目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

【下見】古代の青龍、野川下りコース深大寺編

2018-09-29 22:37:07 | ウォーキング
「雨の降る日は天気が悪い」などと、バカなことを言いたくなるくらい雨が多いです。長くて暑い夏には「涼しくなってくれ」と思っていましたが、雨続きで涼しくなるとあの太陽が恨めしい夏が、まだましだったように思えます。


キンモクセイ
晴が予報された金曜日には「絶対どこかを歩こう」と思っていたので、野川の下見にやってきました。どこにいても金木犀の香りが香ってくる、すがすがしい晴れの一日でした。


半分青い、律君の家
テレビではこの角度から映しませんが、律君の家(外観のみ)です。突き当りは森尾由美さんのおうち。高校時代アイドル好きの友人が「僕のユーミンは森尾ユーミン」と言っていたのがばかばかしすぎて忘れられない。


律君の家


多磨霊園
すこやか歩こう会は墓マイラーサークルではないのですが、近くに有名人のお墓があればちょっと寄ってみたい。都立多磨霊園は青山、谷中、雑司ヶ谷とは規模が違います。


山本五十六

東郷平八郎
この二人の元帥海軍大将のお墓が隣り合わせになっていることは印象に残ります。山本元帥が東郷元帥を慕って隣に埋葬されたのかと思ったのですが、そのような記事は見つかりませんでした。山本元帥の遺骨は故郷の新潟県長岡に改葬されているそうです。お二方とも国葬になっていますが、昭和天皇が「山本元帥を国葬にしなければならないのかね」と疑問を呈したとの記事がありました。勉強不足でどのような意図なのかわからないのですが、疑問の理由となりそうな記事をWikipediaから引用します。
戦前の国葬の対象者は「皇族」「王公族」「旧薩長藩主」「首相・太政大臣・左右大臣の経験者」「元帥」のどれかに該当し、山本五十六以外は皇族・王公族であるか、爵位を有していた。桂太郎は首相として日英同盟・日露戦争・韓国併合などの業績があるが、死去当時皇族と旧薩長藩主以外で国葬になった者が三条実美・岩倉具視・伊藤博文しかなかったため国葬になっていない。また、大隈重信は在野時代が長く死去当時も政府の役職についていなかったこともあり、国葬にならず「国民葬」となった。


西園寺公望

高橋是清

内村鑑三
右からの横書きの墓碑が珍しいと思ったのですが、横書き自体が珍しいですね。内村鑑三さんのお墓には「妻 静子ともに眠る」と書いてあります。


THE AMERICAN SCHOOL IN JAPAN
この学校は目黒区から移転してきました。現在の目黒区総合庁舎は元千代田生命のビルで、千代田生命が出来る前昭和2年から32年までアメリカンスクールがありました。当時は近くにアイスクリームショップもあったそうです。



都立野川公園

野川
寄り道はここまでで野川下りの続きとなります。今日歩いて、川幅がどれくらい変わるでしょうか。



ハグロトンボ
子孫を残すために活動中です。



水車

三鷹市大沢グランドテニスコート

調布飛行場の管制塔
大沢の里水車経営農家の水車です。水車経営農家についてホームページから抜粋します。
三鷹市には、大沢の里水車経営農家に、通称新車(しんぐるま)と呼ばれる、日本でも有数の水車があります。しんぐるまは野川沿いに位置し、その機構の素晴らしさと文化財的価値の高さから、東京都から「武蔵野(野川流域)の水車経営農家」として有形民俗文化財の指定を受けており、さらに、日本機械学会からは「旧峯岸水車場」として機械遺産の認定を受けています。
しんぐるまは、江戸時代の文化5(1808)年頃に創設され、昭和43(1968)年頃に野川の改修によって水流が変わるまでの160年間、回り続けていました。野川の改修工事によって水車の稼働は停止しましたが、八代目当主の峯岸清さんが水車全体を大切に保存してこられたため、現在も、複雑な機構を持つ水車装置全体が良好な状態で保存されています。

テニスコートは調整池になっていて現在改修工事中のためテニスコートはずっと水に浸かった状態のようです。奥からバシャバシャ水が送られてきますが、あの水はどこから来るのでしょう?


キンモクセイ

野川

白鷺
天文台下交番あたりです。歩き始めと比べると野川の水量もだいぶ増えました。


深大寺通りの蕎麦屋

鬼太郎茶屋

福満橋
深大寺についてWikipediaから引用します。
「深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)へ旅した中国僧の玄奘三蔵を守護したとされる水神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に由来していると伝えられている。奈良時代の天平5年(733年)、満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝える。平安時代の859年、天台宗へ改宗する。江戸時代の1646年と1865年に火災に遭い、堂宇の大半を失っている。現在の本堂は大正時代の再建である。
本尊は本堂に安置されている阿弥陀三尊像。東京都では浅草の浅草寺に次ぐ古刹である。

福満についてはお寺のページから引用します。
『縁起』によれば、深大寺を開いた満功上人(まんくうしょうにん)の父、福満(ふくまん)が、郷長右近(さとおさうこん)の娘と恋仲となりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の故事を思い浮べ、深沙大王(じんじゃだいおう)に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父母もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人であったと伝えています。
長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、南都に法相(ほっそう)を学び、帰郷後、この地に一宇(いちう)を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(七三三)、これが深大寺開創の伝説であります。
いま深大寺の境域は清水にめぐまれ、その清冽な水はつきない流れとなって、かつては下流の田を潤してきました。古代、その水を求めて集まった人々の泉に対する感謝の心は、素朴な水神信仰を生み、やがて仏教の伝来とともにこの霊地に注目して寺が建立されたといわれます。これが草創期の姿なのでありましょう。
深沙大王は本来、疫病を除き、魔事を遠ざける効能のある神とされています。唐の玄奘三蔵が経典を求めて天竺に赴く途次、砂漠での難を深沙大王が救ったという説話は有名ですが、深大寺では例年十月に深沙大王堂で大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻の転読会を厳修しますが、堂内には玄奘と向い合って鬼神の姿の深沙大王像が描かれている十六善神図が掲げられます。
かくして『縁起』には、淳仁天皇が「浮岳山深大寺」の勅額を下し、大般若転読を永式と定める鎮護国家の道場になったことを伝えています。



門前蕎麦

茅葺の山門

不動の滝
門前蕎麦はたくさんありますが、この日訪れた店はまぁ普通かな。蕎麦のうまさを語る季節ではないですから。昼過ぎにこちらに到着して一時間くらい休憩をとってそれぞれ蕎麦を食べる様にしようと思っていました。来てみて、人が多いこと、ゆっくり休めるベンチなどがないことを考えると、深大寺での蕎麦休憩は難しいかな。団体よりも個人で訪れた方がいいですね。




神代植物公園水生植物園

深大寺そばの花
水生植物園を抜けてゆけると坂を上らなくていいのですが、入り口が一つしかなく抜けることはできません。野川歩きは坂が少ないのが特徴ですが、深大寺周辺は国分寺崖線を体験してもらうしかないですね。


深大寺自然広場のススキ


調布の里山

佐須用水
この地域の特徴を調布市のページから引用します。
深大寺・佐須地域は、調布市の中北部(佐須町4丁目及び深大寺南町1・2・4丁目の一部)に位置し、国分寺崖線の緑と崖線由来の湧水を水源とする水路、その水路に沿って広がる田畑などが一体となって、里山の風景が今もなお残っている地域です。

地勢
深大寺・佐須地域は、ハケと呼ばれる国分寺崖線を挟む2つの段丘(武蔵野段丘、立川段丘)にあり、ハケ下からの湧水が水路(小川)となって、多摩川の支流である野川に合流しています。崖線に沿って続く雑木林、南北に形成された谷戸を活用した 都立農業高校神代農場や深大寺自然広場、水路周辺に広がる田畑など、良好な自然環境及び里山の景観が維持されています。




栗畑

案山子
調布の里山、なかなか見どころがあります。


あかね橋から野川



アオサギ
野川もずいぶん広くなりました。電線にとまっているのは鳩かカラスかすずめが相場ですが、鵜は珍しいです。
二子玉川まで行こうと思って歩き始めたのですが、予想以上に疲れたので京王線で帰りました。本番もこのあたりでストレッチをして、柴崎駅から帰ります。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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文化財めぐり上目黒コース 約5.5km

2018-09-25 09:45:32 | ウォーキング
訪れた場所はこれまでにも行ったことがある場所ですが、コースとしては初めてのコースとなります。すこやか歩こう会が発足して二十年近くになるので、目黒区内は歩きつくした感があります。従来の区内庚申塔めぐりのコースを再編しようと思って探していて見つけたのが区内文化財めぐりです。生涯学習課文化財係が担当して区内文化財めぐりを不定期で実施しています。
区内文化財めぐりの参加者を募集します。職員の解説付きで、文化財を歩いてめぐります。区内の各地域にある文化財を通して、目黒区の歴史に触れてみませんか。
ということで、次回は10月21日に碑文谷方面で実施されるようです。今ならまだ申し込みが間に合うようですよ。
今回のコースは平成22年6月13日に実施された文化財めぐりで訪れた場所を訪れます。歩くルートは私が勝手に考えたものですが、文化財めぐりで歩いたルートとそれほど違いはないと思います。
ブログの写真はいつもコンパクトデジタルカメラ(コンデジ)で撮影するのですが、この日は持ってゆくのを忘れてスマホで撮影しました。歩きながらバシャバシャとるには、コンデジの方が使いやすいです。


上目黒氷川神社

大山道(現在の玉川通り)の道標

氷川神社の由来
氷川神社(ひかわじんじゃ)
大橋2-16-21
祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)主神とし、天照大神(あまてらすおおみかみ)、菅原道真(すがわらのみちざね)を合祀しています。
旧上目黒村の鎮守で、天正年間(1573~1592)に上目黒村の旧家加藤氏がこの地に迎えたといわれています。
正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年(1905)に前を通る大山街道(現、玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。
境内には花崗岩造りの4基の鳥居や小松石造りの2対の狛犬があります。また、石段の下には「武州荏原(えばら)郡菅刈(すげかり)荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保13年(1842)に建てられた大山道への道標があります。
大山道は江戸時代、石尊参(せきぞんまい)り(現、神奈川県伊勢原市の大山への参詣)をする多くの人々が利用しました。
境内には、目切坂(めきりさか)上(現、上目黒1-8付近)にあった目黒元富士から石碑などが移され、「目黒富士」と称す登山道が築かれています。

平成22年3月
目黒区教育委員会



氷川神社

富士浅間神社

丸旦の石碑

稲荷神社
急な階段の上のご本殿の左右に末社の浅間神社と、稲荷神社があります。丸旦は江戸時代この地域にあった富士講で、目黒元富士には丸旦の会員が富士山から持ち帰った富士山の溶岩などが埋められた富士塚があり、明治維新後目黒元富士の場所に岩倉具視の別荘が建てられる際に、溶岩や石碑が上目黒氷川神社に移されました。現在元富士の場所にはキングホームズというマンションが建ち、別荘の敷地だった場所では東京音楽大学の校舎建設工事が続いています。


東山貝塚公園
こちらは目黒区の文化財めぐりのページから引用してみましょう。
東山貝塚・東山貝塚公園
東山貝塚は、北区の西ヶ原貝塚、港区の丸山貝塚とともに都内三大貝塚とよばれた著名な貝塚でしたが、駒沢練兵場や区画整理などで比較的早い時期に消滅したものと考えられていました。
しかし、昭和58年から60年の発掘調査で縄文時代の住居跡が次々と発見され、集落の一部が残っていることがわかりました。現在まで住宅建設などの際に断続的に調査が行われ、旧石器時代の礫れき、縄文時代中期から晩期の住居跡、土坑墓(どこうぼ)、落し穴、弥生時代後期・古墳時代の住居跡、駒沢練兵場跡などが見つかっています。
区立東山貝塚公園(目黒区東山三丁目16番7号)には縄文人の生活を再現したコンクリート製の竪穴住居があります。また、貝塚が出土した公園西側の斜面のあたりから、今も水が湧き出しています。

いつもは竪穴式住居のレプリカを見るだけですが、湧水を確認してみると結構な量の水が湧きだしています。


東山街かど公園


東山貝塚遺跡
東山貝塚遺跡(ひがしやまかいづかいせき)
東山3-20-1(東山街かど公園)
この公園の地下1mのところから、縄文時代中期(約4,500年~5,000年前)の竪穴住居址が2軒発見されました。
1号住居址は直径約6mの住居で六角形に近い形をしていました。住居址の中央のやや北寄りに火をたいた炉の跡があり、壁ぎわからは大型の深鉢が横倒しの状態でみつかりました。また、この住居には建て直したあとが残っていました。
2号住居址は直径約3.5mのほぼ円に近い形をしていました。この住居址は4本の柱穴があり、炉には深鉢が埋められていました。
2号住居址のあった場所を白いタイルで表示してあります。炉のあとは赤いタイルで、柱穴は丸プレートで示しています。
この遺跡から発見された土器などは目黒区教育委員会で保管しています。
平成22年3月 目黒区教育委員会

貝塚公園は子供のころから知っているものの、こちらの公園に住居跡が描かれていることは知りませんでした。炉の跡の赤いタイルなど、プランターで隠されていて確認さえできないのですから。見に来る人もいないのかもしれませんが、地元の人たちは知っているくらいのアピールがほしいと思います。


東山小学校
昭和33年開校の区内最後の公立小学校となります。以前の校庭はアスファルトで狭かったのですが、隣接した官舎があった場所とその間にあった道路を統合して広くて立派な小学校になりました。



寿福寺
寿福寺
上目黒5-16
「新清山観明院壽福寺」といい、天台宗でご本尊は阿弥陀如来です。元和元年(1615)鳳算大阿闍梨が創建されたと伝えられていますが、当境内にある鎌倉時代の板碑から、草創はさらにさかのぼるものと推定されます。この寺は、享保の頃(1716-1735)中興の英主といわれる孝順大和尚のとき、上野護国院の末寺として大いに栄えました。
現在の本堂は、昭和50年に、建替えられましたが、それまでの本堂は明治13年に行人坂の明王院念仏堂を移建したもので、その「念仏堂」の由緒ある扁額は今も掲げられています。また、本堂には木彫彩色の青面金剛立像が安置されています。
門前には、相生地蔵とよばれ信仰されている2體の延命地蔵尊や庚申塔などが立っています。また、宿山の烏森稲荷は元禄の頃(1688-1703)に当寺境内の稲荷社を移したものです。
平成5年3月
目黒区教育委員会

烏森神社が寿福寺内に祀られていたことは知っていたのですが、明治維新前に現在の地に移されているようです。蛇崩川が削った崖から水がどこどこ湧きだし、神社を祀るにはいい場所でしたね。現在湧水は涸れてしまいました。菅刈小学校は烏森神社近くで創立されたという記事を目黒区のページから引用しましょう。
目黒の地名 菅刈
十世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道武蔵国荏原郡覚々志(かがし)郷に属していたと考えられる。また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。
事実を示せば、世田谷区の九品仏浄真寺境内の鐘銘に「荏原郡菅苅荘」の名が刻まれており、また、天正年間に書かれた旧上目黒村の「加藤家家譜」には「荏原菅苅庄免畔地(めぐろのち)」とある。現に、玉川通りに面した大橋氷川神社石段下には「武州荏原郡古菅苅荘目黒郷、文化十三年九月」と刻まれた石橋があり、当時の上目黒一帯が菅苅庄に属していたことは明らかである。
ところで、この菅苅庄だが、鎌倉時代には荘園に当たる地域を「庄」と呼んだといわれることから、菅苅庄もやはり、なにがしかの荘園に由来するものと思われ、故に、それが地名になったのではなかろうか。菅刈といえば、今日の菅刈小学校辺りを想像しがちであるが、実は前述のとおり世田谷の一部と旧上目黒一帯の総称なのである。
このことは菅刈小学校の沿革をみれば明らかになる。同校は旧目黒村初の公立小学校として、明治8年5月15日、上目黒字宿山の烏森稲荷神社の近くで創立し、明治31年寿福寺のそばに移転した。青葉台三丁目(旧上目黒八丁目)の現在地に移転したのは、さらに十年後の明治41年のことである。学校名はその昔、菅苅庄に属していたことから創立時にその名を付けたといわれる。今日、菅刈の名は目黒、世田谷両区の中で、この菅刈小学校と、菅刈住区の二つに見られるだけになった。
祖先が歩み続けた郷土の歴史的な意味とあすへの大いなる発展を秘めた菅刈の名は、この目黒の地に末長く残ることであろう



芦毛塚

駒繋神社
どちらも源頼朝に関連した由緒が残っています。駒繋神社は世田谷区ですが、芦毛塚がある(道の真ん中に残されている)道は目黒と世田谷の区界で元は鎌倉街道です。ここから環七まで、鎌倉街道の跡が区界となります。江戸方面へ、蛇崩から寿福寺の前を通り目黒ゴルフ練習場から小川坂に入ります。目黒川を宿山橋で渡り、目切坂を登って江戸へむかいます。目切坂上のヒルサイドテラス内に残された猿楽塚も源氏がらみの由緒が残されています。



世田谷観音
世田谷山観音寺
昭和26年睦賢和尚が独力で建立し、同年5月金竜山浅草寺に請い、開眼の法を修したものである。本尊は、聖観世音菩薩で、他に特攻観音、不動明王阿弥陀如来、仁王尊を祀る各堂がある。なお、特攻観音堂は、国のため若き命を捧げた特攻隊員4615柱の英霊の安息所とし、また、それぞれの堂には、国指定重要文化財の不動明王ならびに八木童子像が安置され、他に都指定有形文化財の五百羅漢座像が安置されている。
昭和54年3月
世田谷区教育委員会

戦後創建のわりに十二世紀期後半に作られた都内最古の仁王像があったり、国指定重要文化財の「不動明王並びに八大童子」があったり、なんかすごい観音様です。


世田谷観音御本堂

夢違観音

不動明王堂

阿弥陀堂韋駄天(いだてん)
このあたりはウォーキングでよくとおるのですが、こちらに来たのは二回目となります。9月23日は「特攻平和観音年次法要」があり、特別な雰囲気だったのですが、今度お不動様にできてみようかと思いました。






野沢龍雲寺
子供のころから野沢龍雲寺行きのバスを時々利用するので、名称はよく知っていても、訪れるのは二回目だと思います。こちらもお彼岸で多くの方がご参拝にいらしていました。


立派な槇の木
野沢三丁目にありました。近所には野沢園など造園業が多いので、造園に関係するお宅なのかもしれません。


ハギ

オバナ
萩桔梗、葛藤袴女郎花、尾花撫子、秋の七草。初めに女郎花を撮ったので後もできるだけ撮ろうと萩と尾花を撮ったのですが、女郎花の写真が使えなくてこれだけです。目黒世田谷あたりでは女郎花や藤袴が自然に生えているところはなくなかなか撮る機会がありません。葛もそれほど見かけないかな。

文化財めぐり上目黒コースはこの後碑文谷体育館まで歩きストレッチをして解散しました。次回上目黒2コースで訪れるのは
・大橋氷川神社
・天覧台碑
・池尻稲荷神社
・区立東山貝塚公園
・寿福寺
・烏森稲荷神社
・目黒銀座観音
となっていますが、どうなりますやら。


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渋谷ストリームと渋谷ブリッジ

2018-09-22 15:13:58 | ウォーキング
今月渋谷に新しいビルと施設がオープンしました。渋谷ストリームと渋谷ブリッジはビルの名前であり、渋谷川の親水施設であり、渋谷から代官山への流れを作る道でもあります。計画については以前からチェックしており、やっとできたかといった感じですが、お鷹狩りのコースになるかどうか、注目していたので早速見てきました。


渋谷ストリーム
場所は明治通りと青山通り交差点の南側、かつての東横線渋谷駅から電車が出てすぐ右側といったほうがわかりやすいでしょうか。


渋谷川と渋谷ストリーム
このあたりの渋谷川はビルと東横線の線路に囲まれ、橋からしか川を望むことができませんでしたが、線路跡地に親水テラスを設け、川沿いを散策することを可能にしました。かつて渋谷川に蓋をしてデパート(東横デパート)を建てた東急が今度は渋谷川沿いを歩くことができる施設を作ったのです。罪滅ぼしというか商魂たくましいというか。
渋谷ストリームには、渋谷川の流れのほかに新たな人の流れを作るという意味もあるようです。


渋谷ストリーム二階レストラン街
フロアにはレールを埋め込み、かつての東横線の記憶を残します。


かまぼこ屋根と特徴のある壁
東横線渋谷駅ホームの再現ですね。車両への冷房設備導入が進むにつれて、夏のホームは暑くて地獄でした。


渋谷ストリームの階段
何となく渋谷駅改札へ向かう広い階段に似ている?


親水テラス
この写真は渋谷駅側をむいているので、右側に渋谷川があります。親水テラスにも線路を埋め込み、東横線の記憶を呼び起こします。



渋谷ブリッジ
並木橋を過ぎると東横線は南東方向にカーブしてゆき、南へ向かう渋谷川と別れるあたりにあるのが渋谷ブリッジ。代官山方面への人の流れを作る懸け橋という意味のようです。


レールに似たベンチ

駅のホームにありそうな時計
JRの線路をまたいでいた東横線の鉄橋はずいぶん前に撤去済みで、新たに跨線橋が掛けられることはないようです。JR山手線、埼京線が地面の高さで通っており、約一キロにわたって線路が町を分断しています。代官山へ行くにはおんぼろの跨線橋を渡る必要があり、この先この課題をどうクリアしてゆくのか楽しみです。渋谷ストリームから代官山のログロードまで、おしゃれな散策路になることを期待しています。
そうそうお鷹狩のコースになるかという視点ですが、「東急が許可しないだろうな」というのが率直な印象でした。


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鶴見・生麦コース 約7.9Km

2018-09-20 09:16:34 | ウォーキング
生麦のキリンビール工場を訪れるコースです。2016年まで妙蓮寺駅から生麦を目指すコースを設定していたのですが、このコースは横浜特有のアップダウンがあり、会員の高齢化に伴いだんだんと「きつい」という声が多くなってきました。そこで尻手駅から生麦を目指す平坦なコースを作ったのですが、昨年は雨で中止となり今回初のお目見えです。


尻手駅前の秋田料理屋
中目黒→東横線→武蔵小杉→南武線→尻手と乗り換えてきました。二年前の下見の時に「こんなところに秋田料理?」と思って写真を撮ったお店ですが健在です。


国道一号線尻手駅前

公園のヒガンバナ

遊具の年齢制限
国道一号線(東海道)を渡り、南武線の高架下を通りその先にある小さな公園をお借りしてストレッチをしました。この秋初めてヒガンバナを見ました。白い種類は赤よりも少し早く咲くようです。私が子供の頃は遊具の年齢制限なんか明示されていなかったのですが、今はこんなシールが貼ってあります。


市場小学校の通学路
西には国道一号線、東には旧東海道が走る間にあるまっすぐな道です。心情的には歴史ある旧東海道を歩きたいのですが、見通しが悪い割に車の通行が多いのでこちらを歩いています。市場小学校の名前は「鶴見市場」に由来するものと思われますが、京急鶴見市場駅からは微妙に遠い。鶴見市場をWikipediaで調べても駅の項目しかないので他のページを見てみると、市場という施設があったわけではなく戦国時代に市が立つ場所があったそうです。この周辺では「市場」がつく町名も多く、地域では市場の記憶がずっと引き継がれてきたのでしょう。


鶴見川のレガッタ

森永製菓鶴見工場
このあたりは横浜市営鶴見漕艇場の最下流部になるようです。


クレーンで吊り上げられるレガッタ

貨物線の電気機関車
レガッタを吊り上げるためにクレーン車をレンタルするのならば高くつくだろうと思っていましたが、漕艇場ということでクレーン車は常設なのかもしれません。構造物としてクレーンを設置するより、クレーン車を使うことにメリットがあるのかな?大水の時には避難できそうだし。
電気機関車は1000形だか2000形だかわかりませんが、EF65です。Eは電気機関車であることを表し、Fは車軸が6本あることを表しています。D51形蒸気機関車は4軸、C62は3軸です。時々見かける桃太郎は6軸ですが、金太郎は8軸だそう。金太郎とD51形を比べると車軸が倍で、出力は4倍以上。


豊岡商店街
鶴見駅前から続く商店街です。商店街のページから一部引用します。
商店街近くにある曹洞宗大本山「総持寺」つながりで、2013年2月に輪島市と鶴見区が友好交流協定を結び、豊岡商店街と能登 輪島市門前の総持寺祖院に連なる商店街「総持寺通り商店街」や地元の鶴見大学との連携など、活動の幅が広がっています。


門前の石屋さん

総持寺

参道

三松関(さんしょうかん)

三門(さんもん)

百間廊下(ひゃっけんろうか)


大祖堂(だいそどう)

仏殿(ぶつでん)

放光堂(ほうこうどう)

回廊下の通路

雲水像
広大なお寺で初めて訪れた時はびっくりしました。能登の総持寺との関連をお寺のページから引用します。
鶴見ヶ丘への御移転
瑩山禅師によって開創された大本山總持寺は、13000余ヶ寺の法系寺院を擁し宗門興隆と正法教化につとめ、能登に於いて570余年の歩みを進めてまいりました。
しかし、明治31年(1898)4月13日夜、本堂の一部より出火、フェーン現象の余波を受け瞬時にして猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失してしまいました。
明治38年5月、本山貫首となられた石川素童禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、本山存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、大決断をもって明治40年3月に官許を得、明治44年(1911)に寺基を現在の地に移されたのであります。



ヤマボウシのようだが
実の形が違うので、ヤマボウシの種類なのか、違うものなのかわかりません。




ヒガンバナ
奇麗だけど何かもの悲しさもあり、花期が短く彼岸の頃なのでとても印象に残る花ですね。



駐車場わきの公衆電話
レトロな外観で目を引くので中を見てみると使用できないようです。以前は古い電話機の下に普通の公衆電話が設置されていたものと想像できます。


石碑の集積所

椎木?
東福寺(総持寺の塔頭だと思ったら真言宗のお寺でした)の山門近くにあった石碑の集積地。東海道に近いのでこのようなものがあちらこちらにあったのかもしれません。


花月園跡

花月園駅前ペデストリアンデッキから新宿湘南ライン

花月園駅前ペデストリアンデッキから貨物列車
名前は聞いたことがあるけど実態を知らない花月園についてWikipediaから引用します。
歴史
開園
1914年(大正3年)に平岡廣高によって「花月園」の名称で開園された。花月園はフランスのフォンテンブローにあった遊園地をモデルに造成したとされており、当初の敷地は2万5千坪であった。動物園、噴水、花壇、ブランコなどの施設から始まり、「大山すべり」、「豆汽車」などのアトラクションが追加されていった。また近隣を走る京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄本線)に花月園前駅が開設され、来場客のアクセスとした。
当時、園内の売店では花月園名物のまんじゅうが飛ぶように売れた記録が残っている。また場内のダンスホールは谷崎潤一郎の「痴人の愛」の舞台とされている。宝塚遊園地の宝塚歌劇団にならって花月園少女歌劇団を結成し、宝塚との交流も行ったことから『西の宝塚・東の花月園』とまで評されるようになった。
1925年(大正14年)に入場者数はピークを迎え、拡大を続けた敷地は国内有数の規模となる7万坪程度にまでなったが、当時は10万坪と公称していた。

人気の衰えと譲渡
しかし近隣に多摩川園や三笠園が開園してからは人気が衰退し、1933年(昭和8年)には600万円の負債を抱えて経営権が京浜電気鉄道や大日本麦酒などが中心となって設立した株式会社花月園に譲渡された。
以降の花月園遊園地は主に京浜電鉄の集客遊戯施設として存続した。その後、株式会社花月園の経営権は多摩川園を経営する東京急行電鉄、続いて日本鋼管などが設立した京浜工業協会(後の鶴見工業会)に移譲されることになり、各社従業員の慰安施設として使われた。また高台にあったことから高射砲陣地としても活用され、各遊具の部品は工業用品に流用された。

閉園
終戦後は事実上放置状態にありながら運営が続けられていたものの、1946年(昭和21年)11月に閉園となる。その後、跡地に競輪場が設置されることになり、神奈川県に買収される形で1950年(昭和25年)1月に株式会社花月園は解散した。花月園遊園地の跡地は、改めて設立された現在の花月園観光により花月園競輪場となったが、2010年(平成22年)3月をもって開催廃止となった。
のちに女優の五大路子が、自身が座長を務める演劇劇団『横浜夢座』において、花月園全体の歴史を舞台化した『ジャンジャン花月園』を2010年(平成22年)11月に公演している。

デッキから見る線路に踏切があり、いかにも開かずの踏切です。JR東日本の線路は左から横須賀線、東海道線、京浜東北線。JR貨物の線路があり、別の踏切になりますが、京浜急行の線路が見えます。


第一京浜の生麦交番

生麦魚河岸通り
第一京浜を横断すると漁師街の雰囲気が漂ってきます。日テレのページから引用します。
生麦魚河岸通り
お寿司屋さんが買いに来る魚河岸
江戸時代から続くと言われる魚河岸通りは旧東海道に沿って200メートル程の長さ。魚河岸と言っても一般客にも小売りをしてくれるので便利朝7時半から9時位がピークで、その時間を過ぎると次々にお店が閉まってしまうので要注意。東京中のお寿司屋さんが仕入れに来る程、ネタは新鮮



鶴見川下流域

ハナミズキ

水神宮

稲荷神社
水神宮の社務所で酒盛りをしていた地元の人が出てきて、「なまむぎ今は昔 1984.9.1 No.9 水神宮」というコピーをいただきました。テキストでネットに上がっていれば引用したいところですが、紙の資料は何とも融通が効きません。要約すると水神宮は地元漁師の信仰を厚く集めていたということです。漁師さんたちの職場は命懸けだし、漁も運を天に任せるところがあり、神頼みは大事だったことが想像できます。「なまむぎ今は昔」本となり出版されましたが、現在は絶版になっています。地元の図書館で読むことができるでしょう。
稲荷神社は奥まったところにありますが、参道は旧東海道に面しています。


生麦事件発生現場
歴史にタラレバはないと言われますが、この事件がなければ明治維新の形が大きく変わっていたかもしれません。そういった意味では坂本龍馬の死と並ぶくらい、歴史的な大きな転換点だったと思っています。他国の文化を理解しない一人の商人の死に対し、日本政府(徳川幕府ですが)は現在の価値で百億円の賠償を払ったうえ、さらなる賠償金の上積みをもくろんだイギリスと薩英戦争になり、鹿児島の街が焼かれました。薩英戦争についてWikipediaから引用します。
薩英戦争(さつえいせんそう、文久3年旧暦7月2日-4日(1863年8月15日-17日))は、イギリスと薩摩藩の間で戦われた戦闘。文久2年旧暦8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、攘夷実行の名目のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを阻止しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。
薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けたが、イギリス軍も旗艦ユーライアラスの艦長や副長の戦死や戦艦の大破・中破など大きな損害を被った。この戦闘を通じて英国と薩摩国の双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、これが以後両者が一転して接近していく契機となった。



神明社の石仏

蛇も蚊も

生麦神明公園の大蛇
横浜市指定無形民俗文化財 蛇も蚊も
平成四年十一月一日 指定
行事の日 六月第一日曜日
保存団体 本宮蛇も蚊も保存会

 蛇も蚊もは、約三〇〇年前に悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。この行事は、旧暦の端午の節句の行事とされていましたが、明治の半ば頃から太陽暦の六月六日になり、近年は六月の第一日曜日に行われるようになっています。
 萱で作った長大な蛇体を若者・子どもがかついで「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声で唱えながら町中をかついで回ります。ものは、原地区(神明社)が雌蛇、本宮地区(稲荷神社)が雄蛇を作り、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、現在は、両社別々の行事となっています。
平成二十四年二月
横浜市教育委員会

神明社の石仏は下に三猿がいて珍しいタイプだと思います。蛇も蚊も祭り珍しいですね。この説明には「蚊」についての言及がありませんが、昔から蚊が媒介する病気が最も怖いことがわかっていたのでしょうね。


生麦事件碑

キリン生麦工場
首都高速神奈川7号横浜北線の工事により場所が移されていましたが、キリン横浜工場構内に落ち着いたようです。雨除けになるかもしれませんが、高速道路の下で少し気の毒です。生麦事件の碑は歴史の大きな転換点の割には、こじんまりした碑があるだけです。







キリン生麦工場見学




スプリング・バレー・ブリューワリー
近くの空き地でストレッチをして解散です。この日は工場見学の予約をしてあったので、みんなで工場見学をして、十数名はSVBで食事をしました。クラフトビール飲み放題で、料理もおいしかったので、これけっこういいかもしれません。

ほろ酔い気分で生麦駅まで歩き、横浜駅についたら東横線が運転見合わせ。大井町、自由が丘経由で帰ったけど、冷静に考えると湘南新宿ラインだったかな?ちょっと酔いがさめ、ONCEで二次会のおまけ付きでした。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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第16回めぐろウォーキングマーチ 将軍お鷹狩りウォーク

2018-09-16 09:57:07 | ウォーキング
今年も11月3日にお鷹狩りウォークが実施されます。
このイベントを主管する目黒ウォーキング協会では準備を着々と進めており、イベントを補佐する百名以上のスタッフの名簿が提出されました。昨日は雨が降る中、コース確認が行われました。


ミッドタウン日比谷

日比谷公園心字池

建設中の国立競技場
ウォーキングイベントではルートを決めて参加者に自由に歩いていただく「フリーウォーク」の形式が多いのですが、将軍お鷹狩りウォークでは第二回の大会より「ウォーキングマーチ」の形式をとっています。参加者を数十名のグループに分けて、我々のスタッフが誘導する形式です。この形式のメリットは普段では通らないような裏道を歩き、このイベントに参加しなければ見る機会が無いような景色を紹介できること。ロングコースでは日比谷公園から目黒区へ、ショートコースでは聖徳記念絵画館前広場から目黒区へ。今年も岡本太郎記念館や、渋谷区立公園にある土俵など、皆さんにお楽しみいただけるコースになっていると自負しております。

対象は「医師から運動を制限されていない区内在住・在勤・在学者。なお、小学生以下のかたは保護者同伴です。」となっています。めぐろSPORTS NEWS9月15日号に詳細記載されておりますので、そちらをご参照ください。
また、下記ページでも確認可能です。

第16回めぐろウォーキングマーチ 将軍お鷹狩りウォーク 参加者募集!!

皆様と、会場でお会いできますように!


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