目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

第十七回お鷹狩りすこやか歩こう会スタッフ研修

2019-10-29 13:38:50 | ウォーキング
11月3日の本番を前にして最後の研修ウォーキングとなります。目黒ウォーキング協会事務局の私は4月のコース選定から歩き始め、この日は実行委員のほとんどが参加し、コースの確認とともに各自の役割も確認をしながら最終チェックとなりました。


日比谷公園松本楼
日比谷公園開店当初から続く老舗の洋食店。沖縄返還協定反対デモでの焼失など、日比谷公園の歴史そのものといっても過言ではないでしょう。Wikipediaから10円カレーの項目を引用してみましょう。
10円カレー
1971年の2度目の焼失では、警備員1人が犠牲になるなど被害も大きかった。歴史あるレストランが焼失したこの知らせに全国から再興の願いが集まり、3代目松本楼がオープンできた。これに感謝の意を示す記念行事として、松本楼は「10円カレー」セールを始めた。通常は880円(2015年時点)のハイカラビーフカレーが、1973年以来毎年(1988年を除く)9月25日に限り、先着1500名に限り10円で振る舞われ、現在も毎年この日には大勢の来客があり、度々ニュースでも取り上げられている。10円を受け取るのは「無料ではお客様としてもてなすことにならない」という趣旨であり、代金以外に寄付金を置いていく人が多い。カレーの売上や寄付金は交通遺児育英会や日本ユニセフ協会などに渡され、1995年には阪神淡路大震災の義援金として贈られた。「10円カレー」は秋の季語にもなっている。



雲形池
紅葉の雲形池もきれいですが、冬に鶴の噴水にツララが出来る頃が一番の見頃でしょう。お鷹狩り本番の時にはもう少し紅葉が進んでいることでしょう。


慈恵医大西新橋キャンパス
慈恵医大の略歴をWikipediaから引用します。
東京慈恵会医科大学の起源は、高木兼寛によって1881年(明治14年)5月1日に創立された医術開業試験受験予備校(乙種医学校)の「成医会講習所」である。高木は1875年(明治8年)から5年間、海軍生徒として英国セント・トーマス病院医学校(現:ロンドン大学群キングス・カレッジ・ロンドン医学部)に学び、このように権威のある医学校を日本につくりたいと思っていた。高木は帰国後、廃止された慶應義塾医学所に関わっていた松山棟庵とともに1881年(明治14年)1月、「成医会」なる研究団体を設立し、次いで同5月にこの成医会講習所を設立している。

その後、高木は戸塚文海とともに、1882年(明治15年)、有志共立東京病院なる慈善病院を発足させている。この病院の設立趣意には「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施すことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救うこと」にあるとしている。このような趣意も、高木が英国留学中に受けた人道主義や博愛主義の強い影響による。同病院の資金は有志の拠金によるものであり、有志共立という名はそのためであった。病院総長としては有栖川威仁親王を戴き、また大日本帝国海軍軍医団の強い支援があった。

有志共立東京病院は、こうした慈善病院のほかに医学教育の場としても重要な役割を果たし、成医会講習所や海軍軍医学校の実習病院の役割を担った。これも、英国で経験した慈善病院と医学校の関係を東京に実現しようとしたものである。1887年(明治20年)、同病院は皇后を総裁に迎え、その名も東京慈恵医院と改め、経費は主に皇室資金によることになった。成医会講習所も成医学校に、次いで東京慈恵医院医学校に改称され、同病院構内(当時は東京市芝区愛宕町二丁目、現:港区西新橋三丁目)に移転した。

有志共立東京病院時代の特筆すべき事業の一つに看護婦教育所の設立がある。英国留学時代、セント・トーマス病院に付設されていたナイチンゲール看護学校を目の当たりにした高木は、日本の近代看護教育の導入にも極めて積極的であった。彼は1884年(明治17年)10月、米国女性宣教師のリードを招き看護婦教育を実践した。これが日本での近代看護教育の始まりである。第一回生はわずか5名であったが、総裁皇后の臨席を得て卒業式が行われた。現在の慈恵看護専門学校及び医学部看護学科、大学院医学研究科看護学専攻修士課程はこの流れを汲むものである。

1907年(明治40年)、有栖川宮威仁親王妃慰子を総裁とする社団法人東京慈恵会が設立され、東京慈恵医院の経済的支援をすることになったので、東京慈恵医院は東京慈恵会医院と改称された。また既に医学専門学校に昇格していた東京慈恵医院医学専門学校は、1908年(明治41年)に東京慈恵会医院医学専門学校と改められた。

1921年(大正10年)、大学令の公布を機会に東京慈恵会医院医学専門学校は東京慈恵会医科大学に昇格した。その時、高木家私有の東京病院が大学に寄付されたため、医科大学として附属病院を持つことになった。1952年(昭和27年)に学制改革による新制大学となり、1956年(昭和31年)に大学院医学研究科博士課程、1992年(平成4年)に医学看護学科、2009年(平成21年)に看護学専攻修士課程が設置された。



有章院霊廟 二天門
今回のお鷹狩りではショートコース、ロングコースともに御成門、二天門の前を通ります。二天門は改修されたばかりで今回のコースのハイライトの一つです。


プリンス芝公園からの東京タワー
増上寺の三解脱門、台徳院霊廟惣門の前を通過し、港区立芝公園で平和の灯を見て、芝丸山古墳の脇を通りプリンス芝公園に出ます。増上寺三門は江戸で一番高い展望台として人気でした。その後ろにそびえる東京タワーはいまでは日本一の座をスカイツリーに明け渡しましたが、人気の展望台です。東京タワーはメインデッキの改修が終わり大人料金が900円から1200円へ改訂されましたが、学校団体だと中学生が400円(スカイツリーは950円)、高校生が500円(同1100円)とリーズナブルです。
写真にありませんが三解脱門も戦災を逃れ重要文化財となっています。この項目をWikipediaから引用します。
三解脱門(さんげだつもん、重要文化財) - 戦災を免れた建物の1つで、元和8年(1622年)建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされる。内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。


春日神社の鹿
桜田通り慶応大学の隣に春日神社があり、社務所に鹿の像がありました。総本社は奈良の春日大社で全国で千余りの春日神社があります。多くは近畿地方にありますが、Wikipediaによると都内に四か所となっていて目黒区の春日神社は表記がありませんでした。Wikipediaの「三田春日神社」の項目から一部を抜粋してみましょう。
由緒
958年(天徳2年)、武蔵国国司の藤原正房が任国の際、春日大社の第三殿に祀る天児屋根命の御神霊を目黒区三田に勧請。天文年間(1533-1555)当地へ遷座した。旧社格は村社。

備考
最初に鎮座した目黒区三田には1934年(昭和9年)跡地に目黒三田春日神社が再興され、1947年(昭和22年)より当社の兼務社となっている。


文京区に春日神社はなく、春日の字名は春日局の拝領地に由来しています。


高輪皇族邸
台風15号でなぎ倒された木はすでに片付けられて、金網に傷跡が見えます。


旧国立公衆衛生院
ゆかしの杜でトイレと場所をお借りし、15分の休憩を予定します。


ススキとサッポロビール本社

茶屋坂と爺が茶屋
目黒区ページから引用します。
目黒の坂 茶屋坂
更新日:2014年2月3日

「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒のさんま
江戸の初め、田道橋を渡り三田方面に通ずる坂上の眺望のよいところに、1軒の茶屋があった。徳川3代将軍家光は、目黒筋遊猟の帰りにしばしばこの茶屋に寄って休息をとっていた。家光は、茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたため、この茶屋は「爺々が茶屋」と呼ばれるようになった。あるとき、家光は「いつもお前の世話になっている。何か欲しいものがあったら取らせるからいってみよ」との仰せ。彦四郎は恐縮しながら、自分の屋敷の周囲を1町ほど拝領したいむね申して、これをいただいた。

ここからは落語として創作された話である。

例によって遊猟の帰途、茶屋に寄った将軍は、空腹を感じて彦四郎に食事の用意を命じた。だが、草深い郊外の茶屋に、将軍の口にあうものがあろうはずはない。そのむねを申しあげたが「何でもよいから早く出せ」とのこと。やむをえず、ありあわせのさんまを焼いて差しあげたところ、山海の珍味にあきた将軍の口に、脂ののったさんまの味は、また格別だったのだろう。その日は、たいへんご満悦のようすで帰った。

それからしばらくして、殿中で将軍は、ふとさんまの美味であったことを思い出し、家来にさんまを所望した。当時さんまは、庶民の食べ物とされていたので家来は前例がないこと、たいへん困ったが、さっそく房州の網元から早船飛脚で取り寄せた。ところが料理法がわからない。気をきかせた御膳奉行は、さんまの頭をとり、小骨をとり、すっかり脂肪を抜いて差し出した。びっくりしたのは殿様。美しい姿もこわされ、それこそ味も素っ気もなくなったさんまに不興のようす。

「これを何と申す」
「は、さんまにございます」
「なに、さんまとな。してどこでとれたものじゃ」
「は、銚子沖にございます」
「なに銚子とな。銚子はいかん。さんまは目黒に限る」

この話が、落語「目黒のさんま」である。

さて、目黒のさんまの話はともかくとして、爺々が茶屋の子孫は、坂下の方に住んでおられた。目黒ニ丁目の島村家がそれで、同家は、代々彦四郎を襲名してきたが、やめたという。

島村家には、今なお当時の模様を伝える古文書―御成之節記録覚―や一軒茶屋の図が保存されている。そのなかから、将軍と彦四郎のほほえましいやりとりを紹介しよう。これは、元文3年4月13日猪狩りの折りに、茶屋場に立ち寄ったときのものである。

「藤の花は、咲くか咲かないか」
「少々、20房から30房ばかりですが咲きます」
「花は長いか短いか」
「野藤なので短こうございます」
「どのくらいの長さか」
「せいぜい7寸から8寸でございます」
「野藤ゆえ、そうであろう」

会話の調子が、前述のさんまのそれに似ているところがおもしろい。

そのほか、鷹狩りの折り、団子150串、田楽100串というような注文が出ていること、その代金が支払われていることなどが記録として残されている。

茶屋坂の今昔
茶屋坂は、昔はたいへん寂しいところだったらしく明治維新で世情が混乱のころには、茶屋場はたびたび泥棒に見舞われ、島村家は、ついに坂下の村の方に移ってくることになったという。今日では、茶屋場の跡を正確に知る由もないが、茶屋坂には、昔からきれいな清水がコンコンと湧いて樹木が茂っていた。

明治にはいって、山手線が通ると、目黒、恵比寿の中間ほどに位置する茶屋坂一帯は、工場立地の条件がそろい、海軍の火薬製造所が建設された。同工場は、あたりに住宅が建ち始める昭和の初めに移転したが、その後も海軍技術研究所などの施設が入った。


茶屋坂
やがて、今日のマンション時代を迎えることになるが、そうなると、このあたりは高台で展望がきくうえ目黒というイメージがマンションにぴったり合って、高層建物が建ち並ぶようになり、まちの景観を変えてしまった。

昔から湧いていた清水も、マンション建設のつち音が響き始めると、水脈が変わってか、パッタリ止まってしまったという。将軍も食べたという目黒のさんま。今では秋に催される「目黒のさんま」祭りで、その味を楽しむことができる。




ハギ
茶屋坂下で垂れ下がる見事なハギ(とうに見頃は過ぎていますが)を見て、ゴールの田道広場公園に到着しました。ストレッチをして、別行動だったショートコース組と合流し、茶屋坂にまた戻ってゆきます。



ガーデンプレイス
再び戻ってきたガーデンプレイスではイルミネーションの準備が進められていました。恒例のバカラシャンデリアの点灯式は11月2日。お鷹狩りウォークの前日です。
お鷹狩りウォーク当日も、ここで祝杯をあげられるよう頑張って成功に導きたいと思っています。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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目黒健康ウォーキングマップN(緑ヶ丘コース) 約4km

2019-10-22 10:04:02 | ウォーキング
先週は台風の影響によりウォーキングが中止になったり、その前の週は個人的都合で出席できなかったりして久しぶりのウォーキングとなりました。今回は区内で、西部地区のホームコースです。


自由が丘方面へ向かって
線路沿いを歩いてゆきます。東横線に乗っているだけではずっと勾配なく走っているようで気づかないのですが、都立大学駅は呑川が削った谷上にあり、駅の階段は三階へ上がるくらい高さがあるでしょうか。渋谷から東横線に乗ってよく観察すると、代官山でトンネルを越えると目黒川の谷があり中目黒駅は高架になっています。祐天寺駅まではずっと上りで目黒台の台地の高さまで登った後、祐天寺駅付近の踏切撤去のため高架になっています。かつてここに踏切があった記憶は私の中にあり、バスと電車の衝突事故で岩倉具視の子孫にあたる方が亡くなりました。
学芸大学駅まで高架が続き、環七通りが高くなっているので切通しにして環七の下を通ると、呑川の谷で自然と高架になります。ウォーキングは線路沿いの谷からの坂を登っています。


目黒台の上
高架だった線路は谷を過ぎると目黒台の台地の上にでて、このあたりにはいくつか踏切があります。その先自由が丘駅は九品仏川の谷の上にあるので再び高架になります。




立源寺


御会式の準備
立源寺は日蓮宗のお寺で、円融寺と関連があります。円融寺が江戸幕府から弾圧を受け日蓮宗から天台宗へ改宗され、円融寺にあった三宝尊像が立源寺に移されています。お寺の前の道は大國魂神社へ品川沖の海水を運んだ品川みちでした。


立源寺前から下り坂
目黒は坂が多いと言われます。世田谷を水源とする川が多く流れているためです。立源寺のある所が目黒台の台地の上なのですが、北側に呑川、南に九品仏川が削った谷がありあたかも山のようになっています。自由が丘あたりは谷というより平らな土地が広がっており、湿地だったようです。その湿地に多くのサギソウが咲き、世田谷区の区花となっています。


大井町線
自由が丘から緑ヶ丘まで大井町線は九品仏川沿いを走ります。浸水を避けるためか、盛り土の上に線路が敷かれ少し高い位置を走っています。


キンモクセイ

九品仏川緑道
会津でキンモクセイを見たのは10月1日でした。目黒ではもう盛りは過ぎていますが半月近くのずれがあるかな。お彼岸が過ぎても暑い日があったりして、今年のキンモクセイの季節は遅いのかな。


合流点間際の九品仏川

呑川
本来の九品仏川は矢沢川(等々力渓谷の川)に流れ込んでいたという説があり、その説に従うとこの部分は人工的に流路が作られ呑川に合流するようになったということになります。地図を見ながら考察すると九品仏川は目黒区と世田谷区の区界になっており、かつては荏原郡衾村と荏原郡奥沢村の村境だったようです。
標高地図で見ると自由が丘駅前で20メートル以上あり、沢になっていたといっても中目黒駅前の8.8メートル比べれば比較的高台です。その中でも奥沢神社や九品仏浄真寺は標高30メートル前後の場所にあり、浸水を避ける工夫があったようです。


東京工業大学
前身となる東京職工学校は蔵前に設立され、関東大震災で大きな被害を受けこの地にやってきました。東急沿線をアカデミックな街にして地価を引き上げたい五島慶太の戦略により東工大のほか、学芸大学、都立大学が誘致されました。


桜森稲荷神社

桜森児童公園
「桜森」とはきれいな名前で、由来を探しましたが桜が多かったくらいしか見つかりませんでした。この日の夜試合に臨むラグビー日本代表ブレイブ・ブロッサムズの勝利を願いましたが残念ながらかないませんでした。それでもにわかファンを楽しませてくれたブレイブ・ブロッサムズに感謝の気持ちを表したいと思います。
児童公園でストレッチをして解散となり、有志は天狗でおこ呑み宴会でした。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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【下見】仙川、武蔵境から京王線仙川駅

2019-10-11 11:44:49 | ウォーキング
仙川下見二回目です。野川を多摩川との合流地点まで歩ききり、その支流である仙川を歩こうという企画です。初回は仙川上流端から武蔵境駅付近までを下見しました。その部分のウォークを九月の計画に盛り込むかどうか迷ったのですが、暑かったこと、会員の皆さんが喜んでくれるのか自信が持てなかったことなどから、九月にこのコースを歩きませんでした。
仙川の特徴、上流部に言えることですが、川沿いを歩けるところが少ないのです。ときどき仙川に架かる橋をめぐりながら、住宅地を歩くことが仙川ウォーキングといえるのか疑問でした。一回目は上流端を見るので意味があるものと考えましたが、武蔵境を過ぎても相変わらず川を見ることが出来ない状況は地図で確認できます。二回目のウォーキングは川沿いを歩くことが出来る三鷹市下連雀八丁目の東八道路から下流に設定することになるだろうと想定し、歩かない予定の武蔵境駅から東八道路までを含めて今回下見をしています。


武蔵境駅付近の家
駅南口を出て日本獣医畜産大の北側の道で見つけた朝顔の日よけ。ここまで徹底していると見事です。花の最盛期はもっと華やかでしょう。



境南町一丁目付近の仙川
仙川といっても水は流れていませんが、両側ぎりぎりまで家が建っている状況が続きます。川というより用水路跡といったほうがその姿にあっているように思います。境南町をどのように読みますか?さかいみなみまちではなく「きょうなんちょう」だそうです。
武蔵境という地名を考察してみましょう。正確には武蔵境は駅名であり、地名は武蔵野市境ということになります。信濃境という駅が中央本線小淵沢駅の西側にありますが、こちらは甲斐の国と信濃の国の境になります。しかし武蔵境は武蔵の国の中央部にあり、国境とは考えられません。Wikipediaから引用します。
地名の由来
(以下の文章は断りのない限り、全て「武蔵野史」(藤原音松著/武蔵野市役所版)より抜粋して記載している)

境本村では古く住んだものを「六人衆といい、秋元、猿渡、清本、平野、小林、新倉」を苗字とする六軒の家があった」と里老が言い伝えているが、この六人衆のうちに開祖境本絺馬太夫(さかもとちまだゆう)の分家がある。境本=清本がそれであろう。これ等の衆は保谷寳晃院(ほうこういん)の檀家であることから見て、恐らく、保谷からの出百姓で境本の同志となり、共に開発に従事した人の子孫であろう。

要するに境村の境本村は、村の発祥地であること、村名も開発者の名字境本から来ており、後に本の字を脱したものであること、杵築神社は出雲松江城主松平出羽守直政が直接、出雲大社を完成したこと、および開発者は境本絺馬太夫であることが明らかになった。六人衆の一人、清本は境本の子孫である。

境本村の開墾は古いが、検地を受けたのは保谷地区と共に延寳年間のことで、そして全村改めて元禄年間に検地を受けたと推定される。貞享二十年中の検地は、境本が杵築及び稲荷の両社地を除地として貰ったときのことを記したのである。

境村は二地区に分けて開墾され、わずか二十年の間に検地を三回受け、享保年中に境新田が出来て、以来この地は新田の二字を脱し、単に境村と称することとなった(安永三年境村同新田村鏡帳の研究項551頁参照)。



八幡大神社
三鷹市下連雀四丁目、三鷹通りと連雀通りの角にある大きな神社です。トイレもあったので休憩場所に良いかもしれません。「連雀」という町名の歴史が書いてある解説板がありました。吉祥寺と同じようなパターンでしたが、千代田区のページから引用することにします。
神田川に架かる筋違橋(すじかいばし)は、中山道(なかせんどう)に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門(すじかいごもん)が設けられていました。門の内側、のちに八ツ小路(やつこうじ)と呼ばれた地に、連尺(れんじゃく)(物を背負う道ときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負い子(しょいこ)をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町(れんじゃくちょう)」の名前が付けられました。連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになりました。
明暦(めいれき)三年(1657年)の大火「振袖(ふりそで)火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地(ひよけち)として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。その際、連尺を商う二十五世帯は、遠く武蔵野(むさしの)に代地(だいち)を与えられ移住させられました。現在の三鷹(みたか)市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来します。
一方、安政(あんせい)三年の地図には、この界隈(かいわい)に土井能登守(どいのとのかみ)、青山下野守(あおやましもつけのかみ)などの上屋敷(かみやしき)がありました。明治維新後、これらの武家地は連雀町と佐柄木町(さえきちょう)に編入され、連雀町から遷座(せんざ)された出世稲荷(しゅっせいなり)神社は、土井家屋敷内にあった延寿稲荷(えんじゅいなり)神社とともに町内の鎮守(ちんじゅ)となりました。
明治四十五年(1912年)、甲武(こうぶ)鉄道(のちの中央線)万世橋(まんせいばし)駅が、現在の交通博物館の地(江戸時代の八ツ小路)に開業します。駅前広場には明治の軍人広瀬中佐(ひろせちゅうさ)の銅像がそびえ、多くの市電の発着地として、東京でも屈指の交通の要衝(ようしょう)として栄えました。また、寄席(よせ)の白梅亭をはじめ、旭楼など二十軒もの旅館が立ち並び、樋口一葉(ひぐちいちよう)がその著「別れ霜(じも)」において、「神田連雀町とかや、友囀り(ともさえずり)の喧しき(かしましき)ならで客足しげき……」と、その賑わい(にぎわい)を記しています。
大正十二年(1923年)の関東大震災後、区画整理がなされ、連雀町、佐柄木町は、須田町一丁目と淡路町に改称されました。



下連雀七丁目付近の仙川
仙川の特徴として両側に家が迫っていることのほかに、流れが追えなくなることが挙げられます。写真も右側(南側)に欄干代わりの柵がありますが、左側は工場となっていて暗渠にすらなっていません。



下連雀七丁目付近
その先、地図では郵政寮、神戸製鋼とありかつての社宅跡に大きなマンションが建てられ、前の道は拡幅されているのですが、仙川に架かる橋は元の広さのままです。


都営住宅わきの仙川
このあたりの仙川はほぼ直角のコーナーと直線の繰り返しで人工的に作られた印象だし、谷も感じられません。自然に発生した川というより、玉川上水から取水した水を流す水路なのかもしれません。



新川六丁目付近
人見街道を過ぎると一転して川らしくなりました。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、写真上部からどこどこ水が湧きだしています。川幅も広くなり、水が流れ、やっと川沿いを歩くことが出来ます。
地図で確認し、井の頭公園をぬけてこのあたりから川沿いを歩き始めようと思っていました。つまり武蔵境駅からここまでは「川沿いを歩けないので割愛するルート」の確認でした。しかし八幡大神社の手前あたりから考えが変わっていました。三鷹あたりの農地が残る風景は魅力的で、目黒にはない、そして地方の里山にもない風情が感じられました。ここまでを含めて川のない川下りも「仙川コースの魅力」となるだろうと思います。


東大宿舎
東八道路沿いにありました。


新川丸池公園
稲刈りは終わった田圃を案山子が守っています。このあたりでは多くの湧水が湧いていたため「千釜」と呼ばれており、それが仙川の名前の由来という説があります。


虫食いキャベツ
蝶にも優しい畑のようです。栃木の親せきが「自分たちで食べるキャベツや白菜は、農薬を使わず箸で青虫をとっている」と聞いたことを思い出しました。

昼食の関係でこの日は京王線仙川駅で下見終了しました。下見で魅力を感じられたので、11月に仙川ウォークの一回目、上流端から亜細亜大学を企画することにします。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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秋の会津若松旅行

2019-10-04 08:19:56 | ウォーキング
以前下見の様子をアップしたことがある会津若松へすこやか歩こう会の旅行として行ってきました。今回は日帰りを募集せず一泊二日の旅行に19名が参加しました。デジイチで撮った下見の方が写真はいいので、そちらも合わせてごらんください。

行程は、
7:30上野駅中央改札前集合→7:50上野駅より新幹線、郡山駅より磐越西線(会津若松駅着10:56)→鶴ヶ城へ移動→ウォーキングに不要な荷物を預けて昼食、会津若松市内散策(約5Km)→15:00鶴ヶ城会館で預けた荷物を受け取り、東山温泉へ
1日(火) チェックアウト→会津若松駅へ移動・荷物預け→昼食・散策など各自自由にお過ごしください→14:00会津若松駅再集合・荷物受取り→14:13会津若松駅発→15:30郡山駅から新幹線→16:42上野駅着解散


JR中央改札口
予定していた新幹線では全員分の座席が確保できず、7時38分発に乗る必要が発生したので集合時間が7時15分と早まりました。時間前にみんな集まり余裕を持って新幹線ホームへ向かいました。今回は「東京都被災地応援ツアー」を利用し、一泊三千円の補助を受けています。たくさん(お酒を)消費して、福島県を応援します。


ターミナル駅

新幹線改札内
ターミナル(terminal)を辞書で引いてみると「終着駅、終点」の他に「末端」とあります。最近は直通運転が増えてターミナルらしい駅が減りました。渋谷駅も井の頭線は末端という感じが残っていますが、東横線はなくなってしまいました。銀座線も昔から車庫へ回送するので、あまり末端感はないですね。シュワちゃんの映画「ターミネーター」は動詞“terminate”(終結させる)を名詞化した造語ですね。


猪苗代駅

会津磐梯山

会津磐梯山
郡山駅磐越西線で先行組と合流し、ローカル列車に揺られること一時間強。車窓から見える会津磐梯山はこのルートのハイライトです。猪苗代から先、磐越西線は急なのぼりを蛇行してゆくので、磐梯山は前後左右に見えることになります。


会津若松駅にあった山車


会津若松駅にあった赤べこ
上野駅から約三時間で会津若松駅に到着し、タクシーに分乗して鶴ヶ城会館へ向かいます。そこで歩くのに必要のない荷物をコインロッカーに預けて、昼食とお城観光の自由時間を伝えて一時解散します。


蕎八(きょうや)かやの
朝が早かったのでおなかがすいてとりあえず昼食です。鶴ヶ城会館前にあった蕎麦屋さんに飛び込んだのですが、更科蕎麦がうまかったです。そのほかビールと末廣の生酒。ネットで調べたらFacebookをやっていたので、いいねしておきました。機会があればまた行きたいお店です。


宮泉銘醸

会津葵
県内向けは「宮泉」、県外は「冩樂」という銘柄でお酒を造っています。純米吟醸と純米大吟醸を試飲させていただきました。大吟醸の方がすっきりしているのがわかりますが、自分のお金で買うなら純米吟醸かなという気がしました。送料が無料になればこちらの酒を自宅に送りたいところです。三軒茶屋の武蔵野うどんじんこでは、宮泉を飲ませていたように思います。








鶴ヶ城
鶴ヶ城では晴天に恵まれました。家紋の写真はこのお城の主人が葦名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科(松平)氏と変遷していることが分かります。黒川と呼ばれていた地を若松に改名したのは蒲生氏郷で三重県松坂の「松」と由来が一緒というのが面白いです。


宮泉銘醸
再集合して北出丸大通りからスタートです。


会津若松市役所
左に曲がって市役所前を通ります。神明通りを横断し小澤ロウソク店の先を右折し野口英世青春通りに入ります。


旧黒河内胃腸病医院

旧遠藤米穀店

山新商店

福西本店

旧會陽医院跡
レンガ敷きの野口英世青春通りには趣のある商店の建物が多く見どころです。


滝谷建設工業

白木屋

なぬかまち薬局の隣

鶴の江酒造

バンダイスポーツ七日町店

馬力本願

池田種苗店
大町四つ角(札の辻)を左に曲がり七日町通りに入ります。この四つ角はきれいな十字路ではなく東西を結ぶ会津沼田街道は道幅分南北にずれて、先が見通せないよう防御上の工夫がされています。札の辻という地名はよく聞くなぁと思っていたら高札場ということですね。翌日馬力本願で昼食にしようとしたら、臨時休業していました。写真を撮ったこの日は営業していたようです。


コスモス

鶴の江酒造
渋川問屋の脇をぬけ北小路通りを東へ向かうと鶴の江酒造がありました。七日町通り側は酒蔵という感じがしないのですが、裏に回ってみると酒蔵です。こちらの会津中将というお酒がおいしい。


末廣酒造嘉永蔵
大和町通りとの交差点を右折し北へ向かい、末廣酒造前で再び右折して東へ向かいました。その後神明通りを鶴ヶ城の北西角まで南下し、鶴ヶ城会館。コインロッカーから荷物を出して、タクシーに分乗して会津東山温泉へ。


会津東山温泉

宵待ち草の歌碑
東山温泉の原瀧さんはお風呂が良くて食事がおいしいと会員の皆さんに好評でした。ありがとうございました。タクシーの運転手さんが「東山温泉は開湯千三百年」とおっしゃっていたので、Wikipediaから一部抜粋します。
歴史
開湯は8世紀後半、または天平年間に行基によってなされたと伝えられる。伝承によると、三本足の烏に導かれて発見したという。江戸時代には会津藩の湯治場として栄え、会津若松の奥座敷として発展した。
会津民謡に登場する小原庄助ゆかりの温泉とされる。

温泉街
鶴ヶ城から南東に約3km、湯川(ゆがわ)沿いに温泉宿・ホテル計20軒以上が営業している。湯量は毎分1,500リットル。現在でも芸妓が活躍しており、「からり妓さん」として温泉街に花を添えている。
会津藩松平家の別荘から発祥した「新滝」、会津藩指定保養所の歴史を持つ「向瀧」、新撰組副長・土方歳三が戦傷を癒した源泉を持つ「不動滝」など、滝の付く名称の旅館が多い。
毎年8月13日頃から1週間程度、東山温泉盆踊りが実施される。

東山四大滝
温泉街付近の湯川には多くの滝があり、中でも以下の4つは“東山四大滝”と呼ばれる。

・雨降り滝
・原滝
・向滝
・伏見ヶ滝



足湯にあった解説
読めばこういうところにちゃんと書いてあるんですよね。小原庄助さんは実在の人物ではないようです。「会津磐梯山」という民謡は162番まであるそうです。小原庄助さんの解説を含む項目をWikipediaから引用します。
もとは七日町(現在の会津若松市七日町)の阿弥陀寺で唄い踊られていた「玄如節」である。源流は、新潟県西蒲原郡巻町の民謡「五ケ浜甚句」に遡るとされる。盆踊唄、会津甚句などとも呼ばれ、夏祭りや盆踊りの際に「気狂(かんしょ)踊り」とともに唄われる。

1934年(昭和9年)に小唄勝太郎が歌ったものが歌い出しをとって「会津磐梯山」と命名されて、ビクターレコードより発売され、全国的に広まった。三味線も付けられ、歌詞も長田幹彦によって整えられ、「エンヤー」という独特の掛け声も付けられた。

しかし、「勝太郎節」が俗謡風であったことに加え、元の歌詞と大きく異なる内容であったことから、地元では、「郷土芸術を冒涜するもの」として非難の声が上がり、山内磐水らによって、「気狂踊り」風の節回しが広まった。山内等が普及に努めたこの囃しは、本来の会津磐梯山に近い正当なものであることを示すために「正調」と冠して「正調会津磐梯山」と呼ばれている。

歌詞中には「小原庄助」なる人物が、「朝寝朝酒朝湯が大好きでそれで身上潰した」とあるが、モデルとなった人物については、諸説ありはっきりしない。会津若松市の秀安寺には戊辰戦争に会津方の一員として参加し、慶応4年9月5日(1868年10月20日)に戦死した「小原庄助」という人物の過去帳が残されているが、彼が歌詞のような人物であったかは定かではない。また、白河市の皇徳寺に小原庄助のモデルと伝えられる「会津塗師久五郎」(安政5年6月14日(1858年7月24日)没)の墓がある。久五郎は会津藩領大原新田村(現:猪苗代町)の人物で、大酒飲みであった。戦時中は「…何で身上興した 朝寝朝酒朝湯が大嫌い…」と変えられたともされる。元々の歌詞にはこのような囃しはなく、勝太郎のアイデアで挿入したものであり、会津の「酒好き」な人情を表したものともされる。当時は「身上しもうた」と囃したのだが、戦後は「身上潰した」と囃すことが多くなっている。勝太郎自身によって、ラジオで「私の会津磐梯山は地元のものとは違っていて、わかり易くするために私がアレンジをしたものです」と述べており、地元伝承のものとは異なる旨を明言している。

「正調会津磐梯山」は、162番まで存在するが、大半は内容を逸脱したものである。現在知られている勝太郎による歌は「会津磐梯山は宝の山よ」で始まるが、これは正調会津磐梯山の21番に当たる。

「宝の山」である磐梯山に「笹に黄金がまたなりさがる」瑞祥を賞賛するところから歌い出し、猪苗代湖、東山温泉、鶴ヶ城など「北は磐梯、南は湖水」の会津盆地を取り囲む会津の「緑の夏」をめぐり、飯盛山で花と散った「忠義一途の」白虎隊で締めている。



キンモクセイ

向瀧

湯川
ずっとキンモクセイの香りがしていたのですが、やっと花を見つけました。東京より早いですね。今年は暑さが続いて東京が遅いのかな?


漆工房資料館
会津若松は見どころがたくさんあり、それぞれの興味がある場所を見てもらいたいと思いこの日は自由行動としました。東山温泉駅で市内循環バスの一日券を購入し、一部は武家屋敷へ向かい、残りは会津若松駅で歩くのに不要な荷物を預けました。ゆっくり酒蔵見学の希望者は意外と少なく、大半は飯森山へ向かってゆき、七日町方面へ向かったのは私を含めて二人でした。


若松幼稚園


若松城甲賀町口郭門跡
前日タクシーで鶴ヶ城へ向かう際、ドライバーさんが外堀の石垣を教えてくれました。下見では気づかなかった点なので石垣まで行ってみました。ここから内側には武家屋敷があり、外側に商人の街があったそうです。外堀は埋められており、周りとは少し趣が違う飲食店などが並んでいました。


末廣酒造

消防車の鐘

賞状

日本酒の発酵形式

酒米

特定名称酒
11時の回に間に合い、酒蔵見学ツアーに参加してきました。会津若松へ来たら末廣酒造さんの見学ツアーははずせません。


手打ちラーメンいさみ

ラーメン
馬力本願で馬刺しでも食べながら昼食にしようと思った(馬刺しがあるのかどうかも知りませんが)のですが、臨時休業ということ。鶴の江酒造で会津中将を試飲させていただいてから、外堀付近で気になったラーメン屋さんへ行ってみました。人気店らしくほとんどの席が埋まっていましたが、ラーメンが出てくるのも早くてそれほど時間はかからず。あっさりとした醤油スープと、手打ち麺がとてもおいしかったです。


鈴木屋利兵衛
昼食後も歩いて会津若松駅へ戻り、ほろ酔い気分で東京まで戻ってきました。

会津若松の魅力はノスタルジックな街の雰囲気だと思います。鶴ヶ城はハイライトですが、七日町通りや野口英世青春通りの商店の旧家は見ていて楽しくなりました。戊辰戦争で武家の街は焼けてしまったようですが、太平洋戦争時に空襲に遭わなかった地方都市の魅力です。歩くと普段見えないものが見えてきますよ!


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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第17回めぐろウォーキングマーチ 将軍お鷹狩りウォーク 参加者募集!!

2019-10-02 10:28:07 | ウォーキング
台風の影響か季節外れの暑さが続いている中、お鷹狩りウォークのコース確認が行われました。これまでこのブログで何度かお伝えしていますが、11月の本番に向け4月にはウォーキング案の作成、5月6月の実踏によるコースの検討が行われコースが決定します。9月に行われる「コース確認」ではマーチを誘導する実行委員によるコースの確認をして、実行委員会で前年の反省点などを復習します。10月中旬に実行委員全員を集めた説明会を行い全体的な準備は終了しますが、各クラブ単位で独自にコース確認などを行っています。
参加者の皆さんに歩く楽しさを実感していただき、歩くことを習慣としていつまでも健康に過ごすことが出来るよう、目黒ウォーキング協会では万全の準備をしています。「医師から運動を制限されていない区内在住・在勤・在学者」を対象として既に申し込みが行われいますのでこちらを確認してお申し込みください。お申し込みは10月15日までとなっています。


日比谷公園のヒガンバナ
9.8キロメートルコースは日比谷公園出発、6.4キロメートルコースは都立芝公園(御成門駅下車、みなと図書館がある公園)出発となり途中のルートも異なります。


未成熟の松ぼっくり
スタート地点の日比谷公園健康広場に、松の枝ごと落ちていました。


虎ノ門ヒルズ
来年の東京オリンピック開会前に、日比谷線新駅『虎ノ門ヒルズ駅』が新設されます。


有章院霊廟 二天門
ロングコース、ショートコースともに都立芝公園出発後は御成門とこの二天門を見ながら進みます。修復が終わったばかりで、今回の見所の一つ。

コース確認が主な使命だったためこれ以降写真はありません。実際にご参加になり、秋深まり行く東京の街をお楽しみいただければと思っています。

お鷹狩りで会いましょう!



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