿いで建築行為等を行う場合には、区が定めた「呑川緑道軸整備計画」に基づき、呑川沿いの道路・通路等からのセットバックなどにより、道路・通路を含めた7メートルまでの範囲について提供歩道や公開空地、環境緑地帯等としての自主整備に努めていただけますよう特段のご協力をお願いしています。




石橋供養塔
大田区文化財
石橋供養塔
 安永三年(一七七四)に、雪ヶ谷村の浄心ら六名の者が本願主となって、石橋の安泰を祈って建てられた供養塔である。
 石橋は現存しないが、呑川を渡って中原街道を通るため、当時すでに石橋がかけられていたことがわかる。
 正面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれ、側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名と花押が刻まれている。このように日蓮宗の色彩を帯びているのは、雪ヶ谷村の寺院がいずれも同宗であったという地域的な特色によるものである。
 石橋供養塔は、他の民間信仰供養塔と兼ねたものが多いが、この塔は石橋の無事と通行人の安全という交通安全だけを目的として建てられたものであり、貴重である。
  昭和五十一年二月二十五日指定
   大田区教育委員会



清流の復活
すこやか歩こう会はこの事業の恩恵を受けています。かつて私が子供だった時の目黒川はどぶ川でした。水質が悪い川日本一になったこともあります。清流の復活事業が無ければ、川沿いをこのように楽しく歩くことはできなかったでしょう。東京都下水道局のページから引用します。
城南三河川の清流復活(渋谷川・古川、目黒川、呑川)
水の流れがほとんどなく、河川環境が悪化していた渋谷川・古川、目黒川、呑川の三河川へ落合水再生センターで高度処理した再生水を送水しています。再生水の放流により水量が増え、うるおいのある環境をよみがえらせています。

渋谷川・古川
渋谷川は、渋谷区が農村だった時代に田畑で使用する水を供給していました。また、古川は近代工業の発展に大きな役割を果たしました。
計画水量:最大19,900m3/日
通水開始:平成7年3月

目黒川
目黒川は享保、寛延、天明の洪水では流域に大きな被害を与えました。
しかし、明治時代には沿岸での工業が始まり、近代工業の発展に大きな役割を果たしました。
計画水量:最大30,200m3/日
通水開始:平成7年3月

呑川
かつては飲む川・呑川と呼ばれたほどきれいで飲料水にも使われていました。
下流では、昭和10年頃まで海苔の養殖がさかんで全国一の生産高を記録していました。
計画水量:最大36,300m3/日
通水開始:平成7年3月



池上線土手のフキノトウ

ジンチョウゲ

ハクモクレン
この場所のフキノトウは珍しい群生です。柵があって入れないから採る人もいないのでしょうね。犬のおしっこで汚染されていないから食べられそうだけど、猫もいるからどうでしょう。ジンチョウゲやハクモクレンもいつの間にかよく咲いています。暦の上では春だけどまだ寒い日もあり、春遠からじといった感じかな。

この日は本隊とは別行動だったのでゴールせずにバスに乗ってしまいましたが、有志と合流後恵比寿のライオンで大いに飲みました。やっぱりライオンのビールはおいしいです。二次会は珍しい中目黒タップルームでした。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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上野桜木・谷中コース 約6.5km

2019-03-01 10:19:42 | ウォーキング
台東区も目黒区同様にウォーキングマップを作成しています。紹介されているほぼすべてのコースを歩いた後、お気に入りのコースは繰り返し歩いてきました。夕やけだんだんを訪れるCコース(東上野地区健康推進委員おすすめ)をすこしアレンジしてEコース(入谷地区健康推進委員おすすめ)の要素を加え、新たに作成したのが今回のコースとなります。
台東区のウォーキングマップは台東区のホームページのほか、東京都福祉保健局のページにも掲載されています。東京都が都内のウォーキングマップを整備しようという事業の一環で、我々がコースを提案した「めぐろ健康ウォーキングマップ」も東京都のページの載せるための作業を行っています。英語版もあるので我々のウォーキングマップの英語版が楽しみです。


上野大仏

グラント将軍像


上野公園

謎の忍者集団
中目黒→日比谷線→上野と移動し、昭和通りに面した出口を出てウォーキング開始です。昼間から呑兵衛が集まるアメ横付近を通過したのですが、以前より人が多くとても歩きにくかった。猥雑な雰囲気を味わう目的だったのですが、混雑が過ぎるとルートを変更すべきかもしれません。休日のアメ横はそれくらい人が多くなってきました。
西郷隆盛象の近くをお借りしてストレッチ、上野公園内を散策開始です。


旧因州池田屋敷表門黒門

旧東京音楽学校奏楽堂

京成電鉄旧博物館動物園駅

黒田記念館

国際子ども図書館
東京国立博物館も一度ゆっくり見学したいと思っているのですが実現していません。このあたりは見どころが多いですね。いつもは閉まっている博物館動物園駅の扉が開いて、中に大きなウサギがいました。ハービーか?


寛永寺

寛永寺本堂


寛永寺の紅梅(枝垂れ)

寛永寺の白梅(枝垂れ)
江戸城丑寅の鬼門を守る寛永寺です。この場所に広大なお寺があったため江戸末期には戦場となり、日本で初めての動物園が出来たり、多くの博物館がある文化都市になった上野を象徴する場所ですね。Wikipediaから抜粋します。
創建と伽藍整備
江戸にあった徳川家の菩提寺のうち、増上寺は中世から存在した寺院であったが、寛永寺は天海を開山とし、徳川家により新たに建立された寺院である。徳川家康・秀忠・家光の3代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていた。そのことを知った秀忠は、元和8年(1622年)、現在の上野公園の地を天海に与えた。当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信枚、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを収公して寺地にあてたものである。秀忠の隠居後、寛永2年(1625年)、3代将軍徳川家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立された。この年が寛永寺の創立年とされている。当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。
その後、寛永4年(1627年)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立されたが、これらの堂宇の大部分は幕末の上野戦争で失われた。このようにして徐々に伽藍の整備が進んだが、寺の中心になる堂である根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った元禄11年(1698年)、5代将軍徳川綱吉の時である。根本中堂は元禄10年7月1日に柳沢吉保が惣奉行を拝命したことにより開始され、元禄11年8月11日に上棟式が行われ落成した。
現在の本堂は川越の喜多院本地堂を移築したものである。



吉田屋酒店

愛玉子

岡埜栄泉

谷中ビアホール
吉田屋酒店は下町風俗資料館付属の展示施設です。江戸時代の商店の様子がわかり面白いです。
写真に撮った店について、Wikipediaから引用します。
愛玉子ゼリー「オーギョーチ」
愛玉子は植物の中でもとりわけペクチンの含有量が多いため、寒天などのように加熱することなく固まる珍しい特質がある。乾燥したひとつかみの種子を布袋に入れて水の中で10分程度揉んでいると、果実をくるむペクチン質の部分が溶け出て水を吸ったゲル状に膨潤し、弾力性が出てくる。それを2時間ほど放置すれば常温で寒天状の愛玉子ゼリー(オーギョーチ)ができる。用いる水に適度のカルシウムが含まれていなければ凝固しないため、蒸留水や軟水では作れない。また油分によっても凝固が妨げられる。
通常は氷水や冷蔵庫で冷やして食べる。愛玉子ゼリーそのものには際立った味や強い甘みがなく、一般的にはレモンシロップなど甘みのあるシロップをかけて提供される。台湾の夏の風物詩で、 屋台やデザート店、レストランなど幅広い場所で食べることが出来る。タピオカティーを販売するドリンクスタンドでは、愛玉子ゼリー入りの飲み物が定番商品として販売されている。 東京都台東区上野桜木にも、「愛玉子」と言う専門店がある。


岡埜栄泉についてもWikipediaから引用します。
株式会社岡埜栄泉(おかの えいせん)は、東京都台東区に本社を持ち、同区上野駅前にある「岡埜栄泉総本家」を運営する日本の和菓子製造メーカーである。
慶応から明治初期に現在の台東区浅草・駒形にあった「岡埜栄泉」が親戚筋の5軒にのれん分けされ、その中で最も古い伝統と歴史を誇るのが、岡埜栄泉総本家であり、岡野ちよによって1873年創業。ちなみにほかののれん分けされた店舗も、偶然「岡埜」または「岡野」(いずれも「おかの」)の苗字だったが、総本家以外の店舗は早々に閉店した。
和菓子、主に大福や最中、羊羹などの製造・販売で知られている。中でも豆大福は人気商品の一つとされている。



高橋お伝の墓
谷中霊園のトイレ休憩で目につき、誰も知らなかったのでネット検索しました。本当のお墓は小塚原回向院にあり、谷中霊園のこちらは遺骨は収められていないそうです。


朝倉彫塑館


夕やけだんだん

谷中ビール

谷中ぎんざ
夕やけだんだん・谷中ぎんざで少し長めの休憩をとりました。地ビールを見つけて味見したのですが、美味しかったです。谷中ビアホールでもこの地ビールが提供されているようです。


谷中5丁目の路地

岡倉天心記念公園

防災広場初音の森

築地塀
Cコースでは谷中ぎんざから通称へび道と呼ばれる谷中と千駄木を分けるみちをひたすら南下していたのですが、岡倉天心記念公園からEコースの寺院をめぐるコースを取り入れました。


観智院の地蔵菩薩

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西光寺
「足病平癒韋駄天安置」と書いてあります。


瑞輪寺

谷中鬼子母神

谷中のヒマラヤスギ

三浦坂

大黒屋

根津釜竹

都電

シャンシャン


不忍池
三浦坂を下りCコースに戻ってきて不忍池でゴールです。上野の文化的な面と、谷根千の下町の暮らしの両方を堪能できる良いコースだと思います。

反省会として吉池食堂を予定していたのですが、混雑していて電話で予約を取ることが出来ずアメ横の天狗へ行きました。天狗を堪能した後吉池食堂も見てみようということで、反省会二次会がありました。次回機会があったら少し待って出も吉池食堂へ行ってみたいと思います。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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