目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

雑司が谷七福神コース 約5.2km

2022-02-06 16:42:05 | 東京都豊島区、文京区
コロナ禍で適当な距離の七福神巡りはないものかと考え、9年前に実施した雑司が谷七福神巡りを企画しました。副都心線雑司が谷駅までは一本で行けるので電車での移動もそれほど心配ないかなということです。なにがOKでなにがNGか正解はないですし、参加はそれぞれ会員の判断なので少しでも楽しめるといいかな。


江戸高名会亭尽 雑司が谷之図
雑司が谷駅改札前で待っているとこの絵が目につきました。カラー版はこちらから。江戸高名会亭尽(えどこうめいかいていづくし)についてWikipediaから引用します。
江戸では明暦の大火以後、大衆食堂のような料理屋が浅草や両国付近に登場し、さらに宝暦年間には手の込んだ料理を提供し座敷や庭のある高級料理茶屋が現れた。料理茶屋は参拝客や行楽客を見込んで名所の周辺に建てられ、書画会や句会なども開かれていた。地方の人間にとってこうした料理茶屋は一種の江戸名所となっており、これを題材とした見立番付や絵双六、そして錦絵が複数登場した。歌川国貞『当時高名会席尽』、渓斎英泉『当世会席尽』、三代豊国・広重合作『東都高名会席尽』、そして明治に入ってからも豊原国周『東京三十六会席』『開化三十六会席』などがあるが、なかでも有名なのが藤岡屋彦太郎を版元とする歌川広重の『江戸高名会亭尽』である。
料理屋の座敷の様子だけでなく、建物の外観や庭園などが様々な季節の風景とともに表され、風景画の名手としての広重ならではの描写となっている。各図の扇形のなかには、それぞれの料理屋にちなんだ狂句が記されて興趣を添えている。題材には書画会や句会を行う人々の姿が複数登場しており、当時の料理屋が文人たちの交流の場としても活用されていたことをよく伝えている。取り上げた料理茶屋は八百善、平清といった高級どころから、白山の万金や浅草雷門前の亀屋のような即席料理を供する店までバランスよく含まれている。



目白不動
地図を見ていたら目白不動尊。先週五色不動のひとつ目青不動を訪れたので、地図だけ撮っておきました。


都電荒川線

門前蕎麦



鬼子母神参道
鬼は写真の通り点のない字ですが、パソコンでは表示できません。鬼子母神について、また点がない字が用いられる点についてWikipediaから引用します。
概説
夜叉毘沙門天(クベーラ)の部下の武将八大夜叉大将(パーンチカ、散支夜叉、半支迦薬叉王)の妻で、500人(一説には千人[8]または1万人[9])の子の母であったが、これらの子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えて食べていた。そのため多くの人間から恐れられていた。
それを見かねた釈迦は、彼女が最も愛していた末子のピンガラ(Pingala,氷竭羅天、嬪伽羅、氷迦羅、畢哩孕迦)を乞食(こつじき)に用いる鉢に隠した。彼女は半狂乱となって世界中を7日間駆け抜け探し回ったが発見するには至らず、助けを求めて釈迦に縋ることとなる。
そこで釈迦は、「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭し、鬼子母神が教えを請うと、「戒を受け、人々をおびやかすのをやめなさい、そうすればすぐにピンガラに会えるだろう」と言った。彼女が承諾し、三宝に帰依すると、釈迦は隠していた子を戻した。
そして五戒を守り、施食によって飢えを満たすこと等を教えた。かくして彼女は仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となった。盗難除けの守護ともされる。
インド(ヒンドゥー教)では、とりわけ子授け、安産、子育ての神として祀られ、日本でも密教の盛行に伴い、小児の息災や福徳を求めて、鬼子母神を本尊とする訶梨帝母法が修せられたり、上層貴族の間では、安産を願って訶梨帝母像を祀り、訶梨帝母法を修している。
また、法華経において鬼子母神は、十羅刹女と共に法華信仰者の擁護と法華経の弘通を妨げる者を処罰することを誓っていることから、日蓮はこれに基づき文字で表現した法華曼荼羅に鬼子母神の号を連ね、2者に母子の関係を設定している。このことが、法華曼荼羅の諸尊の彫刻化や絵像化が進むなかで、法華信仰者の守護神としての鬼子母神の単独表現の元となった。
その像は天女のような姿をし、子供を1人抱き、右手には吉祥果を持つ。なおこれをザクロで表現するのは中国文化での影響であり、これは仏典が漢訳された時は吉祥果の正体が分からなかったために代用表現したものである。よって仏典中の吉祥果とザクロは同一ではない。また鬼子母神が人間の子を食べるのを止めさせるために、人肉の味がするザクロを食するように釈迦が勧めたからと言われるのは、日本で作られた俗説にすぎない。
日蓮宗では、子安鬼子母神が祀られるほか、近世に入って以降、法華経陀羅尼品に依拠する祈祷が盛んとなり鬼子母神を祈祷本尊に位置付けるに至ったこともあり、鬼形の鬼子母神像も多く造られるようになった。これは、法華経の教えを広めることを妨げる者(仏敵)を威圧する破邪調伏の姿を表現したものである。この鬼形鬼子母神の造像については、明確な区分ではないものの、関東と関西では異なる傾向がみられる。関東では総髪で合掌した姿であり、子供を伴ってはいない。他方、関西では総髪ではあるものの角を生やし、口が裂け、子供を抱く(あるいは、左手で子供と手を繋ぐ)姿である。また、子どもを抱き宝冠を付けた姿は一見すると天女形であるが、形相が天女形から鬼形に変容する過程にあると思われる珍しい像が存在することも確認されている。

鬼子母神を祀る寺院
鬼子母神は、法華経の守護神として日蓮宗・法華宗の寺院で祀られることが多く、「恐れ入谷の鬼子母神」の地口で知られる東京都台東区入谷の真源寺、東京都豊島区雑司が谷の法明寺鬼子母神堂(鬼の字には「角」が無い)、千葉県市川市の遠寿院(法華経寺塔頭)の鬼子母神が有名である(江戸三大鬼子母神)。
縁日は毎月8の付く日(8日,18日,28日)である。また、お会式に併せて大祭を行う寺もある。なお、「鬼子母神」の「鬼」の表記について、寺院によっては、第一画目の点がない字を用いる場合がある。これは、鬼子母神が釈尊に諭されて改心した結果、角が外れたためである。



案内処

学問所雑司寮明哲院
明哲院はカルチャースクールと説明がありますがよくわかりません。


雑司が谷みみずく公園
こちらをお借りしてストレッチしました。



鬼子母神

稲荷社


巨木

不動堂

大国堂

おせんだんご
おせんだんごは鬼子母神に千人の子供がいたことから子宝に恵まれるよう名付けられたとのことです。土日に大国堂でお団子が食べられるようです。


弁財天

白梅

眼鏡屋さん

布袋尊
鬼子母神を出て北へ向かい観静院の弁天様にお参りし、安国堂の角に白梅が咲いていました。お墓の脇の細道を抜けると池袋の繁華街で布袋尊は寺社ではなく道端にポツンと安置されています。


仙行寺

福禄寿

暗闇に大仏

豊島区役所が入るビル

謎の地蔵尊
仙行寺がこのコースの北限で南へ向かいます。謎の地蔵と「池袋じゅん」の関連を調べたけど分かりません。


大鳥神社

恵比寿神
ここから都電荒川線を越えて東側へ。



清立院

石仏

十一面観音

雨乞いの松

毘沙門天像

白鳥稲荷大明神

大久保彦左衛門の椎
「大久保彦左衛門の椎」は前回は何か資料があって載せていたのだと思うけれど、今回資料を探しても見つかりません。雑司が谷と大久保彦左衛門の関係もわかりません。


雑司が谷弦巻通り

お寿司屋さんにありました

風情のある住宅

粋な黒塀

吉祥天

清土鬼子母神堂

自噴井戸
弦巻通りは曲がり具合と言い商店街と言い、いい雰囲気です。弦巻川の暗渠のようで、自噴井戸があるのですね。清土鬼子母神堂で雑司が谷七福神巡りは終了で、あとはおまけ。



階段
この階段を使って傾斜地を登ってゆきます。


雑司が谷旧宣教師館(旧マッケーレブ邸)

ジョン万次郎墓所

夏目漱石墓所


竹久夢二墓所

女医荻野吟子墓所

小泉八雲墓所

永井荷風墓所

小栗上野介墓所
おまけは雑司が谷霊園、有名人の墓参。荻野吟子さんは優秀な方だったようで苦労して女医になったそうです。そのうち朝ドラの主人公になるかも。Wikipediaから一部抜粋します。
1851年(嘉永4年) - 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬、2005年(平成17年)9月30日までは大里郡妻沼町大字俵瀬)に、代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女(末娘)として生をうける。
1868年(慶応4年) - 望まれて武蔵国北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男稲村貫一郎と結婚。
1870年(明治3年) - 夫からうつされた淋病がもとで離婚。上京し大学東校に入院し婦人科治療をうけるが、そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により、女医を志す。大学東校でなく順天堂医院に入院というのは誤りである。
1873年(明治6年) - 上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀(よりくに)に師事。頼圀より後妻に望まれる。
1874年(明治7年) - 甲府の内藤満寿子の私塾の教師となる。
1875年(明治8年) - 東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学。
1879年(明治12年) - 首席で卒業。同学校の永井久一郎教授紹介により軍医監で子爵の石黒忠悳(ただのり)に女医の必要性を説き、石黒を介して、典薬寮出身で侍医の高階経徳が経営する下谷練塀(ねりべい)町(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。男子学生に混じり様々ないじめや苦労の艱難辛苦を舐めつつ3年間で優秀な成績で修了する。しかし、かつての日本に女医は一人もおらず前例がないことにより、東京府に医術開業試験願を提出したが却下、翌年も同様であった。つづいて埼玉県にも提出したが同じ結果だった。この頃のことを、吟子は『女学雑誌』354号にこのように書いている。
「…願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 …親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」
この文面より吟子の万策尽きた様子が伺われるが、開業への思いは強く最後の手段として外国での資格取得も考えていたようである。 前例がない理由で開業試験願を却下され窮地に陥っている吟子に同情した実業家の高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して内務省衛生局局長、長与専斎を紹介。吟子は好寿院に入る際にいろいろの書物を捜した末『令義解』という奈良時代の書物に、日本でも古代から女医らしい者があったことを突きとめ、このことを強調し請願をした(女医 (律令制)も参照)。併せて高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して、古代からの女医の史実を調査してもらい、この資料を添えて長与局長への紹介状を吟子に持たせた。吟子に依頼を受けた石黒忠悳も、責任があるので衛生局へ行き、局長に会って頼んだところ、女は困ると言われ「女が医者になってはいけないという条文があるか。無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないか。女がいけないのなら、『女は医者になる可らず』と書き入れておくべきだ」と食いさがったそうである。こうして吟子と支援者との熱意にうたれた長与局長の計らいで「学力がある以上は、開業試験を受けることを許可して差し支えない」ということになり、1884年(明治17年)に「女医公許」が決定しようやく受験が認められる。


小栗上野介は大河ドラマで武田真治が演じて面白かったので興味を持ちました。墓所はここ以外にもあるようです。

南池袋第二公園でストレッチをして解散となりました。この時間になると北風が強く、寒かったぁ!


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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