目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

向島百花園コース 約4.4Km

2018-12-27 14:07:51 | ウォーキング
ずいぶん昔に設定したコースで地図のタイムスタンプを見ると2005年5月となっています。東京スカイツリーが2012年に開業して賑わっているということで、しばらくこのコースは封印していました。昨年11月に計画をしていたのですが、雨で中止になっていました。このブログにもこのコースを書いたものはないので、久しぶりに歩くコースとなりました。


上野の街は雨模様
天気予報は夕方から雨で、1時スタートでは雨に降られないと思っていました。9時半ころ実施の判断をしてメールを流し、中目黒GTに集合した1時にはぽつぽつ雨が降っていましたが、今年最後のウォーキングということで決行しました。


台東区役所
日比谷線で上野駅に到着しこれまでは1番出口の東京メトロビルの前でストレッチをしていたのですが、年末で人が多いこと、参加者が20名を越えて大人数なことから近くの公園を探します。区役所脇に小さな公園があり、そちらをお借りしてストレッチをしました。


清洲橋通り交差点
ストレッチのため本来のコースである昭和通りから離れてしまったので、清洲橋通りとかっぱ橋本通りの交差点まで誘導し、担当誘導員に引き継ぎました。月四回のウォーキングで週ごとに担当誘導員がいて、全体を誘導してくれます。都合で誘導員が参加できない場合は、参加者が地図を見て相談しながら歩くことになっています。


かっぱ通り商和会

佃煮屋さん

河童像

旧町名由来案内
下町まちしるべ
旧松葉町
この付近は元禄十一年(一六九八)に勅額火事といわれる大火に見舞われ焼失した。跡地には多<の寺院が移転し、門前町が開かれるに伴って新寺町と呼ばれるようになった。
本町は、明治二年(一八六九)それまであつた浅留町と浅草坂本町に付近の門前町かひとつになってできた。町名は新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。
町内に「河童大明神」で知られる曹源寺がある。昔、このあたりは土地が低いため雨が降るとたちまち水が出て人々は苦しんでいた。雨合羽商の合羽川太郎は、これを見てだまっていられず排水のための堀割を作ろうとしたが工事は思うように進まない。そこにかつて川太郎に助けられたという河童が出てきて川太郎の工事を手伝い、困難な工事をまたた<まに完成させたという。このようなことから曹源寺には川太郎の墓とともに河童が大明神としてまつられたという。


この通りを歩くのも久しぶりですが、外国人旅行者も訪れているようです。ここを案内したら面白いだろうなとは考えていたのですが、いまだに実現していません。そのうち試してみましょう。河童を辞書で引いてみるとこんな英文がありました。“a mischievous Japanese water sprite called 'kappa'”、和訳してみると「『カッパ』と呼ばれるやんちゃな、日本の、水の妖精」といったところでしょうか。妖精というより妖怪かなぁと思うのですが、妖怪の英訳は“ghost”“phantom”“monster”とあり、ちょっとネガティブな訳語なのかな。善と悪を分けたがる西洋の文化と、善悪があいまいな日本文化の違いだと思います。こんな話題をきっかけに日本文化を紹介できるくらい、英語を喋れないといけませんね。


ふぐ牧野
こんなところでてっちりを食してみたい!でも人気店で、少々お高いようです。日本語会話サロンに来ているアジア系アメリカ人に「フグ鍋美味しいよ」と教えてあげたら、「こわい」と言っていました。



曹源寺
かっぱ寺についてWikipediaから引用します。
当寺院は、天正16年に(1588年)に江戸・和田倉門付近に創建された。その後、明暦の大火により当地に移転した。
当地一帯は低地で水はけも悪く、しばしば水害に悩まされた。そこで当地の商人・合羽屋喜八が私財を投じ、新堀川(現在の合羽橋道具街にあった水路。合羽橋の名の由来の一つ)の開削の工事を行った。
言い伝えによるとこの工事の折、近隣の隅田川に棲んでいたとされる河童が手伝ったと言われている。文化11年(1814年)に喜八が没し、菩提寺である当寺院に葬られいつしか「かっぱ寺」と言われるようになった。
その後この工事を手伝った河童を見かけると様々なご利益があると評判を呼んだ。そして「河童大明神」として祀られ、 商売繁昌などに霊験があるといわれ、当寺院に祀られるようになったと言われている。



かおう会とスカイツリー

くまモン
かおう会の正式名称は「かっぱ橋かおう会商店街」だそうです。やっぱり女性の河童が描かれています。「女性」は変かもしれませんが。子供のころ黄桜のテレビコマーシャルでドキドキしました。黄桜とマスプロアンテナは鉄板でしたね。人間のヌードだと放送できないので、河童として描いているのでしょう。やっぱり雌というより女性でしょうね。



合羽橋交差点

包丁専門

ショーウィンドウ

かっぱ村
かっぱ橋本通りとかっぱ橋道具街通りが交わる場所が合羽橋交差点です。


どぜう飯田屋

国際通り交差点

浅草今半

東洋館
どぜうはなじみがないのでそれほど食べたいとは思わないのですが、試してみたい気はします。今半は魅力ですがすき焼き昼膳3,800円。手が出ないわけではない。
東洋館についてはWikipediaから引用します。
概要
現在はいろもの(漫才、漫談など)を中心とした演芸場。建物を同じくする姉妹館・浅草演芸ホール(落語中心の寄席)とともに、歴史ある浅草お笑い文化の一角を担う存在である。
漫才協会、東京演芸協会、ボーイズバラエティ協会の各色物演芸団体の定席が設けられる。また、浅草演芸ホールをはじめとした寄席に出演できない円楽一門会、落語立川流の噺家も出演、さらに毎月月末には独自のお笑いライブも催すなど、東京演芸の振興に一役買っている。
毎年初席は落語協会の落語定席として使用されており、落語家もビルのなかを上下して相互の寄席に出演する。またこの初席のみ入場券は共通で、客は浅草演芸ホールと当劇場を相互に行き来できる。

歴史
ストリップ劇場の開場
第二次世界大戦前、この地に三友館という映画館があった。戦後、この三友館の支配人であった松倉宇七(東洋興業創業者)はストリップ劇場・ロック座の成功に伴い、この地に同じくストリップ劇場・フランス座を開設。1964年、いったん閉鎖し、これまでフランス座のあった1Fに通常の劇場(「東洋劇場」)を、建て増しした上階に落語の寄席(浅草演芸ホール)を、すなわち2つの劇場を新たに開設した。
松倉はもともと演劇青年で、それも自分が演出した演劇をやってみたかったのである。その舞台として東洋劇場が作られた。しかし、専属主演女優(炎加世子)の夜逃げなどアクシデントもあり、営業成績という点ではお荷物になったため、東洋劇場の閉鎖を決断。東洋劇場が入っていた(すなわちかつてのフランス座だった)1Fに浅草演芸ホールを移転し、空いた上階で、フランス座を再開場することにした。

ストリップとお笑いの殿堂
舞踊中心の上品なストリップと幕間の爆笑コントを売り物にしていた。コントを演じていたのが「主な出身者」で記されている芸人たちで、いわゆる浅草芸人としていずれも大スターとなった。無名時代の井上ひさしが劇場座付き作者をつとめたことがあり、照明係など雑用をこなしながら、同劇場のコント台本を担当した。井上はこの劇場のことを「ストリップ界の東京大学」と言っていた。だが、そんな彼らも、深見千三郎などは除き、ほとんどは、テレビの世界に移り、浅草のスターから日本のスターへとのしあがっていった。

ビートたけしの古巣
北野武は、ここですさまじくキレのあるコントを演じていた「浅草の師匠」こと深見に弟子入りし、芸人への第一歩を踏み出す。エレベーターボーイをしながらコントやタップダンスを学んだ。また、兼子二郎(後のビートきよし)と出会い、後の漫才ブームの牽引役となる「ツービート」結成のきっかけとなった場所でもある。たけしは大スターになってから自分の弟子(当地浅草での修行にちなみ浅草キッドと命名)を修行に出す。しかし、支配人の岡山がろくに給料を支払わなかった事から劇場への恨みを募らせ、機材をめちゃくちゃに破壊するなどの報復を行い、最終的にはたけし自身も激怒して軍団員を引き揚げている。

演芸場への転身
しかしながら、猥雑が売り物の関西系ストリップが全盛になるにつれ「健全すぎる」フランス座の舞台はサービス不足とみなされ、浅草の斜陽化もあり客足が減る一方であった。東洋興業がとった決断はストリップから完全に手を引く事であった。2000年にストリップ興行を打ち切る。同年改装の上、落語、講談、浪曲以外のいろもの寄席「浅草フランス座演芸場東洋館」に改称、現在に至る。




浅草寺参道

参道脇の洋品店

浅草木馬亭

花やしき



浅草寺
参道もお寺も参拝客でにぎわっていました。普段平日にしか来ないので、休日これほど人が多いとは。普段通りの外国人に日本人が加わって多くなっているのかな。
浅草寺は東京で一番古いお寺です。知っているようであまり知らない浅草寺の歴史についてお寺のホームページから引用します。
浅草寺は、1400年近い歴史をもつ観音霊場である。寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝であった。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。
土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りした。「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。
浅草寺に伝わる縁起には、観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されている。この瑞祥が、後につけられた山号「金龍山」の由来となった。また現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」も、これに因む。


尊像を隅田川から拾い上げた漁師の二人の兄弟と、私宅を寺に改めた土地の長の合わせて三名を祀っているのが浅草神社で、三社様、三社権現などとも呼ばれています。


施無畏
本堂の正面額には「施無畏」と書かれています。これについてお寺のページから引用します。
深見玄岱筆〔享保12年(1727)奉納〕
観音さまは経典において、「施無畏者」とも呼ばれ、人々の不安や恐怖を取り除き、「畏れ無きを施して」下さる。「施無畏」とは、観音さまのおはたらきそのものを意味する。



二天門バス乗り場
団体客が乗車するバス乗り場で、降車用の場所は別にあります。バス乗り場は10分間隔で予約制になっており、お客さんもバスも待たせないようにするのが難しいところです。



東京スカイツリー



花の碑
 春のうららの隅田川
 のぼりくだりの舟人が・・・
 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和31年(1956)11月3日、その教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立された。
 武島羽衣は、明治5年(1872)、日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文家として知られる人物である。明治33年(1900)、東京音楽学校(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した。羽衣28歳、滝廉太郎21歳の時であった。
 滝廉太郎は、作曲者として有名な人物であるが、よく知られているものに「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などがある。「花」完成の3年後、明治36年(1903)6月29日、24歳の生涯を閉じた。
 武島羽衣はその後、明治43年(1910)から昭和36年(1961)退職するまでの長い期間、日本女子大学で教鞭をふるい、昭和42年(1967)2月3日、94歳で没した。
 手漕ぎ舟の行き交う、往時ののどかな隅田川。その情景は、歌曲「花」により、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれている。
 平成11年(1999)3月 台東区教育委員会




ワシントン桜
 1912年(明治45年)、東京市(当時)はアメリカ合衆国ワシントンD.C.へ桜を贈りました。
 これらはポトマック河畔の桜として大切に育てられ、桜の名所として親しまれています。
 ここに植えてある桜は、桜橋架橋(1985年(昭和60年))に合わせて、ワシントンの桜(子孫木)の里帰りを実現させたものです。
 里帰りしたサクラは、日本についてから桜橋完成までの5年間、都内の苗圃で育てられた後、ここ墨田公園に移植されました。



桜橋とスカイツリー

隅田川

常夜灯
墨田公園 散策解説板⑥
常夜灯と渡し船
隅田川の水運と向島風情の象徴
 この常夜燈の置かれている場所は、かつて牛嶋神社の境内地でした。牛嶋神社は隅田公園の整備とともに現在地に移転しましたが、この常夜燈だけはここに残されました。それは墨堤における重要な目印であったためです。
 この付近にはかつて「竹屋の渡し」が設けられ、春の花見や夏の花火見物、明治に入ってからは向島の花柳界へと遊興客を数多く運んできました。まだ照明が発達していないこの時代にはこの常夜燈の明かりが非常に重要な役割を果たしていました。また、明治の画家達は墨堤の桜とこの常夜燈を好んで組み合わせることにより、向島の風情を描きました。当時の向島の格好のシンボルとしてその姿を今に伝えています。



言問団子
お団子や桜餅を買って、向島百花園でストレッチをして解散となりました。雨はやんでいたものの、もう薄暗くなっていたのと冬枯れで、百花園に寄らずに皆さん東向島の駅へ向かわれたようです。


東武電車


東武特急けごん
1720系デラックスロマンスカー
1720系は昭和35年に就役し、浅草~東武日光・鬼怒川方面 へと走った特急電車です。当時の車両技術の粋を集めたオール電動車6両固定編成で、昭和48年までに7編成作られました。ジュークボックス付きのサロン室を備えるデラックス車両として長い間東武鉄道の看板特急でしたが、100系特急スペーシアにその女王の座をゆずり平成3年引退しました。



東向島(旧玉ノ井)

東急車両
東向島駅より玉ノ井駅の方が風情があっていいような気がするのですが、1987年に駅名を変更した後はかっこ書きの中に納まっているようです。玉ノ井では色っぽすぎるのかな?玉の井についてWikipediaから引用します。
玉の井(たまのい)は、戦前から1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで、旧東京市向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島五丁目、東向島六丁目、墨田三丁目)に存在した私娼街である。永井荷風の小説『墨東綺譚』、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』の舞台として知られる。

玉の井の起源
玉の井の起源については、永井荷風の『墨東綺譚』によれば、1918年(大正7年)~1919年(大正8年)のころ、浅草観音堂裏に言問通りが開かれるに際して、その近辺にあった銘酒屋等がこの地へ移ってきたのが始まり。この当時、この地は東京市外であった。
その後、関東大震災後の復興に際して、浅草では銘酒屋の再建が許可されず、亀戸とともに銘酒屋営業が認められた玉の井は、ますます繁栄する。
また、浅草からこの付近まで一直線に通る道路(現、国道6号)が開通したほか、1931年(昭和6年)には東武鉄道が伊勢崎線の起点を業平橋駅(現、とうきょうスカイツリー駅)から現在の浅草駅に移したことで、浅草から玉ノ井駅(現、東向島駅)までのアクセスが格段に良くなったことも繁栄を助長した。

銘酒屋(めいしゅや)は、銘酒を売るという看板をあげ、飲み屋を装いながら、ひそかに私娼を抱えて売春した店。明治時代から大正時代、東京市を中心にみられた。東京の下町では、「めいしや」と発音する。銘酒屋と同様の私娼の表看板としては、飲食店、小料理屋、遊技場、新聞縦覧所、碁会所などが用いられた。


通過列車があるというのでてっきり東武車両が来るものと思っていたところへ来たのは、田園都市線の東急車両でした。半蔵門線を経由して押上から東武スカイツリーラインに乗り入れているのです。

北千住に出て天狗で納会。



渡邊酒造場 芋焼酎 旭萬年 雪のまんねん 28度

白瀑(しらたき) ど 純米にごり酒
納会の後勢い余って中目黒で伊勢五本店とONCEをはしごする懲りない面々でした。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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【下見】古代の青龍、野川下りコース喜多見編

2018-12-18 08:40:46 | ウォーキング
野川は私の住んでいるところから少し離れているので、それほどなじみのある川ではありません。野川下りのウォーキングを企画しようと思ったときには、これほど変化にとんだ面白いコースになるとは想像できませんでした。初めは二子玉川から野川の上流へ向かってゆくコースを想定しており、今回下見をしたあたりで川が直線に流れている部分がとても退屈に思えていました。


京王線柴崎駅付近の公園
前回“深大寺編”で、ここまで歩いてきて、この公園をお借りしてストレッチをしました。次回もまたこの公園をお借りしてストレッチすることになるでしょう。


ピラカンサ?

夏ミカン
赤い実をつける様々な木や、ミカンが秋の深まりというか冬のはじまりを彩ってくれます。もうしばらくすると梅の花が咲くまで、色のない景色になります。この先品川通りを横断します。品川沖の海水を大國魂神社へ運ぶ古代の街道です。


野川

枯葉
このあたりの野川も川岸に降りることができます。面白い枯葉だと思って撮ったのですが、名前がわかりません。


小金橋

合流

分岐
この先の野川は不自然にまっすぐで、「河川改修しました」という感じがありありです。小さな河川の合流に様に見えるのですが、地図を見ても川なのか下水なのかわかりません。この橋から南方向に始まる緑道があり、改修前の野川の跡かなぁといった感じがあるので、直線の流路ではなくこちらを歩いてみることにします。


西野川樹林地

大橋改修記念碑
この樹林地は、東京都区市町村保存樹林地等公有化資金により保存されたものであり、狛江市内に残された貴重な樹林地を将来にわたり保全するものです。
狛江市

いつの間にか調布市から狛江市に変わりました。この看板から、この川は野川ではなく西野川なのかと思ったら、西野川は地名で松原通を挟んで東野川もありました。東野川も現在の野川の西側にあるので、この緑道が野川の跡と考えて間違いなさそうです。小金橋の合流はこの緑道の流れとつながりそうなので、古い野川の跡なのかもしれません。たいした川幅ではないのですが、大橋通りもあるくらいですから、かつては大きな橋だったのかもしれませんね。


ボケ

岩戸川緑地公園


御台橋
岩戸川についてWikipediaから引用します。
東京都狛江市・世田谷区を流れる多摩川水系野川支流の河川。清水川とも呼ばれ、現在は大部分が暗渠。

このあたりには支流なのか水路なのかよくわからない流れの跡が縦横に張り巡らされていてよくわかりません。このあたりの様子について狛江市のページから引用します。
御台橋かいわい
 まだ護岸工事をしていない戦前の野川は雑木林の間を流れていた。しかし、水がきれいで深みのある御台橋の辺りは子どもたちの絶好の遊び場となり、夏になると大勢の子どもたちが集まってきては橋の上から跳び込んだり、泳いだりして喚声を上げていた。
 魚も豊富だった。夕方になると釣り人が来て釣り糸を垂らしたり、ドウを沈めて入ってくる魚を待った。そこには黄色いシジミさえいた。
 しかし豊かな水も溢れることが多く、三島の田んほは湿田だったし、神代団地の辺りでは田植えをする時、丸太を2本並べて浮かべ、その上に乗って苗を刺しながら後ずさりしていくほどだった。また、北久保の畑が水につかると、せっかく実ったジャガイモやサツマイモが腐るので、すばやくたらいを浮かべ、その中に収穫物を入れて引いたという。
 御台橋のすぐ下には堰(せき)があった。ここから分かれた水は千手院の裏を流れて三島田んぼの潅概用水になっていた。また御台橋の上流は大橋まで、下流は丸山橋まで橋らしい橋はなかった。
 御台橋の辺りの道は夜になると真暗らでこわいところだった。店屋はカサヤとアメヤしかなく、あとは点在する農家だけだった。そのうえ今の御台橋商店街を通り橋を渡るとすぐ左に曲がる狭い道が古い道で、自動車などめったに通ることなく、御台橋は手すりの低い小さな橋であった。
 昭和30年代に入ると野川流域はたびたび水害に見舞われるようになり、川底のしゅんせつや護岸工事が行われるようになった。
 一方、道路のほうも、新しい都道が北の方からだんだん伸びてきて、昭和36年に新しい橋が完成。昭和38年に和泉まで開通したとき吉祥寺からのバスがやってきた。まもなく銭湯ができ、ストアーができ、やがて今の商店街が形成されてにぎわいを一層増していった。そして都道が松原までできた41年、バスは仙川・調布間に変更になった。



野川緑地公園
このあたりから名前が変わっており岩戸川=野川と考えてよさそうです。この先緑道は市役所東通りに沿って不自然にまっすぐになります。このあたりの事情も狛江市のページから引用します。
野川の改修
 旧野川は、狛江に入るとまず、箕和田(上小足立)と上覚東の間を流れ、御台橋からはだいたい右岸が和泉で、左岸は下小足立・三島(下覚東)・岩戸の境をたどリ、ミツヤで六郷用水に合流した。ジザイ堀・三島用水・水車堀など左右いく筋もの用水堀を備え、よく陽の当たる田畑の中、水田と差のないほどの高さを、ゆうゆうと蛇行していた。昭和初年、いま市役所の東、北谷だけは耕地整理をして、流路が直線となった。
 野川流域の田んぼは深いところが多い。水を引き入れる苦労はないが、神代団地の辺りは、戦後暗渠排水工事をしたほどである。洪水の被害も受けやすく、くぼんで低くなっていた登記所の通りや御台橋付近は、しばしば水浸しになった。北谷の耕地も時に一面海のようになった。
 もっとも、6月から9月まで町役場の建設課長が「雨が降ったらおちおち寝ていられない」ほど、野川が氾濫するようになったのは、戦後沿岸に住宅が増えてきてからであった。深い田や水をかぶりやすい畑は、地主が手放すのも早かった。かつて、降った雨は広い田畑にじくじくしみ込んでいたのに、今度は屋根をつたって道路の側溝に流れ、一気に川に集まってあふれ、ほとんど毎回浸水するようになってしまった。六郷用水との合流点近辺では、何度か決壊もした。水が小田急の線路を越えたこともある。すると、岩戸と和泉・猪方・駒井との境に沿って押し流し、あたかも六郷用水の開さくにより350年も前に失われた野川の原始の流路を、まのあたりにするかのようであった。中でも昭和41年6月の台風四号の被害は、1690世帯、田畑41ヘクタールに及び、狛江町始まって以来の大災害といわれる。町の行政は、応急手当てに奔走する一方、昭和35、6年から沿岸各市町村と共に野川改修期成同盟をつくって都に働きかけた。下流から始まった工事が完成し、野川の流れが町の北端の新野川に移ったのは昭和44年。今、旧野川の地下は下水道、地上は野川緑地公園として再生(昭和52年)している。





世田谷通り
狛江市役所の先でいちょう通りに出て、小田急線の高架下を通ります。かつて調布のテニスコートに通っていたときによくここを通り、踏切だったころを覚えています。この先世田谷通りに出てしばらく通りを歩きます。南側の歩道にはやけに広い植え込みがあり、これが野川の跡かなぁといった感じ。ビルの上のゴリラも見覚えがありますが、なぜここにこれをおいているのか詳しい説明は発見できませんでした。二の橋交差点から世田谷通りと別れて東へ向かう道は筏道と呼ばれ、かつて「品川みち」を歩いた際にとおりました。木材を筏に組んで多摩川を流して運んだ職人が、上流へ戻る際に利用していた道です。
今回のコースはもう少し世田谷通り沿いに東へ向かい、こちらの分かれ道を右へ向かいます。


滝下橋緑道

次太夫堀の歴史と周辺の史跡
次太夫堀(六郷用水)の由来
 慶長2年(1597)から15年もの歳月をかけて、慶長16年(1611)に完成した次太夫掘りは、多摩川の水を和泉村(現狛江市)で取り、野川、仙川などの小河川と合流し、多摩川沿いの武蔵国荏原郡世田谷領十四箇村(和泉、猪方、岩戸、喜多見、大蔵、鎌田、岡本、瀬田、上野毛、下野毛、等々力、小山、上沼部、下沼部)を通り、下流の六郷領(現大田区)に注いでいました。
 次太夫掘りは、江戸時代の始め江戸近郊の開発を進めた徳川家康の命により、幕府の用水奉行小泉次太夫吉次の指揮・監督によって開削された、世田谷地方における最初の農業用灌漑用水路です。主に六郷領35箇村の水田開発を目的とした水利事業「六郷用水」と命名されましたが、婦女子の労働力に頼ったといわれる工事のため、俗に「女堀」とも呼ばれていました。一方、世田谷地方の人々は、小泉次太夫の功績をたたえ、六郷用水とは呼ばずに独自に「次太夫掘」と呼んでいました。
 全長23km、川崎側の二所ヶ領用水との同時並行工事のため、長期にわたる難工事となり、沿岸農民の扶役も相当過重だったようです。しかし、世田谷領、六郷領併せて49箇村は、新田の造成等により大幅に村高が増加し、大きな恩恵を受けました。
 このような由緒ある歴史を持ち、玉川八景などにも謳われた美しい環境の中に流れていた次太夫掘も、戦後の急激な都市化によってその役割を終え、一部が「丸子川」と改称されて、わずかに往時の面影を残すのみです。
平成5年3月設置 世田谷区教育委員会


ネットでいろいろと調べることができますが、現場に教育委員会が設置したこのような案内板が生きた教材だと思います。


野川

野川の川原

喜多見ふれあい広場
滝下橋緑道の先で野川とぶつかっています。下流に次太夫堀公園があるのですが、今回はここから上流へ向かい、喜多見駅で解散とします。川原の通路は少なくなり、世田谷通りをくぐる分だけありました。このコースは一月の実施予定です。暖かくなるといいのですが。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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明治神宮新宿都庁コース 5.4km

2018-12-12 08:12:26 | ウォーキング
いつもは年末最後に歩いているコースですが、今年は忘年会を新宿で行うため二週早くなりました。


東大教養学部正門

駒場博物館とメタセコイア
時計台がある建物は旧制一高の本館で、駒場博物館は旧制一高の図書館でした。博物館に入ったことはないのですが、美術品と自然科学系の展示物があるそうです。一度行ってみようと思います。


山手通り沿いの三田用水跡
東大教養学部と山手通りの境には暗渠となった三田用水が残っていたのですが、何か工事をするたびに取り壊されてゆきます。山手通り整備の後も残されたこの部分だけは、ずっと残されてゆくことを望みます。三田用水は恵比寿にビール工場がやってくるきっかけとなった、地域の重要な遺産です。



松濤のおうち
奇麗な菊が飾られていました。松涛は維新後禄を失った藩士のために開かれた鍋島家の茶園、「松濤園」から由来しています。ただしこの場所でお茶を栽培していた期間は短く、東海道線が開通して静岡からの茶葉の輸送が可能となり、茶業は衰退してゆきます。関東大震災後地盤の安定した山の手が人気となり、大きな区画で分譲された松涛は高級住宅地となりました。


クロガネモチの実と紅葉

旧観世能楽堂

NHK放送センター
都内の紅葉も終盤を迎えていますが、赤い実は印象的です。観世能楽堂の能舞台は銀座シックスに移設され、こちらは売却された模様。NHK放送センターは東京オリンピック1964を機会に日比谷から移転してきました。それ以前この場所はアメリカ陸軍の将校住宅が建つワシントンハイツでした。


渋谷公会堂改築現場

ドーモ君

国立代々木体育館
最近このあたりを歩いていなかったので知らなかったのですが、代々木体育館の敷地内を通り抜けることが出来なくなっていました。日本スポーツ振興センターのお知らせを引用します。
さて、当センターが管理・運営しております国立代々木競技場は、昭和39年第18回オリンピック東京大会の開催に伴い建設され、築50年以上経過いたしました。この間、昭和57年及び平成13年の改修工事を経て今日まで参りましたが、先に実施しました耐震調査・診断の結果を踏まえ、建物として必要な耐震性能の確保を図り、安全で快適な施設環境を提供するため、大規模な改修工事を実施することとなりました。また、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会において、オリンピックではハンドボール、パラリンピックではウィルチェアーラグビー及びバドミントンに利用されることが決定しています。
つきましては国立代々木競技場の営業を、7月2日(日)をもちまして、フットサルコートを除き休止させていただきます。なお、営業再開時期につきましては現時点では未定のため、改めてお知らせいたします。
利用者の皆様には大変ご迷惑をおかけ致しますが、何卒ご理解くださいますようお願い申し上げます。



岸体育館
この建物も移転が決まり、国立競技場と日本青年館の近くに現在新しいビルを建設中です。体育館か?と思っていたら「岸記念体育会館」の略なのです。Wikipediaから引用します。
第2代大日本体育協会会長・岸清一の遺言により100万円(現在の28億円ほどに当たる)が寄付されて1940年に東京府神田駿河台に建設(元総理大臣の岸信介とは無関係)。
1964年の東京オリンピック開催時に現在地に移転。建物前に岸清一の銅像が設置されている。地下1階に体育協会資料室が併設され、スポーツ関連の書物が閲覧可能になっている。
2011年7月の日本体協の創立100周年記念を迎えるにあたり、建て替えが検討されている。併せてスポーツ界に大きな功績を残した選手などを称える「日本スポーツ殿堂」を館内に設けるプランも検討されている。2010年5月には具体的な案を検討する委員会が発足したが、現在同地は東京都の都市計画公園の指定を受けている関係で建築物の規制が厳しく、検討作業は難航している。その間にも日本陸上競技連盟や日本バスケットボール協会などが、耐震設計上の観点から職員の安全確保を理由に移転しており「日本スポーツ界の総本山の屋台骨が揺らぐ事態」と懸念する声がある。
2013年9月には、2020年東京オリンピック開催が決定したことを受けて、現在地での建て替えを諦めた上で、新国立競技場建設に伴い建て替えが予定されている日本青年館、もしくはナショナルトレーニングセンターへの移転が検討されていると報じられた。2016年2月には、新宿区霞ケ丘町地区に新ビル(地上14階/地下1階)を建てて移転する計画が発表された。2018年11月8日、日本スポーツ協会の理事会で、岸記念体育会館の新会館について、名称を「ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア」に決定した。岸記念体育会館は取り壊され、2019年春に新国立競技場の隣接地にて「ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア」が完成予定である。新施設の館内には「岸清一メモリアルルーム」が設けられる予定である。



明治神宮第一鳥居

明治神宮南参道

明治神宮大鳥居

明治神宮拝殿
このコースを歩き始めたころの明治神宮は閑散としていましたが、今は常に混んでいます。政治的に対立しているお隣の国や、北方四島を返還してくれない国の方もたくさん訪れて、楽しそうにしています。出来るところから仲良くしてゆきましょうという知恵ですかね。


明治神宮西参道

西参道の入り口に立つ常夜灯
表参道の常夜灯ほど大きくありませんが、甲州街道近く玉川上水に面して建てられています。「旧代々幡町灯篭」というそうです。地図で確認すると近くに「西参道駅跡」も見られます。京王線が路面電車だった時のなごりですね。路面電車のなごりと言えば軌道幅にも残っています。日本の多くの鉄道が狭軌1067mmを採用し、新幹線などは標準軌1435mmです。京王線は路面電車のなごりを残した軌道幅1372mmを採用しています。ちなみに京王井の頭線のみ狭軌なので井の頭線の車両と京王線の車両は互換性がありません。
京王線の新宿駅付近の廃駅についてWikipediaから引用します。
京王線の幡ヶ谷駅以東は太平洋戦争中まで、甲州街道上を走る併用軌道であった。新宿方の起点は新宿追分交差点に設けられていた。
1927年(昭和2年)、新宿起点は新宿追分交差点上から、近隣に四谷新宿駅を建設して移転。1936年(昭和11年)、幡ヶ谷より新町までの間も玉川上水を暗渠とした上に専用軌道を敷設して移転したが、新町から四谷新宿までの間は依然として併用軌道のままであった。
しかし1945年(昭和20年)5月25日、新宿 - 初台間にある天神橋変電所が空襲の被害に遭ったため電圧が低下してしまい、新宿駅南口の跨線橋の坂を電車が上れなくなってしまった。このため同年7月24日、新宿西口の東横線予定地であった現在地にターミナルを移転した。
またそれまでは、新宿駅周辺から幡ヶ谷駅の間には駅が数多く存在していたが、これも駅間が密接する区間については不要不急施設であるとして、同時に駅の統廃合を行った。


「新宿西口の東横線予定地」が気になりますね。Wikipediaから引用します。
東横線の計画
東横線の計画は、1906年(明治39年)に武蔵電気鉄道が私設鉄道法に基づく申請をおこなったのが起源である。広尾天現寺を起点とし、恵比寿駅を経て西へ向かい、平沼駅(現在の横浜駅近くにあった東海道本線の駅)へ至る計画であった。同社は1908年(明治41年)に創立総会を開催し、1911年(明治44年)には下沼部から蒲田駅に至る支線とともに免許を受けた。
さらに1912年(明治45年)には祐天寺から、代々木練兵場(現在のNHK放送センター付近)を西に迂回し、小田急電鉄小田原線と代々木八幡駅付近で合流して並走し、新宿に至る路線の免許も得た。これが、本計画の元になった路線にあたる。
しかし、沿線は既に都市化が進み、さらに第一次世界大戦勃発に伴う地価高騰の影響などから用地買収に手間取り、着工ができなくなる状況に陥った。1917年(大正6年)に前述した私設鉄道法に基づく免許を失効させた上、新たに軽便鉄道法に基づいてほぼ同じ区間の認可を取得したが、資金が集まらないのは相変わらずであった。

東横線の建設
東横線の建設は、鉄道院官吏から武蔵電気鉄道の常務に就任した五島慶太の手に委ねられることとなる。武蔵電気鉄道建設予定地に田園都市会社という宅地会社が大規模な開発を手掛けていた、またその田園都市会社の傘下である荏原電気鉄道が取得していた現在の大井町線に当たる区間の免許を始まりに、鉄道の建設を計画していた。五島は小林一三の推薦を受け田園都市会社の鉄道事業に参画。田園都市会社の鉄道事業計画は目黒蒲田電鉄へ分離されて、目黒 - 蒲田間の鉄道建設が行われた。五島は、つづいて武蔵電気鉄道を目黒蒲田電鉄の傘下におさめ、東京横浜電鉄へと改称した。東京横浜電鉄により、住宅開発を兼ねる形で東京 - 横浜間の鉄道が建設されることになり、同時に起点は渋谷駅とされた。山手線との接続ができ、将来の発展が見込めるというのが理由であった。かくして渋谷駅を起点として東横線が建設された。

新宿延伸計画と頓挫
東横線の開業後、五島は都心への進出を模索し、有楽町への延伸計画も再び立ち上げたが、関東大震災後の都市計画見直しと資金の都合で流れた。一方、祐天寺 - 渋谷 - 新宿間の免許のうち、未着工であった渋谷 - 新宿間については、構想を五島に一任した上で、施行期限の延長申請を出すなどして保持し続けた。当時の計画では、現在のJR渋谷駅の西側から北に向かい、代々木練兵場を西に迂回し、代々木八幡駅付近で小田急線と合流し、新宿駅まで並走するルートだった。
1910年代から1920年代にかけては、新宿に複数の鉄道ターミナル駅が集まり、副都心としての将来性が有望視されるようになった時代であり、新宿延伸線については東京市(当時)の都市計画構想にも組み込まれ、東横線乗り入れスペースは小田急電鉄の駅敷地の西側に確保されていた。しかし山手線との並行路線を、わざわざ明治神宮の西側を迂回してまで建設するだけの資金や意義もない上、五島の関心が東京における地下鉄建設を目指した東京高速鉄道(東京メトロの前身の一つ)に移っていたこともあって、1936年(昭和11年)にこの免許も失効した。
なお、新宿駅に確保されていた東横線新宿駅の用地は、1945年(昭和20年)に京王線が空襲による変電所被災によって甲州街道のガード橋を渡れなくなった際、代替として新宿駅西口に乗り入れるための駅用地に転用された(京王線の新宿駅付近の廃駅も参照)。
太平洋戦争終戦直後の1947年(昭和22年)には、東京急行電鉄(戦時中に東京横浜電鉄から改称)が、太平洋戦争終戦直後の復興事業について東京都と帝都高速度交通営団が揉めている状況にあったことから、自前で東京駅や品川駅・新宿駅へ各線を延伸させる免許を申請した。しかし、当時の運輸省は資材や資金の不足する時代に建設できるのかと疑問を投げかけ、結局は都市交通審議会によって営団地下鉄(当時)日比谷線の計画が発表されたことなどから、1957年(昭和32年)に免許申請は取り下げられた。



銀世界稲荷神社
甲州街道を渡りこれまでは新宿パークタワーの東側を歩いていたのですが、少し趣を変えて西側を歩き、このお稲荷さんを発見しました。この場所には江戸時代大名屋敷があり梅の花見の名所で「銀世界」と呼ばれていました。それがお稲荷さんの名前になったのですね。白梅が多かったのかな?その後ガスタンクが作られ、その跡地に作られたのが新宿パークタワーです。ガスタンクが取り壊されたのが昭和42年ということで、この場所にガスタンクがあった頃、私は見ていないのだと思います。




都庁舎

ちびゴジラ
ちびゴジラは絵本のキャラクターのようですね。ゴジラに破壊されないための魔除けかと思いました。



都庁北展望台からの風景
都庁の45階には北と南に二つの展望デッキがあります。現在南展望台は改修工事が行われているため北展望台のみの運用となり、エレベーターに乗るまで15分、降りるのに10分の待ち時間がありました。上から見ると都心の真ん中にテニスコートが。東京ヒルトンの施設のようです。

この日は忘年会だったので、都庁から歩いて新宿三丁目のライオン会館へ向かいました。歩いた後の飲み会はしょっちゅうですが、30人を超える忘年会はちょっと雰囲気が違い、楽しい時間を過ごしました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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【下見】佐倉市と国立歴史民俗博物館

2018-12-08 16:17:20 | ウォーキング
成田空港で仕事が早く終わったので、以前から行きたいと思っていた佐倉市と国立歴史民俗博物館へ行ってみました。協会バスハイクの訪問地として考えていたのですが、今回は下見というより、下見の下見くらいの感じです。

成田空港から佐倉まではJRか京成本線を利用します。都内から鉄道を使う場合もそのどちらかです。少し意外だったのは「京成佐倉駅」だと思っていたのに、路線図や駅の表示が「佐倉」になっていること。Wikipediaから引用します。
京成線内および乗り入れ路線の車内アナウンス、方向幕、駅構内の駅名標など旅客向け案内では「京成」を省略して単に「佐倉」とされ、2014年3月27日に完了した駅舎耐震補強工事に伴い駅名標など新デザインへ移行されたものの「京成」は省略されている。ただし、同じ「佐倉」の名を冠する東日本旅客鉄道(JR東日本)の佐倉駅は2kmほど離れている。

今回のテーマからちょっとずれて成田空港ネタです。都内から京成線を利用して成田空港に行こうとした時、二種類のルートがあります。北総線を経由する京成成田スカイアクセス線(京成高砂→成田空港 980円 乗車時間41分)と、京成本線(同 920円 乗車時間63分)。どちらを利用したのか判別するため、京成本線を利用した場合成田空港駅で改札を二回とおります。
上野から成田空港までスカイライナーを利用した場合は2,470円 乗車時間44分。東京駅からJR快速だと1,320円 乗車時間80分。成田エクスプレスは3,020円 乗車時間55分です。ただし成田エクスプレスには往復割引があり、都区内←→成田空港の往復切符は4,940円とスカイライナーを意識した値段設定となっており、渋谷から利用する場合はこちらがお得。渋谷→成田空港のリムジンバスは3,100円ですが、別会社で銀座→成田空港1,000円もあります。


佐倉市観光地図
京成佐倉駅前にあった地図ですが大きな違和感を感じるのは南北が逆で南が上に来ていること。縮尺通りに四角に収めなければならないので必ずしも北が真上に来るようにするのは難しいでしょうが、南北を逆にする意味はよくわからないし混乱します。
当初国立歴史民俗博物館のみを訪れるつもりだったのですが、武家屋敷なども見てみたいと思い、佐倉の町を一通り見てみることにしました。


ニッポンランナーズ
バスハイクの目的地に佐倉はどうかという話をしたときに、協会の長谷川理事から「ニッポンランナーズというのがあって」という話を何度か聞いていたので思わず写真に撮ってきました。ニッポンランナーズのホームページから引用します。
設立にあたり

2001年12月、NPO法人「ニッポンランナーズ」が千葉県の認可を受け、千葉県佐倉市で産声をあげました。
さまざまな問題が存在する現代社会、そして、スポーツ界もまた、従来の価値観を再構築しなければならない時期にきています。私たちは「スポーツ」というキーワードを手がかりに、総合型地域スポーツクラブの運営、競技選手のサポート、セミナーの開催など、さまざまな活動にチャレンジしていきます。
 「スポーツを”文化”として位置付け、音楽やアートに親しんだり感動したりするのと同じように、心豊かに過ごしたい人々のための生活の一部にしていきたい」 そして、「頂点を目指すアスリートとスポーツを楽しむ人々が相互に理解し、助け合いたい」という2つの理念の展開をどうぞお楽しみに。

 21世紀、スポーツの”文化としての自立--すなわちスポーツの存在意義を追及することと、社会とのよりよい共生のありかたを探ること--が、新しい「クラブスポーツ」という形で具現化し、トップアスリートのみならず、あらゆる人々の、生きがいある市民生活や活動のきっかけになることを願ってやみません。

最後に、NPO法人「ニッポンランナーズ」の設立にあたり数多くの方々の暖かいご支援、ご援助をいただきましたこと、この場をお借りして深く御礼申し上げます。

特定非営利活動法人ニッポンランナーズ理事長

金 哲彦


目黒区で行うめぐろウォーキング塾でニッポンランナーズの萩谷正紀さんにお世話になったことがあります。ニッポンランナーズとの関係はわかりませんでしたが、佐倉つながりということでWikipediaから引用します。
金メダルジョギングロード - 尚子コース(千葉県佐倉市)
シドニーオリンピック当時に高橋が在籍した積水化学陸上部がある佐倉市のジョギングコース。岩名運動公園陸上競技場を起点・終点とする往復10 kmのコース。

こちらは4travelから引用します。
有森裕子は、1966年岡山県生まれ、1992年バルセロナオリンピック女子マラソンで、陸上競技選手として64年ぶりの銀メダルを獲得する。1996年にはアトランタオリンピック女子マラソンで、銅メダルを獲得し、二大会連続のオリンピックメダル獲得は、日本女子陸上選手では有森が初めての快挙であった。ゴール後のインタビューで「自分で自分をほめたい」という言葉は、その年の流行語大賞に選ばれています。

金メダルジョギングロードの裕子コースは、この偉業をたたえ、小出義雄監督と金メダルを目指してトレーニングに励んだコースを取り入れ、設けられました。岩名運動公園をスタートして、宮前団地、京成佐倉駅前、山崎、鹿島川沿い、印旛沼サイクリングロード、土浮、萩山新田を走り、高座木を通り、岩名運動公園に帰って来る、全長13.25KMの周回コースです。




堀田家墓所の紅葉

堀田正睦公追遠之碑

堀田家墓所案内図

案内板
千葉県指定史跡
堀田正俊・正睦・正倫墓
昭和53年2月28日指定
 堀田正俊はのちの堀田の祖で正盛の三男として寛永11年(1634)に生れ、将軍家光の命により春日局の養子となり、安中城主・若年寄・老中・古賀城主を経て大老に栄進した。
 正睦はのちの堀田第九代・文化7年(1810)に生れ、佐倉城主にして寺社奉行・大坂城代・老中を経て老中主席・外国事務総裁となり、日米修好通商条約締結の基礎を築いた。
 正倫は正睦の四男として嘉永4年(1851)に生れ、最後の佐倉城主となり、廃藩後は士族授産に努力し、さらに堀田農事試験場を開設、地方産業発展に貢献した。
昭和56年2月4日
千葉県教育委員会
佐倉市教育委員会


墓所の紅葉がとてもきれいでした。堀田正俊は大老でしたが、将軍綱吉の時代に江戸城内で刺殺されているのですね。日米修好通商条約というと阿部正弘や井伊直弼が関与したイメージがあったので、堀田正睦についてWikipediaから引用します。正篤と正睦は同一人物です。
老中首座・幕政主導
天保14年(1843年)閏9月に老中を辞任した後は、佐倉に戻って再び藩政改革に尽力し、一定の治績を挙げた。 幕末においては攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。

安政2年(1855年)10月2日に安政の大地震が起こり、この地震で正篤は江戸上屋敷において負傷した。その1週間後の10月9日、当時の老中首座であった阿部正弘の推挙を受けて再任されて老中になり、正弘から老中首座を譲られた。この時、外国掛老中を兼ねた。この正睦の老中再任に対して徳川斉昭は蘭癖である正睦に好感を持てなかった事から反対し、島津斉彬は静観した。また立花鑑寛や松平慶永らは正篤は招聘された「看板」であって実権は阿部が掌握していると見ていた。確かに阿部は死去する安政4年(1857年)までは実権を握っており、正篤は首座とはいえ飾りに近かった。ただし正篤を立てる事で阿部が矢面に立つのをかわす事、黒船来航から山積していた外交・内政問題などからの激務で阿部の体調が思わしくなかった事、譜代大名の中で正篤は明快なほど開国通商の意見を持っているなどした事が、阿部に推挙された理由であるとも思われる。
安政3年(1856年)、島津家から第13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する。
安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日米修好通商条約の調印を求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとするが、条約調印に反対する攘夷派公卿たちが廷臣八十八卿列参事件を起こし、さらに天皇自身も強硬な攘夷論者であったため却下され、正睦は手ぶらで江戸へ戻ることとなった。
一方、同年、将軍・家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって徳川慶福(紀伊藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜(一橋徳川家当主)を推す一橋派が対立する安政の将軍継嗣問題が起きた。正睦は元々水戸藩の徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわず、従ってその子の慶喜にも好感が持てず、心情的には慶福が第14代将軍に相応しいと考えていた節がある。しかし、京都で朝廷の強硬な反対に遭って勅許を得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に、福井藩主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋贔屓の朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では南紀派から一橋派に路線を変えた。

失脚と最期
正睦が上洛中に松平忠固(老中)、水野忠央(紀州藩家老)の工作により南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、直弼は正睦をはじめとする一橋派の排斥を始めた。安政5年(1858年)6月21日、正睦は松平忠固と共に登城停止処分にされた。6月23日には忠固と共に老中を罷免され、帝鑑間詰を命じられる。これにより正睦は政治生命を絶たれることになった。
安政6年(1859年)9月6日、正睦は家督を四男の正倫に譲って隠居し見山と号した。正睦のこの隠居に関しては大老の直弼による強制的な隠居命令であり、この10日ほど前の8月27日に岩瀬忠震や永井尚忠ら一橋派が蟄居させられており、その連座処分だったとされる。ただし、直弼は時機を見ての正睦の再登用を検討していたとも言われており、安政の大獄においては他の一橋派大名が閉門などの厳重な処分を受ける中で不問に付されている。
桜田門外の変後の文久2年(1862年)11月20日、正睦は朝廷と幕府の双方から命令される形で蟄居処分となり、佐倉城での蟄居を余儀なくされたが、これは直弼の安政の大獄に対する報復人事であった。
元治元年(1864年)3月21日、正睦は佐倉城三の丸の松山御殿において死去した。享年55。蟄居処分は没後の3月29日に解かれた。
明治維新後、佐倉藩堀田家は華族令によって正倫に伯爵を授けられた。


井伊直弼が主導して孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したものと思っていましたが、そうではないようですね。条約調印の四日後に堀田正睦は老中を罷免されているそうです。



甚大寺
安城山不矜院甚大寺は、元和元(1615)年、慈眼大師天海大僧正が、天台宗比叡山延暦寺の末寺として山形城下に建立された寺院である。
元禄14年(1701)に山形城主であった堀田伊豆守正虎公(佐倉堀田家三代)が開基となり、当山十二世秀鏡法印が中興した。しかし、延享3年(1746)堀田相模守正亮公(五代)が佐倉城主となり転封されるのに際し、同年8月、現在の地に移したものである。
安置されている本尊、十一面観世音菩薩(市指定文化財)は、堀田正倫公(十代)の御念持仏で、我が国彫金界の泰斗である佐倉出身の津田信夫の作である。
また、金比羅尊は、堀田相模守正順公(六代)が天下泰平、万民豊楽を祈り、城内の守護仏として四国象頭山から勧請したものである。
大伽藍を容した旧本堂は、明治初期の大火で焼失したが、現在の本堂は坂東二十八番札所滑川龍正院の建物を昭和36年(1961)に移築したもので、享保11年(1726)6月、当時下総の国を挙げて建立されたものである
境内奥には、堀田家累代の廟が静にたたずんでいる。
昭和60年3月
佐倉市



幸田家住宅(薬局)
佐倉市のホームページから引用します。
佐倉の散策コース
 江戸時代、佐倉藩11万石の城下町として栄えた佐倉。
 武家屋敷通り、坂道、袋小路など、およそ400年を経た現在でも基本的な町割は変わっていません。 また、佐倉城址、佐倉順天堂記念館など歴史を感じさせる建造物や史跡が点在しています。


この薬局がある場所は「蘭学通り」とあり、一本南の道は現在の成田街道で、蘭学通りは成田街道の旧道と思われます。今回は立ち寄りませんでしたがこの通りの先に佐倉順天堂記念館があります。佐倉順天堂について千葉県のページから引用します。
 佐倉順天堂は、天保14年(1843)、長崎で蘭医学を修め、江戸で開業していた佐藤泰然(たいぜん:1804~1872)が、佐倉藩主堀田正睦(まさよし)の招きを受け、佐倉に移り、佐倉本町に蘭医学塾及び診療所として「順天堂」を開設したことに始まる。
 泰然は帝王切開などの新しい外科手術を行い、種痘の普及にも努めるなど最先端の診療を行った。また、西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出した。慶応元年(1865)の記録によれば、塾生は北海道から熊本県までの全国から100名にも及び、泰然の弟子は数百名、孫弟子まで含めると3000名を超えるといわれる。
 現在、佐倉順天堂記念館として一般公開されている建物は、安政5年(1858)に成田街道の向い側から移転し、その後拡充されたものの一部で、明治27年(1894)に刊行された『日本博覧図 千葉県之部 初編』に収載された銅版画にある診療棟の一部にあたる。この記念館になっている建物を含む範囲を史跡として指定し、保護している。

蘭癖、堀田正睦が残した成果ですね。

佐倉の町を歩いてみて歴史観光地としては中途半端だと思いました。ところどころに歴史的な建物が残っているものの、生活空間として都市開発も進められたので車の通行が多く、散策には不向きです。流山でも感じたことですが、千葉県は道路の整備が遅かったので仕方がないのでしょう。見どころがあるだけに残念ですが、個人で訪れるには面白いと思います。


旧堀田邸案内板
案内板の内容をテキストに起こせばいいのですが、Wikipediaからの引用で代用させていただきます。
佐倉藩の最後の藩主であった堀田正倫の邸宅として、1890年(明治23年)に建築された。現存する明治時代の旧大名家の屋敷として貴重な建造物である。現在は寄贈され佐倉市の所有となっている。
庭園を含む一帯が、1997年(平成9年)に佐倉市指定文化財(名勝)、2001年(平成13年)に千葉県指定文化財(名勝)に指定され、2006年(平成18年)7月には国の重要文化財(建造物)に住居部5棟(座敷棟・居間棟・書斎棟・玄関棟・湯殿)と門番所・土蔵が指定された。庭園は2015年に「旧堀田正倫庭園」として国の名勝に指定された。また、2008年には「旧堀田家住宅と庭園」が「ちば遺産100選」に選ばれた。「つば造り」や「火打ち貫」といった伝統的な和風建築の工法と、ボルトやナットを使用した西洋建築の工法が混在しており、明治初期の過渡期の様子が窺い知れる。







旧堀田邸さくら庭園
南向きの台地の上に建てられ、庭の紅葉がきれいでした。大型バスを駐車するスペースは無いようでした。建物内の見学はしませんでしたが、ゆっくり見学してみるのもよいかもしれません。


薬師坂


武家屋敷通り

武家屋敷
今回一番期待して訪れて、ちょっとがっかりだった場所です。漠然と知覧の武家屋敷をイメージしていましたがここは東京のベッドタウン。イヌマキの生け垣は残っているものの、中身は現代風の建物というおうちが何軒か見られます。生活空間なんだから仕方ないですよね。勝手に期待して、勝手にがっかりするなといったところでしょうか。武家屋敷、旧堀田邸、佐倉順天堂記念館の三館共通入館券は540円です。


児玉源太郎旧宅跡
この地には、佐倉連隊長の借家がありました。児玉源太郎(後の大将)は、佐倉歩兵第2連隊長として、1880(明治十三)年から1885(明治十八)年までこの地に住んでいました。
佐倉において中佐から大佐へ昇進しています。陸軍の演習において、児玉が佐倉歩兵第2連隊長として佐倉の兵を率い、乃木希典(後の大将)率いる東京の第1連隊を奇襲によって破ったというエピソードは大変有名です。江戸時代から続く土塁と生け垣は、児玉の借家時代にも存在しており、往時の面影を今に伝えています。

※児玉源太郎 嘉永五(1852)年~明治三十九(1906)年
旧陸軍軍人。函館戦争、佐賀の乱へ従軍後、明治九(1876)年には神風連の乱を鎮圧する。台湾総督を務める。日露戦争〔明治三十七(1904)年~明治三十八(1905)年〕全体の戦略を立案した人物である。実際の戦闘指揮だけでなく、戦費の調達、アメリカの仲立ちによる講和の画策、帝政ロシアへの革命工作などを行っている。戦争遂行に己のすべてを注ぎ込んだためか、日露戦争終戦後しばらくして亡くなっている。

坂の上の雲で初めて知った児玉源太郎がここに住んでいたのかと思うと、感慨深いものがありました。案内板があるだけで、敷地内に入って見ることはできません。




ひよどり坂
情緒がある坂というか階段です。観光協会のページから引用します。
武家屋敷通りに隣接した古径(こみち)で、江戸時代からほとんど変わらない美しい竹林に囲まれています。
緩やかに曲がる坂道には、四ツ目垣、御簾垣、鉄砲垣などが効率的に配され、今にも侍が出てきそうな雰囲気です。坂の途中には縁台があり、江戸時代の雰囲気に浸りながら休憩することができます。
「都内から近い、穴場のフォトジェニック竹林」ということで、外国人観光客を含め、じわじわと注目が集まっています。



城南堤桜並木

出丸跡

出丸の内側
佐倉城の南側で、この土塁を見ると佐倉城址がほぼ原形をとどめているように思えます。ここから本丸跡まで、急な上り坂となり、その地形からここに城が築かれた理由がよくわかります。


本丸跡




本丸周辺の紅葉

本丸の空堀
出丸跡があった場所の標高が4mで本丸の標高が34m。南にあるJR佐倉駅の標高が5mで北にある京成佐倉駅の標高は8mです。南側は高崎川が流れる平地で、北側は鹿島川の支流が削った谷なっており、その間に標高30mの台地が残り台地の西端が佐倉城址になります。城の地形がこれだけわかりやすい形で残っているので、歴史に興味がある外国人には受けるかもしれません。佐倉城についてWikipediaから引用します。
佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。
戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。だが、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。
1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている(詳細は佐倉藩を参照のこと)。
城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。 明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。
1962年(昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建っており、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示され、日本100名城スタンプが置かれた佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)がある。
本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。佐倉連隊の弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構も残存している。




正岡子規の歌碑
常盤木や冬されまさる城の跡

 明治期における俳句・小説・文芸評論・写生画などに活躍した正岡子規(1867-1902)は、1894(明治二十七)年十二月、本所駅(現錦糸町駅)-佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉の地を訪れています。
 子規は、総武鉄道佐倉駅(現JR佐倉駅)より、まず佐倉の街の広がる「馬の背」のような台地を眺め、「霜枯れの佐倉見上ぐる野道かな」を読んでいます。現在の表町、新町方面より、日清戦争における清国人の捕虜収容所となっていた海隣寺の前を通っています。その後、海隣寺坂(現市役所脇の坂)を下り、田町を抜け、田町の堀付近(現歴博下水堀付近)で城を眺め、この句を読み、もとの道を佐倉駅へ引き返しています。
 子規は佐倉の麻賀多神社で幼少期を過ごした鋳金工芸作家の香取秀真や旧佐倉藩士であり佐倉で幼少年期を過ごした洋画家の浅井忠とも親交がありました。
 「霜枯れの佐倉見上ぐる野道かな」の句碑は、JR佐倉駅前城南橋付近にあります。
平成二十七年十二月
佐倉市役所 産業振興課



佐倉陸軍病院跡


国立歴史民俗博物館
佐倉城は明治期に撤去され帝国陸軍の駐屯地となりました。現在本丸跡の北側に国立歴史民俗博物館があります。博物館についてWikipediaから引用します。
日本には明治時代から東京、京都、奈良の3か所に美術系の博物館である帝室博物館(のちの国立博物館)が存在したが、これらとは別に歴史系の国立博物館を設置すべきだとの意見は早くからあり、歴史学者の黒板勝美はすでに昭和戦前に国立歴史博物館の必要性を訴えていた。しかし、国立の歴史系博物館の設置構想が具体化するのは第二次世界大戦後のことであった。1966年、日本政府は「明治百年」記念事業の一環として歴史博物館の設置を決定し、以後、学識経験者らによって建設地、展示内容などが検討されはじめた。1971年には文化庁内に博物館設置のための基本構想委員会が置かれ、1978年には同じく文化庁内に国立歴史民俗博物館設立準備室が設置されて、ようやく開館へ向けての準備が本格化した。同準備室の室長は歴史学者で東京大学名誉教授の井上光貞であった。「考古、歴史、民俗」の3分野を展示の柱とすること、博物館は大学共同利用機関とし、調査研究機能を充実することといった歴博の基本コンセプトは、井上の発想によるところが大きい。
国の機関としての国立歴史民俗博物館は1981年に発足し、井上光貞が初代館長となった。ただし、博物館としての一般公開が始まるのは2年後の1983年3月のことである。初代館長であり、歴博の設置準備において終始指導的立場にあった井上は一般公開開始直前の1983年2月に急死し、東京大学文学部教授の土田直鎮(なおしげ)が2代館長となった(土田も館長着任期間中の1993年1月に急死した)。

展示
歴博の展示は概論的なものになることを避け、各時代ごとにその時代を象徴するようないくつかの事物(弥生時代であれば「稲作」、古墳時代であれば「前方後円墳」など)を取り上げたテーマ展示が主体となっている。展示室は常設展示の第1~第6展示室と、企画展示室に分かれている。常設展示は対象を高校生以上と想定し、復元模型やレプリカを多用しているのが特色である。日本の文化財は紙、木、繊維など脆弱な素材から成り、常設展示に耐えないものが多いため、実物とほとんど見分けのつかない精巧なレプリカが活用されている。2016年現在の総合展示は以下のような構成になっている。

・第1展示室 原始・古代 (旧石器時代-奈良時代)2016年5月よりリニューアルのため閉鎖中。リニューアル前の展示構成は以下のとおりであった。
 日本文化のあけぼの / 稲と倭人 / 前方後円墳の時代 / 律令国家 / 沖ノ島
・第2展示室 中世 (平安時代-安土桃山時代) 王朝文化 / 東国と西国 / 大名と一揆 / 民衆の生活と文化 / 大航海時代のなかの日本 / 印刷文化
・第3展示室 近世 (江戸時代) 国際社会のなかの近世日本 / 都市の時代 / ひとともののながれ / 村から見える「近代」/ 絵図・地図にみる近世 / 寺子屋「れきはく」(体験コーナー)
・第4展示室 民俗 (列島の民俗文化) 「民俗」へのまなざし / おそれと祈り / くらしと技
・第5展示室 近代 (明治時代-昭和初期) 文明開化 / 産業と開拓 / 都市の大衆の時代
・第6展示室 現代 (「戦争-高度経済成長」) 戦争と平和/戦後の生活革命


【第二展示室 中世】


貴族の邸宅

平安京

鎌倉

宋船

【第三展示室 近世】

越後屋看板
越後屋は「現金掛け値なし」だと思っていたのですが、「現銀」だとは知りませんでした。

【第四展示室 民族】


尾形家
歴博のページから引用します。
〈津波に負けない家〉

「くらしの場」のコーナーでは、近世からイワシ漁の網元として海とともに生きてきた尾形家の住宅を復元展示します。東日本大震災の津波で流失した部材も用いた空間で、生産の場であるとともに神や死者を祀る場でもある家の姿を体感できます。



薬売りの看板

【第五展示室 近代】

増穂町旧・舂米(つきよね)学校校舎

横浜港

【第六展示室 現代】

ホーロー看板

ダッコちゃん

ゴジラ
現代の半分は戦争と戦後で占められていました。そのあたりは写真に撮る気分にはなりませんでしたが、体験として記憶にあるものはとても懐かしく写真に撮りました。

国立歴史民俗博物館は一日いても飽きないでしょうが、体力と気力が続きません。何度でも訪れてみるべき場所だと思います。
協会のバスハイクで訪れても良いかなぁと考えた下見ですが、すぐに飽きてしまう人も多いかと思います。雨でどうしようもない時の緊急避難用ですね。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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【下見】小石川七福神めぐり

2018-12-06 10:30:53 | ウォーキング
すこやか歩こう会では二か月に一度歩行計画を郵送します。環境が整った方はネットからダウンロードしてご自身でプリントします。年明け一月二月分は十二月に発送します。初めて歩くところの下見を済ませなければならず、二月一週目に予定している七福神めぐりの下見に行きました。


小石川七福神めぐりの色紙

小石川七福神めぐり案内図
茗荷谷駅を起点とすることに決めて、深光寺からめぐり始めることにしました。七福神めぐりを通年実施しているところは珍しく、小石川七福神めぐりは元日から七日まで実施されます。深光寺さんで尋ねてみると、色紙と案内図は通年販売していますが、御朱印をもらえるかどうかそれぞれのお寺によって対応が異なるとのことでした。とりあえず色紙500円、御朱印300円、案内図100円を入手しました。色紙に深光寺さんと東京ドーム以外の御朱印がないのは、単に私がお願いしなかったためで、下見を行った11月29日でも御朱印を対応してくれるお寺もありますし、対応していないお寺もあります。ちなみに二月の本番の際は、御朱印収集を不可としスタンプ収集のみを可とします。あくまでもウォーキングクラブの活動なので、御朱印収集は改めて個人で訪れてくださいということです。

小石川七福神めぐりの由来を案内図から引用します。案内図の発行者は「小石川七福神事務局真珠院」です。以降特に断りのない場合はこちらの案内図からの引用となります。(案内板の写しを除く)
除難・招福を願う七福神詣での起源について定説はないが、15世紀頃に京都で行われていた記録もある。後世、天海僧正が徳川家康公に仁王護国経の「七難即滅、七福即生、人民安楽、帝王歓喜」を引用し「将軍には長寿・人望・威光等の七福相がある」と言上し、それに相応して寿老人他を示してから一般化した。小石川七福神は平成7年の発足である。


茗荷谷駅近くの案内板


縛られ地蔵
深光寺の手前にある林泉寺を訪れました。
縛られ地蔵 
小日向4-7-2 林泉寺

人々が願いをかけるとき地蔵尊を縄で縛り願いが叶うと縄をほどくので、しばり地蔵ともいわれた。『江戸砂子』には小日向林泉寺の、しばり地蔵は大変有名であると記されている。
 「昔、呉服屋の手代が地蔵さまの前で休み居眠りをしているうちに反物を盗まれしまった。奉行は石地蔵が怪しいと言って地蔵を荒縄でしばり奉行所に運んだので物見高い見物人が一緒に奉行所に入ってしまった。許しもなく入った人々に罰として三日以内に反物を持参させた。その中に盗まれた品があり犯人を検挙した。」この「大岡政談」 の話の地蔵尊は現在の葛飾区東水元(南蔵院)にあるが、「縛られ地蔵」とし有名になったのもこの頃からと思われる。

=郷土愛をはぐくむ文化財 =
文京区教育委員会 
昭和60年3月



茗荷坂
「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。
 茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。
 さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とある。
 自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。
 文京区






深光寺
恵比寿 深光寺(じんこうじ)
商売繁盛、富財の福徳を授けて下さる恵比寿神は、唯一日本固有の福神です。鯛と釣竿姿は《釣りして綱せず》の言われで、清廉にして暴利を戒めた教えです。
同寺の恵比寿像は、従来から祀られていだ絵図のお前立として、石田栄一氏が作像したものです。


深 光 寺 小日向4-9-5
寺伝によれば「権現様より御三代まで仕えた御用人森源七郎(深光院殿)が、報恩と御家繁栄を祈願し、寛永年間に創建した」とする。開山は顕蓮社善誉上人。
本堂左奥に、「著作堂隠誉蓑笠居士」碑銘の唐破風型の墓石が在る。「南総里見八犬伝」などで名高い江戸の戯作者滝沢馬琴のものである。墓地に立つキリシタン灯鰭も有名。






滝沢馬琴の墓
滝沢馬琴 墓 (文京区指定史跡 )

 馬琴は、江戸の人。明和4年~嘉永元年(1767~1848)。江戸時代後期の『著名な戯作者。”南総里見八犬伝 ””椿説弓張月 ”など、多数の作品を残した。
著作堂(ちょさどう)、蓑笠(さりゅう)、玄同(げんどう)など多くの別号をもち、晩年は髪をおろして、曲亭馬琴と号した。
 墓碑には、馬琴の法名「著作堂隠誉蓑笠居士(ちょさどういんよさりゅうこじ)」と、馬琴より先に没した妻お百の法名「黙誉静舟到岸大姉(もくよせいしゅうとうがんだいし)」があり、台石には、馬琴の蔵書印といわれる家形の模様が刻まれている。江戸時代後期の著名な戯作者の墓として、歴史的価値が高い。(墓は本堂左わき)
 なお、馬琴の墓の後ろ左側には、晩年、失明した馬琴を助け、南総里見八犬伝を完成させた、嫁の路女(みちじょ)が眠る墓がある。法名・操誉順節路霜大姉(そうよじゅんせつろそうだいし)。

浄土宗 深光寺(じんこうじ) 文京区小日向4-9-5

文京区教育委員会  平成3年3月



釈迦坂
春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷に下る坂である。
 『御府内備考』によれば、「坂の高さ、およそ一丈五尺(約4m50cm)ほど、幅6尺(約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここより見ゆるに因り、坂名とするなり。」
 徳雲寺は臨済宗円覚寺派で、寛永7年(1630)に開山された。『新撰江戸志』に寺伝に関する記事がある。
 境内に 大木の椎の木があった。元禄年間(1688~1704)五代将軍綱吉が、このあたりへ御成の時、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て、大木に成長した。明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失ったことは惜しいことである。
 徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石川七福神の一寺となっている。



アロエの花


徳雲寺
弁財天 徳雲寺(とくうんじ)
諸芸・福財に因む弁財天は、普通女神とされています。古いインドの聖典に記された一女神や宇賀神将と、役割や容相が酷似しているため創られた女形神像です。
当寺のご真体は、鎌倉円覚寺の大鏡(国宝)弁財天のご分身で、男性のお顔の《人頭蛇身》です。


徳雲寺(弁財天-男)小日向4-4-1
一翁存碩觜禅師を開山とし、はじめ解脱寺と称した臨済宗円覚寺派寺院。後、白鴎山江南寺、さらに妙峯山徳雲寺と現在名に改称。開基は旗本深谷又佐衛門外2名。
新編江戸誌に「古大木の椎の木あり。元禄中比の御成の時、椎末寺なりと台命ありしより寺の名とせり」と


男弁天様の扉は閉じられ見ることはできません。正月七日までは御開帳されているようですが、撮影禁止となっているので、写真でご紹介することはできません。スタンプが見つからなかったお寺は空欄になっています。


播磨坂

高橋泥舟 山岡鉄舟 旧居跡
春日通りを歩き、播磨坂に曲がって下ってゆきます。
高橋泥舟(でいしゅう)(1835~1903) 山岡鉄舟(てっしゅう)(1836~1888) 旧居跡
小石川五丁目1

 下図の高橋・山岡は、それぞれ高橋泥舟・山岡鉄舟 の屋敷である。高橋家は享保5年(1720)、山岡家は文化8年(1811)以降この地に移り住んだものと思われる。
 泥舟は槍術の大家山岡静山 の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子(ふさこ)と結婚し、山岡家を継いだ。
 二人は、文久2年(1862)12月、清河八郎 の呼びかけで、近藤勇 らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜 に恭順を説き、身辺警護に当った。鉄舟は勝海舟 の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛 に会い、江戸城無血開城への道を開いた。
 海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。
文京区教育委員会
平成26年3月




極楽水
弁財天 極楽水(ごくらくすい)
弁舌・芸術の諸才を恵んで下さるので、弁才天とされていた女神は梵天の配偶神とも言われます。今日では、多財を与える神でもあるので弁財天の語が使われます。
当舎の弁財天のご実体は、白蛇ですが、女神のお絵図が共に祀られています(スタンプは宗慶寺預)。


極楽水(弁財天-女)小石川4-16-13 小石川パークタワー公開緑地内

江戸名所記に「小石川極楽の井は、そのかみ傳通院の開山了誉聖冏上人、この地に草庵を結びし時に、龍女かたちを現して上人にまみえ、仏法の深さ旨を求めしかば、上人すなわち弥陀の本願、他力の要法を示したまう。龍女、恩に報い清泉を湧き出し奉る(概要)」とある。多々変遷の後、寵女に因む弁才天の詞は、現在小石川パークタワーの庭園内に存する。


極楽水
極楽水
文京区小石川4-16 小石川パークタワー敷地内

 ここは、了誉聖冏 上人が、応永22年(1415)伝通院の元ともなった庵を結んだ所で、後に吉水山宗慶寺の境内となった。現在の宗慶寺は、すぐ下にある。
 『江戸名所記』に、「小石川吉水の極楽の井は、そのかみ 伝通院の開山了誉上人よし水の寺に おわせし時に、竜女形をあらわして上人にまみえ奉り、仏法の深き旨を求めしかば、上人はすなわち 弥陀の本願、他力の実義を ねんごろにしめし賜うに その報恩としてこの名水を出して奉りけり」とある。
 現在の極楽水は、小石川パークタワーの手によって近代風に整備されたものである。
郷土愛をはぐくむ 文化財
文京区教育委員会
平成5年10月




宗慶寺
寿老人 宗慶寺(そうけいじ)
健康と寿命を司る富貴長寿の神が寿老人です。この神は中国最古の哲学道家の祖、老子の化身ともされ学問の神でもあります。道教では《寿星》といっています。
学問第一と言われた聖冏上人の創建にかかわる当寺の寿老人は、田中舒久氏の彫刻による木像です。


宗 慶 寺 小石川4-15-17
極楽水と呼ばれるようになった吉水の辺に、聖冏上人が結ばれた草庵は、伝法院とも称した。三日月上人と呼ばれて親しまれた上人は、後に寿経寺(傳通院)を開山し、幾多の学僧を育てている。家康の死後、側室の阿茶の局(松平忠輝生母)は俗世を逃れて伝法院に隠棲し、死後当院に葬られた。これ以降、法名朝覚院殿貞誉宗慶大姉に因み寺名を改称した。


阿茶局墓碑解説板
茶阿局墓碑(ちゃあのつぼねぼひ)(小石川4-15-17)
 この墓碑は、元和7年(1621)の年紀をもつ古い宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。太平洋戦争により、宗慶寺は大きな被害を受けたが、当寺と檀信徒の絶大な協力で、この墓碑は、旧観を今に残している。葵の紋が鮮やかである。
 茶阿局 は、駿河(現静岡県)の人で、徳川家康の側室として、家康の第六男忠輝(松平)の生母となった。家康の没後、髪をおろして朝覚院と称し、飛騨高山に流謫(るたく)中の忠輝を案じながら、元和7年6月12日、没した。
 法名「朝覚院殿貞誉宗慶大膳定尼」にちなんで、寺は宗慶寺と称するようになった。この寺の創建は古く、応永22年(1415)と伝えられ、家康の生母伝通院(於大(おだい)の方)の墓所のある伝通院とゆかりの深い寺である。
浄土宗 吉水山朝覚院宗慶寺
郷土愛をはぐくむ文化財
東京都文京区教育委員会
昭和63年3月



エーザイ株式会社本社



真珠院
布袋尊 真珠院(しんじゅいん)
弥勒仏の化身とされ、腹の大きいのは大度量、袋一つを背負うのは分に安じた姿、ニコニコ顔は堪忍の貴さを表し《寛容の徳》を人々に与える福神です。
当院の布袋尊は『墓地中を歩く布袋さまを見た』先代老住職の夢を機に祀るようになったものです。


真 珠 院 小石川3-7-4
徳川家康公の生母於大の方(傳通院殿)の生家、松本藩のちに沼津藩主となった水野家の菩提寺。開山は運蓮社霊誉単無上人、開基は水野忠清公(真珠院殿)。歴代藩主の墓碑が存する墓域奥に、布袋大石像を祀る。
境内に、布袋に因む釈迦・弥勒・地蔵を祀る三尊堂、浄土二十五砂踏霊場や来迎二十五菩薩を配した岩山などが特色の浄土庭園がある。



小石川七福神奉納絵馬

七福神

水野家墓所
天保の改革の水野忠邦との関係は薄いようです。



処静院跡の石柱
浪士隊結成の処静院跡の石柱 伝通院 小石川 3-14-6
 この石柱は、伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に建っていたものである。石柱の文字は、修行と戒律のきびしさを伝えている。処静院は、その後、廃寺となった。文久三年(1863)二月四日、幕末の治安維持を目的とした組織-”浪士隊”の結成大会が処静院で行われた。山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人。その後、浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。一行は文久三年二月八日、京都へと発った。年号が明治と改まる五年前のことであった。
郷土愛をはぐくむ文化財
東京都文京区教育委員会 平成元年三月






伝通院



於大の墓
於大の墓 (区指定史跡)

享禄元年~慶長7年(1528~1602)、徳川家康の生母。三河(愛知県)刈屋の城主・水野忠政の娘。天文10年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年に家康を生む。

後に離婚して阿古屋城主・久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。

法名、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼にちなみ、この寺の通り名を「伝通院」とした。

東京都文京区教育委員会 昭和62年3月



千姫の墓
千姫の墓 (区指定史跡)

慶長2年~寛文6年(1597~1666)。二代将軍秀忠の娘。

慶長8年(1603)幼少の身で豊臣秀頼に嫁し、大阪城にはいる。

元和元年(1615)城を出て翌年桑名城主・本多忠政の子、忠刻と再婚するも死別とともに天樹院と号して江戸に帰り竹橋に住む。

東京都文京区教育委員会 昭和62年3月



ツタがきれいだった墓

境内墓地参拝図

伝通院山門
ツタが鮮やかだったので写真に撮りましたが、参拝図には載っていなかったのでどなたのお墓なのかわかりません。伝通院でトイレ休憩となりそうです。



福聚院
大黒天 福聚院(ふくじゅいん)
当院の大黒天は、御身に甲骨を着して外からの災難を防ぎ、右手に宝袋、左手に宝棒を持つ、外難を防ぎ福縁を与える古い原型の姿の尊像です。後に招福開運の強調、大国主命信仰と習合し、俵に腰掛けた現在型ができました。当院尊天別称は出世大黒天・叶大黒天。


福 衆 院 小石川3-2-23
傳通院の鎮守寺として江戸時代末期に傳通院三十六世霊応上人により祀られた大黒天をご本尊として、家門繁栄・商売繁盛・心願成就・厄除け・交通安全などの祈願が大黒天のお祭り『甲子の日』に大護摩奉修される。境内には咳止め子育て地蔵があり、咳が治るとお礼に唐辛子を奉納することから「唐辛子地蔵」とも呼ばれている。


案内板に幼稚園のお知らせを貼ってしまう所が庶民的というかなんというか。境内がそのまま幼稚園になっており門が閉まっているので、中には入れませんでした。


福聚院案内板
木造・大黒天坐像一躯(文京区指定文化財)

 像高(右足下より)47.2cm、ヒノキ材、漆箔、彩色。小像ながら簡素な彫法により彫刻的量感がよくあらわれて、見るべきものがある木造彫刻といえる。
 特に数少ない古式武装神スタイルを整えていることと、その製作年代を鎌倉時代に遡ると考えられることなどを含め貴重な文化財である。
 大黒天信仰は8世紀にわが国に伝わり、以来、大国主命伝説と習合して寺院の食堂に祀ると繁栄を招くといわれている。
 江戸時代になって民間信仰として広まり農神として祀られ、七福神の仲間に数えられるようになった。
 しかし、本来は仏法護持の戦闘神として憤怒形をしているものであることを考えると、この大黒天像は本来のスタイルを尊重している坐像であるといえる。
傳通院山内 福聚院 大黒天
小石川三丁目2-23
文京区教育委員会
平成18年3月




善光寺坂のムクノキ
善光寺坂 のムクノキ  文京区指定天然記念物

所在地 小石川3丁目18番(ポケットパーク内)
指定   平成25年3月1日

樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを測る推定樹齢約400年の古木 である。第二次世界大戦中、昭和20年5月の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高は約23mもあった。
 ムクノキは、ニレ科ムクノキ属の落葉高木である。東アジアに広く分布し、日当たりのよい場所を好む。成長が早く、大木になるものがある。
この場所は江戸時代、伝通院 の境内であった。その後、本樹は伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷 (たくぞうすいなり)の神木 として現在に至っている。
 樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。
 本樹は、戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木 である。

平成26年1月
文京区教育委員会



えんま通り商店街

ナンテンの紅葉


こんにゃくえんま



源覚寺
毘沙門天 源覚寺(げんかくじ)
別名を多聞天とも言い、仏教の守護神四天王の一尊でもあり、憤怒の形相に甲骨をつけ、左手には福を与える宝塔を捧げ、右手には外敵を打ち砕く鉾槍を持ち、人々に勇気と威光の徳を与える神です。お堂の木彫像は、以前から拝されていた絵図に代わる尊像です。


源覚寺(こんにゃく閻魔)小石川2-23-14
樋口一葉始め多くの文学に記されている当寺は、傳通院三世定誉随波上人を開山とする。
寺名の通称は「安置の閻魔大王は、その昔小野皇一刀三礼の御作なり。宝暦の頃、眼病の老婆この尊像に治癒の願を掛く。閻魔、おのが片目を与えこの願を容れ眼病を治す。老婆、好物の蒟蒻を断ち閻魔に報う」に拠る。歯痛平癒祈願の「塩地蔵尊」も祀られている。




塩地蔵尊


汎太平洋の鐘
「こんにゃくえんま」は聞いたことがあるような気はしますがその由来は知らず、何より毎日通っていた丸ノ内線後楽園駅近くにあることは目からうろこというべきでしょうか。こちらは御朱印を受け付けていましたが、他も歯抜けだらけなのでもらわずに済ませました。




東京ドーム



福禄寿
福禄寿 東京ドーム
頭が異常なほど長くて大きく、豊かな白髭を蓄えた老翁姿が、長命と円満な人格を授けてくれる招福人徳の神、福禄寿です。この神も星宿にかかわるものです。
旧水戸屋敷に福禄寿が祀られていた縁から、跡地の東京ドームに再祀されるようになったものです。


旧水戸屋敷と東京ドーム 後楽1-3-61
水戸徳川家上屋敷として、二代光園の時完成した現後楽園庭園に、かつては福禄寿が祀られていた。庭園地続きの屋敷地に威容を構える東京ドームは、野球の殿堂、ラクーア、アトラクションズ、ホテルなど総合娯楽センターである。前記の縁で再祀される福禄寿は、22番ゲート前総合案内所横、クリスタルポイント(ガラスの三角塔)を回り込んだ奥、植込みの中にある。「アトラクションズ」ジオポリス屋上。


東京ドームの御朱印は自分で押印するもので無料だったのでいただいてきました。総合案内所の方が丁寧に教えてくださいました。



錦秋稲荷
東京ドームの敷地は広くてストレッチする場所には事欠きませんが、ちょっと恥ずかしい感じがします。ここに来る前にある礫川公園あたりがストレッチにはちょうどいいかもしれません。

今回は引用ばかりで茶色がちになってしまいました。関東大震災以降人口が増加した目黒区とは違って、江戸初期に伝通院が建立され、江戸末期には武士が住んでいた文京区は歴史の厚みが違います。武蔵野台地の東端ということもあり、谷根千とも異なる歴史文化を感じます。そんな違いを発見できる、楽しい七福神めぐりとなりそうです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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