あんたはすごい! 水本爽涼
第百十二回
「会社の人事のことを少し考えましてね。私、昇格するらしいんですよ、次長にね」
「いやあ~、そりゃ、おめでたい!」
「はい、どうもありがとうございます。まあ、そうなると、私のつくポストにいる湯桶(ゆおけ)さんは、どうなるんだ? ってことになりますよね? その辺りが少し心配になりまして…」
「湯桶さんですか…。しかし、塩山さんがご心配なさることでもないでしょう。別に悪いことをされてる訳じゃないんですから…」
禿山さんにそう慰められ、私は茶を啜(すす)った。
「それはそうなんですがね…。なんか、私が蹴(け)落としたようで嫌じゃないですか。今、会社から勧奨退職の圧力をかけられてる方ですから、特に…」
「勧奨対象者ですか、湯桶さん…。早い話、リストラですなあ。あの方のお帰りになる後ろ姿はいつも寂しげでしたが、やはり、そんなことが…」
「いや、まだ退職される訳じゃないんですよ。あくまでも、会社の圧力がかかっている方だと云っただけですから…」
「で、それが玉の霊力とどういう関係が?」
「そうそう、そのことなんですが、私が湯桶次長のことを考えていますと、声ではない意志の声がして、ああして、こうして、こうなる…という発想が浮かんだのです。云わば、お告げですが…。玉の申すには、湯桶次長は支社の部長になり、リストラはされないと…」
残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《残月剣③》第二十三回
勿論、鴨下も茶碗などを厨房で片付けた後、追ってくるだろう。それ迄、ほんの僅かにしろ稽古場で待つ時はあった。
稽古場で頭を手拭いで巻き、面防具を着けて座していると、ふと、左馬介の胸中に思案らしきものが浮かんだ。左馬介はそれ迄、二人同時に打ち込まれることを畏(おそ)れていたのだ。しかし、幾ら同時だとは云え、二人の者が打ち無瞬間は僅かに違う筈なのである。であるならば、最初の者の一撃を躱(かわ)して身体を安全な位置へ移動すればいいのではないか…と思えた。瞬間に身体を移すには、妙義山中の洞窟で幻妙斎から教え受けた霞飛びがある。無論、左馬介のそれは、基本技に過ぎなかったが、移動技としては充分なもので、応用技としての工夫は、本人さえやる気があり、また能力があれば、幾らでも高められるのだった。その基本技を幻妙斎は教えたのである。そして、左馬介の出来を認めてくれた経緯があった。
二人が左馬介の周囲を回り始めた時、思いもよらぬ樋口が、稽古場の廊下に忽然と姿を現した。長谷川も鴨下も、樋口に気づき、思わず足を止めた。「やあ、これは樋口さんじゃないですか。今日は何用で?」 長谷川が声を掛け、訊ねた。その声に、左馬介は両眼を開き、座したまま振り返った。確かに、樋口が立っていた。