目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

こまエコ散歩(春)

2018-05-31 16:20:00 | ウォーキング
昨年まではこまエコ散歩のお手伝いと、すこやか歩こう会の活動は別々に行っていたのですが、今年度からノルディックウォーキング講習会が加わり日程調整がにっちもさっちもゆかなくなり、すこやか歩こう会の活動はこまエコ散歩に合流させていただくことになりました。
こまエコ散歩は駒場体育館が主催するウォーキング事業で、この企画が始まった時から目黒ウォーキング協会が協力して実施されてきました。


写真:講習の様子
従来は「エコ」についての講習と「ウォーキング」についての講習を行い、実習として駒場や大橋周辺をウォーキングしていました。「エコ」の話は突き詰めると結構難しく、「割り箸を使わないようにしましょう!」という話になると、「割り箸を使わないことが本当にエコなのか?」との意見もあって、実際素人が取り扱う話題としてはハードルが高い印象です。「ウォーキングが究極のエコ!」という話は反論を受けにくく、今年度は「散歩に行く前に天気予報をチェックしましょう」ということで、『散歩に役立つお天気ミニ知識』というテーマで、気象予報士の池田洋人さんがお話をしてくれました。


写真:カリンの実
講習の後は駒場野公園でストレッチをして出発です。カリン、梅、桃など様々な果実が実をつけ始めています。ウォーキングは駒場野公園のバラ園を見て、筑波大学駒場中高の正門で騎兵第一連隊の話をしてから先へ進みます。


写真:馬神碑
この日は日本ダービーが開催される5月27日で、いつもよりお供えされている人参が多いように思います。台地を目黒川が削った地元で「騎兵山」と呼ばれる場所は南西の視界が開けており、供養碑を建てるにはよい場所だったのでしょう。マンションの裏側には秋山好古が揮毫した石碑が残されています。
目黒川暗渠に整備された緑道公園を歩き、玉川通りを渡ったところで大橋の町名の由来、鮎飛脚が通った大山街道の話、首都高大橋ジャンクションの話などをした後、天空庭園へ向かいます。ジャンクションについてWikipediaから引用します。
概要
当地には1969年まで東急玉川線大橋車庫が設置されていた。東急玉川線の廃止後は東急バス大橋営業所となったが、2002年に廃止された。
2010年3月28日に、中央環状新宿線の全通(大橋JCT - 西新宿JCT間)により部分的に供用を開始した。残る品川線区間の大井JCT - 大橋JCT間は2015年3月7日に供用開始した。

構造
旧山手通りの地下を走っている中央環状線からの連絡線がループを描き3号渋谷線の上まで昇り、そこで都心方面・東名方面に分岐し3号渋谷線の本線に取り付く(なお、3号渋谷線側は建設当時からジャンクションへの分合流を考慮した構造で建設されている)。
ループの両端につながる3号渋谷線・中央環状線とは上下/内外全4方面に接続する。中央環状新宿線のジャンクション群の中で、土地の制約上一部方面の連絡がない熊野町・西新宿両ジャンクションと違い、全方面への接続を確保できたのは、連絡線を一個のらせんにまとめたループ部分による所が大きい。
ループ部分には広大な土地が必要であるが、その見返りとしてループに隣接した敷地に東京都が再開発事業主体となり、超高層ビル型のタワーマンション2棟と公共施設の開発を不動産デベロッパーと共同で行う。建設敷地は約25,000m2である。
再開発敷地(O-path目黒大橋)には、まず27階建てのタワーマンション「プリズムタワー」が2009年1月に竣工し、42階建てのタワーマンション「クロスエアタワー」が2013年1月に竣工した。

ループ部分の構造
・地上約35m、地下約36m 高低差約71m
・一周約400m
・4層構造
・制限速度は40Km/h
ループ部分は国立霞ヶ丘競技場程の広大なもので、騒音対策のため4層ループのトンネル構造となっている。また排気ガス対策のため、ループの内側部分には換気所が設けられる。
ループ内は急勾配・急カーブのため、ジャンクション内の制限速度を40km/hに設定する事、外観が見えないループで方向感覚が分かりにくくなる事から、行先を色で示す様に路面に塗装する工夫がされている。
外観はコロッセオのイメージが一部に取り入れられている。ループの屋上部分は公園として緑化され、周囲のマンションと直結した目黒天空庭園として整備されている。



写真:富士山が見える方角



写真:おおはし里の杜
富士山はキャロットタワーの右側に見えるようですが、マンションに隠れてあまりよくは見えないようです。私が子供の頃は烏森小学校の窓からも見えたのですが。。。


写真:ナデシコ

写真:ギンバイカ(マートル)

写真:クチナシ

写真:何の実?

写真:ブドウ

写真:アカンサス(葉アザミ)
天空庭園についてWikipediaから引用します。
目黒天空庭園(めぐろてんくうていえん)とは、東京都目黒区大橋に存在する屋上庭園。 首都高速道路の大橋ジャンクションの屋上に造成され、2013年3月30日にオープンした。

概要
首都高速道路の3号渋谷線と中央環状線を結ぶ大橋ジャンクションの屋上を緑地化した庭園で、目黒区の区立公園として整備されている。
ドーナツのような楕円形が特長。高さは地上11メートルから35メートル、延長距離は約400メートルで、平均勾配約6%のループ状である。最も低い部分は歩道橋経由で国道246号へと通じている。庭園には芝生を基礎として約30種類の樹木や花が植えられている。
開園時間は午前7時から午後9時まで。南側に設置されているエレベーターの3階が庭園となっており、バリアフリー対策が施されているため車椅子やベビーカーでの入場も可能。
造成の背景
首都高速道路において、高架の3号渋谷線と地下トンネルの中央環状線をジャンクションで結ぶためには高低差の問題と用地の問題があった。そのため、少ない敷地面積で高低差を稼げるループ状として建設されたのが大橋ジャンクションである。
その建設計画として環境対策が盛り込まれており、また、公園の数が少なく面積も狭い都心において子どもたちが走り回れる場所が欲しいという住民のニーズにも応える形で緑地化、公園化する案が採用された。
庭園の造成にあたっては、目黒区が首都高速道路から占用使用許可を受け、都市公園法に基づく立体都市公園として整備した。

この公園もオープン当初は「人工的に公園を作りました」感が満載で違和感を感じましたが、開園から5年がたち少し枯れてきてよくなりました。アカンサスは最近よく見るようになりましたが、10年前には珍しくウォーキングでわざわざ見に行ったというような話も聞きました。「葉アザミ」と聞くと皇居二重橋のお濠の柵にデザインされており、明治時代には日本で見られた植物なのかなぁと想像してしまいます。

天空庭園を後にして上目黒氷川神社で富士登山。明治時代、目黒元富士があった場所に岩倉具視の別荘が建てられ、富士塚に埋められた富士山の溶岩などがこちらに移され浅間神社がまつられました。松見坂を通り駒場バラ園の前を抜けて、東京大学教養学部の中を歩きます。重要文化財の前田邸洋館が耐震工事中の駒場公園を見て、駒場野公園へ戻ってきました。


写真:田植え前のケルネル田圃
ゴールの駒場野公園は東京教育大学農学部があった場所で、ケルネル田圃はその名残を残し、教育大が筑波大学に変わった今でもその付属高校の生徒たちにより田植えが行われています。このあたり、江戸時代は将軍お鷹狩りのための鷹場で、明治時代になり駒場農学校が置かれます。駒場農学校についてWikipediaから引用します。
駒場農学校(こまばのうがっこう)は、日本の旧制教育機関。現在の東京大学農学部、筑波大学生命環境学群生物資源学類、東京農工大学農学部の前身にあたる農学に関する日本初の総合教育・研究機関であった。

概要
黎明期の日本近代農学の発展に大きな役割を果たし、日本近代農学発展の礎となった。
アメリカの農業を教育の柱にしたクラーク博士で有名な札幌農学校に対して、もっぱらドイツ農法に範を求めた駒場農学校は、やがて欧米の農作物を試植する「泰西(たいせい)農場」、在来農法の改良を期した「本邦農場」などの農場のほかに、園芸・植物園、家畜病院、気象台などまで備えた農業の総合教育・研究機関となった。当初、約6万坪の敷地であったが、その後、次第に拡張され、1884年には、敷地面積が16万5千坪に達した。
跡地の一部は1986年に駒場野公園として開園した。広さ2.8ヘクタールの園内には、雑木林や水田がある。


日差しがあって少し暑いくらいでしたが、気持ちの良いウォーキングでした。この後ほとんどのメンバーで東山のインド料理へ行き食事しました。これで収まりがつかないおじさんたちは、ONCEのモニターに日本ダービーを映してもらって競馬観戦。その後大相撲観戦で盛り上がりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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ノルディックウォーキング講習会

2018-05-28 10:35:07 | ウォーキング
目黒区主催の「めぐろウォーキング塾」が5月29日より約一か月の予定で行われます。このイベントは座学や実習などを通じて様々なウォーキング理論を学び、実生活に生かしてゆこうというもので、塾終了後すこやか歩こう会など各地区クラブへ入会される方が多数いらっしゃいます。今年度の塾の募集はすでに終了しており、定員の80名がほぼ満杯になる応募がありました。

ノルディックウォーキング実習は塾開催当初からの講座で、日本ノルディックウォーキング協会副理事でノルディックウォーキング マスタートレーナーのjojoこと長谷川佳文さんが担当されます。長谷川さんは目黒ウォーキング協会の副会長でもあります。

ノルディックウォーキング実習を実施するにあたり、実行委員のスキルと知識を高めるための講習会が行われました。



写真:ノルディックウォーキング講習会の様子
実行委員は6月26日に行われる実習のフォロー役ですが、この日自ら体験をしてノルディックウォーキングの知識を深めました。


写真:ユリ

写真:ヒオウギズイセン

写真:アメリカヤマボウシ
講習会が行われた碑文谷公園からの帰り道、様々な花を見つけました。








写真:アジサイ
今年は季節の進みが10日早く、バラの季節が急速に終わりを告げアジサイの季節がやってきました。梅雨に入るとこの鮮やかな花々にも慣れてしまいあまり目につかなくなってくるのですが、咲き始めの今はその美しさに感嘆するばかりです。


写真:下馬の庚申堂
世田谷区の広さは目黒区の約4倍になりますが、現在確認できる庚申塔の数は目黒区の10倍あり、お堂に納められている庚申塔も多いように思います。世田谷区の庚申塔を巡り、目黒区との違いを感じるようなウォーキングも面白いのかなぁと思います。


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春の須賀川旅行二日目

2018-05-24 10:19:24 | ウォーキング
前夜の強い北風はやんでいたものの霧雨が降って寒い朝を迎えました。


写真:ドームコテージ
こちらのドームコテージに宿泊しました。基本一棟二名で、一組だけ三名でした。エンゼルフォレスト那須白川はペットの犬と過ごすことができる施設なのですが、こちらのドームコテージはペット同伴可と、不可の二種類に分けて運用しているようです。コテージはバストイレ付きですが、温泉棟もすぐ近くなのでお風呂は温泉を利用します。






写真:施設の中心にある池
朝食後散策に出かけました。この池でフライフィッシングやボート遊びが出来ます。この頃には霧雨も止み、お日様が出ると暖かくなりました。


写真:ルピナス
池の周りは開発した後に植えたようなルピナスとかシバザクラのような植物が多いように見えました。


写真:湿地園の流れ
散策の目的地は施設南側にある湿地園。前回訪れたのは11月でここは冬景色でした。今回、水芭蕉は終わっていましたが、レンゲツツジが迎えてくれました。




写真:フデリンドウ
はじめに見つけた時は「あ、フデリンドウだ!」といった感じでしたが、次々に現れるフデリンドウは見事。一日にこんなにたくさんのフデリンドウを見たのは初めてです。この湿地園、毎週訪れても様々な発見がありそうです。うまく写真になりませんでしたが、ミツガシワも咲いていました。



写真:レンゲツツジ

写真:コバイケイソウ

写真:クリンソウ

写真:ミズバショウ
ほとんどのミズバショウは葉が大きく育ち、見頃を過ぎていましたがごくわずか白い部分(仏炎苞)が残っているものがありました。ミズバショウをみると山に中に入ってきたなぁという気がします。


写真:ライラック
ドームコテージへ戻る途中、ライラックが風に揺れていました。


写真:フジ
11時前にチェックアウトし、不要な荷物は預かってもらって道の駅 羽鳥湖高原まで散策です。昨日須賀川からのバスの中でも気づいていたのですが、フジの季節で山の中で多くのフジを見ることができました。


写真:スミレ

写真:ハルジオン
道の駅でイワナの塩焼きを食べビールを飲み、山菜そばを食べビールを飲んで気持ちよくなってエンゼルフォレストへ戻ってきました。チェックアウト後も風呂に入ることができるので、源泉かけ流しのツボ湯にゆっくり浸かり、弱アルカリ泉でお肌つるつるになりました。


写真:送迎のバス
前日はお願いをして須賀川まで送迎のバスを回していただきましたが、新白河駅から施設までのバスは毎日運航しています。この日は我々も新白河駅までこのバスで送っていただきました。エンゼルフォレスト那須白川のスタッフの皆さん、楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。

新白河駅でビールを買って、新幹線に乗り込みました。この時間帯新白河駅に停車する東北新幹線は一時間に一本しかありません。仙台発やまびこ214号の指定席は満員でした。短距離の新幹線は指定席が少なく自由席が多いので、自由席でも十分座れたようです。ただし我々のような団体や、子供連れなどの家族は万が一座れないと困るので指定席を取るようです。
新幹線を上野で降りて日比谷線で中目黒へ。この日は香家で反省会。香家の汁なし担々麺、辛いけどちょっとくせになり、ビールが進みます。


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春の須賀川旅行一日目

2018-05-22 10:59:53 | ウォーキング
すこやか歩こう会では年に二度、春と秋に週末一泊旅行を実施しています。行き先はウォーキングに適した場所で出来れば会員さんにゆかりのある場所。須賀川はすこやか歩こう会と目黒ウォーキング協会の活動を精力的に推進してくださっている会員の故郷で、今回二度目となります。前回は2016年11月5日~6日で紅葉を楽しみましたが、今回は新緑の季節で、運が良ければ有名な須賀川牡丹園の牡丹を楽しむことができる初夏を選んでみました。


写真:矢吹駅
中目黒GTに集合し、日比谷線→上野駅→東北新幹線→新白河駅→東北本線→須賀川と移動途中矢吹駅に停車中です。この町の名誉町民についてWikipediaから引用します。
中畑 清(なかはた きよし、1954年1月6日 - )は、福島県西白河郡矢吹町出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督・コーチ。

現役時は1980年代の読売ジャイアンツ(巨人)の中心打者として活躍する傍ら、労働組合日本プロ野球選手会初代会長を務めた。引退後は巨人のコーチを務めた後、2004年アテネオリンピック野球日本代表ヘッドコーチ・監督代行を務め、銅メダルに導いた。その後2012年より横浜DeNAベイスターズ初代監督(大洋ホエールズからの通算では第29代)に就任し、2015年シーズン終了まで在任した。2016年から野球解説者・評論家、タレント司会者に復帰。

2015年12月25日、自身の出身地である福島県西白河郡矢吹町において「名誉町民第1号」の称号が与えられた。



写真:須賀川駅前
須賀川出身の有名人と言えばマラソンランナー「円谷幸吉」さんと特撮の神様「円谷英二」さん。円谷幸吉さんについて須賀川市のページから引用します。
 昭和39年、東京オリンピックのマラソン大会。裸足のランナーとして有名なエチオピアのアベベ選手に続き、国立競技場に入って来たのは、日本国民の期待にこたえ、力走する円谷幸吉選手でした。
 ラジオやテレビのアナウンサーの声が次第に大きくなり、日本中が、その放送に釘付けとなりました。後方から追い上げるイギリスのヒートリー選手との、今も語り継がれるデッドヒートの末、ついには抜かれたものの、堂々たる第 3位。陸上競技日本唯一のメダルを手にすることとなった円谷選手は、沸き起こる大きな歓声を背に、表彰台へと登ったのです。
 円谷選手は、昭和15年、この須賀川市に生まれました。そして、県立須賀川高校2年生の夏、福島縦断駅伝の代走を務めた際に、区間新記録を出したことを機に、本格的な陸上競技への道を歩み始めます。高校を卒業後、陸上自衛隊郡山駐屯部隊に入隊しましたが、 円谷選手にとって、この自衛隊は、規律正しい生活のなか、十分な練習時間が取れる最高の職場だったのです。円谷幸吉 昭和 36年の青東駅伝では、3区間を走り、その3区間すべてにおいて、新記録を樹立し、特に延べ15人を追い抜いた記録は、今も破られていません。
 その翌年、円谷選手は、自衛隊体育学校の開校と同時に、第1期生として入学する一方、中央大学の経済学部にも入学し、陸上と勉学に励みました。そして数々の大会で、世界記録や日本記録を塗り替えます。昭和 39年8月のオリンピック候補選手記録会では、1万メートルで世界最高記録を出した後、マラソンのオリンピック代表選手選考会に臨み、2位の成績を修め、オリンピックヘの出場を決めました。
 そして迎えた本番での大活躍が、劇的なデッドヒートの場面とともに、今日まで語り継がれているのです。
 しかしその後は、休む間もなく、国際試合への出場や講演会などによるハードスケジュールが続き、持病の腰痛を悪化させ、ついには、左足、そして右足と続けざまの、アキレス腱切断というけがに見舞われました。手術を受け、次のメキシコオリンピックに向けて練習に励みますが、病状は一向に良くなりませんでした。
 昭和43年1月8日、幸吉は、「疲れきって、もう走れません」という家族への遺書を残し、自ら命を絶ちました。享年27歳。余りにも短く、早過ぎる生涯でした。
 円谷選手の遺品の数々は、これまで生家であった「円谷幸吉記念館」で展示されてきましたが、須賀川市に寄贈され、現在、須賀川アリーナ内「円谷幸吉メモリアルホール」において公開されています。また、須賀川市が毎年10月に開催する「円谷幸吉メモリアルマラソン」には、全国から、多くのランナーが集い、その業績をしのんでいます。

須賀川市と「M78星雲 光の国」の関係も須賀川市のページから引用します。
「すかがわ市M78光の町」は「福島県須賀川市」と「M78星雲 光の国」が2013年5月5日に姉妹都市の提携をして誕生した仮想の町です。「すかがわ市M78光の町」は、まるで光の国のようにキラキラと輝いているのが特徴です。あのウルトラヒーローたちもこの町にいることがあるかもしれません。町長には宇宙警備隊 大隊長 ウルトラの父が就任。今後、「すかがわ市M78光の町」仮想住民登録の実施や町の名所紹介を行っていきます。須賀川市が、ウルトラマンの故郷「M78星雲 光の国」と姉妹都市提携を行うこと。それは、本市と全国の皆さんとの交流であると考えています。

ご承知のとおり、ウルトラマンは、本市出身者であり、特撮の神様「円谷英二監督」が創造した、国民に最も愛されているキャラクターの一つです。現在も、子どもから高齢者まで、その人気・知名度は高く、キャラクターがもつ発信力や影響力も、大きなものがあります。須賀川市は、今回の姉妹都市提携をスタートとし、ウルトラヒーロー達との様々な取り組みによって、全国の皆さんへ、地元の魅力を積極的に発信していきます。そして、「須賀川」を全国の皆さんに知っていただくとともに、これを縁として、たくさんの方々との交流を行っていきたい。これこそが、「須賀川」の明るい未来を創造していくため、最も重要なことだと考えているからです。



写真:須賀川牡丹園入り口
牡丹園は牡丹に季節は有料になり、本年度は4月20日から5月下旬の予定でしたが、季節の進みが早く牡丹の見頃を終えたため、5月14日より無料開放となりました。最盛期週末は渋滞が発生し、駅からのタクシーもなかなか行きつけないようです。





写真:ボタン









写真:シャクヤク





写真:シャクナゲ






写真:須賀川牡丹園
園内にはたくさん牡丹がありますがほぼ終了といった感じでした。芍薬はこれから花をつける種類があるようで蕾もたくさん見ることができました。石楠花もきれいでした。牡丹と芍薬の違いについてNHK趣味の園芸のページから引用します。
大きくふくよかな花を咲かせるボタンとシャクヤク。「立てば芍薬、座れば牡丹」と美しい女性の容姿や立ち居振る舞いを形容するように、独特の美を象徴する植物です。新潟県立植物園副園長の倉重祐二(くらしげ・ゆうじ)さんにそれぞれの違いと特徴を教えてもらいました。

*  *  *

ボタンとシャクヤクの違い、ご存じでした?

どちらもボタン科ボタン属の植物で、もともとは薬用植物として渡来しました。江戸初期には観賞用として改良され、明治以降は日本独自の品種に加えて、欧米から輸入された品種が加わりました。両種類は近縁なので、市販のボタンの苗は成長の早いシャクヤクの根を台木にして、つぎ木されています。これは明治中ごろに新潟県で実用化された技術です。

ボタンは落葉低木

冬に葉は落ちるが地上部に枝が残る。年々、幹が太く大きくなる。

シャクヤクは宿根草

冬季に地上部が枯れてしまう。年々、根が広がって、大株に育つ。

進化するシャクヤクの品種

ボタンの品種改良は日本や中国が中心ですが、シャクヤクはアメリカやヨーロッパで花壇用の宿根草として人気が高く、数多くの品種が作出されています。日本のシャクヤクと比べると花が大きく、八重咲きで花色も鮮やかなものが多いのが特徴です。
また、黄色のシャクヤクを作出するために日本でボタンと交配されたハイブリッドシャクヤクと呼ばれるグループがあります。






写真:牡丹稲荷神社
牡丹稲荷神社
 この牡丹園は、昔この地方をおさめていた領主二階堂家の別荘庭園であったと伝えられている。明和三年(1766)には当地の薬種商伊藤祐倫が薬用を目的に牡丹を植えたが、明治に入って豪商柳沼家が譲り受け、牡丹鑑賞園として管理していた。
 この人たちは牡丹講を組織し柳沼家とともに牡丹稲荷神社を崇敬し、現在もその子孫の人たちによって神社の祭りは絶えることがな。土地の人々の伝えによれば、この神社に参拝すると生まれる女の子は。牡丹のように美しく心優しく健やかに育つといわれている。
御神徳
 人間生活の基となる衣、食、住の守護神と五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、交通安全、安産、厄除けなど生生発展の大神を併せてお祀りし極めて篤い崇敬進行を受けております。



写真:アヤメ?

写真:ウェイゲラ フロリダバリエガータ

写真:市民牡丹庭園

写真:ネギ坊主

写真:水田

写真:ブドウ

写真:イチジク

写真:リンゴ

写真:ジャーマンアイリス?

写真:水田

写真:ニセアカシア

写真:ハルジオン

写真:アザミ

写真:桃

写真:マーガレット
須賀川市民牡丹庭園は牡丹園の臨時駐車場として使われている場所です。庭園は一部でほぼ空き地状態で、思っていたイメージと違い少し戸惑いました。まぁそれは言い訳なんですけど、須賀川駅に向かうつもりが少し違う方向に歩き始めたようです。パソコンの地図なら全体像が見えるのですが、スマホの地図を見るときは全体像の把握が難しいです。
そんなわけで2キロも余計に歩かせてしまったのですが、途中フルーツ王国福島を象徴するようないい場所があり、不幸中の幸いか?それほど幸いでもなかったかな?


写真:結の辻
結の辻では芭蕉と曽良がお出迎え。奥の細道の旅路で松尾芭蕉が須賀川を訪れたのが田植えの季節でちょうど今頃だったようです。「風流の初めや奥の田植歌」という句を残しています。


写真:ウルトラマン

写真:ピクモン

写真:エレキング

写真:ギャンゴ

写真:ウルトラマンエース
松明通りの怪獣像が増えて、カネゴン、ピグモン、ウルトラの母、ウルトラマンエース、ウルトラマン太郎が設置されていました。怪獣の名前を調べながら画像検索をしていて「ダダとか怖い怪獣像はないな」と思っていたら、シルエットシリーズではダダもいるようです。


写真:釈迦堂川
遠回りをして時間が無くなってきたので、十念寺や神炊館神社などを飛ばしてまっすぐ須賀川駅へ。


写真:羽鳥湖高原の虹
エンゼルフォレスト那須白川、前回来たときには「羽鳥湖高原レジーナの森」という名前でした。経営者が変わったというよりは、東京建物の一事業部が会社となり経営しているということのようです。スタッフの方々は前回と変わらず、温かく迎えてくれました。
夕食は前回テーブルサービスの洋食だったものが、バイキングに変わり合理化というか大人数に対応できるようにしたということでしょうか。お料理はおいしかったし、お酒がすすみました。福島県なのに「苗場山」という日本酒がいち推しでした。系列のホテルが越後中里にあり、苗場山の蔵元も系列のようです。もちろん地元福島県中通りのお酒「廣戸川」もあり、美味しくいただきました。須賀川で渡ってきた「釈迦堂川」はかつて「廣戸川」と呼ばれていたそうです。

この日の晩は気温が10度を下まわり北風が強く吹いてとても寒かったのですが、床暖房が効いたハッチの中でみんなで談笑し時が過ぎてゆきました。


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鎌倉山越え極楽寺コース 約5.1Km

2018-05-15 10:19:26 | ウォーキング
一週間前の天気予報でこの日は晴れ。三日前には夜から雨に変わり、当日は昼過ぎから雨という予報でした。昨年雨の中を強行したコースで語り草になっているので今年の実施はためらいましたが、雨が降り始めるまで歩くつもりで実施の連絡を出しました。


写真:湘南モノレール
中目黒→東横線→横浜→横須賀線を乗り継いで大船駅からは湘南モノレールです。昨年まで使えなかったPASMOが使えるようになっていました。この日は母の日ということでピンクリボン号の車両が来ました。


写真:懸垂式のレール

写真:柏尾川の支流新川

写真:廃材置き場の大黒様
湘南深沢駅で降りて歩き始めます。「深沢」というだけあって、大きな谷になっており、モノレールが急な勾配を下りきったところに駅がありました。笛田川沿いに南下すると大黒様が打ち捨てられて、お気の毒。


写真:ウマゴヤシ

写真:ドクダミ

写真:ノゲシ

写真:田植え前の田圃

写真:畑の脇の花壇

写真:カタバミ
ストレッチをする場所がないので、私有地の駐車場をお借りしてストレッチをしました。昨年よりひと月後ろ倒ししたこのコース、昨年はまだサクラの残骸が残っていましたが今年は見られる花が全然違います。花盛りって感じですね。


写真:竹林

写真:ソテツ?

写真:ヒメジョオン

写真:カンパニュラ・ポシャルスキアナ

写真:三嶋神社
笛田川を上流にさかのぼるにつれて急傾斜地が多く見られ、三嶋神社もそんな傾斜地にありました。


写真:ウツギ
淡いピンクの印象的なウツギでした。


写真:夫婦池
この池が笛田川の源流となります。あいにくの空模様でしたが、カワセミが見られウグイスの声が聞かれます。

動画:夫婦池公園


写真:鎌倉山
鎌倉山は山の名称ではなく町名です。海を臨む絶景がありかつては高級別荘地だったのかな?鎌倉山についてWikipediaから引用します。
鎌倉市西部に位置する。北は笛田、西は手広・腰越・津、南は七里ヶ浜・稲村ヶ崎、東は極楽寺と接する。山という地名がつけられているが、標高100m程度の丘陵である。ほぼ全域が山林となっているが、道路沿いを中心に住宅が点在している。鎌倉山内の主要な道路には多数の桜(ソメイヨシノ)が植えられている。桜の開花シーズンともなると、桜を見に来るハイキング客でにぎわうようになる。

また鎌倉山神社がある山頂付近からは、七里ヶ浜の海、江の島、富士山、逗子マリーナや三浦アルプスなどを見渡すこともできる。このあたりからは、極楽寺方面と稲村ガ崎へ抜ける山道も存在し、以前は鎌倉から手広方面へ抜ける近道としても重用されていたが、昭和30年代頃に周辺の交通路が整備された事によって使われなくなり、現在は廃れている。

Report from Kamakura」というページで紹介されている逸話が面白いので、こちらも引用します。
夜の山道を帰った二人=田中絹代と服部之総

 鎌倉山に通じる山道はいくつかあるが、江ノ電の極楽寺の駅を下車して桜橋を渡り、月影の地蔵の横から墓地を抜けて、一人やっと通れる程の小径もその一つ。かってこの獣道は、極楽寺から鎌倉山、笛田を経て、手広、藤沢に行くには最も近道であった。

 土地の者だけが利用していた山道である。鎌倉山の一部の住所は極楽寺であるところからも、その隣接していることが判る。車が普及したことと七里ガ浜の分譲地の奥から、鎌倉山に通じる道路が出来ているので、この昔からの山道の利用価値がなくなってしまった。

 日中でももの淋しい山道であるが、何年も前に、月影地蔵から鎌倉山に行こうとしたが、道の両脇から繁茂している草木に阻まれて、やむなく引き返してきた。去年、反対に鎌倉山の方から下山する方法で、月影地蔵まで歩いたが、その間一人としてハイカ-に出会わなかった。

 鎌倉山からは江ノ島を中心に、伊豆半島、箱根、富士の景色ばかり見慣れているので、東南の由比ガ浜、逗子方面の遠景が如何にも新鮮に眼に映り、これまで見落としていた鎌倉山の素晴らしい展望の一角を発見した思いだった。

だが、距離にして1キロ余りであるが、夜間となるとどんなに不気味な山道に変貌するか想像もつかない。

 終戦直後のことである。鎌倉山に住んでいた歴史学者の服部之総が、ある夜8時頃、極楽寺で下車して山道に向かっていくと、田圃のあぜに和装の若い女のひとが、一人月光を浴びて立っていた。一見して、美人と見てとれただけに不気味さを感じた。黙ってやりすごした背後から、声を掛けられた。

「山へお帰りでございますか?」「そうです」「恐れ入りますが、おともさせて下さい」

 おんなのひとは、服部之総の返事の仕方に一種の安心感を直感したのであろう。又彼女の問いかけかたやそれに続く動作応答の中に山の住民を確認して、さあどうぞと言って連れ立った。

 道中の会話から、その女性が聡明であることが判ったが、そのひとの見当がつかなかった。見当がつかないとみて女性は「田中でございます」と名乗り出たのであるが、「ああそうですか」と聞いて礼儀を欠かさないために「ぼくはテニスコ-トのすぐ上の、、、、」と言ったあたりで、やっと気がついて「ああ、松竹の田中さんでしたか」と言った。

 交通不便なあの時代だからこそ、こうした光景が繰り広げられたのである。我家があれば、その途中どんなに暗い道でも恐怖はないものである。だがスクリ-ンの華やかな映画女優が、運良く同じ鎌倉山に住んでいた歴史学者の服部之総と言う道連れがあったからいいようなもの、もしなかったら一人トボトボ夜の山道を辿ったのであろうか。

 田中絹代は、女優にしては珍しく本名である。田中絹代の長兄が、徴兵検査の当日時間に遅れたため、そのまま失踪してしまった。そして二度と家族の前に姿を見せることはなかった。

 田中絹代は、もし長兄がこの世に生きていたなら、本名で映画に出演していれば、どこかの映画館の片隅で自分を見ていてくれるであろうと思ったと言う。だが、鎌倉山に造った通称「田中御殿」で母親が死去した時も長兄は終に姿をみせることはなかった。

 服部之総は東大在学中に志賀義雄、大宅壮一らと新人会で活躍した。マルクス主義に傾倒し、プロレタリア科学研究所所員になり、コム アカデミ-事件で検挙された後、戦時中は花王石鹸の嘱託になり、社史などの編纂に携った。中でも、花王石鹸の創業者、「長瀬富郎伝」は満を持して執筆した。

 この間に歴史随筆「黒船前後」を上梓し、その関心事が多岐に亙っていることを示す若き日の代表作である。終戦を期に退社し学界に復帰し、鎌倉アカデミ-の教授や学監になり、廃校後は合併した法政大学の教壇に立ったが、独特の風格と組織力、鋭い問題意識を持ち、後進の育成指導にあたり、近代史の研究に果たした役割は大きい。

 戦前、戦中弾圧を受けたマルクス社会主義者も戦後は、自由に自己の主張を発表し得る時期が到来した。夜の山道を偶々田中絹代と同行したのは、服部之総の精神的、物質的に安定していたころの椿事である。しかしその後胃潰瘍になり、ノイロ-ゼ現象に悩み、一時は箱根山中で苦痛と苦悩に苛まれたのも、酒好きがもとで自律神経症から来るものであったとされる。極度の神経衰弱に度々襲われ、死を早めた。ジャ-ナリステックなセンスに富んだ学者であるが、その余りにも早すぎた死は学界のみならず各方面から哀惜された。享年55歳。



写真:鎌倉山の荒れた竹林

写真:アジサイ

写真:スイカズラ


写真:鎌倉山から海を望む
夫婦池公園の階段もきついのですが、鎌倉神社にかけてさらに上り坂が続きます。道が細い割に車の通行が多く、休日の混雑した鎌倉周辺で抜け道になっているものと思われます。田中御殿の前は通っていないのですが、その近くを歩きました。




写真:鎌倉山神社

写真:由比ガ浜方面を望む

写真:ここから先は山道
鎌倉山神社はこの丘陵の一番高い場所にあると思われ、階段を上った先に小さな祠がありました。その先は海を臨む絶景で、現在は住む人がいない豪邸があり、さらにその先は人一人がやっと通れる山道となります。先ほどの田中絹代さんの話は、極楽寺駅からこの山道を登ってきたのでしょう。


写真:月影地蔵

写真:極楽寺への道


写真:極楽寺跨線橋
山道は途中階段に変わり、その先が月影地蔵です。極楽寺駅までは徒歩10分といったところでしょうか。


写真:星月の井
極楽寺坂切通しを過ぎるとこの井戸が残されています。「鎌倉タイム」のページより引用します。
行基菩薩は天平年間(729-749)にこの地を訪れます。この井戸は昼でも星が輝いて見えたそうです。
それを聞いた行基が井戸をのぞいてみると、中に虚空蔵菩薩の姿が映っていました。行基はその菩薩を仏像に彫りお堂を建立しました。これが星の井寺です。その後、近所の女が誤って包丁を井戸に落とすと星は見えなくなったそうです。
井戸の水質はとてもよく、昭和初期まで旅人に飲料水として売られていたといわれています。
鎌倉十井についても触れておきます。江戸時代の中期以降になって鎌倉は観光地として賑わうようになりました。それに伴って「七切通し」「五名水」「十橋」などと名数によって名付けられることが増えました。その中のひとつが「鎌倉十井」です。じっせいと読みます。
鎌倉の山の地層は凝灰岩といわれ水が豊富に湧き出ます。筆者が子供の頃に住んでいた鎌倉の家にも井戸があり、その井戸をポンプでくみ上げ蛇口に繋いで生活水としていました。夏でも冷たくて美味しかったと記憶しています。断水でも我が家はいつも通り水が出ていました。
ただ、鎌倉全体としては水質はあまり良くなかったと言われています。そのため、美味しい水の出る井戸は大切にされ、「五名水」「十井」などと呼ばれたそうです。




写真:力餅屋
こちらも鎌倉タイムから引用します。
鎌倉坂ノ下、御霊神社門前にある力餅家さんは、創業300年という老舗中の老舗。変わらず、広げず、同じ地で同じ味を守り続けた敬愛すべき存在です。筆者も含め鎌倉で育った人は、餅とあんこの素朴なお菓子といえば、赤福よりも力餅を身近に感じています。
店名ともなっている力餅は「権五郎力餅」といい、つきたての餅をこれまた出来たての餡でくるんだ絶品。添加物は一切使われておらず、本物の餅の歯ごたえと粘り、あんこの香りと甘さが記憶に残ります。
季節となるとヨモギの練り込んだ餅を使った力餅が並び、これを筆者は毎年楽しみにしています。「権五郎力餅」は添加物なしのため美味しさと引き換えに日持ちはせず「本日中にお召し上がり下さい」ということになります。最近は日持ちするように求肥を使った力餅があり、進物などには重宝します。
朝、力餅家の前を通るともち米を炊くなんともいえないいい香りが漂います。無性に食べたくなりますが、残念ながら開店時間前という記憶が何度もあります。

鎌倉タイム?地元記者発、鎌倉観光ガイド




写真:御霊神社参道
参道を江ノ電が横切ります。漢字だけ見ると「みたま」と読みたくなりますが、「ごりょうじんじゃ」です。




写真:御霊神社境内
神社にお参りし、こちらの境内をお借りしてウォーキング後のストレッチをして解散となりました。本来のゴールは長谷観音なのですが、細かい雨が降り出しこちらでウォーキング終了です。よくここまで天気が持ってくれたものと感謝しお参りしました。神社についてWikipediaから引用します。
権五郎神社の創建年代は詳らかではないが、御霊信仰思想の広がりと鎌倉氏による地方開発の展開を考慮すると、平安時代後期であると推定することができる。もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになった。後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれた。

鎌倉景政は、平安時代後期の関東平氏の一族であり、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の5氏とともに鎌倉武士団を率い、現在の湘南地方一帯の地方開発に従事した。景政はまた、その武勇をもって知られ、16歳の時、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年-1087年)に従軍して活躍した際のエピソードがよく知られている。『奥州後三年記』の伝えるところによれば、景政は左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し帰還した。左目に突き刺さった矢を抜こうと、一人の武士が景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したと言う。かかる伝承から、志の成就(学業成就、必勝招来)の神徳があるとされる。また、林羅山の考定によれば眼病平癒にも効験があるとされる(『本朝神社考』)。



写真:御霊神社のタブノキ
こちらのタブノキについてもWikipediaから引用します。
社務所の前にそびえるタブノキは、樹高20m、推定樹齢350年に達し、冠状に広がった樹枝が見事である。鎌倉市指定天然記念物、および神奈川県選定「かながわの名木100選」(1984年12月選定)。


この日のウォーキングは夫婦池公園で昼食をとる予定で、皆さんお弁当持参だったのですが、「雨が降る前にできるだけ歩きましょう!」と昼食抜きで歩いてきました。解散後女性陣は長谷観音へ行き、海を眺めながら昼食をとったものと思われます。男性陣は早々に横浜へ戻り、スカイビル11階のライオンで大いにビールを堪能しました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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